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平家物語と日本の政局 諸行無常の世界

◯つれづれ日誌(令和6年2月21日)   平家物語と日本の政局ー諸行無常の世界 

 

ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない」(伝道者の書1.1~4)

 

今年の初め、NHKの大河ドラマ「光る君へ」に触発されたこともあり、本年1年くらいをかけてギリシャ哲学に加えて、日本の古典文学を学び直そうという漠然とした計画を立てました。アウグスティヌスは、人々を救いに導くために、キリスト教の本質を損なうことなく、ギリシャ古典などヘレニズム世界の知識やこの世の教養、即ち人間の言葉を大胆に活用しました。筆者もアウグスティヌスにあやかり、なんとか神の言葉を人間の言葉に翻訳して語れないものかと、身の丈知らずの望みを抱いているものです。 

 

さて日本の古典文学には、『源氏物語』を筆頭に、『枕草子』『平家物語』『方丈記』『徒然草』など多々ありますが、筆者は手始めに『平家物語』(尾崎士郎訳.岩波文庫)から始めました。ところが『平家物語』を読み進むうちに(動画で平家物語の現代語訳朗読がある)、天皇を中心とした平家と源氏の壮絶な攻防、そこに描かれている公家や僧侶や女性たち、とりわけ武士の過酷な運命や生き様、そしてそこに流れる「無常観」にすっかりはまってしまいました。全体が何と壮大な叙事詩なんだろうと、改めて日本文学の素晴らしさを発見したものです。下記の平家物語冒頭の有名な書き出しの言葉に、余すところなく平家物語の無常観の世界、ひいては人間の宿命的な死生観が描かれており、心なしか今の日本の政局、とりわけ後述する自民党の姿とだぶって見え、感慨深いものがあります。 

 

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必哀の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ」(平家物語冒頭)

 

【平家物語の世界ー無常観】 

 

『平家物語』は作者不詳ですが、仏教の中核思想である無常観を背景に、平家一門の栄枯盛衰を描いた軍記物語であり、また叙事詩です。前記の「祇園精舎の鐘の声」に象徴されるように、「この世の全てのものは常に変化・生滅し、永久不変なものはない」という無常観と死生観が流れており、琵琶法師たちによって語り継がれてきました。 



<平家物語の無常観> 

 

平安時代は、いわゆる国風文化が花開き、特に平安中期以降、末法思想が強まると、浄土教の基礎となった 『往生要集』を著した源信(942~1017)や、専修念仏を唱えた法然(1133~1212)に見られるように、浄土信仰が盛んになりましたが、この浄土信仰の背景には日本人特有の無情観が流れています。 

 

ちなみに浄土信仰とは、阿弥陀仏の救いを信じ、死後、この世の穢土(けがれた世界)を去って,仏の住む西方極楽浄土に往生することをねがう信仰で、浄土三部経(『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)で説く教えをもとに、日本でも平安時代後期に貴族や庶民の間で広まりました。源信は死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏(南無阿弥陀仏) をあげることを説き、『往生要集』で説かれている地獄極楽の観念、厭離穢土・欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)の思想は、貴族や武士、庶民らにも普及し、文学思想にも大きな影響を与えました。 後に鎌倉時代初期に活躍した法然の弟子である親鸞(1173~1263)は浄土真宗を起しました。 

 

『平家物語』冒頭の言葉は、全編を貫く「諸行無常」の思想と共に、平家の滅亡の原因を「驕り」だとします。そしてもう一つ、栄華を誇る平家への嫉妬、憎悪、敵意も見逃すことは出来ません。無常観と権力者への憎悪がないまぜとなった複雑な感情こそが、日本人のいう「諸行無常」であり、それを平氏は地でいきました。 

 

平氏の棟梁平清盛(1118~1181)は、武士として初めて太政大臣(律令官制における最高位[一位])に上り詰め、嫡男重盛は内大臣兼左大将(二位)、次男宗盛は中納言兼右大将(三位)、三男知盛は三位中将、孫の惟盛は四位少将と平家が官位を独占しました。その他主な公卿(一~三位の官職)に16人、四位以下の殿上人(内裏に昇殿を許された者)が30人以上で、平家一門は宮中で圧倒的な権勢を誇りました。(『平家物語』岩波文庫P9~10)

 

こうして平治の乱後、平清盛は義妹滋子を後白河法皇の妃とし、滋子が生んだ憲仁親王を皇位につけ(高倉天皇)、さらに、娘徳子を高倉天皇に入内させて、その子安徳天皇の外祖父となるなど、平氏は興隆を極め、平時忠をして「平氏にあらずんば人にあらず」といわしめた時代を築きました。 

 

しかし、独裁は「驕り」によって必ず腐敗するのが世の常であり、1159年の平治の乱で源氏を追い落し、清盛の太政大臣就任(1167)を経て、1185年に壇ノ浦で滅亡するまで、わずか24年で権力の座から転げ落ち、滅びました。正に諸行無常です。 

 

『平家物語』の最後の巻には、安徳天皇の生母徳子が出家して仏門に帰依し、尼になって念仏三昧の生涯を終えるところで終わります。当時は、貴族や武士が、いわゆる世捨て人として出家し、余生を念仏三昧の生活を送ることがよくありましたが、『平家物語』にも多々そのような場面が描かれています。「ゆく河の流れは絶えずして」で始まる『方丈記』の著者鴨長明(1155年~1216)も、「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて」で始まる『徒然草』の著者吉田兼好(1283~1350)も、世捨て人のように仏門に出家し庵に住みました。 

 

「永遠なるもの」を追求し、そこに美を感じ取る西洋人(キリスト教)の姿勢に対し、むしろ日本人の多くは、移ろいゆくものにこそ美を感じる傾向を根強く持っているとされ、無常観は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の大きな特徴でありました。しかし、この日本的美意識は、結局「虚無感」につながり、自己満足や厭世主義に陥り、そこに救いはありません。虚無は、やがて終わりがくること、即ち永遠でないことに起因するからに他なりません。聖書に「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道者の書3.11)とある通り、人は永遠不変なるものに出会って初めて安住するというのです。 

 

<平家物語と伝道の書> 

 

さて、同じく「人生における無常感」を説いた書として、旧約聖書の『伝道者の書』があります。『伝道者の書』は、イスラエルの王ソロモンによると言われており、1章2節、及び12章8節で「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である」という虚無的な思想的立場を取っており、また1章14節では「わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである」と語っています。この「伝道者の書」と「平家物語」の無常観・虚無感・死生観には、共通するものがあります。 

 

この書は、神を抜きにして人生の充足を求めた時のソロモンの自伝ともいわれ、ソロモンは、科学的観察(1.4~11)、知恵と哲学の追及(1.12~18)、あらゆる快楽の追及(2.1~11)、富や事業の追及(2.18~6.12)などあらゆる実験をしましたが、結局神抜きで人生の充足を求めることの虚しさ、そして人間の知恵だけに頼る愚かさを痛感しました。 

 

『伝道者の書』には虚無感に基づいた思想や現実的快楽思想が多分に含まれていますが、しかし一方では神を畏れその戒めを守るべきことを説くユダヤ敬虔思想も少なくなく、本書の最後の言葉がそれを端的に表しています。 

 

「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ』。これこそ人間のすべて」(12.13) 

 

結局、伝道者は 神を知る(恐れる)ことこそ最大の知恵である事を悟りました。同様に釈尊は、「無常」を脱して、永遠に変化せず、生じたり滅したりしない「常住」への悟り、即ち「常」(普遍的真理)への転換を説きました。 

 

こうして、神を知り永遠なるものに出会うこと、仏教的に言えば常住を達観して解脱することに真の救いはあるというのです。このことは、聖書が示すキリスト教の救いではないにしても、平家物語の最後の章、建礼門院徳子の仏門への出家が如実に物語っています。 

 

【諸行無常と政府自民党】 

 

さて筆者は、平家物語の諸行無常の世界を体感しながら、これはまさに日本の政局、とりわけ政権党たる自民党の状況と瓜二つではないかと思ったものです。政府自民党は、昨年6月16日、LGBT理解増進法を強硬可決し、また文科省は同年10月13日、UCの解散命令請求を東京地裁に申し立てました。戦後最悪の二つの間違った選択、即ち反宗教的政策を強硬してしまった政府自民党は、「日本保守党の結党」と「派閥解散」という報復を余儀なくされました。 

 

筆者は、この二つの出来事や一昨年來のUCバッシングの一連の推移をつぶさに見ながら、権勢を極めた奢れる平家が反平家勢力(源氏)の台頭によって滅亡していった平家物語と重なり、その背後にある天の深謀遠慮を感ぜざるを得ませんでした。奇しくも岸田内閣支持率は最低の14%に落ち込み(毎日新聞2月17日調査)、不支持率は82%に達しました。 

 

<日本保守党と派閥解散>

 

2023年9月13日に結成された政治団体「日本保守党」は、現在党員数5万7000人、Xホォロワー33万2000人を数えていますが、そもそも日本保守党が作られたきっかけは、まさにLGBT法案の強硬可決でした。百田尚樹氏らは、LGBT法案は日本の伝統を破壊する天下の悪法と断じ、この悪法を成立させた政府自民党を許せないというやむにやまれない気持ちからの決断でした。この百田氏らの新党宣言に際して、筆者は、1180年8月、以仁王の令旨を受け、伊豆韮山で平家打倒の旗を上げた源頼朝の挙兵を想起いたしました。 

 

また自民党は、政治資金不記載問題に端を発して、今まで党内統治を下支えしてきた「派閥」を、諸悪の根源として、自ら解散させざるを得ない結果になってしまいました。これは、罪なきUCとその信徒を、世論に阿ねて解散請求という理不尽な死刑宣告まで行ってしまったことへの「天の報復」であることは明らかです。 

 

奇しくも第一東京弁護士会会報(令和6年2月号)の 「宗教法人の解散命令について」と題する巻頭言で、元日本弁護士連合会 常務理事の塚田成四郎弁護士は、「民法上の不法行為はいくら多数存在しても反社会性を帯びることはないと考える。不法行為がいくら多数あっても、解散命令の根拠になりえない」と明言されました。 

 

<盛山正仁文科相と旧統一教会の関係報道> 

 

ところで、UCの解散命令を請求した盛山正仁文部科学大臣は、2021年10月の衆院選でUC関連団体の推薦状を受け取り、これにサインした上、選挙支援も受けていたと朝日新聞と週刊新潮が写真付きで報じ、国会で追及を受けています。また、岸田首相がアメリカのギングリッチ元下院議長と共にUC関連団体トップと面会したことや、新たにUC関係団体のイベントの「ICL」(国際指導者会議)に参加した写真もアップされ、更に林芳正官房長官がUC関連団体から「祈必勝」と書かれた千羽鶴を受けとる写真が報じられました。 

 

盛山議員と接触したUC関係者は、盛山議員と10回以上会い、ハグまでされたと証言し、また選挙応援に携わった二人の女性信者は選挙事務所で電話かけを行い、多い時には1日に200人以上も電話し、延べ20人が電話作戦に携わったと明言しました。 

 

盛山文科相は、通常国会で野党側から、友好団体の関係者と共に収まる写真を示され、選挙支援にあたって政策協定を結び、関係者と「ハグした」事実について追及され、「記憶にない」「ハグをした覚えはない」「少し思い出した」などと曖昧な答弁に終始していますが、盛山議員が事実上の「政策協定」にあたる推薦確認書に署名したことは動かせない事実であります。 

 

ちなみにこの推薦確認書には、①憲法を改正し、安全保障体制を強化する、②家庭教育支援法及び青少年健全育成法の国会での制定に取り組む、③LGBT問題、同性婚問題に関しては慎重に扱う、④アジアと日本の平和と繁栄を目指す「日韓トンネル」の実現を推進する、⑤国内外の共産主義勢力、文化共産主義の攻勢を阻止する、という5項目が記載され、自民党保守派の政策とそう違いはありません。 

 

世界日報は、「岸田首相は辞任ドミノを恐れるあまり知らぬ顔をして乗り切ろうとしている」と指摘し、教団との接点が次々と発覚した山際大志郎元経済再生相を辞任させたことを引き合いに、「以前関係があったとして閣僚を外された議員との整合性が保てない」とそのダブルスタンダードを指摘し、「 もともと違法性はない選挙協力を自ら問題にしたのは、首相ら自民党だ。延命のため世論に踊らされたツケは高く付く」と報じ、これを日刊現代(2月17日)が引用しました。 

 

筆者が推測するところ、「こんなに応援したのに、解散請求とはなんと言う盛山議員の仕打ちなのか。恩を仇で返すとはこのことだ」というのが、盛山議員の選挙応援をした二人の女性信徒の率直な心情であろうかと思われます。またUC関係者においては、「前日まで『解散請求は刑事罰に限り、民法の不法行為は入らない』との解釈を国会で表明していた岸田首相が、そそのかされて『民法上の不法行為も含まれる』と一夜で解釈変更したことは腹に据えかねる」との思いがあることは確かです。 

 

元検事の若狭勝弁護士も動画で、盛山文科相が嘘をついているのは明らかで、自らの手による解散請求は、世話になった人を貶めるという行為で、クリーンハンズの信義則の原則に反すると指摘されました。ちなみにクリーンハンズの原則とは、文字通り自分の手がきれいでなければ、他を非難できないという原則であります。 

 

思うに筆者には、二階俊博元幹事長が「宗教団体から応援してもらうことのどこが悪いのか」と正論を述べているように、「政治家がUCと関係を持つことが何故悪いのか、選挙応援してもらうことが何故いけないのか」、さっぱり分かりません。マスコミが、UCはカルトだから、反社的団体だからというので、関係を絶つと岸田首相は言ってしまいましたが、そもそもカルトの定義も曖昧であり、高市早苗経済安保担当大臣は、「反社」の定義は何か、旧統一教会は「ハンシャ」なのかとテレビで問題提起し、「反社団体などと軽々に言ってはいけない」と正論を語りました。結局、当初岸田首相が、ろくろく調べもしないで「UCと断絶する」と言ってしまったことに全ての根因があるというしかありません。 

 

【諸行無常の響きあり】 

 

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とのフレーズほど、日本的情緒や美意識を象徴しているものはありません。 奢れる平家を倒した源氏も、源頼朝の子孫は皆殺害され(頼家・実朝)、頼朝の子孫は断絶し、政権は北条にとって代られました。 

 

歳のせいなのか、筆者は平家物語も近時の政局やUCバッシングも、大きくは絶えず変化する人間世界の一場面にしか過ぎず、壮大な絵巻物を見ているようで、一種の無常観を禁じ得ません。しかし一方、この絵物語は、神の見えざる摂理と深淵なご計画の中で描かれているもので、落ち着くところに収束されていくのではないかと感じており、神の主権の絶対性を固く信じています。 

 

思うにこの日本的無常観は、『平家物語』や『伝道者の書』を見るまでもなく、そこを住みかとして安住するところではなく、無常の中の常、普遍的で永遠なるもの、即ち「神」と出会うことでしか安住できません。虚無は有限であることに起因し、人間の本心は永遠を求めるからです。聖書が、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道者の書12.1)と言っている意味がここにあります。(了)   牧師  吉田宏

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