○つれづれ日誌(令和2年11月4日)-日本の四季ー秋は月.冬は雪
秋が深まり冬支度の季節がやって来ました。そして柿が美味しい季節です。果物の中でも筆者は柿には目がないので、大変嬉しい季節です。しかしスーパーではまだ値段が高く、先日2個の柿が入った500円のパックを買うのに3分も迷ったあげく、やっと購入しました。やはり筆者に取って月よりも柿です。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
この句は、法隆寺の茶屋で詠んだ正岡子規の有名な俳句です。
[美しい日本の四季]
さて次の短歌は、かの道元禅師の句であります。
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり
道元禅師が永平寺の夜空を眺めて日本の四季を詠ったもので、四季の姿をあるがままに詠んだとも、坐禅の姿、深い悟りの境地を意味するとも捉えられています。
それにしても、日本ほど四季の移り変わりがはっきりして美しい国はありません。筆者は昔しフィリピンのマニラで2年間暮らしたことがありますが、なんと年中同じ景色なので、びっくりしたことがあります。これでは、刺激も情緒もあったものではありません。
日本人は、縄文時代から自然を友とし、自然を糧として、共生して生きて来ました。自然を崇め先祖を祭り和を重んじるのは、古来日本の伝統文化です。日本的霊性は、自然と先祖と和が核となっています。
[枕草子の世界]
以下は、清少納言の枕草子の書き出しの文句です。いかにも春夏秋冬の味わいを情緒的に謳っています。ここで「おかし」とは「趣があって良い」という意味で使われています。
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くもをかし。雨など降るもをかし。
秋は夕暮れ。夕日の差して山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
冬はつとめて(早朝)。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。
[母性的な多神教と父性的な一神教]
こうして日本の多神教は、繊細で優しい母性的な自然の中で生まれました。
時には、地震、台風、豪雨、干魃、噴火などの災いもありますが、総じて日本の自然は人々に恵みをもたらしてきました。日本人は、これらを神々の恩寵と考えて来たのです。ここに穏やかで慈愛に満ちた多神教の原点があります。
一方、イスラエル一神教は、石と岩の荒野、不毛の砂漠の中で生まれました。モーセが十戒を授かったのも、シナイの荒野の只中でありました。荒野にあっては唯一の神に向かう以外に道がありません。厳格な義の父性的な神です。
そこでは自然と共存するというより、自然にどう打ち勝つか、どう主管するかが問われます。そして荒野とは、言い換えれば試練であり、試練は「唯一神」を見出だす源泉になりました。
[神道の神は自然の神]
「神の永遠の力と神性とは、被造物において知られていて、明らかに認められるからである」(ロマ書1.21)とパウロも言っていますように、自然は神の栄光の宝庫です。この豊かな日本の自然の中で神の声を聞くことは容易です。
宗教学者で秩父神社宮司の薗田稔氏(京都大学名誉教授)は、「神道は自然の中に神を見た信仰」だと言い、江戸初期の伊勢の神主・出口延佳(でぐちのぶよし)は「何となくただありがたき心、それが神の道だ」と語りました。(神社本庁)
また、平安末期の歌人で有名な西行法師は伊勢神宮にお参りして次のように詠みました。
なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる
そうして、身近の神社にどんな神さまが祀られているのか、知っている人は少ないでしょう。「どんな神さま」かは知らなくても日本人は手を合わせます。内村鑑三もクリスチャンになる前は、各神社の前を通る度に、どの神様が祭られているか知らずに、欠かさず参拝したと告白しました。
筆者は本年1月2日、大宮にある氷川神社に初詣に行ってきました。氷川神社は、出雲系の「スサノオノミコト」を祭神とする関東第一の格式を誇る老舗です。人の多さにもびっくりしましたが、長い参道に立ち並ぶ出店の多さには驚きました。
そして一体この人々の中の何人が、氷川神社の祭神がスサノオノミコトだと知っているのだろうかと自問せざるを得ませんでした。かように日本の神は、良く言えば「おおらか」、辛口で言えば「いい加減」ということでしょうか。
しかし神道は日本人の血肉の中に仕組まれているのです。「神道は日本人のDNA」だと言われる所以です。初詣に8000万人も参拝する理由がここにあります。
さて、貞明皇后(大正天皇の皇后)は、次のように詠まれました。
キリストも釈迦も孔子も敬ひて拝む神の道ぞたふとき
このように、日本は八百万の神々が仲良く暮らす国であり、外国の神さまも客神として大事に扱い、仲良くしてきました。
こうして、いつか母性的な多神教と父性的な一神教は、それぞれの長所を持ちより、「父母性的」な精神性を育むことでしょう。
この秋、一度自然に浸って、しばしこの二つの神を感じられてはいかがでしょうか。
一句、詠みました。
晩秋の木立に聞こゆ神の声
(了)
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