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宇野美香子さんのライブに参加してー倫理法人会とは

○つれづれ日誌(10月18日)~宇野美香子さんのライブに参加してー倫理法人会とは

10月18日、東西線の葛西で宇野美香子さんのライブ、歌とトークの昼食会が開かれました。主宰者から感想スピーチを頼まれたこともあって、筆者も参加してきました。以下はその感想です。

[宇野美香子と倫理法人会]

宇野さんは、1982年にアイドルグループ「きゃんきゃん」としてデビューした元アイドルですが、8年くらい前「トライアゲイン」「今でもアイドル」で再デビューされました。今は、歌手の他に品川倫理法人会リーダー、君が代の国歌奉唱歌手、知覧研修ツアー、皇居勤労奉仕などを行い、社会に元気を与える活動をなさっています。(56才)

11年前、夫が亡くなるまではカリスマ主婦として家事を完全にこなし二人の息子を育てました。その後、色々な試練があり、倫理法人会と出会い、その基本精神を学ぶことになりました。

その基本精神が教示されている創始者丸山敏雄がしたためた『万人幸福の栞』(17ヶ条)に共感して、自ら「愛と幸せの7つの法則」を提唱し、「Loppy大作戦」(明朗実践)と称して講演やイベント出演をされています。

この「愛と幸せの7つの法則」やLoppy大作戦は、『万人幸福の栞』を宇野さんなりに解釈し、表現したものと言えるでしょう。丸山氏がいう幸福の三原則「明朗・愛和・喜働」の宇野流表現であります。一言で言えば、ポジティブシンキング、プラス思考の実践でしょうか。

筆者はスピーチで、宇野さんと初めて会った時の印象として、宇野さんの立ち振舞いにナイチンゲールを想起したといい、今は現代の「卑弥呼」だと持ち上げました。三人とも独身女性で霊感の持ち主だという共通点があるからです。


[倫理法人会とは]

さて、宇野さんが所属している倫理法人会とは何でしょうか。以下、倫理法人会について、そして倫理と宗教の関係について考察していきます。

先ずここでいう「倫理」とは、何々してはならない(禁止)とか、何々せよ(命令)と言った堅苦しい規範というより、人のあるべき「道」(道理)、よりよく生きるための「知恵」(箴言)と言ったほうがいいでしょう。

創始者の丸山敏雄は、1947年「新世会」 を設立し、1948年社団法人化をおこないます。1951年新世会を倫理研究所へと改称し、「社団法人倫理研究所」となり、2013年に「一般社団法人倫理研究所」となりました。そして1980年には倫理研究所の中に 「倫理法人会」を発足させました。倫理法人会は、当該倫理運動の趣旨に賛同する法人会員による組織であり、会員企業数は自称6万8541社としています。従って、倫理法人会は倫理研究所の一主要部門ということになります

倫理研究所の事業は多岐にわたり、倫理の教えにより、家庭、地域、企業活動を教化し、日本を創造的に再生することをめざしています。会員組織として、上記倫理法人会の他に、家庭倫理の会、秋津書道会、しきなみ短歌会があリます。その趣旨は「純粋倫理の研究並びに実践普及により、生活の改善、道義の昂揚、文化の発展を図り、もって民族の繁栄と人類の平和に資する」としています。

主な事業活動は社会教育事業、研究事業、出版、広報事業、文化事業、地球倫理推進事業で、中国・台湾・アメリカ・ブラジルなどでも活動しています。定期刊行物として雑誌「新世」「倫理」や機関紙「倫研新報」を毎月発行し、法人会員向けに「職場の教養」を発行しています。倫理研究所では、倫理とは即ち幸福のための「人の道」であって「宗教ではない」とし、倫理の実践を重視しています。なお、倫理研究所は宗教右派に属すると言われています。

また、同じように倫理、道徳を旨とするよく似た団体として、倫理研究所と同様「ひとの道教団」の流れを汲み上記倫理研究会の分派とも言える「実践倫理宏正会」(上廣哲彦設立)や、道徳科学を標榜する「モラロジー研究所」(廣池千九郎設立)があります。

倫理研究所と実践倫理宏正会は兄と弟のような兄弟分で、弟の実践倫理宏正会は朝起き会としてかなり定着し頑張っているようです。また、モラロジー研究所は、イエスや釈尊など諸聖人の高い道徳的精神(最高道徳)を学問的に検証し、またあまねく道徳およびこれに関係する諸科学の原理を探究し、道徳が人類の幸福や世界の平和を実現する基礎であることを科学的・学問的に証明していく総合人間学であると言われています。

[倫理研究所の理念]

倫理研究所の生みの親丸山敏雄は、万人幸福の道として、明朗(ほがらか)、愛和(なかよく)、喜働(よろこんではたらく)を挙げ、これらは純情(すなお)という言葉に集約されるとしています。そしてこれらを17箇条の標語(金言)にまとめたものが「万人幸福の栞」だという訳です。

即ち、倫理研究所の基本理念は、創始者丸山敏雄がしたためた「万人幸福の栞」に示されています。その17カ条は丸山敏雄が「ひとのみち教団」(現在のPL教団)での信仰体験や人生の苦闘を通じて体得した幸福になるための人生訓というべきものです。

ちなみに万人幸福の栞 17カ条は以下の項目になっています。

1.今日は最良の一日、今は無二の好機 【日々好日】

2.苦難は幸福の門 【苦難福門]

3.運命は自らまねき、境遇は自ら造る 【運命自招】

4.人は鏡、万象はわが師 【万象我師】

5.夫婦は一対の反射鏡 【夫婦対鏡】

6.子は親の心を実演する名優である 【子女名優】

7.肉体は精神の象徴、病気は生活の赤信号 【疾病信号】→肉体は心の容れ物

8.明朗は健康の父、愛和は幸福の母 【明朗愛和】

9.約束を違えれば、己の幸を捨て他人の福を奪う 【破約失福】

10.働きは最上の喜び 【勤労歓喜】

11.物はこれを生かす人に集まる 【万物生々】

12.得るは捨つるにあり 【捨我得全]

13.本を忘れず、末を乱さず 【反始慎終】

14.希望は心の太陽である 【心即太陽】

15.信ずれば成り、憂えれば崩れる 【信成万事】

16.己を尊び人に及ぼす 【尊己及人】

17.人生は神の演劇、その主役は己自身

キリスト教で言えば、キリスト教倫理の基礎になっている「山上の垂訓」といったところでしょうか。ちなみに山上の垂訓とは、マタイ伝5章~7章及びルカ伝第6章にあるイエスの山上での説教で、特にマタイ5章3節~10節のいわゆる「幸いなるかなの説教」が有名です。

またここには、「地の塩、世の光たらん」、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」、「人を許せ、裁くな」、「人からしてもらいたいと望むことを、人々にしなさい」(黄金律)、「天に宝を貯えよ」「神と富の二人の主人に兼ね仕えることはできない」「思い煩うな、先ず、神の国と神の義を求めよ」「求めよ、さらば見出さん」、「狭き門より入れ」「岩の上に家を建てよ」といった珠玉の人生訓が表明されています。

そしてイエスは、倫理戒律の全ては「心を尽くして神と人を愛すること」(マタイ22:37~39)に集約されると語りました。

上記の万人幸福の栞 17カ条にある、「苦難は幸福の門」、「肉体は精神の入れ物」、「希望は心の太陽」、「信ずればなる」、「人生は神の演劇」、などは全て聖書が教えている内容と一致しています。従って、聖書と「万人幸福の栞」とは決して矛盾するものではありません。

倫理法人会の実践方法は、毎朝の集会やモーニングセミナーでその理念を唱和し、他の実践者の証を聞くなどして気付きを得て、自らをよりよく変革していくことにあります。

そして、朝の集会の場こそ神が宿る場所であり、体が健康になり、仕事がいまくいき、夫婦中がよくなる場と位置付けています。創価学会などの新興宗教は、その入会動機の大半が、病気からの救い、貧乏からの解放、家庭のもめ事からの解決という、いわゆる「貧・病・争」だと言われていますが、その意味ではここ倫理法人会も多かれ少なかれ同じ脈絡にあると言えるでしょう。

[宗教を出さずに宗教を語る]

倫理法人会の特徴は「宗教にあらず」としており、「万人幸福の栞 」に象徴されるように、宗教を出さずに宗教を語り、神を出さずに神を語るというやり方を取っていることです。

当時御木徳一が開いた「ひとのみち教団」に所属していた丸山敏雄は、天照大神や教育勅語の解釈をめぐり当局による弾圧を受け、1937年4月、教団幹部(凖祖)として刑法の不敬罪より逮捕されました。これらの経験から、丸山氏は特定の神(宗教)を立てることに距離を置くようになっていったと言われています。

また、日本人の宗教アレルギーを考え、宗教を全面に出さないで、宗教的倫理を語るといういき方を取っているようです。この態度は上述の「実践倫理宏正会」(朝起き会)も同じ脈絡にあるでしょう。

しかし、「万人幸福の栞」は、丸山敏雄が信仰していた「ひとの道教団」での神と一体となる「神体験」、即ち神は一体なりとする「見神」(神の示現を心で感得すること)の信仰体験を得たことや、弾圧の経験の中で「大我」の悟りを得た宗教体験が基礎となって生まれたものであることは明らかであり、宗教と信仰が根本にあることは否定できません。

それは「万人幸福の栞」の17番目の「人生は神の演劇、その主役は己自身」に端的に象徴されており、ここには下記の通り丸山氏の神観、世界観が顕れています。 

「宇宙の生命、統一の中心、万象の根源、これを神あるいは仏と言う」といい、また「万象は神の発顕、世界は神の顕現、人は神の性をうけて現れる」と言っています。そしてこの神との「神人合一」の中に真の自由があるという訳です。また、人生は神がプロデュースした演劇であり、その主役が人間だという人生観を吐露されています。

この「万人幸福の栞」には、先人、聖哲らの多くの処世訓が引用され、聖書からも多々引用があります。よく言えば丸山氏の思想と生き方のエキスが込められおり、辛口で言えば他の宗教などからの「いいとこ取り」と言えるでしょう。

宗教とは、文字通り宗(むね)の教えであり、倫理の根本にあるもので、全ての倫理、道徳は宗教が根っこなっている以上、その根っこの「神が何であるか」を示さないことは、靴の上から痒いところを痒くようなもどかしさがあるのではないかと思われます。教えの内容自体は優れたものがありますが、ここに倫理法人会の限界があると言えるでしょう。

[創始者丸山敏雄とは]

ここで、倫理法人会の生みの親である丸山 敏雄(1892年~1951年)について見ておきたいと思います。

歴史の教師をしていた丸山敏雄は、国体論を巡り悩んでいました。当時多くの議論があり、「国体に対する、宗教以上の大信念を獲得しなければ、とても歴史の教師など務まらない」と考えた丸山は、首席教諭の職を辞して大学へ進学し、国史研究を深める決意を固めました。

1929年37歳の丸山氏は、広島文理科大学に入学し、歴史・国体の研究に没頭しました。しかし『古事記』『日本書紀』などに記された、常識では考えられない奇跡的な出来事を学問的にどう解釈するかに答えを見出せず悩み苦しみました。そんな時、奇跡的な出来事を現出しているという「ひとのみち教団」(現PL教団)を友人から紹介され、教団教師の話に共感した丸山氏は入信を決意することになります。内定していた師範学校校長の職を辞して、卒業後「ひとのみち教団」の教師になります。

そして上記したように、「神は一体なり」とする「見神」(神の示現を心で感得すること)の宗教的体験を得ることになり、入団2年後には、異例の早さで准祖になりました。

「ひとのみち教団」は御木徳一が設立した宗教で、信仰対象を「宇宙全体の神である大元霊(だいげんれい)」としている神道系の宗教でありますが、天照大神や教育勅語の解釈をめぐり当局による弾圧を受け、1937年4月、丸山氏は、教団ナンバー2の幹部として刑法の不敬罪により逮捕されます。そして教団は、天照大神を太陽神として信仰していたことを理由に、不敬罪が適用され解散させられました。

否認して拷問による肉体的苦痛やありもしない行為の自白強要などによる精神的苦痛のなかで、亡き両親への痛切な悔恨の念を抱きました。まったくのぬれ衣とはいえ罪人としての扱いを受ける結果に、申し訳が立たず、父母の姿を思い浮かべ親不孝を心の底から詫びました。父母の涙が、自らの涙とかさなる涙の交流が何ヵ月も続いたといいます。

そして、獄中という極限状態の中で、涙の交流を重ねた丸山氏は、遂に「大我」に目覚める体験をすることになります。

ちなみに丸山氏が帰依した「ひとの道教団」は、その信仰対象を宇宙全体の大元霊を信仰し、「人生は芸術である」の標語のもと、教えの最も特徴的なものとして、「みしらせ」「みおしえ」の教理があります。身の回りに起こる災難や病気などすべての苦痛や苦難は、自分自身の心得違い、心の傾き(心癖)を知らせるために、神が発してくれる警告と考え、これを「みしらせ」と呼んでいます。

この「みしらせ」を引き起こしている心の癖は何なのか、教団から個人個人に下付されるものが「みおしえ」で、個々の自己表現の上で邪魔となっている心癖を教えてもらうものであるというのです。また、信者の身を襲う突然の苦痛に対応する「お身代わりの神事」というしくみがあり、これは信者の苦痛を一時的に教祖の肉体に引き取ってもらうものであります。教団としての戒律は特に存在せず、日常生活の心得として「PL処世訓」「PL信仰生活心得」などがあり、教祖が代々出現して時代にあった教えを説くという形をとっています。

そして丸山氏の「万人幸福の栞」は、この教団の教えからも多くの教訓を取り込んでいると思われます。その意味で、倫理法人会は倫理という形を取った「疑似ひとのみち教団」と言えるかもしれません。

[倫理と宗教の関係について]

最後に倫理と宗教の関係について考察しておきたいと思います。

上記しましたように、倫理法人会は「栞」に記された倫理を研鑽、実践する会であり、非宗教としています。しかし、もともと丸山氏の神体験、信仰体験が源泉となって生まれたものであり、現住所は倫理ですが、本籍は宗教と言ってもいいのではないかと思われます。

倫理は、「道徳」や「モラル」と言い換えることができ、端的にいうと「人として守るべき行いや道、規範あるいは生き方」を意味します。「倫」は仲間や人の輪のことを指し「理」はことわりや筋道のことを指します。社会を生きる上で一人一人が正しい行いをするための考え方(規範)、人生の知恵を倫理と呼べるでしょう。即ち倫理は、人間関係の在り方、社会生活の在り方を規定し、引いては、人間としての生き方を意味します。そして道徳は個人の生き方への態度であると言われます。

そしておよそ人間の倫理、道徳は、宗教にその根源があると言っても過言ではありません。高等宗教は必ず倫理を伴い、倫理の源泉となっています。モーセ十戒の5戒~10戒は、倫理箇条と位置付られ人間の規範や人間関係を規定し、上記した山上の垂訓は人間の生き方を教示しています。

宗教は、すべからく倫理を持ち、超自然的存在への態度や畏敬や信仰は、それが人間に向けられた時、倫理になるというのです。超自然的存在は、善を為すことを命じ、他のために生きることを命じます。そしてこれは、普遍的な根本倫理であるというのです。

例えば、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7.12、ルカ6.31)は黄金律といわれ、宗教、倫理を問わずあらゆる規範の教えとなっています。

アメリカの独立宣言には「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」とあり、生命、自由、人権が創造主、即ち神に源泉があることを謳っています。正にこれは、倫理が神から来ることを象徴しています。

ただ、倫理と宗教規範は異なることもあります。例えば、ユダヤ人やイスラム教徒は豚肉をタブーとして食べませんが、倫理は豚肉を食べるなとは命じません。倫理にあって提起される規範は合理的で、常識的な自然科学的知見に反しないものであり、神の罰や奇跡やタブーというような純粋に宗教的領域に属する事柄は、倫理には入りません。倫理である限りは合理性を超えた教理を持ち込むべきではないとされ、豚肉を絶対に食べてはいいけないという倫理はありません。これが倫理の考え方でしょうか。

では、神と宗教なき倫理とは何でしょうか。その場合、何が倫理の根拠になるのかが問題になります。その倫理のよって立つ根拠は、内なる道徳律としての良心か、いわゆる自然法か、はたまた常識通念か、ということになるでしょう。いずれにせよ、各人において「これが倫理だと思うもの」といった確たる物差しのない漠然としたものにならざるを得ません。

上記のアメリカ独立宣言にあるように、自由、人権が創造主に由来することで確固たる地位を占めるように、倫理も神に根拠付けられることで、その正統性を得られるものと思料いたします。

「哲学」が人間の存在や人生の根本原理について探求するのに対し、「倫理学」は、主に人と人との「関わり」を中心に、道徳心、人としてのあり方など、人間としての規範を研究します。そして「神学」は、神、信仰、善悪、倫理の根本などについて解明いたします。トマスアキナスは、「哲学も倫理学も神学の侍女である」と指摘しました。倫理は宗教の生命を得て、はじめて輝くというのです。

こうして考えると、倫理法人会は、非宗教的宗教と言えなくもありません。「実践倫理宏正会」や「モラロジー研究所」にも同様のことが言えるでしょう。

以上、宇野美香子さんのライブに参加し、宇野さんの行動哲学の背後にある倫理法人会、そして更にその背後にある宗教について考察いたしました。なお宇野さんは、幼稚園から中学校までキリスト教の日曜学校に毎週通い、なんと中二の時に洗礼を受けたクリスチャンだったと筆者に告白しました。洗礼名「セシリアmika」。(了)

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