◎聖書こばなし(11)ー神、共にあり
▪️マタイ伝1章23節に「その名はインマヌエル、『神われらと共にいます』という意味である」とある。「神が共におられる」ということは、聖書全体を貫く中心的なメッセージであり、聖書は様々な場面で「神様は私達と共におられる」ことを語っている。
▪️神はモーセを召され、口下手だと言って躊躇するモーセに対して、「わたしは必ずあなたと共にいる」(出エジプト3.12)と言われた。
モーセの後継者ヨシュアに対しても、「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない」(ヨシュア記1.5)と明言された。
▪️兄エソウの怒りを避けてハランの地に向かうヤコブが、途上石を枕に仮寝した時見た「ベテルの夢」(神の家)は有名である。
「 わたしはあなたと共にいて、あなたを守り、わたしは決してあなたを捨てない」(創世記28.15)
真っ暗な夜、凍える野原にただ一人、不安と後悔の中で身を丸めるヤコブにとって、神が傍に立って、「見よ、私はあなたと共にいる」と告げられる神様の声はどんなにか励みになり救いになっただろうか。この夢は、後世「ヤコブのはしご」として知られている。
▪️神がギデオンをイスラエルの士師として召されたとき、尻込むギデオンに神は次のように言われた。
「主は言われた、『しかし、わたしがあなたと共におるから、ひとりを撃つようにミデアンびとを撃つことができるでしょう』」(士師記6.16)
▪️神がエレミヤを預言者として召命されたとき、
「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない」と諭され、次のように言われた。
「彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」(エレミヤ1.8)
▪️久保木修己日本UC元会長は、厚木大山頂上で断食祈祷中、劇的な神体験をされた。神は覚悟のほどを問われ、「汝、この信仰を全うする気持がありや。ならば立って山を下り福音を宣べ伝えよ」と。
躊躇する久保木会長に、神は「案ずるな、私が共にある」と釘を刺さされたという。その後宙を舞うような足取りで「別人となって」山を降りたのである。奇しくも1963年2月3日、会長32才の誕生日のことであった。
▪️こうして「神共にあり」は、まさに聖書を貫く主題であり、成約時代における私たちの信仰の旅路において、固く心に刻んでおきたい言葉である。然り、神は共にあり!
以上
◎聖書こばなし(12)ー神の霊の働き(注ぎ)
▪️聖書は神の言葉であり、「神の霊の働き」とその「注ぎ」に満ちている。聖書には神の霊が働いてきた歴史が綴られている。霊とは、「神の愛の活動する力」、即ち神の人格的、非人格的な全ての根本にある神の力の作用」あるいは「神の意を受けた天使や善霊を通しての働き」、つまり「聖なる神の霊」である。
▪️旧約時代の神の霊の働き。神は終わりの時に、全ての人にわが霊を注ぐと言われた。
「神の霊が水の表を動いていた」(創世記1.2)
「ヨシュアは知恵の霊に満ちていた」(申命記34.9)
「そのとき、主の霊が激しくサムソンの上に下った」(士師記14.19)
「主の霊がサムエルの上に激しく下った」(1サムエル10.6)
「神の霊がサウルに激しく降った」(1サムエル11・6)
「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」(1サムエル16.13)
「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」(イザヤ11.2)
「終わりの時に、全ての人にわが霊を注ぐ」(ヨエル書 2.1)
▪️新約時代の聖霊の働き。イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を神から受けて注いで下さった。
【A】イエス様が復活・昇天されるまでの御霊(聖霊)の働き。この場合の聖霊は旧約時代の「神の霊」と同義である。
「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった」(マタイ1.18)
「天が開け、聖霊が鳩のように降って来た」(ルカ3.22)
「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれた」(マタイ4.1)
【B】イエス様が復活・昇天され、聖霊を送ることを約束された(使徒2.33、ヨハネ14.16~17)。
この復活・昇天以後の聖霊こそ、まさにイエス様の相対者としての「霊的母の霊」である。UC創始者は、「聖霊は、サライ・リベカ・ラケルの総合霊、それにマリアの霊が加わったもの」という表現をされたことがある。
「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を神から受けて注いで下さった」(使徒2.33)
「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒1.4~5)
「一同は聖霊に満たされ、色々の他国の言葉で語り出した」(使徒2.4)
「そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った」(使徒4.8)
「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した」(使徒4.31)
「貴方の体は、貴方方の内に住まわれる聖霊の宮である」(コリント6.9)
このように、聖霊は、a.主の証し人であり(1コリント12・3)、b.内住し人を真理に導き(ヨハネ16・13)、c.悔い改めと新生の役事をされ(テトス3・5)、d.慰労・癒し・奇跡の業をなされ(1コリント12・8~10)、e.助け手として宣教を導びかれる(使徒14・4)。
▪️ こうして私たちは、祈りの中で、学びの中で、歩みの中で、常に神の霊、聖霊、即ち「神の聖なる霊」の注ぎを感じなければならない。然り、我ら神の霊と共にあり!
以上
◎聖書こばなし(13)ーヨブ記の世界
▪️ヨブ記は、「人は、何故艱難・試練にあうのか、何故悪人が栄え、義人が苦難にあうのか」という、いわゆる「神義論」(弁神論)がテーマである。ヨブは全くかつ正しい義人 (ヨブ記1.1)なのに、考えられない大艱難に遭遇した。「これは果して愛なる神の業なのか、もし神あらば義人に患難を下し給うは何故なのか」と言ったヨブの問である。
▪️ ウズの地のヨブは 、神を恐れる裕福な義人だったが、サタンに讒訴され、過酷な大苦難に遭遇した。即ち、財産は悉く奪われ、子女は悉く殺され、身は悪い腫れ物に襲われ、最愛の妻さえ彼を罵る始末である。しかし、ヨブは神を呪わなかった。(ヨブ記1章、2章)
「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみほむべきかな』」(ヨブ記1.20~21)
「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(2.10)
▪️内村鑑三は著書『ヨブ記講演』の中で、「この書の中に聖書中の重要な真理が多々含まれており、すべてキリスト教の大真理はヨブ記の中に発芽し、暗示の形において問題提起されている」(P77)とし、ヨブ記は哲学でも文学でもなく、まさにヨブ自身の「実体験」であるとした。
そしてヨブの受難は、当時内村が背負っていた6重苦と重なるものであった。処女作『キリスト信徒のなぐさめ』の中で、「愛する国家と教会から捨てられ、愛する妻加寿子を亡くし、事業に失敗し、貧に陥り、病を得て、全てを失った」と6重の苦しみを告白している。
▪️ヨブは、心配して遠望より訪ねてきた3人の友人と再会するが、そのあと、遂に口を開いて呪いのことばを吐くに至る。
「わたしの生まれた日は滅びうせよ。男の子が胎に宿ったと言った夜もそのようになれ」(ヨブ記3.3)
▪️そして3人の友人と1人の青年との三ラウンドに渡る長い問答が続く(4章~37章)。彼らはヨブを「罪人」と見て、「すべての苦難は罪に対する裁きであり、ヨブは苦難を受けているのだから罪人であり、悔い改めよ」と因果応報論に基づく三段論法で挑んできた。
「あなたの悪は大きいではないか。あなたの罪は、はてしがない」(22.5)
しかしヨブは、「こんな罰を受けなければならないようなことは何もしていない」と言い張る。
「わたしの舌は偽りを語らない。わたしは死ぬまで、潔白を主張してやめない」(27.4~5)
▪️そうして遂に神がヨブに臨んで語られ(38章)、神との対面が実現した。しかし驚くべきは、神はヨブの問いに正面から答えることをなさらず、全く異次元から語りかけられた。神は、自らが全てを創造した超越神であり、世界の主権者であることを強調され、人間の知識や知恵では計り知れない深淵な存在であることを宣言された。
「この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた。『無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え』」(38.1~4)
ヤハウェは自分が為した創造の妙の数々を披露される。即ち、地の基を据えたこと、海を制する力、海の源や地の広がりを知っていること、大雨が降り注ぐ水路を作ったこと、天体の法則を知っていること、星座を導くこと、動物の生態の妙等々。
▪️神は苦難の意味や目的を説明することはされず、神に論争を挑もうとするヨブの傲慢な姿勢を問題にされ、回答できない質問を70以上も投げかけられた。
遂にヨブは、全能の神に圧倒され、自らが神の前に小さな取るに足りない存在であることを悟り、降りかかる運命を甘受していく。
「そこでヨブは主に答えて言った、『私は知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを』。『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、私は自ら悟らない事を言い、自ら知らない、測り難い事を述べました。私はあなたの事を耳で聞いていましたが、今は私の目であなたを拝見いたします。それで私は自ら恨み、ちり灰の中で悔います」(42.1~6)
こうしてヨブは、神の主権の絶対性と絶対愛の前に膝まづき、自分の神への傲慢に気づき塵と灰の上で伏して自分を悔い改めた。ヨブの不満はなくなり、神の祝福も呪いも、すべからく無償の愛に起因していると理解し、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をもうけるべきではないか」(2.10)と告白した以前のヨブに回帰したのである。
▪️内村鑑三は、『ヨブ記講演』の中で、次の通り述べている。
「苦難の臨みし説明は与えられざれど、大痛苦の中にありて遂ついに神御自身に接することが出来、そして神に接すると共にすべての懊悩痛恨を脱して大歓喜の状態に入るのである。ただ神がその姿を現わしさえすれば宜いのである。ただ直接に神の声を聴きさえすれば宜いのである。それで疑問は悉く融け去りて歓喜の中に心を浸すに至るのである。その時苦難の臨みし理由を尋ねる要はない。否苦難そのものすら忘れ去らるるのである。そしてただ不思議なる歓喜の中に、すべてが光を以て輝くを見ふるのみである」(P15)
▪️こうしてヨブは大苦痛の中にあって遂に神御自身の声に出会い、その顔を見て、その瞬間、すべての懊悩は昇華され大歓喜の世界に入ったというのである。もはや苦難の理由を尋ねる必要はなく、ただ不思議なる歓喜の中に導かれ、そして神はヨブが失ったものを倍する恵みと祝福を与えらたのである。(ヨブ記42章)。
以上
Comentarios