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キェルケゴール試論① 何故、婚約者レギーネを捨てたのか

○つれづれ日誌(令和2年9月9日)-キェルケゴール試論-何故、約婚者レギーネを捨てたのか

しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ(ルカ10.42)


最近、ある知人から何冊かのキェルケゴール(1813~1855)の古本が送られてきました。昔、人生と愛の問題で悩んでいた時、「キェルケゴールにその答えがあるのではないか」と直感して購入したというのです。是非筆者に読んで欲しいとのことでした。

筆者もキリスト教を学んでいく中で、新正統主義神学のバルトやティリッヒなどキェルケゴールに影響を受けた著名な神学者に出会うことが多々あり、彼らは重要な局面でキェルケゴールに示唆されました。また、統一思想の李相軒氏もキェルケゴールの研究者(『統一思想要綱』P258~263)であることから、以前から関心があり、一度キェルケゴールと取り組んでみたいと思っていました。


【実存哲学の開祖】


キェルケゴールは実存哲学の祖と言われ、彼の「実存哲学」は、無神論に走ったサルトルとは対象的に、「憂愁・不安・絶望」に苛まされた自分(人間)が、いかにして神に帰ろうとしたかの格闘の思想でもあります。


ちなみに実存哲学とは、ヘーゲル哲学が一般的、客観的、普遍的真理を対象にするのに対して、抽象的な概念としての人間ではなく、自分自身をはじめとする「個別・具体的な事実存在としての人間」、即ち「ほかの誰でもない、今ここにいる私」を思索の対象としていることが特徴であります。世界や歴史全体を記述しようとしたヘーゲル哲学に対し、人間の生にはそれぞれ普遍的な世界や歴史には還元できない「固有の本質」があるという見方を示したことが画期的でありました。即ち、実存主義とは、人間としての自己の主体的存在(実存)を哲学の中心に置く思想的立場で、理性を重視する合理主義実証主義対抗しておこり、20世紀思想運動として展開されました。キルケゴール、ニーチェに始まり、ヤスパース、ハイデッガー、サルトルらが代表者でありますが、キェルケゴール、ヤスパースは有神論的立場に、ニーチェ、ハイデッガー、サルトルは無神論的立場に立ちました。実存とは、実際現にこの世に存在することで(現実存在)、ヘーゲル哲学やスコラ哲学では事物の本質は一般的なものとして考えられるのに対して、事物が個別具体的に現実に存在することそれ自体をいいます。


しかしキェルケゴールは実存哲学者であると同時にキリスト教信徒であり、後述するように彼はコペンハーゲン大学神学部に入り、神学部の牧師試験に合格しており、また1848年には回心ともいうべき宗教的転機を体験しています。彼は人間の精神的な実存段階を、享楽的・エロース的な「美的実存段階」、次に良心と正義による「倫理的実存段階」、そして神との関係における「宗教的実存段階」という実存の三段階を唱えました。美的段階では「あれもこれも」という際限なき欲望の中で絶望に陥るとし、倫理的段階でも「あれかこれか」と倫理的であろうとするとやはり行き詰って絶望に直面するとしました。結局、宗教的段階で、自分の全存在をかけて、神とただ一人「単独者」として向き合うことで本来の自己に至ることができるというのです。


人間は自己喪失の中で絶望という「死に至る病」に直面しますが、絶望の深化が、むしろ真の自己につながるとし、挫折の中で信仰を持つものは自らの勝利を見出すと主張しました。そして、倫理的段階から宗教的段階に至るためには「飛躍」が必要であり、飛躍とは非合理性を受け入れることであり、アブラハムのイサク献祭は正にその象徴であるといいます。即ち、著書『死に至る病』で、死に至る病とは「絶望」のことであるとし、絶望は罪であり、この病の対処法としてキリスト教の信仰を挙げ、「神の前に自己を捨てて単独者として立つ」ことにより絶望の病の回復に繋がると主張します。彼は「公衆は一切であって無である。あらゆる勢力のうちで最も危険なもの、そして無意味なものである」といって、大衆の愚かさと無責任さを批判しました。


キェルケゴールは、著作『あれかーこれか』で提起した美的人生と倫理的人生の問題を宗教で解決しようとして『おそれとおののき』『反復』『不安の概念』などを書いていきます。著書には、いわゆる「美的著作」(『誘惑者の日記』『おそれとおののき』『哲学的断片』など)と、「宗教的著作」(『野の百合と空の鳥』『愛のわざ』『死に至る病』『キリスト教の修練』『わが著作活動の視点について』など)がありますが、すべての著作活動は根本的に「宗教的著作」のために書かれたもの、即ちキリスト教の教化のために書かれたと言われています。その意味で彼はキリスト教の布教師でした。工藤綏夫(くどうやすお)著『キェルケゴール』(清水書院)には、次にように記されています。


「しかし、キェルケゴールの本領は、宗教的な著述家としての活動であった。彼のすべての書作は、神を見失った現代人の生が、とどのつまりは虚無の絶望に終わるほかはないことを指摘して、人々の魂の内面に真の宗教性を覚醒させることを願って書かれたものであった」

著書の「死に至る病」というタイトルは、イエス・キリストが、病気で死んだ友人ラザロを蘇生させた際に「この病は死に至らず」(ヨハネ11.4)と述べたことに由来し、また著書「おそれとおののき」という表題は、「畏れとおののきをもって」(ピリピ2.12)を典拠とし、アブラハムのイサク献祭の物語を題材にしています。また、「不安の概念」ではアダムとエバの堕罪物語(創世記3章)を題材に不安を論じています。

そこでこの機会に、キェルケゴールのキリスト教信仰を縦軸に、実存哲学を横軸にして、キェルケゴールの人生と思想を考察したいと思います。

[キェルケゴールの生涯と思想]

キェルケゴールの人生と思想の主なテーマは、「ヘーゲル弁証法哲学への拒絶」、「恋人レギーネとの愛と決別」、「デンマーク国教会との戦い」、の3点が挙げられるでしょう。

その中で今回は、恋人レギーネとの愛と婚約、そして婚約破棄の深層について考えたいと思います。何故なら、このレギーネとの関係の中にキェルケゴールの思想的源泉があるからです。そしてこの問題は、前記古本を送ってきた知人の深刻なテーマでもありました。この知人は、UCに献身(出家)する時、既に結婚を約束した女性がいたというのです。筆者は、こういった境遇におかれた信徒を、この知人の他にも何人か知っています。恋人か出家か、この両者の狭間で葛藤したこの知人は、愛し合いながら恋人と決別したキェルケゴールの生き様に自らを重ね合わせ、キェルケゴールに救いを求めたというのです。送られてきた和辻哲郎著『ゼーレンキェルケゴール』を読みながら、しばしキリスト者の愛とは何か、を考えて見ました。

<キェルケゴールの生涯概略>

はじめにキェルケゴールの簡単な履歴を概観いたします。

セーレン・オービエ・キェルケゴール(1813~1855)は、デンマークの哲学者、思想家、キリスト者で、一般的には実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されています。また、キリスト教、キリスト教神学、倫理学、形而上学、宗教哲学にも造詣が深かったと言われ、むしろ彼の真骨頂はキリスト教神学にあると言っても過言ではないでしょう。コペンハーゲン大学で神学を学んだキェルケゴールは、当時とても影響があったヘーゲル哲学や、形式ばかりにこだわる当時のデンマーク国教会に対する痛烈な批判者でありました。

さてセーレン・キェルケゴールは、1813年、コペンハーゲンの富裕な商人の家庭に、父ミカエル・キェルケゴール、母アーネ・ルンの七人の子供の末っ子として生まれました。コペンハーゲンのヘリーガイスト教会で「幼児洗礼」をうけ、1828年(15才)にはフルーエ教会で「堅信礼」を受けています。父はキェルケゴールを聖職者にしたいと願っていましたので、1830年(17才)にコペンハーゲン大学神学部に入学し、1840年(27才)に大学神学部の牧師試験に合格しました。長兄も牧師になっています。


父親のミカエルは熱心なクリスチャンであり、ミカエルはあることで「神の怒りを買った」と思い込み、彼のどの子供もキリストが十字架に処せられた34歳までしか生きられないと信じ込んでいましたが(実際7人の子供の内5人が32才迄に死んでいる)、それは次の理由によると言われています。

即ち、父のミカエルは幼いころ「自分の貧しい境遇を憂い神を呪ったこと」、もう一つの理由として、「ミカエルがアーネと再婚する前に彼女を力で性交渉により妊娠させたこと」、であるといいます。父ミカエルは繊細でナイーブなクリスチャンだったのです。この、父ミカエルのキリスト教への信仰心と罪への恐れは、色濃く息子キェルケゴールにも引き継がれ、『おそれとおののき』などの作品に多大な影響を与えました。1835年(22才)に父ミカエルから自らの罪を告白されたときのことを、キルケゴールは「大地震」と呼んでおり、この事件の後、彼は父の罪を自らも受け継いでいるという絶望から、暫くふしだらな放蕩生活を送ることになり、この時童貞を失っています。


その父とも和解し、父との約束である神学の国家試験にも取りかかりました。その後1838年8月、父ミカエルは死去いたします。キェルケゴールは日記の中で、「父の死は、父の愛を私にもたらしてくれた最後の犠牲だと私は思っている。将来私がひとかどのものになれるようにと私のために死んだのだから」(工藤綏夫著『キェルケゴール』P60)としたためています。筆者はこの日記のフレーズを読んだとき、我が父の死を想起しました。筆者の父初太郎は、1982年10月9日、79才で交通事故で死去しましたが、父は自らの死と引き換えに、筆者に賠償金を遺して逝きました。正に筆者の将来を期待し、また案じて、筆者のために死んだというのです。そして79才まで現役の農夫であり、病気一つしなかった父は筆者に健康という賜物を与えてくれました。この場をお借りし、心から冥福を祈ります。


そしてもう一つの、キェルケゴールの思想と作品に重大な影響を及ぼしたものとして、本項のテーマであるレギーネ・オルセン(1823 ~ 1904)との婚約とその破棄が挙げられます。1937年、キェルケゴールは初めてレギーネに出会い、3年後の1840年(27才)、17歳のレギーネに求婚しました。彼女はそれを受諾するのですが、その約1年後、彼は愛し合いながらも一方的に婚約を破棄しています。この婚約破棄の理由については、キェルケゴール自身、「この秘密を知るものは、私の全思想の鍵を得るものである」と語り、初期の大作『あれかこれか』『人生行路の諸段階』などは、レギーネとの密接な関係による作品であります。

婚約破棄の原因について、キェルケゴール本人が父譲りの呪われた生を自覚していたこと、清純な乙女であったレギーネを汚すまいとしたこと、はたまた性的身体的理由、など色々言われていますが、筆者は後述しますように、本質的にはキリスト教的純潔思想にあったと考えています。二人は、婚約破棄後、レギーネが1847年にフレゼリク・スレーゲル(1817~1896)と結婚したあとも愛し合っていたと言われており、兄宛の手紙の形による遺言書の中で、レギーネを「私のものすべての相続人」に指定しました。レギーネは遺産の相続は断りましたが、遺稿の引き取りには応じ、かつて封をしたまま送り返された手紙もこのとき彼女の手に渡っています。

このように、父とレギーネの二人はキェルケゴールに最も大きな影響を与えました。和辻哲郎は著書『ゼーレンキェルケゴール』の中で「父は彼を不幸にし、彼はレギーネを不幸にした」と語っています。

1953年から、キリスト者としての自らの使命が国教会の持つ偽りの権威と戦うことだと確信していたキェルケゴールは、1853年1月30日に信頼していた国教会のミュンスター監督が死去し、マルテンセンが後継監督に就任すると、意を決して公然と国教会を批判しました。キェルケゴールは形骸化したデンマーク教会の改革を求めた教会闘争最中に道ばたで倒れ、その後病院で亡くなりました。(享年42才)。

<キルケゴールは何故レギーネを捨てたのか>

キルケゴールはなぜレギーネを捨てた(婚約破棄)のか、「この秘密を解く者は、私の思想の秘密を解く者だ」とキェルケゴーは日記に書いています。

前述の通り、1837年、24才のキェルケゴールは、レギーネを初めて見初めることになり、以来、清純無垢で美しいレギーネを深く愛するようになっていきました。そうして3年後の1840年9月8日、レギーネがピアノを弾いているときに、「わたしが求めているのは、あなたです。この二年の間、私は、いつもあなたを求めてきました」と告白してプロポーズし、そうして婚約することになりました。

キェルケゴールはレギーネを深く愛し、またレギーネもキェルケゴールを深く愛しました。しかし、愛すれば愛するほど、悩みや苦しみが彼を襲い、彼の内には彼女と離れなければならないという思いが起こってきたというのです。彼の宗教的感性(憂愁)は、性的魅力を恐れ斥け、性的衝動の魅力とそれに対する恐怖との間で葛藤したというのです。(和辻哲郎著『ゼーレンキェルケゴール」』P77)

こうしてキェルケゴールは、レギーネを愛すれば愛するほど、自分が彼女にふさわしくないという思いに襲われました。父の罪の呪いと死の予感、父譲りの憂愁な性格、放蕩生活と一度の娼婦との間違いなど、結婚は彼女を不幸にするのではないかとの思いです。そして、キリスト者として愛し合うためには、神を介して愛し合うことが必須であり、神の仲介なくして結婚することは相手を傷つけるという思いは日々募り、レギーネへの愛を自分から突き放すという逆説的な形で愛を貫こう決心したというのです。(工藤綏夫著『キェルケゴール』P66)

「私が著作家になれたのは、本質的には、彼女と私の憂愁のおかげである」と日記は語ります。彼をとらえるために神ご自身がレギーネを必要とされているかのようだ、といえるかもしれません。確かに、レギーネと決別してからの30才からの著名な著書『あれかこれか』『反復』『おそれとおののき』『哲学的断片』『不安の概念』『人生航路の諸段階』は、彼女との愛と決別、そしてその理由付けがテーマになっていると言われています。『おそれとおののき』は、自分がレギーネを手放さなければならなかった理由を、あらためて論じたものです。またこの作品は、旧約聖書にあるアブラハムのイサク物語を題材にしており、レギーネとの愛と決別をイサク献祭になぞらえました。即ち、こうした破局へと彼を駆り立てたのは、宗教的な使命をめぐるキルケゴールの自己理解と言われています。


「神からの要求にそって生きていくためには、自分がもつ最上のものを犠牲としなければなりませんでした。だから私は、あなた(レギーネ)への愛を自らの著作活動の犠牲としたのです」(日記)

そもそも哲学者は、女性と無縁のイメージがあります。ニーチェは著書の中で、「これまで偉大な哲学者で結婚したものがいただろうか。ヘラクレイトス、プラトン、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、ショーペンハウアーらは皆結婚しなかった」と語りました。古代では、「プラトニックラブ」の言葉を今日まで残すプラトンも独身でした。彼の師匠で妻帯者のソクラテスは例外というわけですが、「哲学者が結婚すれば喜劇に終わる」というのを実証するためにソクラテスは敢えて結婚したというニーチェの逆説もあります。事実、ソクラテスの妻クサンティッペは世界三大悪妻の一人と言われています。

大思想家はすべて世俗を捨て、本然性を選びました。仏陀の出家はその好例であります。結婚はこの世とのしがらみに縛られ、本然性の妨げとなるとの観念がありました。使徒パウロの独身の勧め(Ⅰコリント7.7)も同様の理由でありましょう。

[愛の解決]

キェルケゴールは、神の前における単独者として、真の信仰を希求し情熱をもって真のキリスト者となることを願ってやみませんでした。この点統一思想は、「結婚によってレギーネを不幸にするのではないかという不安のために、また恋愛よりも次元の高い理想的な愛を実現しようとして、一方的に婚約を破棄した」と指摘しています。(『統一思想要綱』P263)

筆者は、堕落の原因が性的問題にあることを、繊細で天才的なキェルケゴールの感性は直感的に知っていたのではないかと考えています。著書『不安の概念』で、「原罪を解決するという課題は、アダムの罪を解明する」ことであり、「原罪はいかなる人間の理性によっても理解せられ得ないほどに深刻にして恐怖すべき人間性の堕落であり、それはただ聖書の啓示によってのみ認知せられ信じられるべきものである」(『不安の概念』岩波文庫P41)と記して、アダムとエバの堕罪(原罪)を不安の原因として論じています。彼は、明確ではないにしても、確かに原罪に性的衝動を感じ取っていたのであり、そして無垢な相手を汚せない、父の呪いから相手を不幸にするとも感じていました。こうしてこの婚約破棄は、神とレギーネへの「アガペーの愛の逆説的表現」だというのです。

そして1843年4月16日、聖母教会にて、キェルケゴールはレギーネから心のこもった婚約破棄の「うなずき」を受けることになります。レギーネにキェルケゴールの思いが伝わったのでしょうか。こうして破婚後も彼は生涯レギーネを愛することになりました。少し気取って言えば、「愛は、捨てられることで永遠になった」のです。

ヘーゲルのように「あれもこれも」ではなく、「あれかこれか」です。「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(ルカ10.42)との聖句が思い起こされます。正に、この一度限りの人生に「私がそのために生きそしてそのために死ぬことを心から願うような主体的真理」(21才の「手記」)に会えるかどうか、であります。

さて、カトリックは「淫行堕罪説」を内心認めてながらも、敢えて淫行堕罪説を否定しました。何故なら、解決策なき淫行堕罪説は、即ちキェルケゴールのように「結婚出来ない説」になるからです。信徒の結婚を守るために、淫行堕罪説を否定し、聖職者、修道者、修道女のみ独身制を死守しました。その意味でも、神の仲介と祝福による結婚という解決が待たれるところです。そうして来るべきキリストは、キェルケゴールが生涯見出すことができなかった「聖なる結婚」を司式される方と言えるでしょう。(了)



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