🔷聖書の知識69ー創世記注解⑫ーヤコブ一家エジプトに下る、ヨセフとの邂逅物語
しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。(創45.5)
ヤコブもヨセフも、それぞれ「21年に渡る僕の苦労」や「牢獄の試練」を通過してはじめて、エソウや兄たちを屈伏できる条件を立てることができました。サタンの讒訴があるからです。摂理的中心人物は先ず打たれて天使長圏を屈伏させる道を通った後、アベルの位置を復帰するという原則があるという訳です。
ヨブもまた同じでした。サタンはヨブを讒訴しましたので、神はやむを得ずヨブに試練を与えられました。(ヨブ記1.6~12)
ヨセフは、兄たちにエジプトに売られ、侍従長に仕え、牢獄生活を経た後、神に引き上げられて、一介の異国人が総理大臣にまで登りつめました。田中角栄も顔負けです。
以下では、飢饉でエジプトにやって来た兄たちへのヨセフの試し、ヤコブ一族のエジプト移住、そしてマナセとエフライムの交差祝福などについて考察いたします。
【兄たちとの再会と試し】
ヤコブ一族はエジプトに移住することになりますが、その前に先ず兄たちが先だってエジプトに下っていきました。このヤコブ一族のエジプト移住は、結果としてイスラエルが、家庭、部族集団から民族集団を形成していく摂理であり、ヨセフはその準備として先にエジプトに遣わされたというのです。
ヨセフがエジプトに売られたことは、神の摂理として起こった事件だと言えますが、兄たちに嫉妬されて売り飛ばされた事情がありますので、和解の前に、先ず兄たちが罪を悔いているかどうかの試しがありました。この試しは、2段階で行われ、一回目の試しは次の通りです。
<最初の試し>
カナンに激しい飢饉があり、ヤコブはベニアミン以外の10人の息子たちをエジプトに送りました。兄たちはヨセフと再会し、当時の習慣に従って、顔を地につけてヨセフを伏し拝みました。兄たちはそれがヨセフであることを認識していませんが、ヨセフは兄たちを理解していました。しかし、自分がヨセフであることを伏せておきました。
ヨセフは兄たちを試しました。兄たちを威嚇する荒々しい言葉、スパイ呼ばわり、ベニヤミンがいないことへの詰問、そしてベニアミンを連れてくるまでシメオンを人質にとることなどです。
兄たちのは極めて率直で正直にこたえ、かってヨセフを売ったことへの罪悪感で次のように悔い改めます。
彼らは互に言った、「確かにわれわれは弟の事で罪がある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ」(創42.21)
しかしヨセフは、兄たちはまだ完全には謙遜になっていないと感じ、まだ自分がヨセフであることを明かす段階ではないと思いました。しかし、家族としての情愛は押しとどめ難く、ヨセフは彼らから離れて泣きました。 そして9人が帰り、1人は残ることになりました。
「末の弟をわたしのもとに連れてきなさい。そうすればあなたがたが回し者ではなく、真実な者であるのを知って、あなたがたの兄弟を返し、この国であなたがたに取引させましょう』」(創42.34)
<第二の試し>
兄たちは、食糧などを手にいれ、一旦カナンに帰り、ことの顛末を父ヤコブに報告いたしました。ユダはベニアミンの身を請け合うことを誓ってヤコブの承諾を得、ベニアミンを連れて再度エジプトに下っていきました。ヨセフは同じ母の子である弟ベニヤミンを見て、弟なつかしさに心がせまり、急いで泣く場所をたずね、へやにはいって泣きました。
兄たちは食糧などを携え、再び帰国の途につきました。しかしヨセフは、あらかじめベニアミンの袋に故意に入れておいた「銀の杯」を盗んだと言って、兄たちを問い詰めることになります。ヨセフは、杯を持っているベニアミンを奴隷して留め、ほかの者を帰そうとしました。
そこでユダの執りなしの大弁明が語られます。
「この子供がわれわれと一緒にいないのを見たら、父は死ぬでしょう。しもべは父にこの子供の身を請け合って『もしわたしがこの子をあなたのもとに連れ帰らなかったら、わたしは父に対して永久に罪を負いましょう』と語りました。 どうか、しもべをこの子供の代りに、わが主の奴隷としてとどまらせ、この子供を兄弟たちと一緒に上り行かせてください、この子供を連れずに、どうしてわたしは父のもとに上り行くことができましょう」(創44.18~34)
このユダの執りなしのスピーチは、滅びゆくソドムへのアブラハムの執りなし(創18.23~33)、金の子牛を拝んだイスラエルへのモーセの執りなし(創32.11~14)、を想起させられます。
こうしてユダの話を聞いたヨセフは、自分を制しきれなくなり、声をあげて泣きました。そして遂にヨセフは兄弟たちに、自らがエジプトに売られた弟のヨセフであることを告白することになります。ヨセフは、自らを犠牲にしてでもベニアミンをかばうユダの捨て身の執りなしに心打たれました。ここに至って、かって兄たちに受けた仕打ちは完全に吹っ切れ、全ての疑念は晴れたのでした。
次の聖句は、ヨセフ物語のクライマックスと言われています。
「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです」 (創45.5)
ここには、自らの試練と栄光が、全て神の図らいの中でなされてきたというヨセフの摂理観が表れています。そしてヨセフは弟ベニヤミンのくびを抱いて泣き、すべての兄弟たちに口づけし、彼らを抱いて泣きました。こうしてヤコブの兄弟は一つとなったというのです。
【ヤコブ一族、エジプトに定着】
ヨセフは兄たちに、父ヤコブに自分のことを伝えて、飢饉を避けてエジプトに下ってくるよう促しました。パロもまた、「父と家族とを連れてわたしのもとへきなさい。わたしはあなたがたに、エジプトの地の良い物を与えます」とエジプトに下ってくることを勧めました。
<エジプトに下る>
こうしてヤコブ一族はエジプトに下ることになりました。一族70人の移住でした。僕らを加えれば300人以上の集団になったでしょう。正にアブラハムが象徴献祭に失敗した時の預言が成就しました。(創世記15.13)
先ずヤコブは、国境近くのベエルシバで父イサクの神に犠牲をささげました。神は夜の幻のうちにヤコブに現れ次のように語られました。
「エジプトに下るのを恐れてはならない。わたしはあそこであなたを大いなる国民にする。 わたしはあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう。ヨセフが手ずからあなたの目を閉じるであろう」(創46.4)
ヨセフは車を整えて、父イスラエルを迎えるためにゴセンに上り、父に会い、くびをかかえて久しく泣きました。こうしてヤコブ一族とヨセフとの涙の再会が成就したというのです。
ヨセフはパロの命じた通り、父と兄弟たちとのすまいを定め、彼らにエジプトの国で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えました。こうしてイスラエルはエジプトの国でゴセンの地に住み、そこで財産を得、子を生み、大いにふえ、民族を形成していきました。ヤコブはエジプトの国で17年生きながらえました。
<マナセとエフライムの交差祝福>
ある時、ヨセフは病気のヤコブを見舞うため、ふたりの子、マナセとエフライムとを連れてヤコブに会いにいきます。ヤコブはエフライムとマナセを、ルベンとシメオンと同じようにヤコブの子としました。早く亡くなったラケルを思っての配慮でした。そして二人を祝福しました。
ヨセフの息子を祝福するヤコブ(レンブラント・ファン・レイン画)
イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手を兄マナセの頭に置いて祝福しました。いわゆる交差祝福です。
ヨセフは父が権威の象徴である右の手をエフライムの頭に置いているのを見て不審に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとしましたが、ヤコブはこれを「分かっている」と言って制しました。このように、ヤコブは弟エフライムを兄マナセの先に立てたのです。
さて、ここでも兄よりも弟が先に祝福されています。 アベルとカイン、イサクとイシマエル、ヤコブとエサウ、ヨセフとルベン、エフライムとマナセ、モーセとアロン、ダビデと兄たち、も皆同様です。一体、この弟が兄になり、兄が弟になるという、いわゆる「カイン、アベルの奥義」をどう解釈すればいいのでしょうか。
中川健一牧師によると、先ずこれはヤコブの預言的洞察だと....。確かに後にエフライムは、北の10部族を統合する存在となり、マナセは、ヨルダン川をはさんで、2つの半部族に分かれました。また、資格のないものが子とされ、足りないものが先になると中川牧師は指摘しました。「あとの者は先になり、先の者はあとになる」(マタイ20.16)とある通りです。つまり、足りないものを用いてでもみ旨をなされる神であるというのです。
そして以上が、概ねこの箇所に関するキリスト教の解釈と考えていいでしょう。つまり「深いところは分からない、お手上げだ」ということです。そしてこれはキリスト教神学の最大の論点のひとつであります。
これは、「蕩減復帰摂理」という神学によってしか、整合性ある解釈は出来ません。原理は、人間の堕落の動機と経路に遡って「カイン、アベルの奥義」を解明しています(原理講論P291~292)。確かに原理は、七つの巻物の奥義のひとつを明らかにしました。脱帽です。
【ヤコブ、最後の言葉】
ヤコブは死期が近いことを悟り、12人の子らに遺言とも言える言葉を残しています。そしてメシアの家系につながるユダに対して、次のように祝福しました。
「ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。つえ(王権)はユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う」(創49.10)
ヨセフには次のように語りました。
「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、永久の丘の賜物にまさる」(創49.22~26)
こうしてヤコブは147才で亡くなり、カナンの地のマクペラの畑にある洞穴の墓地に葬られました。まさに大往生とはこのことであります。そしてヨセフは、父ヤコブを手厚く葬ったあと、エジプトで生き、エフライムの三代の子孫を見て110才で亡くなりました。
以上の通りヨセフ物語は終わりを告げました。それにしても壮大な物語でした。そしてイスラエルは、エジプトの地で民族を形成し、メシアのための民族的な基盤となっていくことになりました。次回は、この民族を形成したイスラエルが、エジプトの奴隷のくびきから解放され律法の民となっていく「出エジプト記」を紐解いていきたいと思います。(了)