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渋沢栄一「論語と算盤」について

○つれづれ日誌-渋沢栄一「論語と算盤」について


吾れ日に三たび吾が身を省みる(学而)


今回、渋沢栄一(1840~1931年)を特集して欲しいとのリクエストが複数あり、タイミングもいいので渋沢栄一を論評することにしました。渋沢を描いた「青天を衝く」がNHKの大河ドラマではじまり、また2024年から新1万円札に渋沢が登場することもあって、かってない関心が寄せられていますね。


渋沢の人生や業績については、多くの識者、マスコミによって既に報道されていますので、筆者としては、渋沢の生き方や会社経営の思想的源泉となっている「論語との関係」を主に論じていきたいと思います。いわゆる「論語と算盤」ですね。


【裸の渋沢栄一】


渋沢栄一は、日本の資本主義の黎明期に、「論語と算盤」という経営哲学を持ち、銀行、商社、鉄道など500社以上の企業の設立や育成に関わり、「日本資本主義の父」と呼ばれています。そして「論語を座右の書」とし、徳川家康を尊敬する質実剛健を思わせる渋沢栄一ですが、実は意外な一面がありました。


いわゆる明治維新の立役者たちは、高杉晋作にせよ木戸孝允にせよ、なかなかのイケメンで格好よく、そういう意味でも「華」があり、ロマンを感じさせるものがありました。しかしこの点渋沢栄一は、ずんぐりむっくりで(身長は150センチくらい)、いわゆる「いい男」ではありませんでした。


それに、1864年(24才)に、一橋家に仕えて武士になったとは言え、もともと実家は埼玉県深谷の豪農(農業、養蚕、藍玉の生産)であり、つまり素性は百姓だったというわけです。当時は身分制度が激しく、渋沢は武士と農民との不条理な差別に憤まんたる思いを抱いていました。


一方、女性関係は賑やかで、前妻に5人、後妻に4人の子をもうけ、おまけに妾3人にも子を産ませ、その他愛人の子らを合わせると全部で30人はくだらないと言われています。


もちろん今と違って、当時は能力のある男性は、妾や愛人を持つのは当たり前の時代で、むしろそれらは男性のステータスだったと言うのです。


こうして、彼が女性にもてた(?)のは、見かけの格好良さではなく、やはり金の力と人間的な包容力だったと思われます。


後妻の兼子は、渋沢の女性関係を「父さまは、儒教といううまいものをお選びだよ。ヤソ(キリスト教)なら大変だよ」と皮肉交じりに語ったといいます。また孫の華子も「私も若い頃は祖父をなんというヒヒじじいと軽蔑していた」と告白しました。(渋沢栄一編著『論語と算盤』ちくま新書P238)


渋沢自身も晩年「一生を顧みて、『婦人関係以外』は天地に恥じない」と自ら語ったといいます。なんとそんな渋沢が最後に子供を儲けたのは、80才を過ぎていたといいますから驚きですね。(同書P239)


いみじくも妻の兼子が指摘したように、儒教にはヤソのような原罪観念や贖罪思想はありませんので、女性関係にはおおらかな面がありました。


【渋沢栄一の略歴】 -1840年~1931年


上記の通り、はじめに渋沢の私的側面に触れましたが、渋沢が日本近代化の立役者だったことに異論はなく、以下に、先ず渋沢の簡単な履歴及び転換点となった体験を7時代に区切って記しておきます。


1.誕生ー少年時代


1840年2月13日、現深谷市血洗島に父・渋沢市郎、母・エイの長男として生まれました。渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し、米、麦、野菜の生産も手がける富農でした。


原料の買い入れから製造、販売までを担うため、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められ、渋沢も、父と共に、信州や上州まで製品の藍玉を売り歩くほか、原料の藍葉の仕入れ調達にも携わりました。


14歳の頃からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、こうした経験がヨーロッパ視察時に、近代的な経済システムや資本主義の諸制度を理解吸収する素地となり、また後の現実的な合理主義思想の形成にも繋がったといわれています。


また、後述するように、5才から論語を学んでいます。


2.尊皇攘夷思想に影響される


1852年、ペリ艦隊の来航によって、渋沢は愛国心を触発され、「自分は別人になった」と語りました。


そのような時代背景の中、水戸学の影響下にあった尾高新五郎を中心に、その弟長七郎や渋沢の従兄の渋沢喜作などが集まり、尊皇攘夷の思想を議論していました。渋沢はその影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、1863年(23才)、従兄で義兄の尾高新五郎、同じく従兄の渋沢喜作らと、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてました。


しかし結局、新五郎の弟・尾高長七郎(従兄弟)の懸命な説得により中止いたしました。


3.一橋家の徳川慶喜に仕える


その後京都に滞在し、1864年(24才)、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により、一転して一橋慶喜に仕えることになります。「農民から武士への転換」であり、幕臣となったのです。


当時、朝議参与として京都に常駐してた慶喜に仕え、一橋家の財政改革、傭兵募集、米ルートの確立などに手腕を発揮し慶喜から信頼を得ていきました。


4.パリ万博の経験と明治維新


1867年(27才)、パリ万博の随行員に選ばれ、1年ほどヨーロッパを見聞しました。この期間は「資本主義のシステム」や株式会社の仕組みなどを学ぶ機会となり、その後の実業界での活動に大きな経験になりました。


加えてヨーロッパで、軍人と商人が対等に接している光景を目撃して驚き、身分に縛られている日本との違いを知ると共に、「商人の地位向上の必要性」を痛感しました。


5.大蔵省官僚時代


1868年、明治維新によって明治政府が誕生したことで、 渋沢はヨーロッパから帰国し、暫く静岡にいて慶喜の元で仕えました。ここで日本で始めて銀行兼商社のはしりである「商法会所」を設立しています。渋沢は当時、資本主義や株式会社というものについて、最もよく理解していた人物でした。


その後、大隈重信に説得され大蔵省に入りることになります。渋沢は、大蔵省の機構改革、全国測量、度量衡の改革、租税制度の改革、貨幣制度の改革、藩札の処理、会社起業規則の制定など多岐に渡り目覚ましい働きをしました。


しかし、財政方針の違いや藩閥体制への違和感もあり、1873年(33才)、井上馨と共に大蔵省を辞し、念願であった「実業界に転身」することになります。


6.実業界で活躍(1873年~1906)


大蔵省を辞職した栄一は、1875年(33才)、自ら設立を指導した第一国立銀行(後の第一勧業銀行:現・みずほ銀行)の頭取に就任し、その後の活動の礎としました。


そして、新興の商工業者の創業指導や資金支援を積極的に展開しました。また、全国に設立された多くの国立銀行の指導、支援を第一国立銀行を通じて行っています。


以後、抄紙会社(現:王子製紙)、東京府の瓦斯掛(現:東京ガス)、石川島平野造船所(現:IHI、いすゞ自動車、立飛ホールディングス)、秀英舎(現:大日本印刷)、中外物価新報(現:日本経済新聞)、東京海上保険会社(現:東京海上日動火災保険)、日本鉄道会社(現:東日本旅客鉄道)、共同運輸会社(現:日本郵船)、東京電灯会社(現:東京電力)、大阪紡績会社(現:東洋紡)、浅野セメント工場(現:太平洋セメント)、清水組(現:清水建設)、東京人造肥料会社(現:日産化学)、東京製綱会社(現:東京製綱)、東京ホテル(現:帝国ホテル)、札幌麦酒会社(現:サッポロビール)、日本土木会社(現:大成建設)、足尾鉱山組合(現:古河電気工業)、、、など500社以上の設立に関わり、「日本資本主義の父」と呼ばれました。(参照-ウキペディア)


また、産業界だけでなく、東京市養育院、東京慈恵会、日本赤十字社、聖路加病院、商法講習所(一橋大学)、早稲田大学、同志社大学、二松学舎などの設立にも関与しています。


7.教育、福祉、慈善活動及び民間外交


明治42年(1909年)、70才で実業界引退を表明し、第一銀行と東京貯蓄銀行(第一銀行系の貯蓄銀行)をのぞく61の会社役員を辞任しました。1916年の喜寿には、第一銀行頭取も辞任しました。


実業界引退後、渋沢は、教育、福祉、医療等に軸足を移し、民間外交や国際親善にも尽力しました。1926年にはノーベル平和賞の候補になっています。


渋沢は持ち前のエネルギッシュなバイタリティーで最後まで精力的な活動を続けました。そして何よりも、両方に属した渋沢は、武士と農民の橋渡し、幕府と新政府との橋渡し、官と民との橋渡しの役割を果たしました。享年92才。


【渋沢栄一と論語】


アメリカの新正統主義神学者ニーバーは、「右手にバイブル、左手にニューヨークタイムズ」と言われましたが、渋沢は「右手に論語、左手に算盤」が信条であります。ちなみに筆者は「右手に聖書、左手に六法全書」です。以下、渋沢における論語との関わりを見ていきます。


<論語の学び>

さて、渋沢と論語の関係ですが、渋沢の思想の根底には論語があります。渋沢は、「論語には道徳の手本とすべき最も重要な教えがあり、社会で生きていくための絶対の教えとして、自分の傍らから離したことはない」(『論語と算盤』P17)と語っています。こうして渋沢は論語を自らの行動基準にしていました。


渋沢は5歳の頃より父から漢籍の手ほどきを受け、7才で10才年上の従兄の尾高新五郎(惇忠)から四書五経や史記、日本外史といった古典を教えられました。学問へ情熱を持ち、漢詩をたしなみ、後日、論語を空で暗じるまでになったといいます。


孔子やその高弟たちの言葉を記した論語は、渋沢にとっては道徳と同義だったと言えるでしょう。論語には名言も多く(註1)、論語学而第一の「吾、日に三たび、吾が身を省る」は渋沢の座右の銘であります。


<論語と算盤>

渋沢は、論語による事業経営を主導し、合本主義、及び道徳経済合一説を唱えました。つまり、事業経営は、孔子の徳目である五常や五倫の教えから外れてはならないというわけです。(五常.五倫は後述)


合本主義とは、公的利益を追及するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め事業を推進させるという考え方で、私益のための資本の集中では無く、公益の追及、より良い豊かな社会の実現のために、資本や人材を合わせる事の重要性を説いたものと解されます。また、広く資本を糾合するという事から、狭義には株式会社制度の意に使われます。


また1916年に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出しました。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させるというのです。利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身も心がけました。『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられています。


「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」


ややもすると、自社や自己の目先の利益を優先するあまり、自己規律が甘くなり、利益優先主義になって、「儲かるためなら何でもあり」となることを渋沢は戒めました。


これは、論語に「速やかならんと欲すれば即ち達せず。小利を見れば即ち大事成らず」(子路十三)とあります。これは成果をあげたいなら目の前の小さな利益を見るなという孔子の教訓で、渋沢はこの論語の思想に学んでいました。


つまり「論語と算盤」とは、利潤と道徳を調和させる思想であり、事業経営は、正しい道理の富でなければ、結局長続きしないと、利潤における節度の意義を、論語に照らして主張しました。従って渋沢は、このように公益を重んじたために、自らが三井、三菱のような財閥を作ろうとはしませんでした。 渋沢は、岩崎弥太郎と大喧嘩したことがあります。


また、武士に武士道があるように、商工業者にも「商人道」がなくてはならないとし、これを菅原道真の「和魂漢才」にちなんで、「和魂商才」を唱えました。


これらの思想は、内なる道徳とフェアプレーを重視したアダム・スミスの「道徳情操論」に通じ、マックスウエーバーの「ブロテスタンティズムと資本主義の精神」にも通じる考え方であります。


しかし、利潤追及は決して間違ったものではないとも主張し、当時の武士の間には「利潤を追及するのは卑しい」とする風潮がありましたが、この考え方には異論を唱え、道徳にかなった利潤の追及を「大いに奨励」しました。商工業を起こして利潤を追及し、社会全体の富を増やすことが肝要だと説いたのです。


渋沢は70才であっさり実業界を引退ています。 ここにも権力や私欲に流されないという論語の「引き際の美徳」が表れています。


【論語とは何か】


では、このように渋沢の思想的根拠となった論語とは一体何でしょうか。この際、「論語とは何か」、あるいは論語を理念とする「儒教とは何か」おさらいをしておきましょう。


<論語とは>

『論語』は、孔子(前551年~479年)と彼の高弟の言行を、孔子の死後、弟子達がまとめた書物であり、漢の始め頃(前二世紀頃)に集大成されたと思われます。


512に区切られる短文・長文が、全10巻20篇の中にまとめられる形で収録され、分厚い書物ではなく、短い言葉の集まりで読みやすく、内容は体系的ではありません。


『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教(朱子学)における「四書」の1つに数えられ、古典中の古典として読み次がれ、多くの註解書があります。


ややもすると、古くさい道徳主義、或いは封建主義の弁護人などとの批判が有りますが、これは食わず嫌いと言うもので、論語には人としての生き方、人との関係の在り方、そして優れた道徳が示されており、現代人が読んでも普遍的真理があると言われています。


ここには孔子の深い人間理解があり、楽天的、人間肯定的な明るさがあります。宗教的、神秘的な性格はなく、また思想を体系的に叙述したものでもありませんが、鋭く人間の本質をついていてハッとするものがあります。


秦の始皇帝は儒教弾圧のため焚書坑儒を行い、『論語』本文は失われてしまいましたが、生き残った儒者が口承で内容を伝え、これが現在の『論語』の原型になりました。漢では国学とされました。


日本では、既に飛鳥時代には五経博士などにより伝来し、平安時代には漢籍の一つとして貴族の間で読まれていました。江戸時代には藤原惺窩や林羅山、山崎闇斎らが朱子学を普及させ、町人たちは寺子屋などで儒学を学びました。


明治時代以降は徐々に廃れて行きますが、渋沢栄一は『論語と算盤』や『論語講義』で企業活動にも論語の道徳が必要だと説き、ビジネス書や自己啓発書などとして、現在でも読まれています。


<儒教と論語>

儒教は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系で四書五経を経典としています。一般に孔子が創始者と目されますが、古代から伝わる神話や制度、習俗などの集合体でもあります。孔子以後は経書の解釈を行う学問として研究され、または社会規範や習俗として行われできました。


儒教は、孔子が説いた教えが中心であり、宗教というより修身であります。儒教は、忠孝を主要徳目とした倫理道徳の教えであり、又上下秩序・人倫の弁別を説いた統治思想・政治思想でもあります。漢代に、国家の教学として認定された事によって成立しました。そしてこの孔子の思想は「論語」に最もよく表れています。


ただ、大阪大学教授の加地伸行氏は著書『儒教とは何か』(中公新書)の中で、「宗教とは死ならびに死後の説明者である」(P34)と定義した上で、「儒教こそ死と深く結びついた宗教である」(はじめにP6)と明言されています。


しかし、論語には、神や霊界や罪といった宗教概念には直接触れることなく、人間の在り方(五常)と人間関係の在り方(五倫)を説いています。従って、とりあえず儒教、特に論語は人生訓、処世訓であり、聖書で言えば知恵の書である「箴言」や「伝道の書」に当たると考えておきたいと思います。


儒教の中心思想である「五常」とは、「仁・義・礼・智・信」を言い、「五倫」とは、「親子(孝)、君臣(忠)、夫婦(烈)、兄弟(長幼)、友人(信)」を言います。つまり、五常という徳性を耕すことにより、五倫関係を円滑に維持することを教えており、これらは論語の中で繰り返し強調されています。


最も大切な徳目を「仁」とし、「礼」は仁の外的な表れとします。仁は人への思いやりや暖かみであり、キリスト教の愛、仏教の慈悲に相当しています。


また孔子の思想は、「修身・斎家・治国・平天下」に端的に表れています。つまり、三大祝福の個性完成、家庭完成、世界完成を目指す「経世済民」の教えであるというのです。


政治に関しては、「徳治」を重視し、覇道から王道への願望が強調されています。ここには、孔子当時の政治的な乱れを憂い、これを収拾したいという願望が込められています。


経典としては、四書(大学・中庸・論語・孟子)、五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)があります。


大学は儒教思想を簡潔、体系的に述べた書です。学問は「大学」を先とし、次に「論語」、次に「孟子」次に「中庸」を学ぶとよい言われています。


朱子学(註2)の大成者である朱子は「大学の内容は順序・次第がありまとまっていて理解し易いのに対し、論語は秀逸だがまとまりが無く最初に読むのは難しい。孟子は人心を感激・発奮させるが教えとしては孔子から抜きん出ておらず、中庸は読みにくいので3書を読んでからにすると良い」と説きました。


そして、新渡戸稲造が著書『武士道』の中で述べているように、これらの儒教思想は、日本の武士道の源泉の一つになりました。


<儒教の問題点について>

一方、儒教の弊害も論議されています。教えは立派だが現実適用で弊害がでている、為政者の人民支配に利用され絶対王政を理論的に補完した側面がある。(これによって、しばしば人民への圧迫や搾取が正当化されてきた)、上下貴賤の差別や男尊女卑の風潮を生み、年長者絶対主義の弊害が出て、上に媚び下に傲慢になるという悪習の源になった(又女性を不浄と見なす悪癖が出てきた)、過度な「孝」崇敬により、3年も喪に服して経済の衰退を招くと言った弊害の温床になった、、、等々というもので、総じて封建時代の時代遅れのさびついた思想との批判があります。


特に朝鮮では、徹底した儒教原理主義により、一定の秩序は保たれましたが、硬直的な思想や制度が浸透し、社会や国民生活の停滞を招いたと言われています。また、中国は父、朝鮮は兄、日本は弟と言った小中華思想が蔓延し、反日の源泉になりました。


一方日本では中国や朝鮮とは違い、神道や仏教が影響を持ち、儒教が中核的な教えにはならなかったことで、硬直的な諸制度(科挙制度、賄賂の習慣、凌遅刑と呼ばれる残虐刑、などの中国の悪習)は拒否できました。


江戸時代には秩序を重んじる朱子学が官学となり、また江戸後期には知行合一を掲げる陽明学が盛んになり明治維新の原動力になりました。


<儒教思想とキリスト教>

論語の述而第七に「子、怪力乱神を語らず」とあります。即ち、孔子は怪しげな超常現象や宗教的なことは話さそうとしなかったと言うわけです。


前述の加地教授は「儒教こそ死と深く結びついた宗教である」と指摘されていますが、一般的に、儒教は道徳思想であって宗教ではないと考えられ、その祖とされる孔子の言葉に宗教性はほとんど感じません。


『論語』には「天」という言葉が時々出てきますが、天は人格神ではなく、何か人知を越えて自分を司るものといった漠然とした概念であります。


たとえば「述而篇」に「天、徳をわれに生ぜり」(私には天から授かった使命がある)という言葉が出てきますが、これはキリスト教における神という概念ではありません。


宗教は、一般的に「超自然的存在(神)に対する信仰と,それに伴う儀礼や制度」とされますが、儒教には明確な神や霊界に関する概念はなく、厳密な意味で宗教とは言えないのではないか、と思われます。


ただ儒教の最高徳目である「仁」の教えは、キリスト教の「愛」、仏教の「慈悲」の観念と通じるものがあり、他の徳目も大きく矛盾するものではありません。


例えばキリスト教には、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7.12) との教え(黄金律)がありますが、これは論語の「己の欲せざる所は人に施すことなかれ」(顔淵第十二)と同義であります。従ってその倫理道徳性において、キリスト教と大きな違いはないと思われます。


しかし、内村鑑三は、「日本の道徳性は、決してキリスト教に引けは取らないが、贖罪観念に欠ける」と評しました。即ち、上記渋沢の妻兼子もいみじくも言ったように、儒教には、ヤソが自覚する原罪観念がなく、貞潔性に欠け、従って罪の贖い(贖罪)という思想がないというのです。


儒教には「日に三たび、吾が身を省みる」と言った道徳的な「反省」の戒めはありますが、内在する罪への「悔い改め」という宗教的契機はありません


以上の通り、儒教は人間の生き方や人間関係の在り方に関する優れた道徳思想を持っていますが、キリスト教の核心である、「神、罪、贖罪」という宗教観念に欠けるというわけです。



以上、日本の資本主義の父、渋沢栄一を取り上げ、特に論語との関係をテーマに見て参りました。いずれにせよ、論語が渋沢に与えた影響は尋常ではありません。


そして、日本の摂理を司る神が渋沢を召され、渋沢はこれに応えて、試練を越えて近代日本に豊かさをもたらす役割を担ったということになるでしょうか。ならば、芸者衆とのお遊びも、そう目くじらを立てることもないのか、とも....。(了)



註1ー論語の名言


朋あり、遠方より来たる、また楽しからずや(学而) .

吾れ日に三たび吾が身を省みる(学而)

過てば則ち改むるに憚ること勿かれ(学而)

君子は食飽かんことを求むること無く、居安からんことを求むること無し(学而)

政を為すに徳を以てす(為政)

四十にして惑わず。五十にして天命を知る(為政)

故きを温めて新しきを知る(為政)

学んで思わざれば則ちくらし。思うて学ばざれば則ちあやうし(為政)

義を見てせざるは勇無きなり(為政)

朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり

(里仁)

徳、孤ならず。必ず隣あり(里仁)

過ぎたるは、なお及ばざるが如し(先進)

いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん(先進)

君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず(子路)

子、怪力乱神を語らず(述而)

民はこれによらしむべし。これを知らしむべからず(泰伯)ー以上



註2ー朱子学


朱子学とは、南宋の儒学者朱熹(以下、朱子-1130年-~1200年)によってまとめられた儒教の新しい思想である。朱子は、儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、「新儒教」朱子学の創始者である。


朱子は、『論語』、『孟子』、『大学』と『中庸』(『礼記』の一篇から独立させたもの)の、いわゆる「四書」を重視し、注釈を施した。


その一つである『論語』では、語義や文意にとどまる従来の注釈には満足せず、自己の解釈を加え、それまでとは一線を画す新たな注釈を作成した。


朱子はそれまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を、程伊川が唱えた、性、即ち人間の持って生まれた本性がすなわち理であるとする「性即理説」を採用するなど、道徳を含んだ壮大な思想にまとめた。


即ち、人間の生き方を追求した儒教を再解釈して、壮大な宇宙論としてまとめなおした哲学のことともいえる。この宇宙に属するものは、すべてが普遍的な法則によって支配されており、それを「理」と呼び、一方、この宇宙のすべてのモノは「気」という材料でできているとした。


そこでは自己と社会、自己と宇宙は、「理」という普遍的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとした。


なお、朱子は理と気について、「理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、互いに単独で存在することができず、両者は「不離不即」の関係であるとする。


また、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、気の運動に秩序を与える」とする。この理を究明することを「窮理」と呼んだ。


朱子の学風は「できるだけ多くの知識を仕入れ、取捨選択して体系化する」というものであり、極めて理論中心的であったため、後に「非実践的」「非独創的」と批判された。しかし儒教を初めて体系化した功績は大きく、『タイム』誌の「2000年の偉人」では数少ない東洋の偉人の一人として評価されている。


また朱子学は「身分制度の尊重」、「君主権の重要性」を説いており、明によって行法を除く学問部分が国教と定められた。


13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の国家の統治理念として用いられる。朝鮮はそれまでの高麗の国教であった仏教を排し、朱子学を唯一の学問(官学)として、李王朝の秩序維持に活用した。


日本においても中近世、ことに江戸時代に、その社会の支配における「道徳」の規範としての儒学のなかでも特に朱子学に重きがおかれたた。


江戸時代の朱子学といえば、幕府が封建制度・身分社会を確固としたものにするために利用したという一面がある。そもそも儒学は争いの世界をなくすために秩序というものを非常に重んじたからである。


人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学からは宋学と呼ばれた。以上

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