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神道のカミとユダヤ・キリスト教の神 ②

試論 神道のカミとユダヤ・キリスト教の神②

四、神道の思想・祭祀とユダヤの思想・祭儀法


1、ユダヤの思想―神道はユダヤ・キリスト思想との対比で考えるとよく理解できる


ユダヤ4大思想は、キリスト教など一神教思想の淵源となる。下記①②③④はユダヤ4大思想である。


①唯一神礼拝の思想

1)神の名は唯一の創造主である「主」「ヤハウヘ」。唯一神思想はイスラエル民族の最大のアイデンティティーとなった。ユダヤ人の神は、唯一、絶対、永遠なる創造主であり、聖と義と愛なる人格神である。


出エジプト20:3 あなたは私のほかに、何者をも神としてはならない。


申命記6:4 スラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、あなたの神、主を愛せよ。

→ユダヤ人は、この聖句でノーベル賞を取ったと言われる


2)偶像否定

 イスラエルの歴史は偶像礼拝との戦いの歴史であった。偶像拒否の姿勢はカナン人の殲滅、マカバイの反乱、ローマへの反乱で証明される。

当時メソポタミヤ、エジプト、カナン地域には、多くの偶像崇拝がみられ、子供のいけにえ、獣姦、近親相姦などの忌むべき行為も行われていた。


申命記18:10 あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。また占いをする者、卜者、易者、魔法使、 18:11呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。 18:12主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである。


異邦人の偶像

バアル神:嵐と慈雨の神、豊穣の神、神殿娼婦

  BC2000年頃の北シリア海岸の都市国家ウガリットの粘土板から見られるウガリッド神話の神々

  エル:神々の父、世界の創始者→ヤハウエと同一視、天之御中主神との類似

  アシュラ:エルの妻(バアルの妻との説も)

  バアル:慈雨の嵐の神、ウガリッド神話の英雄

ダゴン神:ペリシテ人が信奉、バアルの父、海神、子供のいけにえ  

金の像:金の子牛(出エ32・19)金の像(ダニエル3・1)

ギリシャ神話:12人の神々(使徒17・16)

エジプトの神:古代エジプトは多神教で、太陽神ラーを根底として、アメン神、オシリス、イシス、アヌビスなど数多くの神々が崇拝されていた。守り神としてコブラや牛、ライオン、ワニなどの姿が用いられた。日本と同じように何でも「神」にしてしまう国で、イスラエル人も長いエジプト滞在でその影響を受け、エジプトの偶像習慣に慣れ親しみ、偶像の神々を礼拝する人たちが増えていった。

1列王記11・5~7 ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人のミルコム、モアブ人のケモシュ、アンモン人のモレクの神々のために聖なる高台を築いた。


 →もともと、古代メソポタミヤでは、多くの神々から一つの神を選ぶ「単一神教」「拝一神教(一神礼拝)」といった性格があった。多神教の中に原初の神や中心存在の神が体系内に存在し、やがて啓示により明確な一神教になる。しかし妥協しない独善的と思える一神教は、多神教徒との間に大きな葛藤を生む。なお、メソポタミアの神々は豊穣の神などもともと幸いをもたらす良い神であったが、聖書では悪魔や怪物として貶められることが「しばしばある。


→ユダヤの神は天地万物の創造主であるが、一方、天之御中主神は、天地が始まったとき、最初に生まれ出た神だが、天地を創造することはしていない。古事記の思想には、天地の創造、終末、メシア思想は無い。

②選民思想                            

1)神に選ばれた民としての恵みと、世界を救う責務と苦難を担った。祝福と呪いの民としての宿命を同時に背負う。神は最も貧しく弱小な民をあえて選民として選ばれた。

出19章5~6節・申命記7章6節には、イスラエル民族が「宝の民、祭司の王国、聖なる民」と記されている。

「神の宝」・・・・神の愛の特別な対象として選ばれている。(神の愛) 「祭司の王国」・・この世に対して主をあかしする使命が与えられている。  

(神との仲介者、隣人愛) 「聖なる国民」・・上記の使命を果たすために、神の聖に基づき、律法に従う生き方が求められる。(神への愛)


異邦人と分離された民として、この民に、神は律法と祭儀法を付与された

→ 一方、異邦人の嫉妬と反感を買い、置換神学(ロマ書2・28~29)なども生まれて反ユダヤ思想の淵源になる。


2)そして契約の民、律法の民となる。

神とイスラエル民族との間には、ダイレクトな対話と契約、ダイナミックな神との関係がある。→旧約の神は契約の神、新約の神は恵みの神といわれる  

 最初の契約→神とアブラハムの契約(創世記12;1、13・14~17)

 モーセ契約→出エジプト24・3~8


契約の内容は律法として、法律(民事、刑事、行政)、倫理規定、禁忌規定、祭儀規定など613の律法規定として示され、契約の履行と不履行は「祝福」と「呪い」となって顕れる。中核のモーセの十戒は、米国憲法の基礎にもなっている。


→重要5か条:偶像を拝むな、父母を敬え、姦淫するな、安息日を守れ、割礼をせよ


➂メシア思想

1)旧約聖書は救世主を待望する書でもある。砂漠の民、荒野の民、外敵に囲まれた苦難の民が救いを待望した。出エジプトで芽生え、バビロン捕囚で明確になった。


旧約聖書の300箇所以上に、王・預言者・メシアを遣わされるという預言があり、イスラエルから民族と世界を救うメシア、王が出るという思想は、強固な民族のアイデンティティーになった。旧約聖書は来るべきメシアを予言する書でもある。


2)旧約聖書に見るメシア預言

 創世記3・15「女の子孫」、創世記49・10「王権はユダを離れず、ついにシロが来て国々は従う」、申命記18・18「私のような預言者を立ててその口に私の言葉を授ける」、2サムエル7・12から6「ダビデの子孫を起こし、王座をとこしえに堅く立てる」、詩篇22「メシア詩篇」、詩篇22・16「着物をクジで引く」、イザヤ7.14「処女が男の子を産む」、イザヤ9・6「一人のみどりごが生まれ、とこしえの父となる」、イザヤ11・1「エッサイの根株に主の霊がとどまる」、イザヤ35・5「そのとき、目しいは開き、耳しいはあく」、イザヤ53・3~7「さげすまれ、打たれ、苦しめられて、私たちの背きのために刺し通された」、エレミヤ書23・5「ダビデのために正しい若枝を起こし、王となって世を治める」、ミカ5・2「ベツレヘムからイスラエルの支配者が出る」、ゼカリア9・9「あなたの王がロバに乗って来られる」、ゼカリア12・10「刺し通した者を見る」、ダニエル7・13「天の雲に乗って来て」、ダニエル9・25「70週の預言」、マラ記3・19「主の日、炉のように燃える日がくる」、他。 


 3)新約聖書に見る再臨預言

  マタイ16・27「人の子は栄光のうちに来る」、マタイ24・27「いなずまのように現れる」、マタイ24・44「思いがけない時に来る」、ルカ17・24「いなずまのように現れる」、ルカ21・34「その日は不意に襲う」、1テサロニケ4・16「ラッパのうちに天から下ってこられる」、2ペテロ3・10「主の日は盗人のようにやって来る」、使徒1・11「同じ有様で来られる」、黙示1・7「雲に乗ってこられる」、黙示22・12「見よ、私はすぐに来る」、他。

→内村鑑三「十字架が聖書の心臓部であるなら、再臨はその頭脳である」

→神道には、終末思想とメシア思想はない。


④贖罪思想

動物(牛、羊、鳩)のいけにえ、贖い、償いにより罪の清算をする。幕屋・神殿の祭儀法の中心は贖罪思想、祭物思想である。幕屋、神殿にて毎日朝夕いけにえが捧げられた。


焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、和解の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物の5種のいけにえが規定されている(レビ記1~5章)


→新約では動物のいけには廃止される。へブル書9・12には「やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所に入られ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」とある。イエスの十字架によって贖罪は完結し、以後いけにえは不要であるとする。


  →ユダヤの価値観・罪観と神道の価値観・罪観には違いがある。ユダヤ思想には、善悪の価値観があり、これを分別する(選り分ける)という観念があるが、神道には浄不浄(きれいか汚いか)の価値観があり、不浄を祓うという観念がある。又、ユダヤの罪観は、罪は人間に内在するもので、これは贖罪によって取り除くとするが、神道の罪観(不浄観)は、不浄なものは人間に取り付くものであり、これは禊と祓いによって取り払うとする。


⑤弱者救済の思想

孤児、やもめ、寄留者、病人、貧しい人への憐れみと救済の手がある。(出エ22・20~26)


→落穂ひろい(ルツ)、安息日、安息年、奴隷解放、50年に一度の債務帳消・奴隷解放(ヨベルの年)などがその現れ。(申命記15章)


→キリスト教の慈善事業、ナイチンゲール、マザーテレサ、赤十字などの思想基盤になる。イエスは貧しい人のために福音を説いた。日本の天皇家(聖武天皇の皇后)にも悲田院、施薬院などの慈善活動がある、

➅預言者の批判精神

 ユダヤには、権力者の腐敗や社会の堕落に対する批判精神があり、これを預言者が担った。

1) 社会批判→「お前(イスラエル)の高官たちは頑迷で、盗人らの仲間、こぞって賄賂を好み、贈物を追い求める。彼らは孤児のために裁きを行わない。寡婦の訴えは彼らのもとに届かない」(イザヤ書1章23節)。


社会に正義と真実が行われないということを、預言者は見逃すことができなかった。そして社会に正義が行われるということは、最も貧しい人たちがしっかりと支えられることだと、彼らは信じた。

2)政治批判→「エフライム(イスラエル)は鳩のようで、愚かしく悟りがない。エジプトに助けを求め、アッシリアに頼っていく」(ホセア書7章11章)。


エジプトは南の大国、アッシリアは北の大国。その狭間にあって、どちらかの傘の下に入ろうというぶれる政治を行なっている。それは愚かしいことだというのが、預言者の視点であった。

3)宗教批判→「わたし(神)はお前たちの祭を憎み、斥ける。祭りの献物の香りも喜ばない。お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。公正を洪水のように、正義を大河のように、尽きることなく流れさせよ」(アモス書5章21—24節)。


宗教的なお祭りよりも、公正・正義・真実を社会で実現することのほうが重要であって、それこそ本当に神を信じるということの内実だ、というのが預言者たちの眼差しである。

→預言者の批判精神は義の思想である。神は罰すべきものを罰し(出34・7)、赦すべき者を赦す(1ヨハネ1・9)という義の思想でもある。

 →しかし、堕落や不信仰への批判と共に、預言者は希望の使徒としてイスラエルの救いを大胆に語った。試練の時には民を励まし希望を与える使徒でもあったのである。(ゼカリア書9・9)

2、神道の思想―― 既に、一の3の(4)で論じた。

①清浄思想(禊、祓いの思想)→浄、不浄の区別

→神道は禊・お祓い、ユダヤ教・キリスト教は贖罪(いけにえ)

「清浄を貴び、汚れを忌み嫌う」「浄明正直」が徳目。


②惟神の道 

神の意に従い自の摂理に従ってありのままに生きること。神道は「道」とされる。

③和の思想

 自然との共生、集団志向がキーワードで地理要因が大きい。

多神教の神観も和の思想の源になる。


  →ユダヤでは、聖絶、分離、分別という概念があるが、神道には違った意味の禊、払いの思想がある。古代ユダヤでは選民と異邦人の区別を重視した。


④現世利益の思想

  五穀豊穣、家庭安全、無病息災、商売繁盛、大願成就

  神社で行う、おみくじ、絵馬、お札、お守り、占いなどに見られる。

 →ユダヤ教、キリスト教にも現世利益の考え方はあるが、占いなどは偶像礼拝として強く否定する。(申命記18・10~12)

⑤産霊(ムスヒ)の思想

  万物の生成の概念


⑥神道の死生観

人は死ねばやがて祖霊としてカミになる。死者の霊のへの崇敬と、死の穢れ(けがれ)の観念が同居する。(イザナミの黄泉への下降)


3、イスラエル祭儀法―すべて聖書に根拠がある

(1)幕屋とその構造

 ① 幕屋の建造とその目的(出エジプト25章~40章)

「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」(出エジプト25章8節)

つまり幕屋は、主なる神がイスラエルの民の中に住む家であり、会見の場、神の臨在を示す場所である。又神を礼拝する場所でもあり、イエス・キリストの型であり象徴である。幕屋とその祭儀法(祭司と祭物、儀式の制度)は、罪人が神の前に出て行く作法であった。

②幕屋の構造

門、大庭、祭壇、洗盤、幕、聖所、パンの机、燭台、香壇、垂れ幕、至聖所、契約の箱、石板、マナの壷、アロンの杖、贖いのふた、金のケルビム、



(2)幕屋の祭儀

 ①祭司制度(出エジプト27~28章)

  大祭司:アロンの家系

大祭司の衣装:長服、青服、エポデ、胸当て、帯、かぶり物、記章

祭司の聖別:いけにえ(雄牛、雄羊、種入れぬパン)


②祭物(いけにえ)(レビ1~7章)

  焼き尽くす献げ物(燔祭、牛、羊、鳩)、穀物の献げ物(素祭、小麦粉)

  和解の献げ物(酬恩祭、牛、羊、山羊)、贖罪の献げ物(罪祭、牛、山羊)

賠償の献げ物(ケン祭)。→犠牲の家畜を焼き尽くすことで立ち上がる煙が、神と民とのつながりを保証する。


神社は全国にあるが、イスラエルの神殿はエルサレムに一つだけ。いけにえはエルサレムだけで行われる。


(3)イスラエルの祭り(主の祭日、レビ23章)

  ①安息日 ②過越しの祭 ③初穂の祭り ④七週の祭り ⑤ラッパの祭り ➅贖罪日 

⑦仮庵祭

3大祭り

・過越しの祭(ペサハ):春分の日の後の最初の満月の日。除酵祭。

  ・七週の祭り(シャヴァット):初穂の祭りから50日目。夏。大麦の収穫の終りと小麦の収穫の始まり。穀物、羊、牛をささげる。

・仮庵祭(スコット):10月に7日間。荒野の想起。人生は仮庵。 


  →キリスト教では、イースター、ペンテコステ、クリスマスが3大祭り。


4、神道の祭祀

(1)神社の構造

1)鳥居、鎮守の森、玉垣、参道、灯篭、狛犬、手水舎、鈴、賽銭、注連縄、拝殿、本殿、弊殿、

 2)宮(拝殿・本殿)は子宮、鳥居は子宮の入口、参道は産道、鈴は男性器、賽銭箱は子宮、賽銭は精子という考え方がある。玉垣は聖域を示す。


(2)神道の祭祀祭りの区分

神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。一神社では一年を通じて様々な祭り(祭祀)が行なわ、神社本庁の「神社祭祀規定」には大祭中祭小祭に区分されてる。

巫女の舞も神に捧げるもので、歌舞伎は、創始者の出雲阿国が北天満宮で奉納した踊りが起源である。

①大祭:例祭・祈年祭・新嘗祭・式年祭     

例祭→祈年祭、新嘗祭とともに三大大祭といわれる。例大祭・大祭とも呼ばれ、年に一度行なわれる最も重要な祭祀。一般的には御輿を担いだり、神楽で神事芸能の奉納が行なわれる。

祈年祭→秋の新嘗祭と対をなすもので一年の豊穣を祈る。原則2月17日に斎行される。また、戦前の祈年祭は、国家的祭祀としての性格があった。

新嘗祭→一般的には秋祭りといい、その年に取れた新しい穀物を供え神に感謝する祭祀。

式年祭→決められた期間ごとに行なわれる祭祀のことであり、神社の祭礼や祖先祭祀。先祖祭祀は、仏教でいえば回忌法要にようなもので、百日祭・一年祭・三年祭・五年祭・十年祭・二十年祭・三十年祭・四十年祭・五十年祭・百年祭があるが、三十年祭で切り上げるのが一般的。

②中祭:歳旦祭・元始祭・紀元祭・神嘗祭当日祭・明治祭・天長祭

歳旦祭→元旦祭ともいう。全国の神社で執り行われ、毎年1月1日午前0時より、責任役員・氏子総代などが参列し斎行する。

→祝詞(のりと):「新しき年の、新しき月の、新しき日の、今日の朝日の豊栄登(とよさかのぼり)に御賀(みほぎ)の寿詞(よごと)仕奉(つかえまつ)る」

③小祭:月次祭・除夜祭・日供祭など


② 儀礼・風習・習俗―ほとんどが神道の祭祀である。

→結婚、葬儀、七五三、正月、お盆、門松、注連縄、おせち料理、お年玉:大掃除、節句、節分、歳の市、酉の市、他


(3)お祭り

➀祭りの意味

本来、豊穣への感謝と祈り、及び慰霊と鎮魂のために神仏・祖先をまつる儀式である。「祭り」は「祀り」であり「奉り」「纏り」「政り」でもある。祭りと祀りが同義、祀りと奉りが同義、祭祀と祭礼も同義。


祭りの第一段階(感謝・祈り・慰霊)→第二段階(行う者と鑑賞する者の分化、都市の一体性を維持)→第三段階(世俗的催事、娯楽化、大相撲)


②日本の著名な祭り

日本3大祭り

・祇園祭(八坂神社、宵山・山鉾巡行、神輿渡御、7月1日~31)

・天神祭(大阪天満宮)

・神田祭(神田明神の祭礼。5月中旬、山王祭・深川祭と並び江戸三大祭)

3大勅祭

・葵祭(加茂神社の例祭、貴族的)

・岩清水祭(岩清水八幡宮の例祭、岩清水八幡宮は皇室の祖廟、放生会)

・春日祭(春日大社の例祭)

有名な祭り

ねぶた祭(青森)、だんじり祭、博多どんたく、長崎くんち、他



五、神道の中に見られるユダヤ・キリスト教思想(試論)


1、ユダヤ・キリスト教の神道への影響

ユダヤ・キリスト教の神道への影響を示唆するものには、日ユ同祖論、失われた10部族の末裔が日本に来ていたとの仮説等がある。 


古代日本への影響を考えた場合、➀先ず縄文・弥生時代にイスラエルの失われた10部族の渡来があったという説、②次に3Cの応神天皇の時の弓月の君(秦氏の祖先)の渡来、③そして空海・最澄が唐で盛んだった景教を学んでもたらしたもの、が考えられる。


仮に、新旧聖書の神道への影響がなかったとすれば、神道にはもともと聖書に近い考え方が(霊感によって)備わっていると考えるしかない。(聖書との親和性)


2、影響を示唆する例

(1)神社の様式が類似する。

拝殿・本殿の形式が幕屋の聖所・至聖所に類似、手水は洗盤と同じ、神体の三種の神器(ヤタの鏡、ヤサカニの勾玉、草薙の剣)は契約の箱の三種の神器(石版、マナ、杖)、式年遷宮も契約の箱が移動するのと類似等々。


(2)諏訪神社の構造や祭祀が聖書の記述と酷似している―失われた10部族の末裔が日本に来ていて影響を与えたのではないか(仮説)


 十間堂 幕屋と同じ寸法の社屋。(18m.×5.4m) 東に入口、西に本殿も同位置

御頭祭 守屋山あり、子供をいけにえに捧げる儀式がある。子供の代わりに鹿頭75頭を捧げた→モリヤ山でのイサク献祭と酷似(創世記22・2)

御柱祭 大木を切り出し、運んで急な坂を落とす。→ソロモンの神殿建設のときのレバノン杉の切り出し運搬事跡と似ている。(1列王6章、歴代記2・15)

 御渡祭 諏訪湖が凍る時に出る氷の波が、神が渡る姿と考えた→イエスがガリラヤ湖を歩く姿に類似している。(マルコ6・48~49)

(3)ヘブライ語から来ていると考えられる日本語

 ヤーレン・ソーレン→歌を謳って楽しくなる、はしごで上がってニシン漁。

 神輿を担ぐ時にエッサ・エッサの掛け声→ヘブル語で「運ぶ」の意味

 節分→石を投げる

 寒い→凍る

 減らす→へルス

 話す→ダベル


→詳しくは、後述の「4、神道は古代イスラエルの宗教に行き着く」を参照

3、仏教とキリスト教

(1)仏教もキリスト教(景教)から影響を受けている。

1C大乗仏教が成立したころは、トマスやバルトロマイが宣教にインドに来たころでキリスト教に影響された。無霊魂、無神論が釈迦の教えだったが、キリスト教の影響で変貌する。インドにはユダヤ人の共同体があったし交易も有ったので、彼らから学んだ。


竜樹は150~250ころの大乗仏教の八宗の祖である。このころ南インドに大きなキリスト教会があった。トマスの伝道した場所で、竜樹はキリスト教を知り、刺激され対抗意識を持った。神道が仏教に刺激されて自己認識始めたように。→現に、大日経はバラモン、キリスト教、ゾロアスター教などの混合概念である。


2Cに作られた釈迦伝とイエス伝も似ている。王者の血、釈迦の母の処女伝説、女性が予言、少年期に大人と問答。成長期の空白、洗礼、悪魔の誘惑(三つの誘惑)など。

(2)聖徳太子、空海、親鸞、他

 聖徳太子:仏教の功労者だが、キリスト教の匂いもする。廁戸皇子、馬小屋で誕生したなどの蔑視表現はイエスと聖徳太子しかいない。蘇我氏のときから天皇家に仏教儀式が入ったが基督教的神道を持っていたとも考えられる。


拝殿、本殿には目に見えないもの(神)を崇める形式がある。東向きに建っている。17条憲法は、第二条以外は仏教とは無関係である。17条憲法には、神道に儒教、仏教、道教の影響が見られる。


空海:9C、真言密教は唯心論的で唐で不空三蔵から学んだ。近くに教会があり、般若三蔵(大秦寺)と仏陀かイエスかで議論したと言われる。

親鸞:西本願寺の「世尊布施論」には聖書の山上の説教やイエスのことが書いてある。


聖武天皇は国分寺を造営し景福を祈った。736年 李密医(皇脯、景教の宣教師)は天皇に拝謁し位を授けられる。


光明皇后は療病院(無料)、悲田院(孤児院)施薬院(無料)などの慈善施設を設立しているが、景教の慈善思想の影響を受けたのではないか。当時の仏教は福祉や慈善事業には無関心で専ら国家安泰の思想だけだった。1000人の垢を流す誓願を立て、1000人目の人がらい病人だったが膿を吸い取ると患者が光を放ったということが、南禅寺の僧が書いた書面に記載されている。


→ダミアン神父がハワイのモロカイ島(らい病人の島)で世話をして自分もらい病に罹った事実があり、キリスト教的には光明皇后の行為は十分理解できる


(3)東大寺のお水取りは悔い改めと聖なる清めの水の行事である。罪の概念は仏教にはないが国分尼寺なども滅罪の寺といわれている。お水取りの声明について、マリオマリア神父は、これは景教の音楽だという。又お水取りは天下泰平、五穀豊穣、万民快楽、を願う行事で中国の景教徒がやっていたことでもある。僧侶が踊るのはコサックダンスに似ているし、メシアニックジューも同様によく踊る。


(4)「かな」ーカタカナ、ヒラカナは奈良時代から平安時代に作られるが、かなが日本文化のさきがけとなったと山本七平は「日本人とは何か」で述べている。かなは漢字を草書体にしたものという見解もあるが、かなは景教徒が作ったという見解もある。景教徒は聖書を広めたいので、その国、民族の言葉を造った。ハングルは景教徒が作ったものを王が復活させたともいう。聖書が庶民にも読めるようにという動機がある。

ダルマは6C禅宗の祖、Thomas →Darma→ ダルマ。 箴言24・16に、七転び八起の聖句がある。


4、神道は古代イスラエルの宗教に行き着く

→レムナント・ミニストリー代表 久保有政牧師による

(1)有識者の証言                          

藤沢博士という人は、正統派神道の信者だったが、神道の「三種の神器」の起源は古代イスラエル宗教にある、と信じていた。

ユダヤ人のラビで、日本の上智大学で教鞭をとったこともあるマーヴィン・トケィヤー氏も、『ユダヤと日本――謎の古代史』という本を書いていて、神道のルーツが古代イスラエル宗教であるという可能性について、様々な議論をしている。

また、イスラエルに育ち、後に日本に来て研究活動をしたユダヤ人であるヨセフ・アイデルバーグ氏も、「神道のルーツは古代イスラエル宗教にある」と述べている。

(2)神社の神体と幕屋の神体-偶像ではない

神社の本殿の祭神には、鏡、石、剣、などが置おかれているが、これは偶像ではなく、それに象徴される背後の目に見えないお方を拝んでいるものである。(使徒17・23) 仏教、ヒンズー教、ギリシャ神話神社には神々の彫像があるが、神道には神々の彫像はない。従って厳格な意味では偶像崇拝には当たらない。

伊勢神宮の神体である鏡は、鏡を拝むのではなく、神聖なものの象徴として、神聖さを示すもので、契約の箱の中の三種の神器(石版アロンの杖、マナの壷)が偶像ではなく、神聖さを示すものであるのと同じである。→幕屋では契約の箱自体を拝んだのではなく、そこに降臨される目に見えない神(ヤハウエ)を拝んだ。「目に見えない神を拝む」という共通要素がある。。

神道では、石の柱を神の霊が降臨するところとして、ご神体とした。日本の初代天皇の神武天皇も、石を積み上げて壇を築き、神を祭ったと言われている。→イスラエル民族の父祖ヤコブは、神を祭るために石の柱を立てた。(創世記35・14)

(3)神社の構造と幕屋・神殿の構造は同じ

➀日本の神社の構造は、幕屋構造とよく似ている。その一つは「狛犬」(獅子、すなわちライオン) →しかし獅子(ライオン)は、昔の日本には一頭もいなかった。「狛犬のルーツは中東である」

②「拝殿」と「本殿」がある。本殿には、神の霊が降臨する"神器"が置かれている。→イスラエルの幕屋や神殿は、やはり二つの場所、「聖所」と「至聖所」に分かれていた。至聖所には、三種の神器(十戒の石の板、アロンの杖、マナの入った壺)が置かれていた。聖所には祭司だけが入れ、至聖所は、大祭司が年に一度だけ入る最も神聖な場所だった。

日本の神社では、手前の拝殿より奥の本殿のほうが、少し高い位置にある。イスラエルの神殿でも、学者によれば、ソロモン王が建造した神殿においては、奥の至聖所は少し高い位置にあったそうである。そして、聖所と至聖所の間に幅約三メートルの階段があって、上るようになっていた。日本の神社の基本的な構造は、古代イスラエルの神殿の基本的構造にそっくりである。

(4)神社のお神輿は契約の箱がモデル

古代イスラエルの「契約の箱」をモデルにしたものである。神輿をかついで街をねり歩くその光景は、ダビデが白の祭司服を着て歌や踊りで契約の箱をエルサレムに導き入れたときの光景と全く同じである。(1歴代15・25)

日本の神輿は、上の部分に「鳳凰」と呼ばれる鳥が、翼を広げている。鳳凰は想像上の鳥で、天的な、神秘的な鳥→イスラエルの契約の箱も、上の部分には、ケルビムと呼ばれる天使が、翼を広げて守るような形になっている。ケルビムも、天的で神秘的なもので、鳥のように翼をもっている存在。

日本の神輿の多くは、要所が金で覆われている。すべて金で覆われているものもある。→イスラエルの契約の箱も、全体が金で覆われていて、光り輝いていた。

京都の祇園神社では、毎年七月の夏祭り(祇園祭)に、"神輿の水中渡渉"の儀式をとり行なう。これは男たちが神輿をかついだまま、川に入って川を渡るという儀式である。→イスラエル人がヨルダン川を渡ったとき、彼らの先頭を契約の箱(神輿)が進んだ(ヨシア3・15)

お神輿の風習は、世界中で、日本と古代イスラエルにしかない。神社の神輿と、古代イスラエルの契約の箱にまつわる風習は、このように何もかもがよく似ている。

→旧約聖書に書いてあることは、神道の風習と全く一緒じゃないか。契約の箱にしても、神殿の構造にしても、祭のしかたにしても、お清め、禊ぎのしかたにしても、まったく神道に伝わる風習と一緒だ。神道のルーツはまさに旧約聖書だよ。


(5)神主の服装と祭司の服装

➀神社の白服の神主の姿                       旧約聖書は、ダビデが契約の箱をエルサレムに運び入れたとき、「ダビデは白亜麻布の衣を身にまとっていた」(1歴代5・27))と記している。古代イスラエルでは、神聖な行事には、純白の衣が用いられた。神社の神主は、最も神聖な行事においては、必ず真っ白な服を着る。とくに伊勢神宮などでは、神主はみな、いつも白づくめの衣を着ている。伊勢神宮では、神輿をかつぐ人たちもみな、真っ白な衣を着ている。裸足になることといい、真っ白な服を着ることといい、これらは全く古代イスラエル人の習慣である。


②房

袖のところに「房」がある。イスラエル人は、両袖に房をつけることを、一般的な風習としていた(民数15・38)大祭司も、祭司たちも、みな袖に房をつけていた。長血の女がイエス様の「着物の房にさわった」という記事が出てくる(マタイ9・10)。またパリサイ人たちは、人目をひくために衣の房を長くしていた、と記されている(マタイ23・5)

③神主は長服の上に、体の前と後ろにかけて、長方形の布をかぶっている。肩から、ももくらいまでの長さがあって、腰のところは、ひもで結ばれている。そして頭には帽子をかぶっている。→これは古代イスラエルのレビ人たちが着た祭司の服と、全く一緒である。古代イスラエルの祭司は、長服の上に、「エポデ」と呼ばれる、長方形の布を、体の前から後ろにかけてかぶった。ダビデは契約の箱を運ぶとき、白い「亜麻布のエポデを着けていた」と記されている(1歴代15・27)。彼だけでなく、古代イスラエルの祭司はみな、白い亜麻布のエポデをつけた(1サムエル22・18)。

このエポデは、日本の神主がつけているものと、色も形も大きさも全く一緒である。エポデも、肩からももくらいまでの長さがあって、腰のところを、ひもで止めるようになっていた。これも神主のと同じ。ユダヤ人のトケィヤー氏は、こう言っている。 

「日本の神主の着る亜麻布の衣服は、古代イスラエルの祭司が着た白い亜麻布の服と、全く同じような形をしている。神主のはく袴も、ゆったりした上着も、前にたらしている布も、胸の前につけている特別な布も、古代イスラエルの祭司が身につけていた衣服に、非常によく似ている」 

また、日本の神主が必ず帽子をかぶっているように、古代イスラエルの祭司も、必ず帽子をかぶっていた(レビ16・4)。日本の神主の服装は、古代イスラエルの祭司たちの服装と全く一緒なのだ。


(6)お祓い

さらに、日本の神主は、祓麻というものを持って、それを左右にサッ、サッ、と揺する。あれは、今は簡略化されて紙で出来ているが、大昔は、植物の枝や穀物が用いられていたと思われる。→じつは神主がサッ、サッ、と揺り動かすその有り様も、古代イスラエルの祭司がなした風習と同じなのである。 古代イスラエルの祭司は、ヒソプという植物の枝を用いて、清めの儀式を行なった。ダビデは詩篇の中で、「ヒソプをもって、私の罪を除いて清めて下さい」(詩篇51・7)と言っている。ヒソプの枝をサッ、サッ、と揺り動かして、ちょうど日本のお祓いのような、お清めの儀式が執り行なわれていた。


(7)拍手

また、日本人は神社の拝殿の前でパン、パン、と二回手をたたく.。→あの"手をたたく"というのは、古代イスラエルでは"私は約束を守る者です"という意味だった。旧約聖書にしばしば「誓約をなす」という言葉が出てくる。しかし、そう訳された言葉の原語を直訳すると、「手をたたき」だ。(箴言6・1、エゼキエル17・18)。つまり"私はあなたの約束を守ります"という場合に、古代イスラエル人は、相手の目の前で自分の手をたたいてみせた。それは"私はあなたに同意します"アーメン"というような意味であった。


(8)手水舎 

日本の神社にはまた、入り口から少し入ったところに、必ず「手       水舎」という口をすすぎ、手を洗って、口と手を清めるための場所がある。 →古代イスラエルの神殿にも、入り口から少し入ったところに、「洗盤」というものがあり、人々は神様の御前に出る前に、そこで手や足を洗って、お清めをした。


(9)鳥居

神社には必ず、入り口に鳥居がある。二本の柱があって、上の部分がつながっている。このトリイの形は、韓国や中国にもなく、日本独特のものである。 →しかし、古代イスラエルの神殿にも、入り口に二本の柱があった(1列王7・21)じつは、古代イスラエル人はアラム語も話したのだが、アラム語でトリイといえば「門」の意味である。

また、神社の鳥居の二本の柱と、その上の部分がつながっている形は、まさに、古代イスラエル人が過ぎ越しの夜に小羊の血を塗ったあの「二本の柱と鴨居」の形と、全く同じである。日本の神社の鳥居は、赤く塗られている所が多いが、かつて出エジプトの前夜、イスラエル人の家の「二本の柱と鴨居」も、小羊の血で赤く塗られた。

(10)賽銭箱

古代イスラエルにおいても、紀元前九世紀以降の神殿には、入り口に賽銭箱(献金箱)が設置されていた、と旧約聖書に記されている(2歴代24・8)

(11)高いところに神社

日本の神社はたいてい、山の上とか、高い所につくられる。富士山など日本の山は、どこにもたいてい頂神社がある。→古代イスラエルでは、高い場所には必ずといっていいほど、「高き所」と呼ばれる礼拝所がつくられた。高い所があれば、至るところに、礼拝所がつくられた。


(12)注連縄

日本の神社には必ず、神聖な場所に、注連縄(しめなわ)が張られている。注連縄は、そこが神の領域と世俗世界の境であることを示すために張られる。→古代イスラエルの習慣で、かつてモーセは、シナイ山で十戒を与えられたとき、人々がシナイ山に近づかないように、その周囲に「境を設けた」、と聖書は記している。(出エ19・12)。境とするために、何かの縄が張られ。以来、古代イスラエルでは、神の領域を示すために、境として注連縄のようなものが用いられたと思われる。日本の注連縄は、モーセに始まった習慣か。


(13)イザナギとイザナミの結婚式はユダヤ式

日本人が知らずに拝んできたもの――それを私たちに教える重要な事柄は、イザナギとイザナミの結婚式の話である。→イスラエルの王ダビデには、ミカルという奥さんがいたが、ダビデとミカルの結婚式は、一体どんなふうに行なわれたか。

日本の『古事記』を見ると、男神イザナギと女神イザナミの結婚式の話が記され、その結婚式で、ふたりは柱のまわりを廻るという儀式を行なった。花嫁のイザナミは、柱を右から廻り、花婿のイザナギは、柱を左から廻る。そして彼らは、出会ったところで結婚の契りを交わした。イザナギとイザナミは柱をまわるとき、互いに、「あなにやし」と言いった。

→ユダヤ人の結婚式では真ん中にきれいに花で飾った柱が置かれ、そして花嫁と花婿がその柱を巡り回って、出会った所で結婚が成立したという。


(14)神道は民族宗教

➀神社庁の発表によると、神道の信者は全部で、一億三千万人。神道では、日本人はすべて神道信者とみなし、日本人はみな神社の氏子とみなしている。クリスチャンで、神道信者ではないつもりでも、神社のほうでは神道信者とみなしている。しかし逆に、外国人は神道信者になれない。ある意味排他的な宗教で日本人だけの民族宗教である。→この点では、ユダヤ教もユダヤ人だけの民族宗教で同じである。

②神道というのは、ある意味ではユダヤ教と同様に"神の選民としての意識"の名残であるように思える。日本人は昔から、選民意識の強い国民で、元寇の時も「神風」と呼び、特別に神様が守ってくれているのだ、と考えた。→この選民意識の中枢に、神道があった。それは、神道がもともとは古代イスラエル宗教に発している、ということにも関係しているように思える。

古代イスラエル宗教を調べると、神道のルーツが見えてくる。神道はもともとは、古代イスラエル宗教から来た、と考えられる。故に神道のすべての信者は、聖書の教える神様に立ち返る必要がある。そのときにこそ、本来の意味での「神道」に回復できるのではないか。


(15)塩を清めに使うー穢れを禊ぐルーツ

➀日本には昔から、塩を清めに用いる風習がある。→これも古代イスラエルの風習なのである。旧約聖書には、アビメレクという人が敵の町を征服したとき、「そこに塩をまいた」と記されている。(士師9・45)。それは塩をまくことによって、汚れたその地を清めるためである。ユダヤ人は、新しい家に住むようなとき、その家に塩をまいて、お清めをする。日本では、料亭などに行くと、「盛り塩」といって、たいてい入り口に塩を盛っている。神道式のお葬式に行けば、入り口に塩を置いている。お葬式から帰ったときには、塩祓いといって、玄関で塩を体にふりかける。

②相撲の際に、力士は土俵に塩をまく。→ユダヤ人なら、「あれは土俵を清めるためだ」と即座に理解する。日本では神前に供え物をするとき、そこにず塩を添える。古代イスラエルでも、神前に供え物をするときは、必ずそこに塩を添えた。「あなたがたの捧げ物には、いつでも塩を添えて捧げなければならない」(レビ2・13)と旧約聖書に書かれている。古代イスラエルでは、新たに生まれた赤ちゃんは、塩でやわらかくこすってから水で洗い清めた(エゼキエル16・4)。 

③お清めや、「禊ぎ」という考え、またそのときに塩や水を用いるという考え方は古代イスラエルの風習と同じである。私たち日本人は、しばしば「罪」という観念をあまりよく理解できないことがあるようだが、「けがれ」という観念ならばよく理解できる。じつは「けがれ」という観念は、ひじょうに旧約聖書的な観念なのである。旧約聖書では、何かに触れると、けがれるとかいうことがよく言われている。

「けがれ」や「きよさ」の観念は、まさに神道の中に、今日も生き続けている。「清浄を貴び、汚れを忌み嫌う」ことが、神道の根本理念なのである。これは、古代イスラエル宗教にさかのぼることのできる観念である。


(16)神社中心の日本人 

➀日本人は赤ちゃんが生まれると、清めの期間が終わったのちに、その幼子を神社に連れていって、お宮参りをする。→古代イスラエルでも、人々は赤ちゃんが生まれると、一定の清めの期間が過ぎた後に、お宮参りをして、子どもを神様に捧げた。(レビ12) 

福音書には、ヨセフとマリヤが生後八日の幼子イエスを連れてお宮参りをした、と記されている(ルカ2・22)

②日本人は昔から神社中心に、収穫祭を行なってきた。新しくとれた穀物は、必ず神棚に捧げ、供えた。皇室においても、「新嘗祭(にいなめさい)」といって、新しくとれた穀物は神に捧げた。民間でも、古くから「おはつほ」といって、初穂を第一に神に捧げた。   今日「11月23日」は勤労感謝の日とされているが、昔は「新嘗祭」といい、人々はその日に、新しくとれた穀物を神棚に捧げた。→この風習は、古代イスラエルにおいても、全く同様に行なわれていたことである。(レビ23・16)

 

(17)正月の風習

➀1月日本の正月は、太陽暦の現在では1月1日が「元日」だが、旧暦だった昔は15日だった。今でも1月15日は、「旧正月」という。それは1月15日が、その年の初めての満月の日だったからである。昔は一月の満月の日を、「元日」と言った。 

日本では、元日から一週間ほど「餅」を食べるのが、ならわし。→しかしこの風習は、古代イスラエルの風習なのでもある。古代イスラエルでは、1月15日から7日間は「種を入れないパン」を食べなければならない、と決められていた。「第一月の一五日は、主の、種を入れないパンの祭である。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない」(レビ23・6)「種を入れないパン」は、ヘブル語で「マツァ」といい、マツァを「ハ・モチ」も呼んでいる。「ハ」は、英語でいえば定冠詞のtheにあたるので、ハをとれば、「モチ」になる。マツァ(ハ・モチ)は、「パン種」を入れず、発酵させないでこねて作ったパンのことで、その製法は日本のモチと一緒である。材料を、もち米にすれば、日本のモチになる。故に古代イスラエルにおいて、1月15日から7日間持たれていた「種を入れないパンの祭」(マツァの祭)とは、いわば"モチの祭"だった。 

②日本の正月には「七草粥」を食べる。七種類の草を入れたおかゆである。七草粥は、平安時代以前は、1月15日に食べるのがならわだった。→古代イスラエル人も、1月15日には、幾種類かの「苦菜」をそえて食べた。「その夜(一月一五日)・・・・苦菜を添えて食べなければならない」(出エ12・8)と旧約聖書に記されている。日本人が正月に「モチ」と「七草粥」を食べる習慣は、古代イスラエル人が正月にマツァと苦菜を食べた習慣に由来する。ルーツは、旧約聖書。 

③また、日本では正月を迎える前、大晦日までに、必ず家の大掃除をする。→古代イスラエル人も「あなたがたの家から・・・・パン種を取り除かなければならない」(出エ12・15)と旧約聖書に記されているので、彼らは正月を迎える前、年末に必ず家の大掃除をした。今日もユダヤ人は、大晦日に必ず大掃除をする。 

④また、日本人は大晦日の夜には、年越しそばや、年越しの食事をする。その後、じっと古い年が過ぎ去る時を待ち、何かが、そのとき通り過ぎていくのである。そして、新しい年が明けるや否や、まだ夜も明けない暗いうちに、元旦にどっと神社に初詣に出かけていく。 

→古代イスラエル人の出エジプトの時もそうだった。彼らは1月14日の夜、過越の食事をした。そしてじっと裁きの天使が通り過ぎる時を待ち、その後、まだ夜も明けないうちに家を出て、神の御前に集合したのである。 

④また日本の神社では、たいてい、神聖な行事は夕方に始まる。大嘗祭も、夕刻に始まった。→これは古代イスラエルの場合と同じで、ユダヤ暦では、1日は日没から日没までだったからだ。だから古代イスラエルでは、神聖な行事や祭は、夕方に始まった。


(18)神社に動物犠牲がない理由

➀しかし、一つだけ大きな疑問がある。それは、「もし日本の神道の風習が、本当に古代イスラエル宗教に由来するものなら、なぜ日本の神社には、動物のいけにえの風習がないのか。古代イスラエルの人々は犠牲による贖いの儀式を行なっていたのに、なぜ日本の神社では行なわれて来なかったのか」

→あるユダヤ人曰く「羊や、やぎ、牛などの動物をいけにえとして捧げる贖いの儀式は、エルサレム以外でしてはいけない。紀元七〇年にエルサレムが滅亡し、エルサレム神殿も滅亡して以来、全世界に離散したユダヤ人たちも、動物犠牲を一切行なっていない。それはエルサレムの宮以外でしてはいけないことだから」と。つまり、日本の神社で動物犠牲が行なわれてこなかった理由も、まさにこれだったのではないか。

②申命記一二章には、カナンの地の特定の場所以外で動物犠牲を捧げてはならない、と記されている(12・10) とくにエルサレム神殿建設以後は、動物犠牲はエルサレム以外でしてはいけなかった。日本の神社でも、動物犠牲は行なわれて来なかったと考えられる。

(19)七瀬の祓えとキリストの贖い 

➀動物犠牲はまた、もう一つの意味でも、今日行なわれる必要はない。それは主イエス・キリストが、二千年前に十字架上で、ご自身を私たちの罪の犠牲となして死んで下さったからである。彼はただ一回で、永遠にわたる贖い(救い)を全うして下さった。故に、もはや動物犠牲は必要ない。私たちはただ、彼のもとに行って彼を信じ、彼に従っていけばよいのだ。 

②昔、日本の天皇家では、毎年「七瀬の祓え」という儀式を行なっていた。これは、まず人形をつくり、それに様々な服を着せ、それを天皇のところに持ってき、天皇は息をかけ、罪穢れを人形に移す。そしてそれらの人形を、七つの瀬――つまり七つの川の七つの浅い所に流して捨てる。こうして人の罪や汚れが、人形と共に流し捨てられるのだ、と考えられた。人形は身代わりなのだ。民間にも、「流しびな」とか「鹿島流し」などの風習がある。日本人は昔から、罪けがれを託した人形を川に流して捨てる、という風習を行なってきた。

→古代イスラエルでも、「アザゼルのやぎ」といって、大祭司がやぎの上に手を置いて、国民のもろもろの罪をその上に告白した。そして、そのやぎを荒野に放ったのだ。こうして人の罪や汚れが、遠くに捨てられるとされた。今日もユダヤ人は、「タシュリック」という慣わしを行なう。これは小石をじっと握って、まず手の中で暖めておくき、それからその小石を持って川へ行き、そこで、今までの自分のすべての罪を思いだして、それらの罪をその小石に託す。そしてその小石を、川や海に投げ込むのだ。これらはイエスの型である。


(20)知らずに拝んできたお方

➀日本人が知らずに拝んできたおかたについて、はっきりと知らなければならない。日本の本来の神道はもともと、古代イスラエル宗教を起源とし、そこから来たに違いない。もちろん、現在の神道の何もかもが、古代イスラエル宗教と同じだとかいうことではないが、現在の神道には、不純物や異物が含まれている。 

しかし、神道に流れる基本的なものはすべて、もともとは古代イスラエル宗教から来たと、言ってよいように思える。神道は、古代イスラエル宗教の、なごりの一つと思われる。そこには、古代イスラエル宗教のすべてを見ることはできないとしても、多くの重要なものがまだ残されている。 

②今日の多くの日本人は、日本人とは何なのかを知らない。たいへん漠然としていて、よくわかっていない。「自分たちは何なのか」「何者なのか」を知らない。しかし、聖書を知るとき、日本人とは何なのか、日本人の起源はどこにあるのか、日本人はこれからどう生きるべきか、がわかってくる。聖書を知るとき、日本人のアイデンティティがわかってくる。聖書に立ち返るとき、日本人は本当の意味で日本人になる。聖書の中にこそ、日本人の魂のふるさとがあるのではないか。

日本の神道は古代イスラエル宗教から来たとの考えに満たされたとき、感激で夜も眠れなかった。日本人のヤマト魂をつくったのが神道だとすれば、日本人の本当の親は、イスラエルを造ったと同じ聖書の神様なのだから。


六、神道と天皇について

1、天皇と神道の歴史的な係わりについて


(1)概観―神道の変遷

➀神道の源流                                          1)本古来、古神道(縄文神道)には文書として記録した教義はない。豊かな自然ときれいな水に恵まれた島国である故に、山川草木に神が宿る自然崇拝が生まれ、ハライ、ミソギによって身心の穢れを浄めることが何より大切な伝統となった。青森県の三内丸山遺跡では、約2千年にわたって500人ほどの縄文人たちが、このような信仰心を持って共同体生活していたことが推定されている。BC3Cには大陸から弥生人が渡来し縄文人と混血する。 2)8世紀には天皇の祖先を祀る天つ神を中心とする記紀神話がつくられる。その中には古くからの自然神の他に生殖や創造の力を表すムスビの神(縄文神道)とともに、天皇の祖先となる人格神が天孫降臨によって日本を治める使命を与えられ天皇統治の正統性がが確立されていった。これらの神話に共通するのは、八百よろづの神といわれる多神教であり、神と人との間に断絶がなく、人を神として祀ることに違和感がなかった。

②ヤマト政権の宗教的側面

1)大和政権(大和朝廷)

BC3C以来、海外(中国、朝鮮半島、南方)から稲作を持って渡来した弥生人によって縄文人との葛藤が生まれたが、次第に融和混血していった。もともと天皇は稲作を中心とした集落の最も有力な棟梁的存在で、他の豪族を従え大和政権を造っていった。3Cに入ると、強大な権力者の支配を示す古墳(前方後円古墳)が造営されるようになり、大和、河内を中心とする有力氏族・諸豪族の連合政権で、大君と呼ばれる首長を盟主に4Cには西日本を統一した。(当時は大君と呼ばれた。天皇という呼称は7C後半の天武期からであった) 


大和地方の最も有力な豪族が、各地に並立する有力集団に対して、宗教的には天照大御神を氏神とする集団が祭祀権を主導することで成立した。並立する有力集団はそれぞれ祖と仰ぐ固有のカミをもっていた。(例えば、出雲の大国主)盟約はこれらカミガミが調和的に共存する神話を編成することを通じてなされた。(天照の娘が宗像大社の祭神、出雲大社の大国主の国譲りなど)


*古代政権は、応神天皇(秦氏)や聖徳太子に見られるように有能な渡来人を顧問・技術者などブレインとして活用した。特に飛鳥時代は、百済の敗残した貴族、官吏、技術者が大量に渡来し、仏教文化を中心に飛鳥政権を支えた。→古代バビロニアの王が捕囚ユダヤ人を顧問として活用したのと類似している。(ルツ記のモルデカイ、ネヘミヤ、ダニエルなど)

③記紀の編纂

8世紀の天武期に『日本書紀』『古事記』が編纂された。この書物は、カミガミのなかで天皇家の氏神である天照大御神が主神であること、その子孫が天皇であって、祭祀権と統治権を継承することを述べ、日本統治の正当性を示した。しかしヤマトの政権は、地域のカミガミを排除せず、アマテラスに従属するそれなりの地位を与えた点に特徴がある。カミガミの共存は、有力集団との共存を意味する。


天皇の祖先は古事記に起源があるとされ、天照が伊勢神宮の主祭神となる。天皇家としての宗旨は神道である。


④天皇の仏教への帰依―神仏習合

仏教伝来以後、神道(古神道)は仏教に刺激され、神社(社)を構えるなど自らのアイデンティティーを確立していった。神道と仏教は相対立するのではなく、神仏習合により、神道の仏教化、仏教の日本化、仏教の無害化が進む。聖徳太子が仏教に帰依し、聖武天皇が大仏を建立するなど天皇は仏教を信仰した。仏教に帰依し出家して法王にもなった。(宇多法王、白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇など) 神道の最高位にある天皇が仏教へ帰依することについて、神仏習合により矛盾がなかったのである。

明治以前では「神道」という言葉すら意識されていなかった。古来「本地垂迹説」によって神道と仏教は一体化しており、神社の中に寺があったり、寺の中に神社があったりして、仏教を取り込み又取り込まれていった。(浅草寺の敷地内に浅草神社がある)その中で天皇家の祖先は天照大神とされ、本地垂迹では大日如来とされる。

明治期まで、天皇の信仰の中心にあったのはむしろ仏教であった。(島田氏)神道ではもっぱら国土の守り、地域の鎮護、生活の加護を祈り、仏教では人間の罪からの救い(個人の解脱)に軸足が置かれ、それぞれ棲み分けた。仏式で天皇の葬儀が行われ、菩提寺もあった。


(2)明治以降  

①明治政府の宗教政策                               明治元年、明治政府は「神仏判然令」を出し「神祇官」制度を復活させた。王政復古、祭政一致(天照大神を祖神とする万世一系の天皇による祭政一致の統治)を掲げた。一方、伊勢神宮を頂点に神社の格付けを復活させ「神道の国教化」を図る。

しかし、キリスト教の解禁や信教の自由を求める外圧等に抗し難く、「神道国教化」は断念し「神道は宗教ではない」「宗教を超えたもの」であるとした。官営の神社で行なわれる皇室の儀礼や国家の祭祀は「宗教ではなく、宗教を超えたものである」から己の宗旨に関係なく、すべからく参詣し崇敬すべしとなった。「神道国教化」に匹敵する「神道への国民の動員」これを「国家神道」と呼ぶ。

②国家神道の流れの中で、天皇の神格化(現人神)が進み、天皇が統治する日本は神国(神の国)とされ、政治イデオロギーとなった。海外の植民地にも、明治天皇と天照大神を祭神とした朝鮮神宮、台湾神宮、南洋神社などが建てられた

一方、こうした国家と結びついた神道(国家神道)と別に、帝国憲法の「信教の自由」の次元での宗教は、神道、仏教、キリスト教に大別され、宗教として活動を許された神道がある。これは「教派神道」と呼ばれ13団体で定着した。

③1945年12月15日、GHQは神道指令を出した。それまでの国家と結びついた神社は廃止され、それぞれが各個の宗教法人となる。連合組織としての「神社本庁」という宗教法人もつくられた。又、1946年1月1日にいわゆる天皇の人間宣言と言われる詔書が出された。 

*神道指令:国家神道の廃止、神祀院の廃止、信教の自由と政教分離、

④明治の天皇制復活の意味                             a新政府は、徳川幕府及び儒教(朱子学)に代わる国民統合の中心を要し、天皇及び神道を担ぎ出した。 →ロシアは共産主義思想に代わる国家統合 の理念としてロシア正教を復活させた。              

b明治の天皇制の復活は、当時の儒教的偏狭な身分制度を打破するのに力があった。最高神の子孫である天皇を「現人神」として、神の前の平等 を実現しようとした。国家神道とはこの一君万民制を理論武装するため に人造された宗教概念でもある。 →天皇の下に国民はみな平等という考え方は、神の下に皆平等であるというキリスト教思想と相似する。

c明治の天皇制復活は、江戸時代の寺請制度、檀家制度で官製化した仏教 重視政策への反動でもあった。

d古来、日本の天皇には政治的権力が無く、権威の象徴的色彩が強く大祭司的な位置付けにあった。大日本帝国憲法にも「内閣の輔弼」の規定があり、天皇といえども「憲法の条規に従う」べきことが明記され、事実上天皇が単独で権限を行使することはなかった。

*帝国憲法55条1項「国務各大臣は天皇を輔弼しその責に任ず」 4条「(天皇の統治権は)この憲法の条規により之を行う」(立憲君主制) において、君主の権力を制限している。

尚、第三条「天皇は神聖にしてで侵すべからず」とは、天皇の神格化を謳うものではなく、天皇に政治的責任を取らせない(取らない)ための条項である。

*国体とは、日本では「天皇を中心とする統治秩序、国のあり方」であり、日本では、王朝交代、易姓革命、市民革命が起こらなかった。


天界(高天原)の主宰神である天照大御神から日本の統治を委任(神勅)された天照の子孫、即ち天皇が未来永劫に日本を統治する、という天皇統治の正当性が記紀によって明らかにされた。→之は、アブラハムの子孫であるダビデの家系が永遠にイスラエルを統治すると約束されたダビデ王国史観(ダビデ契約、2サムエル記7・13)と相似する。


古来日本では、国体と政体の分離(権威と権力の分離)が行われてきた。

古代では物部氏、蘇我氏、藤原氏などの豪族に実権あり、鎌倉以後は武士に実権があった。明治の昔から天皇は象徴であった。 →古代イスラエルでも、権力(王)と権威(祭司長、預言者)の区別があった。サウル、ダビデは預言者サムエルから油を注がれ(任命)て王になった。


2、明治維新後の国家神道及び神道の変遷


(1)国家神道とは何か

①国家神道の背景と理念

1)江戸時代、幕府はキリスト教を禁止し、日本人全員に仏教徒であることを強制した。具体的には、家ごとに宗旨を決めさせ、近くの寺に登録させたのである(檀家制度)。そして僧侶は実際上、葬式以外の活動ができなくなった。いっぽう幕府は、武士たちには朱子学を奨励し一般へも広がる。こうした幕府の宗教政策への反発が背景にある。


2)幕末から明治維新にかけて、日本人のカミに対する考え方を大きく変えたのは、平田篤胤(あつたね)の唱える平田神道である。本居宣長の弟子を自称する平田篤胤は、「人間は死ぬと、仏になるわけでも黄泉に行くわけでもなく、霊となる。とりわけ国事に殉じた人びとの霊は、穢れのない、英霊(すぐれた霊)となって、後続する世代の人びとを護る」といい、この革新的なアイデア(個々人には霊があって、死んだあとでも永遠にその個性を失わない)は、平田篤胤が禁書だった漢訳聖書を密かに読んで、キリスト教から学んだともいわれる。


 *「人間は霊と肉から成り、肉体の死によって霊は肉体と分離し霊界にいく」という聖書の死生観と相似している。神道は他宗教から優れた思想を取り入れる柔軟性・寛容性がある。一方節操がないとも言える。


上記により、神道式の慰霊の儀式を行なうことができ、戦死者を祀ることができるようになる。明治政府を樹立した官軍は、平田神道を採用し、戦死者の英霊を招魂して、儀式を行なった。明治2年には東京の九段に招魂社が設けられ、のちに靖国神社となる。陸海軍が所管し明治維新の志士や戦没者など国事殉難者の英霊を祀る施設である。


3)神道と仏教は分離する必要があるとし、幕末から維新にかけて起こったのが、廃仏毀釈、神仏分離の運動である。又明治維新とともに、政府が主宰する国家神道が生まれた。文部省は、「神道は日本人の日常生活に溶け込んでいるから、宗教でない」という見解をとり、国家神道を日本人全員に教育した。

4)死んだ人間がカミになる、という考えから、新しい神社が明治以降にいくつもつくられた。明治天皇を祀る明治神宮、陸軍の乃木希典(まれすけ)を祀る乃木神社、海軍の東郷平八郎を祀る東郷神社。又各地の地元出身の戦没者を祀る護国神社。湊川神社四條畷神社などの功績のある人物をまつる神社(建武中興十五社など)などが数多く造られた。

5)天皇の写真を「ご真影」として学校に配り、拝礼したり、皇居の方向に向かって遥拝したりするやり方も創造された。天皇を「現人神」とする皇民教育である。


6)第二次大戦が終了すると、占領軍の指令で、国家神道は禁止された。靖国神社は民間の宗教法人として存続した。しかし英霊や、人間が死ぬとカミになるという考えは、戦後の日本人のあいだにそのまま残っている。

②国家の宗教政策

1)「国家神道」は広義には神道的な実践を国民統合の支柱とするもの、狭義には「宗教」とされた「教派神道」に対して内務省神社局によって統制されたものをいう。国家神道論には、国民に神道を強制したと言う見解と、そうではない(神社非宗教論)と言う異なった見解がある。

政府は「神道は宗教ではない」(神社非宗教論)という公権法解釈に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置く事は憲法の信教の自由とは矛盾しないとの公式見解を示した。

2)宗教的な信仰と、神社と神社で行われる祭祀への敬礼は区分されたが、他宗教への礼拝を一切否定した完全一神教の視点を持つキリスト教徒や、厳格な政教分離を主張した浄土真宗との間に軋轢を生んだ面もある。

大日本帝国憲法第28条の条文では「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」となっていたが、この「臣民タルノ義務」の範囲は立法段階で議論の対象となっており、起草者である伊藤博文井上毅は神社への崇敬は臣民の義務に含まれないという見解を持っていた。昭和に入ってから美濃部達吉神社局には神社崇敬を憲法上の臣民の義務ととらえる姿勢があったが、内務省の公式見解として示されることはなかった。

3)「国家神道」は宗教ではないとする説と宗教であるとする説がある。非宗教説は敬神を国民の義務とし、この義務は道徳の範疇にあるので、神社軍隊学校官公庁などにおける敬神は宗教行為ではない、また神道は教義が存在しないため宗教ではない、という説である。宗教説はこの理屈を「近代国家の体裁を整えるために信教の自由を認めることと、神道に基づく天皇崇拝の強制を両立させるための詭弁」とするものである。

又、侵略への動員という政治目的を、聖戦教義・英霊教義の宗教的トリックで粉飾するもので、国家神道の教義の中心を「天皇現人神思想」や「万世一系思想」とする意見もある。

4)天皇は自ら現御神(あきつみかみ)であること、日本は特別に神の保護を受けた神国であること、世界を救済するのは日本の使命であること、天皇は親であり臣民は子であるから天皇への忠は孝ともなるという忠孝一本説などが生まれる。

*UCの「孝情」という概念は忠孝一本説か。

*ビザンティン帝国(東ローマ帝国)では皇帝教皇主義が取られた。イギリス女王は国教会の長でもある。ただ、実際、皇帝が宗教儀式を行っていた訳ではなく、この構図は国家神道とは相似している。天皇は政治権力も祭司的権力も実質的には無かった。

③民間信仰のあり方の変化

1)明治初期において、神霊の憑依やそれによって託宣を得る行為、性神信仰などが低俗なものや迷信として否定され、多くの民俗行事が禁止された。そのため、性におおらかな出雲神道系などの信仰が偏狭な解釈により大きく後退した。

2)また、神社の祭神も、その土地で古来からまつられていた神々ではなく、『古事記』、『日本書紀』などの皇統譜につながる神々に変更されたものが多い。それまでは、皇統とは関係の無い地縁や血縁を中心とした御神体が多々祭られており、天皇や皇室の管理を受けるということはなかった。天皇や皇室とは独立して祭祀を行っていた神社が多く、天皇が神社のトップと言っても神社においては地方分権的要素が強かった。

そのため、地域での伝承が途絶えた場合にはその神社の古来の祭神が不明になってしまっている場合がある。

3)明治期以降、橿原神宮平安神宮明治神宮などの天皇や皇族を祀る神社や湊川神社四條畷神社などの功績のある人物をまつる神社(建武中興十五社など)、地域の鎮護のための神社(伊勢山皇太神宮)が数多く造られた。

④天皇の神格性と「現人神」

1)古来より天皇の神格性は多岐に渡って主張されたが、明治維新以前の尊皇攘夷倒幕運動と相まって、古事記日本書紀等の記述を根拠とする天皇の神格性は、現人神(あらひとがみ)として言説化された。また、天皇が「神道を司る一種の教主的な存在」としても位置づけられた。万世一系の天皇を祭政の両面で頂点とする思想が形成されていった。

神仏儒合同でおこなわれた教部省による国民教導では、「敬神愛国の旨を体すべきこと」、「天地人道を明らかにすべきこと」、「皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべきこと」の3つ、「三条ノ教則」が設定された。

2)また、教部省廃止以降もその思想的展開として、東京帝国大学で宗教学を講じた加藤玄智は『我が国体の本義』(1912年)で「現人神とも申し上げてをるのでありまして、神より一段低い神の子ではなくして、神それ自身である」といった極端な学説がある。憲法学者で東京帝国大学教授の上杉慎吉の「皇道概説」は「概念上神とすべきは唯一天皇」と述べ、これが昭和初期には陸軍の正統憲法学説となっていった。

*いわゆる「天皇の人間宣言」とは、神であった天皇が人間になったと取られているが、天皇は今も昔も人間であった。「現人神」の真の意味とは、「神の御心を心として統治に当たる」という意味であり、あくまで天皇の心構えを述べた言葉であった。従って人間宣言とは神から人になったことを宣言したものではない。そもそも天皇は地上にあって高天原の神を祀った方で、神聖ではあっても祀りの対象として神殿で祀りを受けられる方ではない。天皇は「祀り主」(拝む存在)であって「祀られる主体」(拝まれる存在)ではない。

*欧州の王権神授説は、「王権は神から付与されたもので、王は神に対してのみ責任を負い、人民、教皇、皇帝など何人によっても拘束されず、人民はなんら反抗できない」とした。こうした王の霊威は、宗教的儀式によって王は半聖職者的性格や奇跡的治癒能力を付与されると解釈され、教皇からの自主性の根拠となる。しかしあくまで神の代理人であって神そのものではない。

3)陸軍中将石原莞爾は自著『最終戦争論・戦争史大観』中で「人類が心から現人神の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。」と述べるなど、昭和維新運動以後の軍国主義の台頭によって、天皇の威を借りた軍部による政治介入が頻発した。満州事変はこの石原の最終戦争論にもとづいて始められた。

⑤国家神道の影響と変遷

1)国家神道と戦争                           日本を戦争へ暴走させた原因は国家神道を抜きにしては考えられない。天皇を現人神(あらひとがみ)として絶対化し、古事記・日本書紀を唯一の神典とした国家神道は、明治維新から昭和20年の敗戦に至るまで約80年間、国民全体を支配していた。しかも他の宗教を超越した事実上の国教として、その教義に合致しない信仰を排除・禁圧し、国民の生活や意識のすべてにわたって深い影響を及ぼした。

戦後、アメリカの民主主義が導入されると、まるで憑(つ)きものがとれたように日本人はアマテラスオオミカミを忘れ去り、天皇は人間宣言によって象徴的存在となり、政教分離による平和憲法が神道に取って代わった。

村上重良氏(宗教学者)によれば、神道は自然発生的な神社神道、仏教や儒教と混合した習合神道、天皇の祖先神を祀る皇室神道に分類される。   

2)明治政府は、イエス・キリストの代わりに天皇陛下を、聖書には古事記を当てはめて、皇室の祖先である天照大神を最高神とし、それ以外の信仰を禁圧した。。小学校に天皇陛下の御真影(写真)や勅語を奉安殿に祀り、皇室神道に儒教をプラスした教育勅語を教典として教育が行われた。忠君愛国、滅私奉公、忠孝一致、一億一心、、神州不滅、武運長久等々の標語が覆いつくした。国家神道は、まさに疑似キリスト教であった。これは小室直樹氏ほか専門の多くの学者が指摘しているところでもある。

3)戦後、皇室以外に身分制度はなくなり、天皇も人間宣言をして権力から分離された。男女同権、差別撤廃、農地解放、福祉充実など自由・平等の政策が推進されたが、その代わり、それまで日本人の心を一つに結集していた天皇を中心とする一体的観念(アイデンティティ)が失われ、精神的な空白状態が今に至るまで続いている。

本来、自由とは“権力からの自由”であり、平等とは“人権の平等”を意味している。この民主主義の原則をはき違えて、社会を無視して己れの欲望を満足させる自由や、努力を無視して結果の平等を求める現状では、社会の混乱が増大するばかりである。本来の日本の伝統は、一神教を基盤とする欧米と違って、自然・社会と自分が一体となって共生する多神教的な「和」のシステムにあることを改めて想起しなければならない。

⑥神社非宗教論

1)「敗戦までの八十年間、日本の国家、政府は神道を宗教として国民に強制した」というのが現在の世間のおおよその認識であろうが、実はその定義は事実とはかけ離れている。実際に政府が神道において導入したのは「神社非宗教論」だったからでる。 明治四年の社格制度で全国の神社のうち、百いくつかの有力な神社を官社(官幣社、国幣社)とし、その他を民社(府県社、郷社、村社、無格社)に分ける。

2)歴史を追っていくと、「国家が神道という宗教を国民に強制した」とはいえない、ということがわかる。教育勅語は神道ではなく、もちろん仏教でもキリスト教でもない。天神地祇に誓うとか、神を敬えとか、神社に参拝しろとか、そのような話は一切出てこない。教育勅語というのは道徳の話であって、日本は道徳において儒教の言葉を用いてきたきらいがある。明治天皇の信任が厚かった儒学者の元田永孚が元を作り、伊藤博文の懐刀であった井上毅が宗教色を徹底的に除いている。勅令ではなくて、勅語となっている。

明治政府は基本的に啓蒙主義であり、非科学的なことやオカルトを嫌った。しかし、この頃急に大きくなる宗教団体のほとんどは、霊能者、霊媒、まじない、占いなどオカルト的要素があり、これがないと人が集まらない。医療も不十分で、病気になれば拝み屋さんに頼むしかないという時代だった。

明治末期から昭和初期の修身や歴史の教科書を見ると、「現御神(あきつみかみ)」や「八紘一宇」という言葉が現れたのは昭和十四年以降のことであることが分かる。(皇學館大學の新田均教授『「現人神」「国家神道」という幻想』)

天皇観も明治末は天照大御神の子孫であるという神孫論と君臣論だったのが、大正末にはそこに天皇は親で国民は子であるというような家族論が入り、昭和十四年以降になって、天皇は神であるという表現に変わってきた。

(2)教派神道                             一方、こうした国家と結びついた神道(国家神道)と別に、帝国憲法の「信教の自由」の次元での宗教は、神道、仏教、キリスト教に大別され、宗教として活動を許された神道がある。これは、幕末期に起こり、明治政府に公認された、神道系の新宗教教団のことで、「教派神道」と呼ばれ、当初14団体あったが、途中で天理教が離脱し、13団体で定着した。「神道十三派」とも呼ばれる。 

これらは、復古神道系、富士信仰や御嶽信仰の山岳信仰系、禊系、儒教系、教祖の体験と教えに基づく黒住教・天理教・金光教などの純教祖系、に分類される。現在は天理教が抜けて大本が加盟している。大本は一般には大本教というが、教をつけない大本が正式の名前である。

(3)現在の神道                            ➀1945年、敗戦の年に、GHQは、国家と結びついた神道の廃止と信教の自  由の実現を命ずる指令を出した。いわゆる「神道指令」。これが、戦後の宗教行政を大きく変えることになった。神社はそれぞれが宗教法人となり、またその多くは連合して「神社本庁」という組織をつくっている。

「神社本庁」は宗教法人法にもとづく包括宗教法人の一つである。包括宗教法人の一つではあるのだが、気分は旧内務省の外局・神祇院の後継的存在のようで、伊勢神宮を本宗として、約8万社ある日本の神社のうち7万9千社以上が加盟していて、包括下にある神社の管理・指導や、神職の養成、神道の宣揚や広報活動に加え、政治運動として、元号法や国旗国歌法の制定などを働きかけたほか、皇室の男系継承の維持、首相の靖国神社公式参拝の推進、などを行ない、また、神道政治連盟や日本会議といった団体を通じて、自民党を中心とした一部の保守政治家に強い影響力を持っている。現在のターゲットは憲法改定。

他方、教派神道系とされる天理教・金光教・大本などの新宗教も、伝統的な神々の信仰を受け継いで、活発な活動を展開している。

②神社は、今、明治以来数十年の特殊な時代が終わった後、伝統的な信仰の中心として人々に親しまれ、結婚・受験・交通安全などの祈願を行なう場になっているが、教説や教団組織の乏しいものが多い。神道は本来はそういうものだから、それはそれでいいが、祭りを支えていた地域社会が近代化の中で解体していく中で、新たな対応が模索されているというところがある。

他方、神道的な儀礼が、宗教行為に属するのか、民俗的な習俗であるのかを巡っては、信教の自由や政教分離、また、かつて神道が国家との関わりで果たした役割の記憶などもあって、国民の間から絶えず問題が提起され、裁判で係争中のものも少なくないが、これも、克服されなければならない課題である。

(4)まとめ                               皇室神道(宮中祭祀);皇居内の宮中三殿を中心に行われる皇室の神道。

神社神道:神社を中心に、氏子・崇敬者などによる組織によっておこなわれる祭り(祭祀儀礼)を中心とする信仰形態。

民俗神道:民間神道ともいい、古来から民間でおこなわれてきた信仰行事で、山の神・田の神・竈神・道祖神などを祀り、仏教や道教などとも習合している場合が多い。修験道などもこの系列に入る。。私たち庶民に馴染みがあるのは、先の神社神道と、この民族神道である。

教派神道(神道十三派):教祖・開祖の宗教的体験にもとづく宗教。

古神道あるいは原始神道:江戸時代の国学によって、儒教や仏教からの影響を受ける前の神道が研究され、復古神道・古道・皇学・本教などと称された。国学色を排除して、純神道・原始神道、縄文神道という場合もある。

以上の通りだが、特殊なのが靖国神社である。靖国神社は、幕末維新の志士や、戊辰戦争・西南戦争の政府軍側戦死者を祀った東京招魂社(官軍側のみ)、で、この招魂社を、明治天皇の命名で「靖国神社」と改め、その後の日清戦争・日露戦争から、日中戦争・太平洋戦争までの軍人・軍属の戦死者を祀った神社で、国家神道の中核といってもいい神社で、A級戦犯を合祀していることや、戦前からの皇国史観を主張していることなどから、ときにいろいろ議論が起こる。国のために殉じた「英霊」として246万数千人の戦死者が祀られている。

3、神道に於ける天皇の立場


(1)天皇の神道における位置づけ

①天皇は明治以前から、神社神道の最高神官である。神社の建立、位階を授与する権限や神号を与える権限があった。徳川家康は「権現」、豊臣秀吉は「明神」という神号を天皇から付与されている。特に記紀以後の神道は、天皇の存在を前提としており、天皇が無くなれば神道は存在し得ないとも言える。ただ、地方神社における地域や血縁を中心とした祭祀は、多くの場合直接天皇とは関係なく行われていた。


②天皇は、日々日本及び日本人の安寧と幸福を祈り、神主は、天皇が統治する日本の繁栄を祈っている。天皇の最大の仕事は、大祭司としての祈りである。(天皇は祈るだけでよいといった極論もある)


*英国では、イギリス国教会の首長は女王(国王)であるが、象徴的であり、実際の宗教祭祀はカンタベリー大主教が行う。東ローマ帝国では皇帝教皇主義があったが、宗教儀式や権威は事実上、総主教にあった。

(2)皇室神道

  ①宮中三殿(皇居内の賢所、皇霊殿、神殿の総称)で神道の宮中祭祀が行われる。

賢所:宮中三殿のうち中央に位置し、皇祖天照大御神を祀る。宮中に賢所が鎮座する由来は「日本書紀」の中のいわゆる同床共殿の神勅である。       


皇霊殿:宮中三殿のうち西側に位置する皇霊殿には、神武天皇をはじめ天皇、皇后、皇妃、皇親の歴代の御霊が奉斎される。皇霊殿の神体は、歴代天皇と皇家のものが2座ある。                      


神殿:宮中三殿のうち東側に位置する神殿には、天神地祇の八百万神が祭られる。明治2年鎮座式を行い、東座に天神地祇、中央に神産日神、高御産日神、玉積産日神(たまつめむすびのかみ)、生産日神(いくむすびのかみ)、足産日神(たるむすびのかみ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、御食津神(みけつかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)の八神、西座に歴代皇霊を鎮座した。


②祝日祭祀                                  四方拝:1月1日、 歳旦祭に先立って夜明け前に行われる。天皇が伊勢の神宮および四方の神々を遥拝する年中最初の儀式である。       

春季神殿祭: 春分の日に行われる天神地祇を祭る神恩感謝の祭     

新嘗祭:11月23日、その年の新穀を天皇が皇祖天照大御など神地祇に供え、神恩に感謝をした後に天皇が自らも食する(神人共食)祭典である。宮中恒例祭祀の中で最も重要とされる。


4、天皇と古事記の関係


(1)天皇と古事記と神道―天皇家の話としての「古事記」

和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。紀伝体歌謡を含み勅撰とも考えられる。歴史書であるが文学的な価値も高いと評価されている。神典の1つとして、神道を中心に日本の宗教文化・精神文化に多大な影響を与えている。日本書紀が海外向け歴史書であるのに対し、古事記は国内向け文学とも言える。

壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、「天皇記」や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる国史の編纂を命じた。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及旧辞など数多くの文献を元に古事記が編纂された。

前置きによると、稗田阿礼が読み上げたものを太安万侶が書きとめたうことになる。この目的は「天皇家の歴史やいわれを正しく伝えるため」であるとされており、はじめから「天皇支配の正当性」を物語る。

「古事記」というのはもともと「天皇」とその周りの貴族の位置づけ、職能を描くのが目的であり、はじめから「人間のこと」を描いていたのであって、「人間に対する神」を描いていたのではないという見方がある。「国造り」が終わった後、つまり「天照大神」の以降はむしろ人間的に「何々様」と読み替えて読んだ方が分かり易い。

一方、古事記の神話の背後には真実が隠されており、又言い伝えや地域の伝承の中には、多くの時代的、社会的な背景があるとする見方もある。

③歌謡の多くは、民謡や俗謡であったものが、物語に合わせて挿入された可能性が高い。有名な歌として、須佐之男命櫛名田比売と結婚したときに歌い、和歌の始まりとされる「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」や、倭建命が東征の帰途で故郷を想って歌った「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し うるわし」などがある。

④「古事記」の研究は、近世以降、特に盛んとなった。江戸時代の本居宣長 による全44巻の註釈書「古事記傳」は「古事記」研究の古典であり、厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。第二次世界大戦後は、倉野憲司らによる研究や注釈書が発表された。

(2)日本書紀

①日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文編年体をとる。全30巻。

古事記』と異なり、『日本書紀』にはその成立の経緯の記載がない。しかし、後に成立した『続日本紀』の記述により成立の経緯を知ることができる。

乙巳の変で朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上し、『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われた。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。

②原資料としては、帝紀旧辞、古事記、諸氏に伝えられた先祖の記録、地方に伝えられた物語、政府の記録、個人の手記、寺院の縁起、日本国外の記録、その他がある。

「日本書紀」の編纂は国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。対中国向けに書かれた。

5、神道に帰依することは天皇に帰依することなのか


(1)国家神道の下で、終戦前の数年間、皇居遥拝や天皇礼拝を強いた例があり、特に反対するキリスト者などへの弾圧があったことは神道への抵抗感になっている。

*しかし、現在では天皇を大変尊敬している著名牧師が多い。(日本一の信者数を誇る大和カルバリチャペルの大川従道牧師など)また、キリスト教界は天皇家にキリスト教が入ること、皇居内にチャペルを建てることを念願し祈祷している。

(2)天皇家の主宰神である天照大神を頂点とする神道の神々の系列化や、宮中祭祀に見られるように、神道の信仰の対象としての天皇の祖先神への存在もあり、皇室と神道は歴史的事実として密接なかかわりを持つ。又、天皇家の宗教は神道である。

しかし、本来、自然をはじめ畏しこきものをカミと崇めた太古の信仰(古神道)には、天皇を崇めるという信仰は存在せず、地域、血縁を中心にそれぞれの祭神を祭った。自然を崇め、先祖を崇めた原点に立ち返ることが大切である。天皇はむしろそういった本来の信仰を守る守護者としての立場が相応しい。

(3)そもそも天皇は地上にあって高天原の神を祀った方で、神聖ではあっても神ではなく、祀りの対象として神殿で祀りを受けられる方ではない。天皇は「祀り主」(拝む存在)であって「祀られる主体」(拝まれる存在)ではない。英国女王が英国国教会の首長であるが、英国民は神を礼拝しているのであって女王を礼拝しているのではない。そのように日本の国民は神道に帰依したとしても、天皇を礼拝するのではなく「畏しこきもの(神々)」を礼拝するのである。

(4)特に戦後は、信仰の自由と政教分離により、法的には天皇と神道は切り離された。天皇家としては神道であり、神社の総本山とも言える伊勢神宮を主宰し、又宮中での皇室祭儀も行われているが、天皇が各神社を指示・管理するということはない。

神道は、日本の伝統文化の担い手であり、宗教というより日本人が慣れ親しんでいる習俗という側面が強い。以上から、神道に帰依することは、天皇に帰依することにはならない。


七、神道の「カミ」は偶像に当たるか


1、各宗教の神概念― 一神教の神と多神教の神


(1)神概念の多様性

①神の概念

一般的には、神という言葉は、ラテン語:のDeusデウス)、英語のGodにあたる外来語の訳語として用いられるが、これらの意味と日本語における「神」は厳密には意味が異なる。また、英語において、多神教の神々はGodではなくgodである。翻訳における用語論争がある。

どのような神を崇拝・信仰するかということによって、多神教単一神教一神教等々の形が生まれる。

漢字としての「神」には、「不可知な自然の力」「不思議な力」「目に見えぬ心の働き」「ずばぬけてすぐれたさま」「かみ」といった意味が含まれる。

②神の性質(あり方)についての様々な考え方

1)創造主第一原因としての神。全ての物事の原因を辿って行ったときに、全ての原因となる最初の創造(創世)行為を行った者として、想定される神。→古事記には宇宙創造の概念は無い。

2)アニミズム汎霊説)における神。洞窟や岩石、山、水(泉、滝)など自然 界の様々な物事(あるいは全ての物事)に固有の神。それらの物事に「宿っている」とされる。→縄文神道のカミはアニミズムの神である。

3)守護神、恩恵を与える者としての神。神は信仰、犠牲、祈りなどに応じて現世来世における恩恵を与えてくれる存在であるとする考え方。→神道には氏族、地域、国家の守り神、守護神としての考え方がある。

4)人格神。神がと同じような人格(や姿)を持つとする考え方。→神道では和神、荒神の概念があり、喜怒哀楽を持つ神との考え方がある。

5)現実世界そのものとしての神(汎神論)。この世界のありようがそのまま神のありようであるとする。例えばスピノザはこのような考え方を採ったことで知られている。→神道は汎神論ではない。

6)神の性質に関して、その唯一性を強調する場合 一神教、多元性を強調する場合 多神教、遍在性を強調する場合 汎神論が生まれるとされる。ただし汎神論はしばしば一神教、多神教の双方に内包される。→神道のカミは多神教というより多様性のカミである。

7)神が存在するかどうかは知りえないことであると考える者は不可知論者と呼ばれる。→古来日本人は、目に見えないものに畏敬の念を持ってきた。

(2)一神教における神

一神教の起源                            古代イスラエルの神概念は、ユダヤ教、キリスト教イスラム教の源泉になった。旧約聖書を経典とし、唯一にして創造主たる同じ神を信じる一神教である。イスラエルの民は、創造主としての神をエロヒムと呼び、契約の神(救済神)としてはヤーベと呼んだ。

②天使                                これら3つの宗教は唯一神教ではあるが、神以外にも人間を超えた複数の霊的存在があることを認めている。天使が代表例であり、人間以上だが神以下の存在であると考える。ただしイスラム教では、後に創造されたものであるほど優れているという考えがあるため、天使は人間に仕える存在と考える→原理では天使は人間に仕える霊と考えている。

天使はあるときは普通の人の形をして現われたり、人とは違う形をして現われたりする。しかし「神の働き」は神だけが行うことができ、その他の存在は「神にお願いすること、執り成しができる」だけである。

③守護聖人                              またキリスト教では、聖人が特定の地域、職種などを守護したり、特定のご利益をもたらすとするという信仰がある(守護聖人)。 ただし、キリスト教のなかでもカトリックなどは聖人崇敬を行っているが、プロテスタント諸教派のなかには聖人崇敬を行わない教派もある。また、聖人崇敬を行う教派であっても、崇拝する対象はあくまでも神であり、神ではない聖人は崇敬の対象であり崇拝の対象ではない。

聖母マリアも、「崇拝」の対象ではなく「敬愛」の対象である。聖母マリアにお願いをイエス・キリストに伝えてくれる存在ではあるが、神と同等の存在ではない。イスラム世界ではジンという人間と天使の間に位置する精霊が想定されている(『千夜一夜物語』(アラビアン・ナイト)に登場する魔法のランプのジンが有名)。

④一神教と多神教の共存                       一神教内部においても、例えばインドのように多神教を信仰してい人々と共存している地域だと、一神教の人々も場合に応じて多神教の聖地を崇拝したり神格のようなものを認知することがしばしば行なわれる。無論、一神教と多神教が両立可能かというのは個々人の解釈にもよる問題であり、成文化された教義と現実的な宗教行為に齟齬が生まれることも多く、宗教と社会の関係は動態的に捉えなければ単純な図式化に陥る可能性が有る。

⑤キリスト教の神―三位一体の神

1)三位一体の神                          キリスト教のうちほとんど(正教会東方諸教会カトリック教会聖公会プロテスタントなど)が、「父と子と聖霊」を三位一体の神(至聖三者)として信仰する。

2)イエス・キリスト                         伝統的なキリスト教の多数派では、ナザレのイエスキリストであり、三位一体(至聖三者)の第二位格たる子なる神であり、完全な神でありかつ完全な人であると理解されている。

3)三位一体論の定式の確認の多くは、古代の公会議正教会全地公会議と呼ばれる一連の公会議)においてなされた。その概念は「使途信条」と「福音の3要素」に明確に現れている。

→使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。 アーメン

→福音の3要素

1コリント15:3 すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 15:4そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと。

*使徒信条は、先ず洗礼式の信仰告白のために、そして異端との区別のために作られたと言われています。又使徒信条には、三位一体の神、福音の3要素が明確に示されています。

4)ヨハネ福音書における神 キリスト教ネストリウス派イスラム教が教典とするヨハネによる福音書 において、「神はことば」である。

⑥イスラームの神

唯一のアラーの神を信じる。旧約聖書創世記において、アブラハムの子であり異母兄弟であるイサクイシュマエルがおり、このうちイサクがユダヤ一族の祖である旨の記述がある。イスラームの聖典であるアル=クルアーン(コーラン)にはイシュマエルがアラブ人の祖であるとの記述がある。 また、インジール(福音書)に描写されたイーサー(イエス)は神性を有する存在ではなく、ムハンマドモーセなどのように神の預言者の一人であるとみなす。

(3)多神教の神

①共存と単一神教                           多神教の例として、インドヒンドゥー教日本神道がある。どちらも、別の宗教の神を排斥せず、それらを神々の中の一柱として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできた。日本でも明治の神仏分離令によって分離される以前は、神道と仏教はしばしば神仏や社寺を共有し混じりあっていた。

多神教においても、古事記の天御中主神のように、原初の神や中心的存在の神が体系内に存在することがある。そうした一柱の神だけが重要視されることで一神教の一種、単一神教とされることもあり、その区別は曖昧である。

②ヒンドゥー教の神

ヒンドゥー教の人間神は、自然神の生まれ変わりであったり、生前に偉大な仕事をなした人であったりする。 現在のヒンドゥー教は、次に挙げる三つの神を重要な中心的な神として扱っている。

シヴァ:世界の終わりにやって来て世界を破壊して次の世界創造に備える役目をしている。

ヴィシュヌ:世界を三歩で歩くと言われる太陽神を起源としており、世界を維持する役目がある。多くのアヴァターラとして生まれ変わっており、数々の偉業をなした人々がヴィシュヌの生まれ変わりとしてヒンドゥー教の体系に組み込まれている。仏教の開祖ゴータマ・ブッダも、ヒンドゥー教の体系においてはヴィシュヌの生まれ変わりとされ、人々を惑わすために現われたとされる。

ブラフマー(梵天):世界の創造と、次の破壊の後の再創造を担当している。人間的な性格は弱く、宇宙の根本原理としての性格が強い。なお、自己の中心であるアートマンは、ブラフマーと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。

③神道の神

1)本居宣長は「尋常(よのつね)ならず人の及ばぬ徳(こと)のありて、畏(かしこ)きもの」と定義したが神道においては、神の定義は一義的には定めにくい。教義と言えるようなものを持たず、歴史的経緯により、様々な異質な要素が混在した信仰であるからである。「八百万の神」と言われ「八百万」は数が多いことの例えである。

2)神道は縄文神道のアニミズムと氏神崇拝に端を発し、古代律令国家によりその体系が整えられたが、陰陽道仏教の影響を強く受け、明確な信仰体系を持たない時代が長く続いた。

明治期に仏教の影響を排除する神仏分離が行われ、一神教を意識した体系として「国家神道」が再構成されている。これにより、神道における神は天照大神から「現人神」とされる天皇に至る皇統を中心として位置づけられた。しかし、この改変は徹底したものではなく、土着的な要素も依然多く残った。

3)第二次世界大戦後、神社神道は国家と分離され、それまで非宗教とされていた神道は宗教として位置づけなおされたが、現在もなお神仏習合国家神道の名残はそれぞれ強く残り、依然として異質の要素が雑然と混在した信仰である。

仏教の影響を受ける以前の神道を「古神道(縄文神道)」と呼び区別する場合もある。明治以降の「国家神道」も、江戸時代に研究が進んだ「古神道」の考え方を多く取り入れて形成された側面がある。

④仏教の神概念

1)原始仏教                             仏教は、本来は神のような信仰対象を持たない宗教であった。原始仏教 は煩悩から解放され解脱されて涅槃の境地に至るための実践の道であり、超越的な存在を信仰するものではなかった。現在は神と同じ様に崇拝されている開祖のゴータマ・シッダルタも、神を崇拝することを自分の宗教に含めず、また自身を神として崇拝することも許さなかった。

2)仏教の変質                            時代が下るにつれ、ゴータマらの偉大な先人が、悟りを得たもの()として尊敬を集め、崇拝されるようになり、仏教は多神教的な色彩を帯びていく。仏教にはヒンドゥー教の神が含まれ、中国の神も含まれ、日本に来ては神道と混ざりあった。仏教が様々な地域に浸透していく中で、現地の神々をあるいは仏の本地垂迹として、あるいは護法善神として取り込んだのである。したがって、仏教も一部の宗派では神を仏より下位にあって仏法を守護するものと位置づけ、ある面では仏自体も一神教の神とほぼ同じ機能を果たしている。(浄土系教派に顕著に見られる)

3)仏教を考える場合、a釈迦の教えと、bそれを継承していった教団のレベルと、c土着信仰を取り込んだ民衆レベルとを混同しないで、それぞれについて議論する必要がある。

釈迦は、人間を超えた存在としての神に関しては不可知論の立場に立ち、ヴェーダーンタ(ウパニシャッド)の宗教を否定・捨てた人であるという主張もある。一方で、釈迦は人間を超えた存在(非人格的)を認めており、ただ単にその理解の仕方がキリスト教やヒンドゥー教などの人格神とは異なるだけという意見もある。

4)浄土真宗親鸞は、和讃において「弥陀の浄土に 帰しぬればすなわち諸仏に 帰するなり」と説いており、阿弥陀如来に帰依すれば、あらゆる神仏に帰依するものとしている。

同様に、現代日本では仏教はもっぱら霊魂の永遠不滅を前提とした葬式を扱う宗教と見られることが多いが、元々仏教では死後も残る(アートマン)のようなものを否定する立場であり、ここにおいても民衆の信仰の形とは大きな差異がある

→釈迦は、自己の魂(アートマン)が死後も残るのかとの議論に対し、回答をしない(無記)という態度をとり、この態度は、アートマンが残り輪廻するというヴェーダーンタの宗教を拒否しているとも受け取れる。

→一般に、仏教では解脱には無用なので神の存在を扱わない。なお大乗仏典華厳経には、人間がこの世で経験するどのようなことも全て神のみ業であるとの考え方は、良いことも悪いことも全て神によるのみとなって、人々に希望や努力がなくなり世の中の進歩や改良が無くなってしまうので正しくないと説かれているが、これは神の存否について議論したものというわけではない。

5)仏像は偶像か

神の姿を可視化して「如何なる像も造ってはならない」(出エジプト20・4)とするユダヤ教、キリスト教から,仏像は偶像だとの批判がある。又、イスラム原理主義者は世界遺産の石像仏を偶像として破壊した。

これに対し、民衆にとって仏教を分かりやすく見える形にしたのが仏像で、一種の方便である。そもそも仏教は神様を祭る宗教ではないので仏像は神ではない。又、ご本尊という物を崇拝しているのではなく、ご本尊として衆生のための方便として現れた阿弥陀如来を崇拝しているのだ。つまり信仰の対象は仏像そのものではなく、その仏像に化身された如来を拝んでいるのだから仏像は偶像ではない、との見解がある。(浄土宗)

(4)学問や自然科学との関係

①一神教を母体として生まれた自然科学

1)ヨーロッパ中世においては「神は二つの書物をお書きになった。神は、聖書という書物と、自然という書物をお書きになった」と考えられていた。よって自然を解明することはそのような被造物を創造した神の意図や姿を知ることになり神の偉大さを讃えることにもなると考えられた。

2)ヨハネス・ケプラーアイザック・ニュートンなども、宗教的情熱で神の意図を知るために自然を知ろうとし、結果として自然科学の発達に大きく貢献した、ということが指摘されている。自然科学が発達した地域が、ほかでもなくイスラム世界やキリスト教世界であったのは、上述のような自然観と神への信仰が原動力となった、ということが指摘されている。それをリン・ホワイトは「近代的な西欧科学はキリスト教の母体のなかで鋳造された」と表現した。

3)実際ヨーロッパでは神の存在について研究する神学は長きにわたって学問上の基礎科目であり、オックスフォード大学ケンブリッジ大学も、ハーバード大学も元は神学校である。 現代でも、科学者のおよそ半数以上が神や超越的な力を信じている、ということがアンケート調査で明らかになっている。

②神なき哲学の出現とその克服

1)ヨーロッパの中世では広く神の存在が信じられ、神を疑う人は稀であった。神が、人々に人生の意味、生きる意味を与えてくれていた。だが、ルネ・デカルトは(当時としては非常に大胆なのだが)神を疑うような考え方を提示し、代わりにego(エゴ)や(cogito)コギト(自己意識)を基礎に置くような思想を展開した(いわゆる「我思う、ゆえに我あり」と要約される思想。『方法序説』などで提示)。

18世紀には哲学者・思想家によって唯物論など神を介しない哲学的な考え方も論じられるようになった。さらに19世紀に自然哲学が自然科学へと徐々に変化し大学で教えられる学問の体系が変化するにつれ、学問体系からは神や人生の意味とのつながりが次第に抜け落ちていった。そして、神を信ずる人の割合は中世などに比べじわじわと減ることになった。

2)そうした一連の風潮を、19世紀にはニーチェが「神の死」という言葉で指摘した。「神の死」はニヒリズムをもたらしがちであるが、ニーチェは、神が思想から失われた時代になっても、神に代わって人々に生きる意味を与えてくれるような、ニヒリズムを乗り越えさせてくれるような思想を打ち立てようとした。20世紀前半、マックス・ウェーバーは、学問体系が「神」や「人生の意味」を失ってしまった状態でそれに取り組むことはどのようなことなのか、その厳しさ・残酷さを学生たちに理解させようとした(『職業としての学問』)。

2、偶像とは何か


(1)偶像崇拝 idolatry

偶像礼拝とは、神でないものを神として、あるいは神のようなものとして崇めること。


ミイラ神仏像,祖先像,聖人像,獣像さらには樹木や岩石などの形象物を崇拝すること。偶像には,神,仏,超自然力などのまったく抽象的な信仰対象に具体的姿をもたせ,人々に明確な信仰対象を与える力がある。


西部アフリカのギニア海岸の bohasum,bossun,コンゴ地方の ngunde,リベリア沿岸の grigri,grugruなどは偶像あるいは呪具として用いられる。またエスキモーでは幼児の死体の日干しを袋に入れ狩猟の呪物とし,アパッチ族では雷火で焼けた木片,ヒダツァ族ではきつねやおおかみの皮などが呪物とされ,ときに偶像の一部に「腹ごもり」として収められている。この点一種の呪物崇拝をなしていると考えられる。


(2)ユダヤ教キリスト教イスラム教などは唯一神の視覚化の不可能性を強調しており,モーセはことにきびしく偶像崇拝を禁じたが,歴史的にはビザンチン・キリスト教会の聖像崇拝が偶像崇拝の嫌疑を受け,聖画像破壊運動 (→イコノクラスム ) が起るなど,唯一神が視覚化されてきた事実もある。


3、古代イスラエルにおける偶像問題


(1)古代イスラエルにおける偶像問題

①イスラエルには厳格な偶像礼拝の禁止規定がある。

a出エジプト20・3「私をおいて他に神があってはならない。いかなる像も造ってはならない」

b申命記6:4「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である」

c申命記7:5「彼らの祭壇をこぼち、その石の柱を撃ち砕き、そのアシラ像を切り倒し、その刻んだ像を火で焼かなければならない」

d申命記18・10)「息子、娘に火の中を通らせる者、占いをする者、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない」


②一方では偶像礼拝への誘惑、風習が襲った。(異邦人の偶像)

aバアル

カナンで崇められていた嵐と慈雨の神、豊穣神。BC2000年頃の北シリア海岸の都市国家ウガリットの粘土板から見られるウガリッド神話の神々

エル:神々の父、世界の創始者→ヤハウエと同一視、天之御中主神と

の類似

アシュラ:エルの妻(バアルの妻との説も)

バアル:慈雨の嵐の神、ウガリッド神話の英雄

アシュラ像

bダゴン像(ペリシテ人の神、バアルの父、海神)→むすこ、娘を火に投じて神々にささげた(申命記12・31)

c預言者、夢占いへの傾斜(申命記13・2)

dバアルの預言者450人、アシュラの預言者400人(1列王18・19)

eソロモンは、シドンの女神アシュトレイト、アンモン人の神ミルコムに従った。モアブ人の神ケモシュ、アンモン人の神モレクに香を焚きいけにえを捧げた。(1列王11・5)

f金の像:金の子牛(出エ32・19)金の像(ダニエル3・1)

gギリシャ神話:12人の神々(使徒17・16)

hエジプトの神:古代エジプトは多神教で、太陽神ラーを根底として、アメン神、オシリス、イシス、アヌビスなど数多くの神々が崇拝されていた。守り神としてコブラや牛、ライオン、ワニなどの姿が用いられた。日本と同じように何でも「神」にしてしまう国で、イスラエル人も長いエジプト滞在でその影響を受け、エジプトの偶像習慣に慣れ親しみ、偶像の神々を礼拝する人たちが増えていった。


③カナン、シリヤ地方の祭祀では、男性神のそばに一女性神を置くのが慣習だった。この女神を祭って豊穣を祈る祭儀は性的なもので、その祭儀が行われる場所は「聖なる高台」と呼ばれ、神殿娼婦が置かれていた。また、カナン人は神殿男娼や娼婦を「神聖な男女」として考えていた。生殖と豊穣が結びついて、豊穣を祈る祭儀に性的な象徴が用いられるのは、現在でも世界共通の現象のようである。


その他、モアブ人の神ケモシ、アンモン人の神ミルコムなどの神々のために聖なる高台が築かれ、祭儀が行われた(列王記第二:23章13節)。このような土地の神々は一括して「バアル」の名で呼ばれることもあったようで、このバアルの聖なる高台で、イスラエルの人々は豊穣繁栄を求めて、神話が語る神々の像を造り、その前で香を焚き、酒を注ぎ、犠牲の動物を焼き、性的放逸に耽り、神殿売春をし、時には息子や娘を火で焼いて捧げることさえ行ったのである(エレミヤ:19章5節)。

(2)偶像の本質                           

①多元宗教(混交宗教、多神教)

もともと、古代メソポタミヤでは、多くの神々から一つの神を選ぶ「単

一神教」「拝一神教(一神礼拝)」といった性格があった。多神教の中に原初の神や中心存在の神が体系内に存在し、やがて啓示により明確な一神教になる。しかし妥協しない独善的と思える一神教は、多神教徒との間に大きな葛藤を生む。


それぞれの良いところを抜き出し集めて作られた多元宗教(混交宗教、多神教)の信仰は絶対的なものではなくなる。イスラエルの信仰は、そのような混交宗教を元々受け入れる余地のないものだった。しかし、「~すべし」「~すべからず」という神の律法は人間の欲望を抑圧するもので、イゼベルに言わせれば「実に時代遅れの、人間性を圧迫し萎縮させるもの」ということになる。この律法の束縛を取り外して、単なる儀式だけのものにすることができれば、全ては解決するという考え方なのである。

②偶像崇拝は、モーセの律法とも言われる「十戒」において、最も重い罪の一つとされてきた。その中では、この罪に当たる行為を非常に具体的に定義し、厳しい罰を科しており、次の事柄が禁じられている。

a「見知らぬ神の像を造ること」「そのような像の前にひれ伏すこと」「あるいは太陽や月のように像はなくても拝まれている自然物の前にひれ伏すこと」(申命記:4章19節)。

b「祭壇、像、アシラの木像、または偶像を立てること」(出エジプト記:34章13節)

c「像を作る金銀を所有して家の中に置くこと」(申命記:7章25~26節)

d「偶像に犠牲を捧げること、特に人を犠牲に捧げること」

eその他、「人が偶像にささげた犠牲を食べること」「見知らぬ神の名によって預言すること」「偶像崇拝に用いられている儀式を採用して神の礼拝に転用すること」が禁じられた。


③一方、罰については、律法は個人が偶像崇拝を行った場合、その人は石で撃ち殺さなければならない(申命記:17章2~5節)とあり、町がこの罪を犯すなら、そこの住民と家畜を殺して、分捕り物も町と共に焼かなければならないと命じている(申命記:13章12~18節)。


しかしこの戒めは、神殿、幕屋、礼拝堂、あるいはその中の装飾については除外されている。十戒を与えた神は、契約の箱を、刻んだケルビムで飾るように指示しており、単にケルビムを芸術品としてそこに置くことは、偶像崇拝ではなかった。このことから、像を造ることが偶像崇拝となるのは、彫像が礼拝や服従の対象となるか、礼拝の不可欠な一部となる場合においてであると思われる。

④また、偽りの神々を拝むことも、刻まれた像を拝むのと同様に、悪いことであり危険であることを理解する必要がある。自然に関連した神々の偶像崇拝には、様々な動物、植物、天候、火山、太陽、月、惑星などを対象とするものが含まれている。例えば旧約聖書のバアルは自然の神となっていて、雨と土の肥沃と関連しており、また太陽の神としても崇拝されていた。


太陽や月に代表されるように、天体を拝むことは最も古い習慣のみならず、全てを貫く力の外的な象徴として、偶像崇拝の最も普遍的なものとして早い時期からあった。これらはカルデヤの平原から始まり、エジプト、ギリシャ、スキタイ、メキシコ、セイロンにまで広がりました(申命記:4章19節、17章3節、ヨブ記:31章20~28節)。


現代の偶像崇拝の対象となるものは、古代のものほど雑ではないが、それでも偶像には違いなく、どんな名誉や富、快楽であっても、それらを神以上に求めるなら、それは偶像崇拝の対象となり得る。


イスラエルの歴史は偶像礼拝との戦いの歴史であった。偶像拒否の姿勢はカナン人の殲滅、マカバイの反乱、ローマへの反乱で証明される。しかし、何故、イスラエルの民は、繰り返し律法を守護することを告げられているのに、度々異邦の神々を拝するのか。(2列王記17・7~12、16・1~18)→そこには、ヤーベは絶対だ。しかしバアルやアスタルテも悪くないといった安易な考えや、異民族との混血による感化、異教の神々の儀式における性的誘惑などもあった。メソポタミアの神々は豊穣の神などもともと幸いをもたらす良い神であったが、聖書では悪魔や怪物として貶められることがしばしばある。


イスラエル民族は、何故真実から逸れて偶像崇拝に陥ったのだろうか。その理由には、目立つ演出、盛観、行列を伴なうなどの、目に見える外形の形に引かれることの他に、罪深い人間にとっては最も大きな魅力の一つである、不道徳な遊興や淫行に関する事柄がある。単純で質素な礼拝儀式と律法における生活を求める農耕民族にとって、この宗教はあらゆる肉欲的な欲情に訴えて、しかも富や流行、贅沢をも添えているので大きな誘惑となった。


また、予言や占い(列王記下1章1節)、常軌の逸脱(ホセア4章12節)は、こうした偽りの宗教の多くに見られる特徴となっている。一般に儀式に携わる人の数は限定されておらず、どのような神への儀式でも男女双方が参加して、不道徳行為を行っていた。

4、キリスト教の聖像論争


(1)キリスト教における聖像問題

① 聖像論争

ローマ帝国内で伝道の方便として使われていたイエスやマリア像などの聖像や聖画が、モーセの十戒第2項「刻んだ像を造ってはならない」に当たるか否かで論争があったが、726年ビザンツ皇帝レオンは、聖像は偶像に当たるとして聖像禁止令を出した。しかし、ローマ・カトリックなど崇拝派は「聖像そのものは神ではなく、聖像を通して神を礼拝する」とし、東西教会は対立し、1054年には相互に破門して分裂した。


②聖画イコン

ギリシャ正教の教会には「イコン」と呼ばれる聖画(カソリックでは聖画像と呼ぶ)が掲げられている。以前はこれが偶像にあたるか否かということで大論争が起ったが、東方教会で、843年「イコン」の使用が認められるようになった。但し、平画像のみで彫刻や立像は認められない。現在は正教、カソリック共に聖画を飾ることを認めている。当時、聖書を読める人が少なかった時代に聖画は聖書を理解させる道案内になった。

③マリア信仰

同様の問題は、カソリックのマリア信仰にも見られる。カソリックのマリア信仰は、当時のオリエント・ギリシャ世界に広まっていた母性信仰・再生信仰と歩調を合わせるものだったという面があるが、マリア像はマリア崇敬の象徴であって、マリア崇拝ではないので偶像崇拝でないとの見解に立った。カソリックは、聖画・聖像・マリア像などを用いて、大衆にキリスト教を浸透させるツールと考えた面がある。プロテスタントはこれらを否定している。

*これらの議論は、神道の神々は偶像に当たるのか否かを考えるヒントになる。神道が崇敬の対象としているもの自体は神そのものではなく神を顕す象徴体と考え、その崇敬するものを通して本質に至ること、即ち象徴を通して神や真理を崇拝するのだという解釈であれば一神教の批判をかわすことが出来るかもしれない。


5、神道の神は偶像か


(1)神道における祭神と神体

①一神教から多神教へ

メソポタミヤ、エジプトでは、最初は一神教だったが、以後崩れて多神教になった。乃木将軍が師事した国学者の渡辺重石丸は、神道は最初一神教だと主張している。先祖の神様に立ち返ること、純化して回帰することが重要であるという。


②古事記と聖書との類似

古事記の記述は聖書の創造・堕落・復活の思想と類似するという見方がある。古事記の造化三神は三位一体の神の暗示、宇宙創成の7日間の示唆、イザナギ・イザナミの堕落(最初の結婚の失敗やイザナミの生殖器の破壊から黄泉に下ったこと)、復活思想(天照大神の復活、イザナギの黄泉からの蘇り)などがそれである。又高天原の歴史は古代イスラエルの歴史と相似するとする見解がある。(紹田照雄氏の論文「古事記神話より見たる日本民族の本質の研究」)


 ③有識者の見解

前述の久保有政牧師は、宇佐八幡宮の主祭神は応神天皇であるが、応神天皇その人を拝むと言うのではなく、応神天皇が崇めたものを礼拝しているのだと指摘し、神道の神の本質はユダヤ教から色濃く影響を受けたユダヤの神と共通神であり、従って偶像でも多神教でもないと主張されている。唯一ユダヤ教だけが神道と共通要素を有すとしている。

歴史家であり神主でもある竹内睦泰史は、ニニギノ命が天孫降臨する際に、天照大御神から授与されたという三種の神器は、「神器そのものに価値があるのではなく、それが象徴するもの(鏡は歴史そのもの、剣は権威、勾玉は御霊)に価値ある」と言っておられる。

④ 神聖なものの象徴としての神体、畏きものとしての祭神

a伊勢神宮に見られるように神道の神体は多くが鏡である。鏡は神が降臨される拠代、真理の象徴であって真理そのものではなく、又偶像でもない。鏡に象徴される背後の真理、神々しいもの(God)を祭っていると考えられる。伊勢神宮の鏡は鏡自体を拝むのではなく、神聖なものの象徴、神聖さを示す象徴で、契約の箱の中の三種の神器(石版アロンの杖、マナの壷)が、偶像ではなく、神聖さを示すものと同じである。幕屋では契約の箱自体を拝んだのではなく、そこに降臨される目に見えない神(ヤハウエ)を拝んだのである。→「目に見えない神を拝む」という共通要素がある。


b神社には本殿に神体(鏡、石、剣)が置おかれているが、これは偶像ではなく、そこに臨在される目に見えないお方の象徴であり、表彰である。仏教、ヒンズー教、ギリシャ神話神社には神々の彫像があるが、神道にはない。従って厳格な意味では偶像崇拝には当たらない。像を造ることが偶像崇拝となるのは、彫像が礼拝や服従の対象となったり、礼拝の不可欠な一部となる場合においてである。


c又、神社に祭られる祭神には、自然、記紀の神々、歴史上の人物、地域の神々などがあるが、これらは日本人特有の神観である「畏きもの」であり全能の絶対神ではない。むしろより高い神に至るための道標と言えるのではないか。


(2) 神道のカミは偶像かー神道の神々は、真理への養育係


パウロが、その方を知らずに拝んでいる。(使徒17・23)といい、旧約聖書を新約の福音への養育係と形容したように、神道の神々をより高い真理への一階段と考えればどうだろうか。(ガラテヤ3・24) 又釈尊が最高真理の法華経へ導くために、今まで仮の教え(方便)を説いて導いてきたと言ったように(法華経方便品第二)、神道のカミを究極の教えに導くための道標と見るのも一つの優れた見方である。

神道の祭神、神体は、究極的な真理に至る中間段階における「カミ」又は象徴であり、祭神を崇めるけれども万能の絶対神として他を排除していない。従って神道のカミは、相対的で多様なカミであるが偶像ではなく、一神教を目指す神である。    (了)

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