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セミナーレジメ 「国家神道とは何か 宗教と国家の在り方を考える」(宗教、政治、国家の関係)

日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス(大日本帝国憲法第28条)


憲法発布略図 1889年(明治22年)、楊洲周延画


令和元年11月25日  Thomas HIROSHI YOSHIDA


目次

第一部 政教分離とは何か

1、宗教と国家の関係についてー基本的に政教分離原則 ・・・・・・・・3 

ⅰ信教の自由は人権の中の人権、政教分離は信教の自由を担保するための制度的保証 

ⅱ宗教と政治の一致は違法ではない。宗教団体が特定政党を応援することも、  

政党を作って政治活動をすることも自由である。

ⅲ宗教と国家の関係についての類型


2、キリスト教における政教分離の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・3

ⅰ、ヨーロッパにおける歴史

ⅱアメリカ合衆国の政教分離―その歴史、思想、特徴


3、日本における政教分離―その法的意味・・・・・・・・・・・・・・・5

ⅰ日本国憲法 ⅱ信教の自由の3側面 ⅲ内閣法制局長官大森政輔の国会答弁

ⅳ「政治上の権力」とは ⅴ政教分離とは国家と宗教」の分離 ⅵ「政治上の権力」とは ⅶ論点    

第二部 国家神道とは何か

1、問題提起―国家神道の論点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6


2、国家神道とは何かー神道の国教化政策とその挫折・・・・・・・・・・6

ⅰ定義と意義

ⅱ国家神道の歴史


3、国家神道の性格と誤解・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10

ⅰ国家神道の性格

ⅱ代表的神道論―戦後の著作から

ⅲ国家神道への誤解と実像

ⅳ国家神道の復活はない

ⅴ天皇制の意味とその評価について


4、これからの国家と宗教の関係を考える・・・・・・・・・・・・・・18        

                         

◇資料 国家神道とは何かー宗教と国家の在り方を考える―宗教、政治、国家の関係ー



第一部 政教分離とは何か


1、宗教と国家の関係についてー基本的に政教分離原則

ⅰ信教の自由は人権の中の人権、政教分離は信教の自由を担保するための制度的保証


ⅱ宗教と政治の一致は違法ではない。宗教団体が特定政党を応援することも、  

政党を作って政治活動をすることも自由である。


ⅲ宗教と国家の関係についての類型

・融合型(広義の政教分離)―国教型ともされ、イギリス、バチカン市国、イスラム諸国のほか、イタリア、北欧諸国も含まれる。

同盟型(コンコルダート)―公定宗教を認めるードイツ、オランダ


・分離型(狭義の政教分離)―憲法に政教分離の規定がある

a宗教に友好的ないし同調的なタイプ(米)

b宗教に中立的ないし非友好的なタイプ(仏、日、オーストラリア)

c宗教に敵対的なタイプ(唯物論に立った旧ソビエト連邦など)


2、キリスト教における政教分離の歴史

ⅰ、ヨーロッパにおける歴史

・962年にオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により「ローマ皇帝」に戴冠され、キリスト教がゲルマン人の間に普及していく。

・中世ヨーロッパにおいては国家と教会、国権と教権とが分かちがたく結びついてそれが一体となっていたため、信教の自由は認められず、国教ないし公認の宗教・宗派以外は「異端」として刑罰を受け、迫害されてきた(異端審問

・政教分離の考え方は、中世ヨーロッパにおける叙任権闘争 、近世においては宗教改革に端を発して展開した宗教戦争 、近代におけるアメリカ独立理念の中に結実して行った。

・信教の自由の変遷―カソリックからの自由→国家からの自由→公認宗教制度からの自由→政教分離制度

ⅱアメリカ合衆国の政教分離―その歴史、思想、特徴

・独立宣言まで

aイギリスにおける1215年の大憲章(マグナカルタ)、1628年の権利の誓願、1689年の権利章典などによって、人権の礎が築かれた。

bピューリタン達が信仰の自由を求めてアメリカに移住。しかし新たな国教(公定宗教)制度が造られる。

c独立宣言の1か月前の1776年6月12日にバージニア権利章典が採択され、第16条で自由な信仰の権利が定められた。

d1776年7月2日、「アメリカ独立宣言」が採択された。

「すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含む侵すべからざる権利を与えられている」(前文)


・合衆国憲法修正第1条まで

aバージニア信教自由法が1786年1月19日、バージニア邦議会で可決した。バージニア信教自由法は、アメリカで初めて信教の自由と政教分離を明文化した法律で、アメリカ憲法の基礎となった。

b1788年に憲法が制定され、その後1791年に合衆国憲法修正第1条(権利章典)が制定された。この権利章典では国教が禁止され、宗教の自由が明記された。

cアメリカにおいては、多様な教会的伝統が国家形成に積極的に参与できるよう、特定の教派が突出した政治権力を行使できない枠組みを用意するという点に重点が置かれ、アメリカの公的領域において一定の役割を果たすことは伝統的に是認されている


・アメリカにおける国家と宗教の密接な係わり(事例)

a米大統領は神に職務精励を誓い、聖書に手を置いて宣誓する。大統領就任式や国葬など主要な国家儀式がすべてキリスト教式で行われ、また最高裁判所にはモーセの十戒が掲げられている。

bアメリカ合衆国議会、裁判所、軍隊、警察、刑務所、公立病院には専属牧師が置かれている。議会開会は牧師による祈祷から始まる。

c軍隊で従軍牧師のような聖職者を雇用し、空母に礼拝所を設置したり宗教行事を執り行うことが容認されている。

d大統領などの国葬はそれぞれの宗教儀式によって行われ、戦没者の追悼式はキリスト教の宗教儀式による。

eアメリカ合衆国ドルの紙幣・コインには"IN GOD WE TRUST(我々は神を信じる)"の文言が刻まれ印刷されている。又「星条旗に対する宣誓」の中に「one Nation under God(神の下にある一つの国家)」という言葉がある。

f宗教団体への寄付金は所得控除の対象となっている。


見えざる国教「市民宗教」

アメリカの宗教社会学者ロバート・N・ベラーは多民族国家アメリカを統合している価値の体系を「市民宗教」(civil religion)と名づけた(『社会変革と宗教倫理』未来社)。森孝一氏(同志社大学教授)がそれを「見えざる国教」と言い換え、巡礼父祖のキリスト教と、建国父祖の啓蒙思想とが結合したものをアメリカの「見えざる国教」と呼んだ。→日本的霊性


3、日本における政教分離―その法的意味

ⅰ日本国憲法

第20条 

1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第89条

公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便宜若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。


ⅱ信教の自由の3側面→信教の自由は人権の中の人権である

内心の自由→「思想・良心の自由」(第19条)

宗教的行為の自由→「表現の自由」(第21条)

宗教的結社・宣伝の自由→「結社の自由」(第21条)


ⅲ内閣法制局長官大森政輔の国会答弁

上記の憲法規定は、宗教の政治への関与を否定するものではなく、宗教団体が政治家や政治団体を支持したり、政治運動を行うことは憲法上認められている。


ⅳ「政治上の権力」とは

「統治的権力」を意味する。政治活動そのものではなく、法律を作ったり、人を裁いたり、税金を徴収したり、公務員を任免する「公権力」を意味している。「統治的権力」はすべて国や公共団体に独占されている。

ⅴ政教分離とは国家と宗教」の分離                            政教分離とは「国家と宗教」の分離であって、「政治と宗教」の分離ではない。日本国憲法の精神が求める政教分離は、国家の宗教的中立性を要求しているのであって、宗教者の政治的中立を要求しているわけではない。  ・

ⅵ論点                                      a津地鎮祭訴訟最高裁判決(昭和52年7月13日)                   b靖国神社参拝問題                                c皇室祭祀―天皇の代替わり儀式(剣璽等承継の儀、即位礼正殿の儀、大嘗祭)、新嘗祭など春秋の儀式などの皇室祭儀

◇皇室祭祀は明治期に拡充された。                         礼拝施設―賢所、皇霊殿、神殿                           祭祀―代替わり行事。結婚式・葬儀。四方拝・皇霊祭・新嘗祭・紀元節祭

第二部 国家神道とは何か


1、問題提起―国家神道の論点

・国家神道とは何か。

・国家神道が軍国主義や超国家主義の温床となった。即ち国家神道が戦争の大きな原因となったという戦後の通説は正しいか。

・国家神道の光と影。

・宗教と国家の関係を考える。


2、国家神道とは何かー神道の国教化政策とその挫折


ⅰ定義と意義

・定義

定説―国家神道とは、神道的な道徳的実践を国民統合の支柱とするもので、「神社非宗教論の立場に立った一種の国教的制度(準国教)」である。即ち、「国家によって管理され、教派神道とは区別された非宗教としての神社神道」である。


島薗進―国家神道とは、皇室祭祀や天皇崇拝のシステムと、神社神道が組み合わさって形成された国家と強い結びつき持った非宗教とされた神道、とした。

皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を総本山とする。


 GHQの神道指令―「日本政府ノ法令ニヨッテ宗派神道、教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派」と定義された。


・国家神道の意義について

a国民統合のアイデンティティ、国家統合の象徴として機能した。西欧列強への対抗という意味もあった。明治政府は、天皇をトップとした社会構築にあたり、国民の精神的支柱として神道を採用した。 五箇条の御誓文も天皇が神に誓うという形式を採用した。

b一君万民の理念により、儒教的身分制度を打破したー四民平等へ

c檀家制度による仏教支配からの脱却

dキリスト教への防波堤―和魂洋才の通り、近代的制度や技術などの文明は取り入れるも、宗教や精神性などの文化は拒否した


・日本型政教分離                           

祭政一致と政教分離の両立を目指したもので、神道を非宗教とすることで、「公」の領域で権威を認められた国家神道と、「私」の領域で信教の自由が認められる諸宗教という二重構造が日本型政教分離である。


ⅱ国家神道の歴史

・前史

a江戸時代の日本では、幕府が仏教の寺社勢力に介入し支配に利用する方針が示され(檀家制度)、仏教は民衆の教化の役割を担った。儒教と神道の習慣は尊重され、またキリスト教は厳しく弾圧された.(隠れキリシタン)


b慶応4年3月:太政官布告で神祇官再興が宣言され「祭政一致の制に復し天下の諸神社を神祇官に属す」とした。→もともと祭政一致による天皇中心の国家をつくる構想は、江戸末期から国学や水戸学の影響下に盛り上がりを見せていた。


c1968(明治1):神仏分離令が発布される→廃仏毀釈運動が行われた

→これまでの神仏習合を否定するもので、居宣宣長らの思想、つまり唐心でなく大和心で行くという思想であった。しかし知的エリートは仏教界に多 く抵抗があった。

・国教化への試みと失敗

a1869(2):神祇官設置―教導局、宣教使を置くが挫折する。

→王政復古・祭政一致政策で天皇親政を目指した。西欧列強への対抗という意味があり、神道国教化政策をとるも3年間くらいで挫折する。


b1870(3):大教宣布の詔が発布される

→天皇中心国家、神道の国教化、王政復古・祭政一致政策を目指す。又神社制度(官幣社、国弊社)が整備され、一方ではキリスト教を排撃した。


c1871年神祇官を廃し神祇省とする。1872年神祇省を廃し内務省社寺局に移管。     (神祇官→神祇省→教部省→内務省寺社局→内務省神社局と変遷)


d1872(5):教部省設置―神・仏・儒による教導職を設置し政策を軌道修正。

大教院設置し尊王愛国思想の教化を目指した。造化3神とアマテラスを祀るも祭神論争が勃発する。1875年、大教院廃止される。

三条教則を定め、敬神愛国、天理人道、皇上を奉戴するが、島地黙雷の三条教則批判建白書が出る。


e1873(6):キリスト教禁教を廃止する。

→文明とキリスト教を区別する政策を行う。「文明国になりたいならキリスト教を受け入れるべき」「キリスト教無しに文明化は可能か」と言った問いが宣教師などから呈された。しかし明治5年には蒸気機関車が走り、キリスト教無しに文明化は可能であることを証明した。和魂洋才


・非宗教宣言

a1882(15):内務省通達により、神社は宗教ではないとする(宗教を超えたものとする→神道非宗教論)→日本型政教分離

イ:神道は「国家の宗祀」であって「宗教」ではないというのが政府当局の見解で、国家神道は国教ではないが、国教に準ずる扱いを受けた。神社は公的な法人であり、神職には官吏の地位が与えられていた。

ロ:公的領域では道徳としての国家神道・教育勅語を国民精神とし、私的領域ではそれぞれ宗教としての仏教、キリスト教などを認めた。神道は国民的道徳基盤とする。

ハ:教派神道(黒住、金光、天理)は神道から分離独立する。教派神道は宗教、神社は非宗教と位置付ける。


◇神社は非宗教ということになり、祭祀のみ行うということになった。国民統合のために全国民を神社に参拝させるためには、浄土真宗門徒やキリスト教徒が参拝できるように、非宗教にすることを要した。


そもそも神道は宗教なのか、という議論は当時からあり、浄土真宗が主張したのは、皇室の祭祀が神道であるのはよいが、神道にはろくに教えもないし、宗教とはいえないものではないか、ということだった。


これは神道を軽く見た意見といえるが、反対に神道家の中にも非宗教と考えた人もいた。こちらは日本が古代から続けてきた神道は、他の宗教と言われるものと同じように考えてはいけない、普遍的な民族精神であるという意見で、神道は特別だという考え方である。


・大日本帝国憲法と教育勅語

a1889(22):大日本帝国憲法28条信教の自由

大日本帝国憲法

第28条 日本臣民は安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限りに於いて信教の自由を有す


→背景には、不平等条約を解消すること、そのためには文明国の条件であっ た信教の自由・宣教の自由を規定した憲法が外交上必要だったという事情があった。しかし、条件付き信教の自由で、「人民たるの義務とは何か」で議論が噴出した。人民たるの義務とは、一応、国体論を前提とする天皇崇敬に背かない限りという意味だと言える。


b1890(23):教育勅語の発布、神社局設置

イ:教育勅語の機能―非宗教的な国民道徳、国体思想を昂揚した。普遍的な道 徳的価値を表現したものという見解と、皇国史観的な天皇への忠孝に結び付けられたことに問題があるという見解の両面がある。

ロ:1891(24)内村鑑三の不敬事件―教育勅語に最敬礼義務を怠る

ハ:井上鉄次郎と内村の教育と宗教の論争(教育と宗教の衝突)―井上は、キリスト教は、国家を主とせず、忠孝を重んぜず、世間を軽んじ(霊界中心)、無差別の愛を説くと主張し、国策に不適合として退けた。


・戦後

a1945(20年)神道指令

→GKQにより、1945年(昭和20年)12月15日に日本国政府に対して神道を国家から分離するように命じた神道指令。b1946年1月1日の昭和天皇のいわゆる人間宣言に始まる一連の国家神道解体へとすすんでいった。


国家神道の懐胎とは、①神社神道と国家との分離 ②皇室祭祀と国家と分離である。


◇祭神論争とは

a1879(明治12)年、神道事務局の神宮遥拝所(日比谷)の祭神のことで出雲大社の関係者たちから、造化の三神と天照大神に大国主命(出雲大社の祭神)も加えて五神とするようにとの要求があり、大論争が起こった。幽冥界の神(聖書の影響)である大国主命を入れ、来世観を加えてこそ宗教の形態が整い真の安心立命もある、という主張であった。来世観のない宗教では、いかにも粗末であるというのは確かである。

b結局、明治天皇の裁定により、神社神道においては、大国主命は省くことになった。そうして神社神道とは、皇室の先祖である天照大神を主神として祭るものである、ということになった。造化の三神を祭る、ということは宇宙的な神を認めることであり、それには浄土真宗からの反発も大きかった。

c「神道とは皇室の先祖を祭り、これに敬愛の念を表す」ものにすぎないのなら、真宗にも納得がいった。こうして来世観も宇宙論も葬儀もなしとい

う内容で神社神道は成立した。


3、国家神道の性格と誤解

ⅰ国家神道の性格

・国家的アイデンティティーの要請                         西欧的一神教との対決を意識し、本来多神教的な伝統的神道の中に、至高の万世一系の天皇を中核に据えた強力な一神教的システムを導入し国教化を目指した。後に国教化を断念し、非宗教とされ国民道徳の基盤となった。


・皇室神道、神社神道、国体思想が混在し、形成期(1868~1890)、確立期(1890~1910)、浸透期(1910~1931)、ファシズム期(1931~1945)に区分される。


日本型政教分離の思想と各宗教の対応

a神道の非宗教化により、むしろ宗教に上位する道徳観念、メタリリジョン(超宗教)とすることによって、他宗教との共存が可能になった。


b神道の非宗教化とヒンズーナショナリズムとの類似性

→インドのヒンズー教において、公的領域はヒンズーで全国民を対象とするも、私的領域では仏教、モスレム、クリスチャンなどを自由に信仰した。そして一神教的な神ブラーフマンの再生やヴェーダの聖典化も行い、一と多を統合するヒンズー教の一神教化が図られる。

c井上鉄次郎は、倫理と宗教の考え方において、キリスト教、仏教の上位に進歩や道徳的徳目に価値を置く理想教と言ったものを唱えた。


・宗教弾圧について                          

a宗教弾圧の理由には主に3つある。一つには天皇不敬ということ、二つは急に大きくなりすぎて目をつけられたということ、三つは明治政府は基本啓蒙主義であり、非科学的なことやオカルトを嫌ったということ、である。この頃急に大きくなる宗教団体のほとんどは、霊能者、霊媒、まじない、占いなどオカルト的要素があったのである。


bその結果、各宗教団体において戦時教学への変更が行われた

イ浄土真宗―真俗二諦論(仏法・王法、ロマ書13章)

ロ天理教の教義の変更→1903年の天理教経典には、敬神の十柱にアマテラスが加えられ、天皇崇敬の教えが説かれた。1908年別派独立を認可される。

ハキリスト教の皇居遥拝是認

ニ1935大本教弾圧

ホ古典の再聖典化→本居宣長の古事記伝、清沢満之の歎異抄、田中智学の法華経の再生


ⅱ代表的神道論―戦後の代表的著作から

・村上重良の著書「国家神道」

a村上重良→東京大学文学部宗教学宗教史学科卒業。慶應義塾大学講師を務める。日本共産党に属するも、創共協定問題で除名される。この書物は、単純な戦後左翼イデオロギーで戦前日本を断罪するもので、現在の国家神道の論調を作り出したとも言われている。


b村上氏の定義                                  国家神道は神社神道と皇室神道(皇室祭儀)が結合したもので、明治維新から敗戦までの八十年間、日本を国家神道が支配し、超国家主義・天皇絶対主義・軍国主義の温床となった。そして天皇制が存続する限り国家主義的な国家神道は復活する危険があると主張した。


又、国家神道の教義は国体の教義であり、帝国憲法と教育勅語によって思想的に確立したとし、大日本帝国憲法によって、天皇は、人間である祭司王から、一神教的な現人神に変わったと主張した。


c村上氏への反論                                 しかし、近年の神道学者である阪本是丸・新田均らによる検証により、そもそも明治政府の中にも伊勢派・出雲派などの路線対立が有り一枚板ではなかったこと、明治政府の神道信仰の強制がほとんどなかったこと、戦時中の国家神道をモデルとして主張している、などの史実を踏まえると、村上の国家神道論は粗雑かつ本人の先入観に基づく説だったのではないかといわれるようになり、学界での影響力は低くなっている。又、葦津珍彦氏、島薗進氏による批判もある。


・葦津珍彦(うずひこ)氏の著書「国家神道とは何だったのか」

a葦津珍彦著「国家神道とは何だったのか」(神社新報社)は左翼の主張に対する神道側の反論の書である。「現人神、国家神道という幻想」と共 に、非常に興味深い。神道論客、著述家、神社新報主筆、神社本庁設立に寄与。


b葦津氏の神道理解                          

神道とは、長い日本民族の精神生活の中で、自然成長的に育成されてきた民族固有の精神の象徴である。そこには祖神や自然神への信仰、外来文化の土着化など多様な精神を包含する。各流各派の日本固有の宗教を含むもので、特定の宗教として限定すべきではない。

名目のみであったにせよ、明治政府の神社行政が、神道を「国家の祭祀」としたことは、仏主神従を余儀なくされ停滞してきた神道の再生にとっては評価されることであった。

c葦津氏の国家神道理解   

葦津氏は、皇室祭祀・皇室神道を宗教や神道としては捉えず、国家神道とは行政官僚が神社を支配し、制限を受け、決して厚遇されたとは言えない神社神道を指すとした。    

                                  葦津氏は、国家神道は、「高々近代になって官僚によって創作された空疎で世俗的な神道が、国民精神を支配する宗教などにはなり得ない」とし、明治政府による神道信仰の強制はほとんどなかったというのが真相であるとした。


 即ち、本来的な神道の精神は、有力な非神道勢力によって空白化され国家

神道は「世俗主義的で無気力且つ無能なものであった」とした。(P170)


又、戦時にあっては、いかなる国家の政府でも思想言論の統制を伴う、国民の天皇と祖国への忠誠心や神国思想は、国家神道によるものではなく、民間の右傾団体や国民の根強い土着的な自然発生的神道意識だった。


更に、村上重良の「国家神道」は、天皇の神格化が進んだ「限定された戦時中の国家神道をモデルとしたもの」とも主張した。


 →しかし、島薗氏は、皇室祭祀がどのように大きな影響を与えたかには全く触れていないといと葦津氏を批判している。


・島薗進著「国家神道と日本人」 東大名誉教授、上智大学教授

a島薗氏の神道定義                                国家神道とは、「皇室祭祀や天皇崇拝のシステムと、神社神道が組み合わさって形成された国家と強い結びつき持って発展した神道」とした。


即ち、国家神道は、皇室祭祀と伊勢神宮を頂点とする神社及び神祇祭祀に価値を置き、神的な起源と系譜を引く天皇を神聖な存在として尊び、天皇中心の国体の維持発展を願う思想と実践システムである。 


以上のように、島薗氏は葦津氏と違って、皇室祭儀を国家神道の最重要なファクターとし、これを天皇崇拝、国体思想に強く結び付けている。


b国家神道の性質                                 祭政一致と政教分離の両立を目指した。「公」の領域で権威を強めた国家神道と、「私」の領域で信教の自由が認められる諸宗教という二重構造が日本型政教分離だという。また、教育勅語には、儒教などの諸宗教に見られる普遍性を持つ道徳的価値が説かれているとも言っている。


c村上重良への批判

島薗氏は村上重良氏の神道定義に同調しつつも、村上氏の国家神道論は、天皇の神格化が進んだ戦時中の国家神道をモデルとしていると批判した。天皇が現人神だという思想は、1930年代以降に顕著になったものであるとした。


村上氏は、「国家神道は、集団の祭祀としての伝統を受け継いできた神社神道を皇室神道と結び付け、皇室神道によって再編成して成立した」と言う。しかし、そもそも神社神道と呼べるような統一的宗教組織は明治維新前には存在しなかった。皇室祭祀と連携して組織化されることによって、初めて神社神道と呼びうる組織が形成されたのであると主張した。


・加藤玄智(陸軍士官学校教授)                         「神道」を「宗派的神道」と「国家的神道」とに分け、さらに「国家的神道」を「神社神道」と「国体神道」とに区分する説を立てた。


ⅲ国家神道への誤解と実像 

・強権的な国家神道は1930年代以降、戦時下時代

国家神道という言葉は、戦後のGHQの造語という側面がある。戦前には、一部の専門家の間で使われた言葉で、国民には馴染みがなかった。


天皇が現人神だという思想は、1930年代以降に顕著になったものである。「現人神」、「八紘一宇」という言葉は、明治以後一貫して存在していたのではなく、満州事変以後の言葉である。


天皇の神格化は1930年以降である。(副田義也、鈴木正幸)村上重良の国家神道論は、天皇の神格化が進んだ戦時中の国家神道をモデルとしている。(島薗進)

・国家統制は戦時体制による政府による国民統制の結果である

明治維新から昭和二十年まで約八十年間国家の宗教政策もいろいろ変化していて、そもそもその間を貫いた国家神道イデオロギーなどというものは存在しなかった。昭和十年代も国家神道イデオロギーが前提にあって、あの国家統制が生まれたわけではなく、戦時体制による国民統制の結果、ということである。


 しかし、天皇中心の中央集権国家、国民動員への時代的要請があり、皇室神道と結びついた神道が、政治イデオロギーとして利用されたことは否めない。

そもそも、現人神、神国、聖戦と言った言葉は軍国主義政治イデオロギーの所産で、神道そのものにそう言った思想はない


キリスト教史において十字軍の行き過ぎた蛮行が問題になったが、そうかといってキリスト教自体が間違っていると言えないのと同様である。戦後の国民主権、象徴天皇制、厳格な政教分離の下にあっては、むしろ行き過ぎた宗教と国家の分離は修正を余儀なくされている。


・GHQによる否定的イメージ

a国家神道は、超国家主義(ファシズム)、天皇絶対主義、軍国主義の源泉であるといった誤ったイメージは、①戦後GHQによる対日方針と神道指令の間違った神道観、②左翼の思想宣伝、③国家神道への正しい知識の欠如、に負うところが大きい。

bGHQの対日方針                                降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針(1945年9月6日)は「日本国ガ再ビ米国ノ脅威トナリ又ハ世界ノ平和及安全ノ脅威トナラザルコトヲ確実ニスルコト」

上記の方針のもと、GHQは、軍隊の解散・公職追放・戦争裁判・憲法改正・財閥解体・農地解放・労働立法などの外的側面の改革だけでなく、行き過ぎた精神的武装解除を行った。


そしてその標的が軍国主義、国家主義の担い手と誤認された国家神道であり、国家と宗教の厳格な分離を要求した。又GHQは穏健なナショナリズムまでも否定し、約230本の映画上映を禁止した。(太閤記、赤穂浪士、水戸黄門など)


・戦時下の行き過ぎた国家主義とその原因

a確かに、戦時中の国家主義、民族主義が「一部の神道思想」と結びついたものとも言えなくもない。しかし、開戦前夜の日本の神国聖戦思想・超国家思想・軍国主義は、国家神道というより、葦津氏が指摘しているように在野の右翼など神道人外の政治イデオロギーであり、又民間からわき上がって支持が広がったものだった。むしろ国家神道思想は、開戦前夜における軍部の台頭によって国民動員に利用されたと言える。


bしかし、宗教学者の柳川啓一は以下の点を挙げて「国家神道は教義を有してた」と指摘した。

イ:天皇は神話的祖先である天照大神から万世一系の血統をつぐ神の子孫で あり、自ら現御神(あきつみかみ)である。

ロ:「古事記」、「日本書紀」の神話の国土の形成、天壌無窮の神勅にみえるように、日本は特別に神の保護を受けた神国である。

ハ:世界を救済するのは日本の使命。他国への進出は聖戦として意味づけられた。

ニ:道徳の面においては、天皇は親であり、臣民は子であるから、天皇への忠は孝ともなるという忠孝一本説

ホ:これらの思想は、天皇を中心とする強力な君主国家を築いていきたい明治新政府の意向とも一致したため、万世一系の天皇を祭政の両面で頂点とする思想が形成され採用されていった。


・国家神道の天皇が現人神だという思想の実像

a1930年代以降に顕著になったものである               

「現人神」「八紘一宇」という言葉は、明治以後一貫して存在していたのではなく、満州事変以後の言葉である。副田義也(筑波大名誉教授)も天皇の神格化は1930年以降であるとしている。


又、皇學館大學の新田均教授は「現人神、国家神道という幻想」(PHP)の中で、「明治末期から昭和初期の修身や歴史の教科書を見ると、現御神(あきつみかみ)や八紘一宇という言葉が現れたのは昭和十四年以降のことである」とある。


b天皇観も明治末は天照大御神の子孫であるという神孫論と君臣論だったのが、大正末には天皇は親で国民は子であるというような家族論が入り、昭和十四年以降になって、天皇は神であるという天皇教とも言える表現に代わってきた。昭和維新運動以後の軍国主義の台頭によって、天皇の威を借りた軍部による政治介入が頻発した。満州事変は石原莞爾治の最終戦争論にもとづいて始められたと言われている。


c天皇現人神論の考え方

一方、東京帝国大学で宗教学を講じた加藤玄智は「我が国体の本義」(1912年)で「現人神とも申し上げてをるのでありまして、神より一段低い神の子ではなくして、神それ自身である」と述べている。


憲法学者で天皇主権論者である東京帝国大学教授上杉慎吉の「皇道概説」(1913年「国家学会雑誌」27巻1号)は「概念上神とすべきは唯一天皇」と述べ、これが昭和初期には陸軍の正統憲法学説となっていった。


陸軍中将石原莞爾は自著「最終戦争論・戦争史大観」の中で次のように述べた。「人類が心から現人神の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である」


・神社参拝の強制について                       

明治にはなく、大正末になって教育の一環として小学校の神社参拝問題があった。昭和七年に上智大学生が靖国神社の参拝を拒否したという事件もあり、昭和十年代には参拝拒否は事実上の不可能になっていった、という経過がある。


・「八紘一宇」とは                                優越した日本民族が、天皇統治の下に世界天皇として世界を一つにするといった膨張主義の代名詞ではなく、「天の下では、民族を超えて皆平等であり一つの家の同朋である」という人類皆兄弟といった古来日本の人道的、普遍的な原理を意味したものである。


ⅳ国家神道の復活はない

国家神道が復活しつつあるという村上氏の議論は、荒唐無稽である。行き過ぎた政治イデオロギーを神道的思想によるものとして断罪し、戦後、よき民族思想の源泉にあった神道的な日本の美風まで否定される結果になってしまった。


現憲法下の厳格な政教分離と象徴天皇制の下で、戦時下におけるような国家神道など生まれる余地はない。むしろ戦後の行き過ぎた政教分離は修正され、欧米に見られるように宗教と国家はもっと接近してもいい。


ⅴ天皇制の意味とその評価について

・現憲法下における国民主権の下での国民統合の象徴としての天皇の位置づけは評価できる。古来、日本の天皇は権威の象徴であって権力は持たなかった。


・イギリスと同様、君主制は日本の歴史と国民性に合致し、政治的、社会的な安定をもたらしている。


・天皇への尊敬心は、日本の道徳の根源になっている。


4、これからの国家と宗教の関係を考える 

ⅰ古来日本の伝統思想である、敬神・崇祖・愛人の宗教的情操は教育の中に生かされるべきである。→前レジメP26


ⅱ国家の完全な非宗教性は現実的ではない。一定の歯止めの中で、伝統的皇室祭儀、習俗的宗教祭儀は認められるべきである。→前P22、P24


ⅲアメリカにおける政教分離の在り方は、今後の日本のモデルになる。    →前P14  


ⅳ見えざる国教(民族宗教)としての「日本的霊性」への理解が必要である。日本的霊性とは、古神道(縄文神道)を基層として、仏教的霊性と武士道精神が加味された精神性と定義できる。前P14~15(了)



<資料>


◇教育勅語


原文

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス


爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン


斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ 明治二十三年十月三十日 御名御璽


現代語訳(文部省訳)

朕が思うに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。


汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かようにすることは、ただ朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる。


ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがい守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。 明治天皇自署、御璽捺印



▪批判的な意見

a「教育勅語の基本的趣旨は、その冒頭における、天照大神に起源する(皇祖)歴代皇統(皇宗)の徳治と臣民全体のそれへの終始変わらぬ忠誠の関係、つまり皇国史観により捉えられる君臣関係を軸とする国家構成原理、すなわち『国体』にこそ、日本の教育の淵源が存すると規定したところにある。」

b教育勅語に示されている徳目は「歴史的にこの国の民衆の間に形成されてきた通俗道徳項目に過ぎない」として、重要なのはそれらの徳目が「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に構造づけられていたこと、すなわち、「日本における道徳は、すべて天皇制の発展に寄与してこそ、はじめて意味を持つということになっていた」ことである。

c第二次大戦後の日本では、特に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の部分の解釈が問題となっている。


▪肯定的な評価

a12の徳目は、日本の伝統的道徳観が込められており、模範となる。

b「『カトリックの倫理綱領と同じ』であり、『日本人としての根本倫理』を表したものである。

c12の徳目を示した国民道徳である。

① 父母ニ孝ニ ②兄弟ニ友ニ ③夫婦相和シ ③朋友相信シ ④恭儉己レヲ持シ ⑤博愛衆ニ及ホシ ⑥學ヲ修メ業ヲ習ヒ ⑦智能ヲ啓發シ ⑧德器ヲ成就シ ⑨進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ⑩ 常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ ⑪一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ ⑫以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ


年表

慶応3年(1868年)、王政復古の大号令。

慶応4年 (1868年)、神仏分離令。同年、神祇事務局を改め、古代の律令制にならって神祇官とする。祭政一致の制度を復活し、諸神社神主等を神祇官に附属するものとした。

明治2年 (1869年)、東京招魂社(後の靖国神社)、楠木社(後の湊川神社)を創設。明治天皇は東京招魂社に実質5千石(名目は1万石)の社領を「永代祭粢料」として与え、毎年の収入源とさせた。同年、宣教使を置く。天長節、神武天皇祭などを定め、全国的に遥拝式を実施。

明治3年 (1870年)、大教宣布の詔。

明治4年 (1871年)、伊勢神宮以下、すべての神官社家の世襲を廃し、神祇官および地方庁に神職の任免権を与えた。「官社以下定額及神官職員規則等」(明治4年5月14日太政官布告)により、伊勢神宮を頂点として官国幣社、府藩県社、郷社の位階を定め、官国幣社長官は華族等から選任、国幣社長官は府藩県の参事の兼任とし、世襲神職のすべてを「改補新任」することとした。

明治4年 (1871年)、「郷社定則」(明治4年7月4日太政官)により全国の神社と神職を序列化した。また1戸籍区に1郷社を置き、他の氏神は村社として郷社に付属するものとした。

明治4年 (1871年)、神祇官廃止、神祇省設置。

明治5年 (1872年)、官社以下の神官の給録を制定(明治5年2月25日太政官第58号「神官給禄定額ヲ定ム」)。

明治5年 (1872年)、神祇省廃止、教部省設置。大教院設置。宣教使を廃し、教導職の制度を定めて宣教体制を確立。天皇を「奉戴」することを命じた「三条ノ教則」(残り2か条は敬神愛国、天理人道を明らかにする)を国民教導の中心とした。教義に関する著書出版免許願は教部省に提出させることとした。

明治8年 (1875年)、浄土真宗四派(真宗高田派、真宗佛光寺派、真宗興正派、真宗木辺派)が神道側との対立、政教分離の必要性を理由に大教院を離脱。神道側は神道事務局設立。

明治10年 (1877年)、教部省廃止。機能は内務省社寺局へ移される。

明治12年 (1879年)、東京招魂社を靖国神社に改称し、内務省・陸軍省・海軍省の管理とした。

明治13年 (1880年)-明治14年 (1881年)、芝東照宮から神道事務局神殿へ祭神を遷す際、祭神をめぐり神道界に激しい教理論争。明治天皇の裁定により収拾。後述の神道事務局 祭神論争参照。

明治15年 (1882年)、官国幣社の神職が教導職を兼補することを廃止。また内務省は神宮・官国幣社の神官が葬儀に関与してはならないことを定めた。神社は祭祀儀礼を中心とし、独自の教説を有する教団は教派神道として独立。神官層は神職と教導職の完全分離と神祇官の再興運動(1896年参照)を起こした。

明治22年 (1889年)、大日本帝国憲法発布。近代国家として信教の自由(“法の定める範囲内”の留保付き)が条文に記載される。神社崇敬義務の範囲が議論の対象となった。

明治23年 (1890年)、橿原神宮創設。教育勅語を発布。内村鑑三による教育勅語拝礼拒否(不敬事件)により、教育勅語重視の訓令を追加した。昭和期には児童・生徒に暗唱を義務付けた。

明治25年 (1892年)、久米邦武の学術論文「神道は祭天の古俗」を巡って激しい論争(久米邦武筆禍事件)。久米邦武は帝国大学教授職非職となり、『史学雑誌』『史海』の論文が掲載された該当号は内務大臣品川弥二郎により発禁処分。

明治26年 (1893年)、太平記の南朝の忠臣などの諸事跡や実在を疑問視した重野安繹が帝国大学史誌編纂掛委員を罷免。

明治26年 (1893年)、学校行事の「陛下の御真影への最敬礼」、「両陛下の万歳奉祝」、「教育勅語の奉読」、「校長の訓話」などの基本形式を整える。

明治27年 (1894年)-明治28年 (1895年)、日清戦争。戦後、忠魂碑の建造が盛んになるなど、国家と神道との結びつきが強まる

明治28年 (1895年)、平安遷都1100年記念に平安神宮創建。祭神は桓武天皇。

明治32年 (1899年)、不平等条約の条約改正が実現し、欧米列強の意向を顧慮する必要が薄れた。

明治32年 (1899年)、歴史教科書に天照大神、三種の神器、天孫降臨を加える。

明治33年 (1900年)、内務省社寺局を神社局と宗教局に分離された。神社局は地方局や警保局を抜いて最高位の局とされた。出雲大社教や黒住教などの教派神道は一般宗教政策として宗教局の担当とされた。(宗教局はさらに1913年には文部省に移管され、格落ちした。)

明治33年 (1900年)、外地の台湾の台北に台湾神宮(官幣大社)を創建した。以後、台湾には官国幣社5、県社9、以下81社が造られた。

明治34年 (1901年)、国費で維持する官祭招魂社の105社が定められた。

明治39年 (1906年)、内務省神社局は神社合祀を開始し、1914年までに全国約20万社のうち7万社を取り壊して一村一社を推進した。

明治45年 (1911年)、大逆事件。幸徳秋水などが天皇暗殺計画の容疑で処刑される。幸徳の多くの著作が発禁になる一方で、反キリスト教の観点から、幸徳の遺作である『基督抹殺論』の刊行が、例外として許可される。

大正2年 (1913年)、内務省宗教局は文部省へ移管。憲法学者で東京帝国大学教授の上杉慎吉の「皇道概説」が出され、昭和初期には陸軍の正統憲法学説となっていった。

大正8年 (1919年)、朝鮮に朝鮮神宮(官幣大社)を創建した。祭神を天照大神と明治天皇にした。官国幣社9、以下60余社が造られた。

大正14年 (1925年)、治安維持法が制定。共産主義の脅威から「国体」(皇室や国家神道)を守ることを目的に制定される。

昭和10年 (1935年9頃から、八紘一宇などのスローガンが掲げられるようになった。

昭和12年 (1937年)、文部省思想局が「国体の本義」(当時は旧字体で「國體―」)を発行する。政府の刊行物に公式用語として現人神が記載され、天皇の神格性について言説化(言挙げ)された。「国体の本義」は必須の教材であった。大日本帝国と中華民国、盧溝橋事件により全面戦争状態へ(昭和天皇名義での宣戦布告はされていない)。

昭和14年 (1939年)、大日本帝国陸軍は従軍神職制度を定めた。配属は師団に3名、兵站監に2名、独立旅団に1名。

昭和15年 (1940年)、皇紀二千六百年祝典。全国の神社で奉祝臨時祭が行われた。新たに浦安の舞が創作された。神祇院設置

昭和16年(1941年)、日本、真珠湾攻撃・マレー作戦により米英と開戦。太平洋戦争勃発(昭和天皇の宣戦布告なし)。

昭和20年 (1945年)、アメリカ軍の空襲により明治神宮、熱田神宮、湊川神社等が炎上した。

昭和20年 (1945年)、日本の降伏により太平洋戦争終結。


昭和20年 (1945年)、神道指令(国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件)により、神社と行政機関の接点が全て廃止される。

昭和21年 (1946年)、昭和天皇はいわゆる人間宣言を発布。これは天皇の「神格否定」として解釈された。

昭和21年 (1946年)、神祇院官制など、すべての神社関係法令が廃止された。皇室令も全廃され、宮中祭祀は天皇の私的行為となった。

昭和28年 (1953年)、敗戦により中止された伊勢神宮の「式年正遷宮」が行われた。

昭和32年 (1957年)、神社本庁、生長の家(現・生長の家本流運動)、修養団などが合同で紀元節復活運動のための統一団体、「紀元節奉祝会」を結成。

昭和34年 (1959年)、政府は皇太子の結婚式に際して神道儀礼である「賢所大前の儀」を国事とした。

昭和42年 (1967年)、「建国記念の日」が国民の祝日として制定された。靖国神社の再国営化運動が活発化した。

昭和44年 (1969年)、靖国神社から宗教的要素を除き、国営化する「靖国神社法案」が出されたが、審議未了廃案となった。

昭和49年 (1974年)、自民党が靖国神社法案を衆議院本会議で単独可決(参議院で廃案)。朝比奈宗源の呼びかけにより神道及び仏教系の新宗教が「日本を守る会」結成(石田和外により結成された「元号法制化実現国民会議」を前身とする日本を守る国民会議と97年に合同し日本会議)。

昭和51年 (1976年)、「靖国神社国家護持貫徹国民協議会」が「英霊にこたえる会」へと改称。

昭和53年 (1978年)、靖国神社は元A級戦犯の14人を合祀。

昭和61年 (1986年)、中曽根康弘首相は靖国神社参拝を見送り、「元A級戦犯の合祀は相手国を刺激する」と発言。

平成2年 (1990年)、大嘗祭が行われた。

平成23年(2011年)、自民党が天皇を元首と、また神道を非宗教と再度定義する憲法改定案を発表。

(了)




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