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佐藤優著『池田大作研究』(朝日新聞出版)を聖書観で読み解く② 創価学会の正史と日蓮仏法の教義

◯つれづれ日誌(令和5年12月6日)-佐藤優著『池田大作研究』(朝日新聞出版)を聖書観で読み解く②ー創価学会の正史と日蓮仏法の教義


詮ずるところは、天もすて給え、諸難にもあえ、身命を期とせん。善に付け悪につけ、法華経をすつるは地獄の業なるべし。大願を立てん。なんどの種種の大難出来(しゅったい)すとも、智者に我義やぶられずば用いじとなり。其の外の大難、風の前の塵なるべし。我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん等とちかいし願いやぶるべからず。(日蓮開目抄下)


前回、池田大作氏の信仰体験は、正に戸田城聖との出会いそのものだったと述べましたが、結核の持病を持ち、病弱故に死について考えていた池田氏は、戸田の説法に救われました。戸田は信者への説法の中で、日蓮仏法を説くと共に、南無妙法蓮華経の唱題によって、貧乏から解放されること、病気が治ること、家庭の争いがなくなること、即ち、貧・病・争が解決することを、日蓮仏法に照らし、また自己自身の体験を交えて、力強く雄弁に語ったからです。


池田氏は戸田の話に並々ならぬ真実を見て取りました。この「現世利益」の思想こそ、創価学会の顕著な特徴の一つであり、池田氏は戸田の説法の中で、病気からからの救い、即ち「宿命転換」の道を確かに確信したに違いありません。


【バッシングの王者、日蓮と池田大作】


創価学会とUCは規模こそ比較になりませんが、世間に叩かれたことでは、学会はUCにひけをとりません。正に学会とUCは、マスコミから叩かれた両横綱であります。確かに池田氏は、学会内でこそ神格的な崇敬の対象ですが、学会外では教団と共に激しいバッシングに晒されました。


よく池田氏は、未曾有の迫害に晒されてきたユダヤ人の運命と創価学会をダブらせて、「学会は、いかに叩かれてもユダヤ人のように蘇らなければならない」と語りました。打たれても叩かれても復活したユダヤ人のように、如何なるバッシングに晒されようと復活するというのです。そして学会信者の莫大な寄付(総額355億円の寄付)によって建てられた大石寺の正本堂は、無惨にも日顕法主によって壊されましたが、これをバビロン王によって破壊されたソロモンの神殿になぞらえ、バビロン捕囚後、イスラエルが神殿を再建したように、正本堂を再建しようという信仰をなお維持する信者は少なくありません。


ちなみに正本堂とは、学会の寄進により、1972年に完成した大御本尊を安置するいわゆる本門の戒壇であり、広宣流布達成の象徴と意義付けられた「事実上の国立戒壇」という意味合いがありました。この正本堂が、1998年、学会を破門した大石寺67世法主日顕によって50億円をかけて解体破壊されたのでした。信者の浄財が一夜のうちに無惨にも踏みにじられたこの一件は、多難な学会の歴史を象徴しています。


こうして激しいバッシングに晒されてきた創価学会でしたが、学会が「末法の本仏」と位置付けて崇める日蓮は、それを上回る迫害を被ったというのです。即ち日蓮聖人は、「鎌倉松葉谷草庵焼き討ち」、「伊豆流罪」、「小松原の法難」、「龍ノ口での斬首の危機」など様々な迫害を受け、遂に「佐渡流罪」にされました。佐渡流罪のどん底にあって、なお「天も捨てたまえ、諸難にもあえ、身命を期とせん」(開目抄)とある通り、日蓮はこれらの迫害を法難と捉え、むしろ「法華経を広める者の証」としました。強い意思を曲げることなく法華経を広める日蓮の姿に、心ある人々は感銘したというのです。そうしてこの日蓮の精神に、池田氏と創価学会は大いに学び励まされました。獄中の牧口常三郎も家族への手紙の中で、「災難と云うても、大聖人の九牛一毛(ほんのわずか)です」と綴っており、我がUCも日蓮にあやかりたいと思います。


日蓮聖人     清澄山頂にて宗旨建立      龍ノ口法難


創価学会は、全日本仏教会、新日本宗教団体連合会など仏教界から邪教とされ、保守派からも反日団体と糾弾され、共産党やマスコミからは激しいバッシングを受けましたが、UCも今回の解散請求の件では、カトリックや日本基督教団などキリスト教団から異端として邪教扱いを受け、社会的に厳しく叩かれています。その意味では、正に創価学会もUCも同じ受難を負う運命にあり、それは使命を担う教団の宿命と言えなくもありません。


ただ日蓮は、「真言亡国・禅天魔・念仏無間・律国賊」(四箇格言)と断じて他宗派を激しく批判しましたように、今でこそ対話を重視していますが、当初創価学会は他宗教を厳しく否定しました。その点我がUCは、他宗教を批判したことは一切なく、むしろ全宗教間の対話と一致に心血を注いできた歴史があり、超教派・超宗派活動は最も力を入れてきた分野であります。前記しましたように、11月25日、カトリックや日本基督教団など8つのキリスト教団は、政府のUC解散命令請求申立てを「支持する声明」を出しましたが、これは明らかに信教の自由への挑戦であり、キリスト教界の劣化の象徴と言ってよく、宗教間の対話に尽力してきたUCへの裏切りであります。


【創価学会、日蓮仏法の理念】


さてここで、創価学会や日蓮仏法の理念と教義をおさらいしておきたいと思います。


<創価学会の精神の正史>


創価学会の「精神の正史」と言われる池田大作著『人間革命』の1巻序には、創価学会の基本理念ともいうべき言葉が次のように明記されています。


「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」


創価学会は、日蓮の著作や手紙を編纂した「御書」を根本としていますが、牧口常三郎、戸田城聖、池田大作の三代会長を「永遠の師匠」として神格化する伝統があり、特に戸田城聖の二度の神秘体験を創価仏法の原点と位置付けています。即ち、大生命の悟りと地涌の菩薩の使命を体験した「獄中悟達」と、新宿から新大久保の歩行途中で体験した本門の悟りとされている「路上悟達」は、創価学会の精神的基礎を形成しており、「創価学会の歴史の確信」として、機関誌『大白蓮華』に次のように記されています。


「創価仏法の原点は、いうまでもなく戸田先生の『獄中の悟達』と『路上の悟達』の2つです。これを『創価仏法の原点」と位置付けたのは、池田先生です。1974年4月号の『大白蓮華』で池田先生は、『創価仏法の原点は、いうまでもなく戸田前会長の悟達にあります。この一点をはずして今日の創価学会の思潮の大河はない』と明言しています」


そして2002年と2017年に出された創価学会会憲第3条には、「初代会長牧口常三郎先生、第2代会長戸田城聖先生、第3代会長池田大作先生の三代会長は、広宣流布実現への死身弘法(身を殺して法を弘む)の体現者であり、この会の広宣流布の永遠の師匠である」と明記され、更に創価学会勤行要諦には、三代会長への報恩感謝として、「創価学会初代会長 牧口常三郎先生、第二代会長 戸田城聖先生、第三代会長 池田大作先生を広宣流布の永遠の師匠と仰ぎ、その死身弘法の御徳に報恩感謝申し上げます」と祈念して、題目三唱することが規定されており、いかに三代会長の存在が大きいかが読み取れます。


<本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇>


創価学会は、教義的には「本門の本尊」、「本門の題目」、「本門の戒壇」からなる「三大秘法」を信仰の根本にしています。「本門」とは真実の悟りを顕した法門という意味で、「本門の本尊」とは、弘安二年(1279年)十月十二日に顕わされた一閻浮提総与の大御本尊です(但し、破門以降は大御本尊の認識を変えている)。本尊には人と法があり、大御本尊は、宇宙の法であると共に、大聖人の御生命それ自体と捉え、「人法一箇の大御本尊」と呼んでいます。


「本門の題目」とは、「南無妙法蓮華経」と唱題する題目のことであり、それは仏法の修行でもあります。そして「本門の戒壇」とは、大御本尊が安置されている戒壇であり、取り崩される前までは正本堂が本門の戒壇でした。またそれぞれの信者が題目を唱える場所が、そのまま戒壇になります。そして「三大秘法」といっても、結局は本門の本尊に集約されるので、これを「一大秘法」と呼んでいます。


佐藤優氏は、著書 『池田大作研究』のなかで、本書の目的が創価学会の内在論理をつかむことであるとした上、池田大作の著書『人間革命』の次の言葉を引用しています。


「日蓮仏法の実践は、南無妙法蓮華経の題目を御本尊に唱え、祈ることが根本です。南無妙法蓮華経とは、日蓮大聖人が覚知し、自身に体現した、宇宙と生命を貫く根本の法、万人の生命に具わる普遍の法であります」 (P131)


つまり、宇宙と生命に内在する根本法が南無妙法蓮華経であり、原則朝と晩に、御本尊に向かって法華経の一部を読誦し、「南無妙法蓮華経」の題目を唱える「勤行・唱題」を行うのが、創価学会信者の基本的な信仰実践であるというのです。

<日蓮大聖人の生命哲学>


『日蓮正宗創価学会の教義』(聖教新聞社)は、日蓮大聖人の生命哲学について以下の通り説明しています。


「日蓮大聖人の生命哲学は、釈迦に源を発する仏法の頂点となるもので、その内容は、釈迦仏法を包含しながらも、それを超越したまったく新しい仏法の出現であるといえます。即ち、七文字の法華経たる『南無妙法蓮華経』がそれであり、大聖人はそれを一幅の御本尊として顕現(図顕)され、全人類の信仰の対象とされました(弘安二年十月十二日に顕わされた一閻浮提総与の大御本尊)。南無妙法蓮華経こそ、生命の究極、根源の体であり、絶対の幸福を確立する本源です」(P10~11)


そしてその当体である一閻浮提総与の大御本尊が建立されたことにより、仏教はすべての人々が信仰し、実践できる宗教となることができたとし、大聖人は、一言にしていえば「末法の御本仏」であり、末法の本仏とは悠久の宇宙とともにあり、一切の根底たる生命の究極を悟った仏のことであるというのです。


日蓮大聖人は、入滅前に定めた「六老僧」(日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持)の内、日興上人に法門を相続させ付嘱されたとし、その後、日向らと対立して身延を離山した日興は、富士の大石寺を創建し、この富士門流が日蓮正宗であります。


ちなみに日興と他の五人の弟子(日昭、日朗、日向、日頂、日持の五老僧)との違いは、五老僧が伊勢神宮などの神社の参拝を認めたのに対し、日興は神社参詣を謗法(ほうぼう)として認めなかったこと、五老僧が釈迦の仏像を本尊(釈迦本仏)としたのに対し、日興は日蓮の文字曼荼羅を本尊(日蓮本仏)としたことなどでした。また、大石寺は日蓮の入滅前に日興に対して付嘱がなされたとして「日蓮一期弘法付属書」と「身延山付属書」があったと主張しますが、五老僧など他門流はそれを認めていません。


そうして、釈迦仏法は、二千年の後、その力を失い、既成の仏教は形式化して形骸のみをとどめ、またキリスト教は、夕日のごとく沈んでいっているとし、だれもが容易に実践でき、しかも、成仏への最短コースを現在の生活現実のままで歩んでいける大聖人の仏法は、太陽のごとく、東から昇り(仏法西還)、やがて、全世界を照らすというのです。御書には、随所に広宣流布が予言され、今や創価学会の出現により、大聖人の予言は実証されつつあると主張しています。


<御書根本>


創価学会の教学は、前述の「精神の正史」と共に、御書にはじまり御書に帰着するといわれています。御書は、仏法の究極、生命の法理をあますところなく説いた根本の一書であり、生命の尊厳・平等、民衆の幸福と安穏、地球社会の平和と共生といった普遍性と正統性の思想を持つというのです。(但し、御書の解釈は日蓮他宗派と異なる場合がある)


御書には、日蓮(1222~1282)の著書や信者に宛てた手紙など多数の文献が編纂されていますが、日蓮の著書のうち、「立正安国論」、「開目抄」、「観心本尊抄」、「撰時抄」、「報恩抄」の5編を五大部と呼び、最も重要視されています。その中でも、立正安国論、開目抄、観心本尊抄は日蓮仏法の根幹であります。


『立正安国論』は1260年8月に時の最高権力者である北条時頼(鎌倉幕府第5代執権)に提出した諫言書であります。


当時日本には、地震・暴風雨・飢饉・疫病などの災害が相次ぎましたが、日蓮は本書の中で「相次ぐ災害の原因は、人々が正法である妙法蓮華経(法華経)を信じずに浄土宗(念仏)などの邪法を信じていることにあり 、その故に国土を守る諸天善神が国を去ってその代わりに悪鬼が国に入っているために災難が生ずる」とし、災難を止めるためには「悪法への帰依をやめて正法に帰依することが必要である」としました。即ち、このまま邪宗を放置すれば災害や天変地異が起き、国内では内乱が起こり(自界叛逆難)、外国からは侵略を受けて滅ぶ(他国侵逼難)と主張し、「邪宗への布施を止め、正法である法華経を中心(立正)とすれば国家も国民も安泰となる(安国)」と説きました。


結局日蓮は、その内容に激昂した浄土宗の宗徒により襲撃され(松葉ケ谷の法難)、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年に「伊豆国に流罪」となりました。その後改訂を行い、さらに2回『立正安国論』を提出し、計三回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行うことになります。


次に『開目抄』ですが、この書は1272年、佐渡流罪地の塚原三昧堂で執筆した日蓮の著書です。執筆の背景には法難によって多くの門下が信心に疑問を持ち、退転していった状況がありました。門下の疑問とは、法華経の行者には諸天の加護があるはずであるのに、何故日蓮とその門下に諸天善神の加護がなく迫害を受けるのか、というものであり、日蓮は、今後の布教のためにもこの疑問に答える必要がありました。


先ず日蓮は仏教について、「内外」(仏教とキリスト教など他宗教)、「大小」(大乗仏教と小乗仏教)、「実権」(法華経と方便経)、「本迹」(法華経本門15~28、迹門1~14)、「種脱」(文底の観心と文上の教え)の5重の相対を論じ勝劣を比較した上、「一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底に沈めたり」とある通り、法華経如来寿量品の文底に顕す事の一念三千たる「妙法蓮華経」5字こそ末法の究極の教法と結論づけ、末法に弘通すべき正法であることを明らかにしました。


また日蓮は、「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん等と誓いし願い破るべからず」と宣言しました。この三大誓願は、主(柱)・師(眼目)・親(大船)の表明、即ち末法における「主師親」の主体表明と解されています。


そして法華経の行者が迫害を受け、諸天善神の加護がない理由として、経文や歴史上の先人の例に照らして行者が難を受けるのはむしろ当然であること、行者が難に遭うのは行者自身に謗法の罪があること、行者に諸天の加護がないのは諸天善神が謗法の国を去っているためである、などと弁証しました。


第三に『観心本尊抄』(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)は、日蓮がその独自の教えを説き明かした主著です。即ち、1273年4月、日蓮は自身が図顕した文字曼荼羅本尊の意義を明かした「観心本尊抄」を著しました。本抄では、曼荼羅本尊を受持して南無妙法蓮華経の唱題を行ずることが成仏への修行(観心)であることを示し、日蓮の仏教における実践を明らかにしています。前年に書かれた『開目抄』が日蓮の人間性を明らかにした「人開顕」の書と称されるのに対して、こちらは日蓮の法門(教え)を明らかにした「法開顕」の書として位置付けられています。


本書では先ず天台宗開祖智顗(ちぎ)の『摩訶止観』に説かれた「十界互具」「一念三千」の教理が紹介されます。一念三千とは、地獄から仏界までのあらゆる世界が、お互いにつながりあいながら総計三千の世界を形成している、この仏界を含んだ三千世界が、一瞬の心の動きに内包されている、という論理であり、従って、誰のどんな心の中にでも「仏界」が存在することになるというのです。


そして観心について明かされ(観心とは凡夫が己の心を観じて十界を見ること)、一念三千の世界は南無妙法蓮華経に納まっていることが示されます。末法では本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることが成仏のための観心の修行であるという「受持即観心の法門」が示され、後半では本尊について明かされ、曼荼羅本尊のすがたとその本尊を建立し弘通する人が証されます。 そして日蓮は、釈尊の悟りのすべて、すなわち仏界の全ての様相が『妙法蓮華経』に余すことなく解き明かされていることを指摘します。つまり、仏界は「妙法蓮華経」という五文字の形に集約されているので、「妙法蓮華経」の五字の題目を信じて唱題することにより成仏できるというのです。


こうして日蓮聖人は本書『観心本尊抄』において、心の観察「観心」の論から発展した「南無妙法蓮華経」の題目と、その論拠となる本門に基づく「本尊」とを証しました。この題目・本尊は、地涌菩薩たちに教えを広めるよう託された仏法で、日蓮は末法時代の「地涌の菩薩の棟梁」とし、学会では、戸田城聖や池田大作は広宣流布を託された「現代の地涌の菩薩の棟梁」と位置付けています。


以上、日蓮の主著を概観しましたが、しかし、日蓮は、前述の「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という「四箇格言」(諫暁八幡抄) に見られるように、他宗派の教義を激しく批判しましたので、何度も迫害を余儀なくされました。また、日蓮自身について「日本第一の行者」「日本第一の大人」「一閻浮提第一の智人」と自己規定し、自己意識と個性の強さが目立ちます。この点、内村鑑三も、日蓮の業績を評価しながらも、「日蓮は一方のみにかたよって突出した人物」と述べています『代表的日本人』P172)。


【聖書観(原理観)から見た日蓮仏法】


佐藤優氏は、著書『池田大作研究』において、言論出版事件や夕張炭鉱紛争での問題の本質、そして宗門との争い・破門などを通じて「世界宗教への道」を歩み始めたことなどについて、キリスト者らしい独自の見解を述べていますが、創価学会や日蓮仏法の教義そのものについては、突っ込んだ記述がありません。従って、以下創価学会、及び日蓮仏法の教義について聖書(原理)との対比の中で考察することにいたします。


<創価学会の生命論の検証>


二代会長の戸田城聖は、獄中悟達と路上悟達において、「生命」と出会い、「仏法とは即ち生命」であるという悟りにいたりました。その生命は過去・現在・未来の三世にわたる永遠なもので連続しており、この世の中で死んでも、またつぎの世で生命の活動がなければないとしました。即ち、現在生存する人間は、死という条件によって大宇宙の生命へと溶け込み、なんらかの機縁によって、また生命体として発現する、死しては生まれ生まれては死に、永遠に連続するのが生命の本質であるというのです。いわゆる輪廻転生の思想です。


しかし私たちは、その連続する生命は如何にして生まれたのか、現存する生命はどこからきたのか、そして誰が生み出したのかという生命自体の究極原因について考えざるをえません。戸田は生命は無始無終で宇宙自体が生命と言っていますが、これでは「汎神論」ということになってしまいます。また因果の法則から考えても、生命という結果がある以上、その原因について思いを馳せざるを得ません。全ての森羅万象の第一原因の存在、即ち聖書がいう天地を創造した神の存在(創世記1.1)が是非とも必要であるというのです。


池田大作氏は、しばしば人間性重視、人間中心という言葉を使いますが(この思想自体は悪いものではない)、聖書の世界観は人間中心ではなく、徹底した神中心主義、即ち「神主義」であります。言い換えればヘレニズムとヘブライズムの違いと言えるでしょう。つまり、日蓮仏法には、そもそも創造主たる人格神という概念がなく、また何に生まれ変わるかも知れないという得体の知れない転生の思想では死を克服することはできません。


それは神認識の欠如と共に、戸田城聖が認めない霊魂や霊界の認識が欠如しているからに他なりません。その点、聖書(原理)は霊魂と霊界の存在を前提とした死生観を有し、死とは肉体と霊魂(霊人体)の分離であり、生命は輪廻転生するのではなく、自己同一性を保ちながら、霊魂として霊界で永生するというのです。即ち、仏法には神と霊界(死後の世界)の認識が希薄であり、これは死生観を考える上で致命傷であります。聖書が、「神を知ることは知識のはじめ」(箴言1.7)と言っている意味がここにあるというのです。死の問題を深く考えたという、戸田と池田氏が、日蓮仏法によって果たして生死の問題を解決できたのでしょうか。


<十界と罪>


次に、罪観の問題です。聖書には原罪という観念がありますが、仏法には原罪という観念はありません。日蓮は十界互具ということをいい、もともと人間には十界、即ち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十の境涯があり、地獄・餓鬼・畜生・修羅の否定的な心性(生命)と、声聞・縁覚・菩薩・仏の肯定的な心性(生命)の両面が同時に備わっているので、南無妙法蓮華経を唱題して、肯定的な生命を湧き起こして宿命転換に与るというのです。これが創価学会の人間革命、即ち救い(成仏)の在り方です。


一方、聖書的な救いの在り方は、罪の悔い改めによる回心と、キリストによる罪の贖いによるとしています。またキリスト教では罪の原因を人間の堕落によるとしますが、仏法では、地獄・餓鬼・畜生などの悪い境涯の根拠、いわゆる煩悩の原因について何も語っていません。この点が仏法とキリスト教の大きな違いです。


<御本尊と偶像問題>


最後に、本尊と偶像について考えておきます。創価学会では、「大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊(文字曼荼羅)が信心の根本である」とし、毎日の勤行で、「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます」と唱えています。ちなみに、日蓮宗身延山久遠寺では、本門の本尊を「久遠実成本師釈迦牟尼仏」、即ち法華経寿量品文上に説かれる「釈迦仏」であるとしています。


創価学会に限らず、仏教では仏像にしろ曼荼羅にしろ、信仰の対象を形にし、これを拝むという信仰の形態をとっていますが、キリスト教では信仰の対象を形にすることはありません。出エジプト記には「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」(出エジプト20.3~4)と明記され、信仰の対象である神の像を造ることを厳に禁じています。


イスラム教では「アラーの他に神はなし」として、更に厳格に偶像崇拝を禁じています。つまり、御本尊を生命視する創価学会の信仰の在り方は、キリスト教やイスラム教から見れば偶像崇拝に見えるというのです。


こうして創価学会には、何を御本尊するかの宗派間の争いがあると共に、キリスト教などの一神教からは偶像崇拝ではないかという疑問を呈されているというのです。また、日蓮正宗から破門され、それまで信仰の対象としてきた、弘安二年十月十二日に顕わされた一閻浮提総与の大御本尊を「受持しない」と会則で定めたので、何を究極の御本尊とするかの内部議論も抱えています。


以上、創価学会の正史(創価学会の歴史の確信)と日蓮仏法の教義について、聖書観(原理観)に照らして論考いたしました。次回「佐藤優著『池田大作研究』(朝日新聞出版)を聖書観で読み解く③」は、「創価学会の世界宗教の道ーその光と課題」をお送りいたします。(了)

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