​他のアーカイブ記事は下のカテゴリーメニューを選択し、一覧表示の中からお選び下さい。

​他の記事は下のVマークをタップし、カテゴリーを選択し完了をタップ。記事一覧が表示されます。

大隈重信記念館を訪問して キリスト教との関わりと明治初期のキリスト教

◯つれづれ日誌9月1日 大隈重信記念館を訪問して キリスト教との関わりと明治初期のキリスト教


諸君は必ず失敗する。成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな(大隈重信)


この8月26日、はからずも筆者は、佐賀市内にある大隈重信記念館を訪問いたしました。これは福岡での聖書セミナーが終わって、東京への帰途立ち寄ったものです。


そこで今回、地元の方々のリクエストもあり、大隈重信について論評することになりましした。


【何故、今大隈重信を論評するのか】


実は筆者は、大隈重信については、早稲田大学の創立者というくらいで、ほとんど知識がなく、また関心もありませんでした。何故なら、「聖書(神の言葉)の研究を以て第一義とする」という筆者にとって、大隈重信は内村鑑三や渋沢栄一のように、キリスト教や論語の信奉者でも、また何かに帰依した信仰者でもなく、ただ豪放で有名な政治家に過ぎなかったからであります。


伊藤之雄著『大隈重信』(中央新書)のはしがきには、「大隈は有名な割には伊藤博文や原敬らと異なり、具体的に何をしたか分からない人物だ」と同僚教授の言葉を紹介した上、これは、「大隈の政治的業績が定かでなく、また福沢諭吉のように近代日本を導いた思想家でもなかったからだ」と述べています。はたして大隈には、一貫した価値観、依って立つべき確固たる思想があったのでしょうか。


しかし、このような疑問符にもかかわらず、今回何故大隈について論評するというのでしょうか。


先ず第一に、大隈が創立した早稲田大学は、政治家やマスコミ 界に多くの著名な人材を排出していること、次に、早稲田大学出身の食口が多いこと、そして何よりも、文鮮明先生の母校であることであり、更にこの度導かれて、はからずも大隈重信記念館を訪問したことであります。こう言った問題意識や偶然が重なり、何か目に見えない神の意図があるかもしれないと感じて、論評することにいたしました。


そしてその際、明治期における大隈とキリスト教との接点、ポイントとなる大隈の特質、明治政府のキリスト教政策や明治期のキリスト教の特徴に注目いたしました。


なお、当日大隈記念館において、当記会館の近くに住み、25年に渡って佐賀市会議員をなさっている福井章司さんと40年ぶりに劇的な再会をいたしました。


【略歴と業績】


先ず、大隈の略歴と主な業績について、ざっと見ていきます。大隈は、大きく官僚、政治家、教育者の3つの顔を持っていました。


<略歴と業績>

大隈重信(1838~1922)は、1838年2月16日肥前国佐賀会所小路に、佐賀藩の上士、砲術長の父信保、母三井子の長男として生まれました。


7歳で藩校「弘道館」に入学しましたが、朱子学による教育や中国の古い書物を覚えるだけの封建的な教えに不満を持ち、学制改革を試みて放校処分を受けました。大隈の反骨・改革精神が表れています。

大隈重信は、肥前藩にて貿易業務を行い、藩の財政に貢献します。1864年、藩当局に経済政策を建言し、藩の代品方として長崎と兵庫間を往来します。


のち蘭学寮に移って西欧の学問に接したのを機会に、1864年、26歳のときに長崎に出て「英学」を学ぶことになりました。


長崎でオランダ系アメリカ人「宣教師フルベッキ」に英学やキリスト教、アメリカの憲法などを学び世界への眼を開かれ、みずから長崎に英学塾「致遠館」(ちえんかん)を設立し、フルベッキを校長に招きました。


このように、彼に新しい世界、西洋の思想を教えたのはキリスト教宣教師でした。


一方、1863年の下関外国船砲撃で長州藩援助を企て、翌年の長州征討では藩主鍋島直正をかついで朝幕間を斡旋しようとしましたが失敗しました。また1867年には将軍徳川慶喜に政権返還(大政奉還)を勧告しようとして、副島種臣とともに脱藩上洛しました。しかし捕らえられ謹慎処分を受け、佐賀に送還されました。


大隈は、枝吉神陽から国学を学び、枝吉が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣、江藤新平らと参加したこともあり、尊皇思想を頂く維新獅子の一人でした。


明治政府成立に際し、1868年3月参与兼外国事務局判事に登用され長崎に在勤、浦上キリシタンの処分問題ではイギリス公使パークスと交渉にあたり、有名を馳せ、外国官副知事に昇進しました。このキリシタン処分問題(浦上四番崩れ)は後述いたします。


1868年3月会計官副知事兼任、7月大蔵大輔(たいふ、次官)、ついで民部大輔兼任となり、贋貨(がんか)問題、鉄道電信建設、工部省設置などに尽力し、1870年9月参議となり、1873年10月大蔵卿を兼任、1880年2月参議専任となりました。


大隈は 木戸孝允に重用され、木戸派の事実上のナンバー2と見られるようになりました。この頃大隈邸には伊藤博文や井上馨、前島密や渋沢栄一といった若手官僚が集まり、寝起きするようになり、このため大隈邸は「築地梁山泊」と称されました。


大蔵卿に就任してから明治14年10月の政変で辞任するまで、地租改正、秩禄処分や殖産興業政策をすすめ、大隈財政(民の重視)を展開して資本主義の基礎を築きました。こうして大隈は、若くして優れた官僚でした


この間、岩倉具視一行の遣欧中の留守政府内では、西郷隆盛らの征韓論に反対の立場をとり、ついで大久保利通の下で財政を担当しつつ、秩禄処分、地租改正を進め、大久保没後は参議筆頭となって殖産興業政策を推進しました。


いわゆる大隈財政が展開されたのがこの時期で、このとき三菱汽船会社を援助し、三菱財閥との密接な関係をつくったことはよく知られています。


1881年(明治14年)3月、イギリスの議院内閣制を手本にした「国会開設意見書」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張し、さらに「開拓使官有物払下げ」に反対して岩倉具視や伊藤博文ら薩長派と衝突し、10月に政府を追われ下野しました(明治14年政変、43才)


大隈は佐賀藩出身であり、佐幕ではなかったものの、いわゆる維新政府の主流である薩長土肥からは外れていたのです。伊藤之雄は伝記において、大隈を「薩長などの藩閥と戦った民の政治家」として描きました。


ちなみに明治14年政変は(1881年)、薩長藩閥政府が専制的な体制を固め,天皇制立憲国家への道を確定した政変になりました。その具体的内容としては,a.開拓使官有物払下げの中止、b.10年後の国会開設の公約、c.参議大隈重信一派の追放などがあげられます。


翌1882年4月、イギリスの議会政治をモデルに「立憲改進党」を結成して総理となり、10月に東京専門学校(早稲田大学)を創立し、「学の独立」をかかげて青年教育に当たりました。


更に、伊藤・黒田内閣の外相として条約改正にあたりましたが、1889年10月18日、爆弾を投げられて片脚を失いました。国家主義組織「玄洋社」の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなりました。(51歳)


1898年(60才)に総理大臣となり、「日本初の政党内閣」を誕生させましたが、内部紛争もあり4ヶ月の短期政権に終わりました。更に1914年(76才)、再び首相となり(第2次大隈内閣、1914年4月16日~ 1916年10月9日)、第一次大戦への参戦を決定し、翌年中国へ21カ条要求を押しつけて内外から批判されました。


1922年(.大正11年)1月10日、胆石症(癌)で死去しました。83才。日比谷公園で国民葬が行われ、30万人以上が列席し、東京都文京区護国寺に埋葬されました。


1922年1月21日付け 東京日日新聞の記事「噫大隈侯」では、「大隈の政治家的生涯が果たして成功と目すべきものであったか否か、おそらく後世の歴史家も、是れ論定に苦しむであろう如く、吾輩も亦た同じく論定に苦しむものである」と書いています。


それにしても大隈の経歴は豪華です。従一位大勲位侯爵、菊花大綬章受賞。参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)、内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者、早稲田大学創立。


著作『大隈重信自叙伝』,『開国五十年史』(編著),『東西文明の調和』など。


<早稲田大学創立>


さて大隈重信は、1882年(.明治15年)10月21日、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、東京の早稲田に開設しました。


早稲田大学は、国会開設をめぐる政治抗争で下野した大隈重信が、小野梓、高田早苗、天野為之らと現在地に開設した「東京専門学校」を起源とします。開設当初から政治的風圧が強く、これに抗して反骨・在野の精神を貫く開明的な学風を築きあげました。1907年4月早稲田大学総長に就任しましたが、なんと言っても、大隈の人生最大の功績は早稲田大学を創立したことであると思われます。


アメリカと違い国立重視の日本にあって、早稲田大学は、慶応義塾と双璧をなす日本の私学の雄であり、多くの有能な人材を世に送ってきました。慶応大学創立者の福沢諭吉とは、お互いに助け合う関係で親しい交遊関係にありました。


福沢諭吉は、慶應義塾の経営打開のため、政府から融資を受けましたが、その交渉の仲介役となったのが大隈であり、また大隈の側近となった矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅は慶應義塾出身でした。


また大隈は、1908年、米国バプテスト教会の宣教師であったH・B・ベニンホフ博士に依頼し、キリスト教主義の学生寮「友愛学舎」(現在の早稲田奉仕園)を開いています。


大隈は政治家であると同時に、広く明治文明の普及に勤め、終生教育事業に力を尽くしました。また国書刊行会、大日本文明協会の設立、『新日本』『大観』などの雑誌の主宰、『開国五十年史』『開国大勢史』の著述などによって、立憲君主制の国家にふさわしい国民の養成に精励しました。ここに開明派大隈の思想と真骨頂が表れています。


そして早稲田大学は、文鮮明先生の母校であり、多くの優秀なUC食口を排出し、当に日本の原理研究会の発祥の大学と言えるでしょう。大隈の在野精神、自由闊達な学風、東西文明の調和などの思想が、洗礼ヨハネ的な大学を生んだと思われます。


<人間大隈重信ーその特徴とエピソード>

さて大隈重信は、独特の個性の持ち主であり、知られざるエピソードを持っています。以下、いくつかを見ていきたいと思います。


大隈は51才で爆弾で片足を失うも、元気旺盛に活動し、76才にして総理大臣になり、2年半政権を担いました。筆者にとってこのような大隈の姿は大きな刺激であり、大いに励まされます。


また大隈は、一度も洋行することなく、また弁論家でしたが直筆を残しませんでした。現在残されている大隈の関連文書はすべて口述筆記によるものであり、大隈自身の直筆のものは存在しません。


これらの事実は弘道館在学中に字の上手な学友がいて、大隈は字の上手さでその学友に敵わなかったためと言われています。書かなければ負けることはないと負けず嫌いで字を書くことをやめ、以降は勉強はひたすら暗記で克服し、本を出版するときも口述筆記ですませ、死ぬときまで文字を書かなくなったためと言われています。大隈の頑固さが表れています。


尾崎行雄 は「一度聞いたことは決して忘れなかった」「大蔵省時代は、予算書をすべて暗記していた」と記憶力が優れていたとしたほか、理知・大度量においても伊藤や山縣を遥かに凌駕していたとしています。しかし政治的にはほとんど失敗続きであったとしており、その原因は大隈の性格にあったと見ています。


友人であった五代友厚は、明治11年頃に大隈への忠告の手紙を書き、そこには「自信家で、他人の意見をあなどり、怒気を荒げることをやめるように」とあり、明治14年の政変以降はそのような言動を慎むようになったと言われています。


また、豪放・楽天的な人柄で「民衆政治家」と親しまれましたが、他方では「早稲田の大風呂敷」などという陰口も叩かれました。大隈は180cm近い長身で、演説上手であり、在野精神に富んでいました。


1863年(25才)、20才の江副美登と結婚しましたが、後に離婚し、1869年2月31才で三枝綾子と再婚しました。前妻との間に一人娘が生まれ、また後に大隈は、女中に手を出して、もう一人娘をもうけています。大隈は武家の厳格な教育を受けた妻綾子に頭が上がらず、当時は妾を持つことなど当たり前の時代に、オンナ遊びどころではなく「無類の恐妻家」だったようです。


【明治政府のキリスト教政策と大隈との接点】


大隈重信は、いわゆる「浦上四番崩れ」における政府のキリシタンの処置を巡って、イギリス公使パークスとの間で、一歩も引かない激論を交わし、有名を馳せました。


<浦上四番崩れとは>

浦上四番崩れとは、江戸時代末期から明治時代初期にかけて長崎で起きた大規模な隠れキリシタンの摘発事件であり、「浦上崩れ」と言われる四度目のキリシタン弾圧事件であります。


1867年、隠れキリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが、江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けました。間もなく江戸幕府は瓦解しますが、幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって、村民たちは「流罪」とされたのです。


このことは西欧キリスト教国家から激しい非難を受けることになります。


1864年(元治元年)、日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内にカトリック教会の「大浦天主堂」が建てられました。そしてそこへ1865年4月12日浦上村の住民数名が訪れ、なんと「私たちはキリスト教を信じています。サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいてきたというのです。


神父は驚愕し、これが世にいう「信徒発見」であります。


しかし2年後の1867年、浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否したことが発端で、信徒の存在が明るみに出、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、信徒ら68人が一斉に捕縛され激しい拷問を受けたというのです。


捕縛された信徒の流罪が示され、信徒の中心人物114名を津和野、萩、福山へ移送することが決定され、以降、1870年(明治3年)まで続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処されました。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けましたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど、その過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であったと言われています。(Wikipedia)


欧米の各国公使は事の次第を本国に告げ、日本政府に繰り返し抗議を行ないました。明治政府は禁教政策を激しく非難され、明治政府のキリスト教弾圧が不平等条約改正の最大のネックであることを思い知らされることになりました。


しかし、かつて尊皇攘夷運動の活動家であった政府内の保守派は「神道が国教である(神道国教化)以上、異国の宗教を排除するのは当然である」、「キリスト教を解禁してもただちに欧米が条約改正には応じるとは思えない」とキリスト教への反発を隠さず、禁教令撤廃に強硬に反対しました。また長年キリスト教を「邪宗門」と信じてきた仏教宗派や一般民衆の間からも、解禁に反対する声が上がったため、日本政府は解禁しようとしませんでした。


政府は、宣教師のもとに信者を装ってスパイを送り込み、キリスト教宣教の実態を調べました。スパイの一人正木護は、1972年3月14日の報告書の中で、「キリスト教がいかに日本の宗教秩序を乱すものであるか」を強調しました。これらの背後には浄土真宗本願寺派の反キリスト教の影響があったと思われます。


しかし結局、1873年(明治6年)2月24日、日本政府は西欧の圧力の中で、キリスト教禁制の高札を撤去せざるを得ず、信徒を釈放しました。配流された者の数3394名、うち662名が命を落としたといわれ、生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を保ち、1879年、浦上に「浦上天主堂」を建てました。


<パークスとの交渉ー大隈の名声高まる>

上記の「キリシタン 信徒の流罪」の決定に対して、1968年(30才)明治政府を代表して、イギリス公使パークスと交渉したのが大隈重信でした。大隈は、参与職、外国事務局判事に任ぜられましたが、これは井上馨が木戸孝允に推薦したためであるといわれています。


東本願寺別院で行われたパークスとの交渉には、三条・岩倉副総裁を始め、木戸孝允、井上馨、伊藤博文らも同席していました。


信徒流罪の決定に関して、外国公使との交渉の席で激しい口論が行われ、英国公使パークスらと大隈重信ら政府代表者たちは6時間にもわたって浦上の信徒問題を議論することになりました。


イギリス公使パークスは「文明国はどの国も信仰の自由を承認している。日本の行っていることは野蛮国のすることであり、今すぐ信者を解放し、信教の自由を認めよ」と抗議し、「さもなくば日本は滅びる」とまで主張してきました。


交渉が始まるとパークスは「大隈ごとき身分の低い小役人とは話はできぬ」と激怒したといいます。しかし大隈はパークスのいつもの常套手段であろうと相手にせず、また大隈の上官が、「大隈は日本政府の承認を経て交渉に臨んだのでその言葉は責任を有する」と述べたことで、パークスは交渉の席についたといいます。


大隈は「ある歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。また欧州の歴史はすなわちキリスト教の歴史なりと。この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史はすなわち戦乱の歴史なり。キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり」と述べ、「キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは是何者の所為なり」と反論しました。そして今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば「返って混乱が起き、長い歴史を有する神道派・仏教宗派が反対し血が流れる」として、パークスに抗弁しました。


実はその時大隈は、キリスト教が邪教との認識はなく、むしろ高い道徳性を持っていると考えていました。これは宣教師フルベッキから英語を学ぶにあたり、約一年半キリスト教を研究したからであり、大隈の机の上にはフルベッキからもらった聖書があったと言われています。(伊藤之信著『大隈重信』中央新書P71)


大隈はパークスが感情を高ぶらせても、そのために外交関係を損なうことはしないと見ていたため、信徒の処分についてはそのままにしておいてよいと判断し、キリスト教禁令は当分そのまま存続することになりました。ここに政治的リアリスト大隈の真骨頂があります。


こうして大隈は、イギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮し、この問題を一時的に解決させ、薩長閥からも一目置かれる存在になりました。大隈は12月18日には前任の小松清廉の推挙により、外国官副知事に就任しています。


【明治初期のキリスト教とその特徴】


ここで、大隈重信が生きた明治初期におけるキリスト教の歴史と特徴、特に明治初期のプロテスタントについておさらいしておきます。


<初期の迫害と動向>

当初、明治新政府もキリスト教禁止の幕府政策を継続しました。前述の通り、明治政府は浦上村のキリシタンは全村民流罪という決定を下し(浦上4番崩れ)、3414名が長州、薩摩、津和野、福山、徳島などの各藩に配流され、さらに迫害は長崎一帯の村々に及びました。


このキリスト教徒弾圧を決定した政府の中心人物は木戸孝允や井上馨でありました。彼らの地元長洲は反キリスト教の浄土真宗の牙城であり、又平田派の神道観に基き、祭政一致の国家神道による国造りを目指していたのです。


しかし、そのキリスト教徒弾圧は外国使節団の激しい抗議を受けて、ようやく1873年(明治6)に政府は「禁教令を廃止」し、家康の1612年の天領禁教令から262年ぶりに、日本における「キリスト教信仰の原則自由」が回復いたしました。


1858年には日米修好通商条約や日仏修好通商条約などが結ばれ、居留地内での信仰の自由や礼拝が認められたことで、外交使節や貿易商と共に多くの宣教師たちが来日いたしました。そして明治初期から中期にかけては、国を挙げて欧化政策が進められたため、西欧精神の中核をなすキリスト教に関心を持つ者が増えました。上流階級がキリスト教に帰依した時代であります。


しかし明治中期以降、日本が富国強兵政策をとって近代国家への歩みを模索し、国粋主義的思想が強まるようになるとキリスト教への見方にも変化が起こります。1889年に発布された「大日本帝国憲法」では日本が立憲君主制国家たることを宣言していますが、この中で信教の自由は限定的なものとされました。


さらに天皇に対する忠誠を説く1890年の「教育勅語」で、明治日本における天皇の位置づけが明確に示されました。国家の核としての天皇と国家神道の位置づけが明確にされたことで、キリスト教に対する風当たりが強まっていきます。このような風潮を象徴するできごとが内村鑑三の不敬事件(1891年)であります。


<プロテスタントの宣教の開始>

日本のプロテスタントの歴史は概ね、1859年~1873年の準備時代、1873年~1889年の創立の時代、1889年~1909年の試練の時代、1909年~1931年の発展の時代、1931年~1945年の艱難の時代、1945年~2020年の自由の時代、の6時代に区分できると言われています。(藤代泰三著「キリスト教史」)


プロテスタントの宣教師として最初に来日したのは1859年5月到来の米国聖公会(監督教会)ジョン・リギンズ と6月来日のチャニング・ウィリアムズ でありました。これを皮切りに1859年中には,アメリカ合衆国長老教会の医師ヘボン、米国オランダ改革派教会から派遣された宣教師サミュエル・ブラウン とグイド・フルベッキ 、医療宣教師ダン・B・シモンズ などが続々とアメリカから来日しました。


さらに翌年の1860年にはバプテスト教会のジョナサン・ゴーブル 、1861年にはアメリカ・オランダ改革派教会(ダッチ・リフォームド、現RCA)の牧師ジェームズ・バラ などが日本の土を踏み、これがプロテスタント各教派の最初の宣教師グループであります。


やや遅れて1869年にはアメリカ伝道委員会(アメリカン・ボード) のダニエル・クロスビー・グリーン が来日し、1873年には米国メソジスト監督教会宣教師メリマン・ハリスが函館に着任しました。しかし、キリスト教はなお禁じられていたため、当初彼らは、英語教育、聖書の翻訳、医療活動を先ず行いました。


<プロテスタントの3つの流れ>

さて、近代以降の日本のプロテスタントを語る上で欠かせない三つの流れがあり、それは「横浜バンド」、「熊本バンド」、そして「札幌バンド」の3つのバンド(団体)であります。


横浜バンドには、押川方義(東北学院創立者)、メソジスト系の青山学院の院長となる本多庸一、明治学院創設メンバーである植村正久、井深梶之助らがいました。これらは、「日本基督教会」(1890年)へと発展し、長老主義教会とその神学思想を形成していきました。


熊本バンドには、宮川経輝、小崎弘道(同志社第二代総長)、海老名弾正(第八代同志社総長)らのメンバーがいました。これらは、「日本組合基督教会」の主要メンバーとして、会衆主義教会を形成しました。


札幌バンドは札幌農学校(現在の北海道大学)で教壇に立ったW・S・クラークとメリマン・ハリスの薫陶を受けた教え子によって結成された信徒の集まりです。クラークの教え子たちの中には、一期生の佐藤昌介、大島正健、二期生の内村鑑三、新渡戸稲造、植物学者の宮部金吾、土木工学の広井勇らがいました。


日本のプロテスタントはこれらのグループを核として発展しました。前述の通り、横浜バンドの流れから「日本基督教会」(長老派系)が、熊本バンドから「日本組合基督教会」(会衆派系)が、札幌バンドからは「独立教会」が生まれました。そしてアメリカとイギリスの聖公会の流れから「日本聖公会」が、メソジスト系の諸派から「日本メソヂスト教会」が誕生しました。


<初期のプロテスタントの特徴>

日本の初期のプロテスタントの指導者は特に知識階級、それも「没落した佐幕派の士族階層」が中心でした。


又、明治期のキリスト教は、日本の欧米化・近代化に寄与する一方で、急激な富国強兵政策の陰に取り残された弱者を救済することにも努め、隣人愛に基づいて被差別部落解放運動、廃娼運動、孤児院設立、更正保護事業、知的障害者施設やハンセン病および結核医療施設設立などを推進しました。


しかし徳川幕府による禁教政策以来のキリスト教に対する邪教観が日本社会に根強くあり、それは昭和期の軍国主義的天皇制国家体制下でとくに明らかになっていきました。



以上の通り大隈重信について論評して参りました。今回、大隈の歴史と業績を概観すると共に、特にキリスト教との接点に注目しました。大隈自身はキリスト教の信仰は持たなかったものの、キリスト教から影響を受けたことは確かです。


青年時代にアメリカ人宣教師フルベッキから影響を受けキリスト教を研究し、また米国バプテスト教会の宣教師ベニンホフに依頼し、キリスト教主義の学生寮「友愛学舎」(現在の早稲田奉仕園)を開いています。そして浦上四番崩れに際して、バークスと交渉し現実的な解決を図りました。


そして何よりも、大隈の在野精神、偏見を持たない開明的で自由闊達な学風は、成約原理を受け入れる土壌となりました。そして、原理創始者が留学先に選ばれた早稲田大学は、ある意味で神に召された大学と言えなくもなく、このような大学を創設した大隈重信は、やはり神に召された人物と言えるかもしれません。次回はもう一方の私学の雄、慶應義塾を創立した福沢諭吉を論評することにいたします。(了)