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聖書と日本フォーラムに参加して

○つれづれ日誌(6月20日)-聖書と日本フォーラムに参加して

6月20日午後、お茶の水クリスチャンセンターで30名位集まった「聖書と日本フォーラム」関東定例会に参加いたしました。

聖書と日本フォーラムとは、日本的精神とキリスト教を対立構造として捉えず、ヘブル文化と日本との繋がりを意識し、聖書に基づく信仰を日本人の立場から見直して福音の土着化を図っていこうという牧師、長老、執事、一般信徒ら超教派的なクリスチャンの集まりであります。今年の伊勢での総会には、なんと伊勢神宮参拝がスケジュールに入っています。

ある90才を過ぎた牧師は、力強い声で、苦戦しながらもなお福音伝道に日々努力していることを証しし、またある80才代の女性クリスチャンは、自分の信仰人生の一端をしっかりした口調で振り返っていました。

また、奇遇にも自称ノア爺さんこと80才になる前川稔さんに会ってびっくり致しました。白い髭を15cmも伸ばされていましたので初めは誰だか分からず、本人の意気軒昂な自己紹介ではじめて分かったものでした。

かように様々な立場のクリスチャンが集合し、二つのJ、即ちイエス・キリストと日本を如何に愛し、如何に福音を浸透させていくかを話しあいました。80才を過ぎてもなお福音伝道に意欲を失わない方々に触れ、大いに刺激を受けた次第です。

そして、共通の意識は、停滞しているキリスト教伝道を如何にして復興すべきか、そのためには何が必要なのか、ということでした。今やキリスト教は西洋では衰退し、日本では依然として1%を越えられません。

そこで筆者は、キリスト教の復興のために、二つの提案をさせて頂きました。

一つは、日本の9万の神社の本殿に、聖書をご神体として安置するという運動の提案です。

ご存知の通り、イスラエルの幕屋と日本の神社は、その構造がよく似ていますね。幕屋は聖所と至聖所からなり、至聖所には契約の箱があり、契約の箱には、アロンの杖、マナの壺、そして十戒が刻まれた石板が安置されています。即ち、石板(み言)は幕屋のご神体という位置付けにあります。

同様に神社には拝殿と本殿があり、本殿には鏡(伊勢神宮)、剣(熱田神宮)などがご神体として安置されています。

そこで、幕屋の至聖所に石板が安置されているように、神社本殿のご神体として聖書(神の言葉)を安置するという話しです。

そして、石板にしろ、神社のご神体にしろ、これらは神を刻んだ像、即ち偶像ではありません。これらは真理、神聖の象徴であり、神が臨在されるところ、つまり「依り代」であるというのです。ここが、仏像などとの違いです。

「画竜点睛を欠く」」という言葉がありますね。日本には他の全てがあるけれども、一つだけ肝心のものが無いという訳です。それが、唯一の神(God)という観念、それと贖罪という思想であるというのです。

我が内村鑑三は、神道・仏教・武士道などが源泉となって形成されている日本の道徳性は、決してキリスト教の道徳性に負けてはいない、引けを取らないと言っています。但し、「唯一の神」と「贖罪」という観念を除いて!

確かに、幕屋と神社はほとんど瓜二つですが、幕屋にあって神社に無いものが、この唯一の神と贖罪の観念であります。つまり「画竜点睛を欠く」という訳です。

従って、神社のご神体として聖書が安置されるようになれば、唯一の神と贖罪の思想という両眼が入り、日本的霊性は完結を見るということになります。ここに至って日本の道徳性は完成し、鬼に金棒ということになるではありませんか!

全国9万神社のご神体に聖書(原理講論)を安置するというこの運動、どう思われでしょうか。

二番目は、「先祖供養の思想と儀礼をキリスト教教理に正しく取り込みましょう」という提案です。

先祖供養とは、文字通り「先祖の霊を供養すること」であり、また「そのために営まれる儀礼のこと」を指します。

特にプロテスタントは、先祖供養は偶像崇拝につながるという理由で、消極的又は否定的であります。その点、カソリックには煉獄(中間霊界)という教理があり、クリスチャンの煉獄の死者への祈祷や代償を認めています。生者が死者の救いのために祈祷や代償などの宗教行為をするというものです。

UCでは、先祖解怨・祝福という儀式がありますね。これは未だ救われない死者の霊を解放するため、生者が行う宗教行為です。そのことによって霊界の先祖の霊人は善霊となって子孫によい影響を及ぼすようになるというのです。

UCの先祖解怨の思想は、あくまで生者に主体性(祭司性)がありますので、死者に重きを置く日本の先祖供養とは若干赴きが異なりますが、しかしこれは一種の先祖供養といってもいいでしょう。

日本において伝統的に根付いている先祖供養は、古神道以来の土着宗教思想で、今は専ら仏教がこれを担っています。しかし、仏教の経典には先祖供養に関しての記述はなく、この先祖供養の教えは仏教からではなく、むしろ日本に古くから伝わる祖霊信仰から来ていると言えるでしょう。  

祖霊信仰とは、既にこの世にいない祖先を祀ることによって、現世で生きている者の生活に影響を与えることができる、とされる信仰のことです。

また、先祖供養の思想は、目上の人を敬うという日本の伝統的倫理観から強い影響を受けています。即ち、先祖供養は、祖霊信仰と伝統的倫理観が結びついた土着の宗教儀礼と言えるでしょう。

慰霊、祈祷、布施などの功徳を死者に回向(自分の善行・功徳を相手にふりむける)して先祖の霊を鎮魂し、その結果、生者もそのお陰に浴するというものです。

筆者は、今回の「聖書と日本フォーラム」例会で、およそ日本において、この先祖供養を否定して日本での宗教は成り立たないと述べ、先祖供養の思想と儀礼をキリスト教の中に正しく取り込まなくてはならないと強調いたしました。但し、偶像崇拝にならないように留意すること、信仰の本質はあくまで悔い改め、回心、新生という救いのプロセスにあることを肝に銘じたいと思います。

かくして今回の集会は、日本にキリスト教を如何に根付かせるかという、この古くて新しい命題を、もう一度考えるよい機会になりました。(了)



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