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キリスト教神学についての考察⑬ 近現代神学の歴史と思想(8) フェミニスト(女性解放)神学とは


🔷聖書の知識192ーキリスト教神学についての考察⑬ー近現代神学の歴史と思想(8)ーフェミニスト(女性解放)神学とは


神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された(創世記1.27)


前回まで、南米の解放神学、北米の黒人解放神学を見てきましたが、今回は解放の脈絡にある「フェミニスト神学」を論じることにいたします。


「フェミニズム」とは、女性解放思想(家父長制的拘束からの解放)、およびこの思想に基づく社会運動の総称であり、政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる「性別による格差」や性差に影響されず「男女が平等な権利」を行使できる社会の実現を目的とする思想または運動であります。男女同権主義に基づく、女権拡張主義、女性尊重主義とも言えるでしょう。


また、「フェミニスト」とは、上記の通り、女性の権利を尊重し、女性に対する不平等の解消を唱える人であります。


【フェミニスト神学】


そして「フェミニスト神学」とは、キリスト教における解放の神学(Liberation Theology)を特に女性の視点から提唱したものと言うことができます。20世紀後半、アメリカを中心に広かった女性解放運動の一部としてフェミニスト神学は始まりました。


<フェミニスト神学の形成>


女性の視点からの最初の神学的批判は19世紀末のエリザベス・スタントンで、アメリカの女性参政権主義者、奴隷制度廃止論者であるスタントンは、『女性の聖書』(1898年)を著して聖書の中の女性差別に注目し、「これは神の言葉を聞きまちがえた男たちの言葉である」とまで言い切りました。確かに聖書は全て男性によって書かれた書であります。


左*エリザベス・スタントン     右*メアリー・ディリー


20世紀後半、カトリック神学者のメアリ・デイリーが著書『教会と第二の性』(1968年)の中で、「カトリック教会は家父長制的であり、家父長制社会を正当化し、女性の抑圧に加担してきた」と批判しました。『教会と第二の性』の発表を機に、女性たちがタブーを破って宗教における性差別を批判し始めました。また著書『父なる神を超えて』(1973年)で、「神が男性であるなら男性が神である」と述べ、宗教全般における女性蔑視を指摘しました。


またフェミニスト神学という言葉を最初に使ったのは レティ・ラッセルで、自著『自由への旅』(1974年)のなかで、「力による主従関係ではなく、対話によるパートナーシップの人間関係」こそ神の意思であると呼びかけました。


更に、エリザベス・シュスラー・フィオレンツァは、その著作『彼女を記念して』(1983年)において、「キリスト教起源における神の女性イメージ」や、「初期教会における女性指導者たちの重要性」などを指摘し、キリスト教のなかで二千年近くも失われていた歴史を再解釈し、その後のフェミニスト神学の一つの道筋を示しました。


これらを契機として、主に女性神学者によって、伝統的神学に見られる父権制的な枠組みや視点を批判・相対化し、神学の方法・歴史・神観・キリスト論ほか、神学全般を問い直す動きが広がっていくことになります。


<フェミニスト神学の多様性>


このような経緯の中で、多様な女性理解がすすむみますが、それはリベラルからラディカルまで多様性のある幅の広いものであります。同じフェミニスト神学でも、性を超えて平等な人間を唱える「リベラルフェミニスト」、女性特有の性への着目と活用を重視する「ロマン主義的フェミニスト」、家父長的な男性社会を真っ向から否定する「ラディカルフェミニスト」などがあります。


また女性解放の理論化は労働者の解放に関するマルクス主義理論の助けを借りて形成された一面があり、そして、「抑圧からの解放」というマルクス主義の理論をよりダイレクトに取り入れたのが「マルクス主義フェミニズム」であります(山田真由著『フェミニズム入門』幻冬舎P104)。


即ち、フェミニズム神学には大きく二つあり、一つは男性に対して敵対的なメアリー・デイリーのように男性排除をするラディカルなものであり、もう一つは男性と女性の両方が「神のかたち」(創世記1.27)に創られたので共に尊敬し合って神の栄光を表そうというリベラルなものです。


なお小原克彦氏は「現代神学講座」で、フェミニスト神学の特徴として、「実体より関係を」、「不変より変化を」、「救済より解放を」、「終末論より生態論を」といったことを挙げています。


【聖書の再解釈、神学の再構築】


前述してきたように、キリスト教における男性中心主義に対する批判とその克服は、神学の在り方を根本的に問い直す「神学の再構築」から始まりました。


<天の父という呼称の修正>


急進的なフェミニスト神学者であるメアリ・デイリー(Mary Daly)は、「父なる神」という象徴こそが女性抑圧のメカニズムを正当化してきたのであり、西洋的家父長制の元凶であると考え、それを厳しく断罪しました。先ず聖書の再解釈として、神を「天の父」と呼んでいること対する女性の視点による聖書解釈の見直しがあり、近年、聖書における神の呼び名が積極的に見直されてきました。


例えば、教会の礼拝で毎日曜日唱えられる「主の祈り」(マタイ6.9~13)において、神は伝統的に「天におられるわたしたちの父よ」(Our Father in heaven)と呼びかけられてきましたが、最近「わたしたちの天の親よ」(Our heavenl Parent)とか、「天にいるわたしたちの父母よ」(Our Father-Mother in heaven)と呼ばれる傾向を見ることができます。

またイエスの呼び名にも「神の息子」(the son of God)を「神の子」(the child of God)と修正することにより、生物学的には明らかに男性であったナザレのイエスの男性性を弱めて、なるべく中性的なイメージでとらえようとします。


これらの試みは「包含的言語」(inclusive language)による聖書翻訳と呼ばれ、フェミニスト神学からの強い影響を受けています。


<神概念の再解釈-天の父から天の父母へ>


聖書には神を王、父、夫、羊飼い、地主、裁き主といった男性の類比で示され、神に対する聖書の像のほとんどが男性であることは確かです。しかし、マクグラスは著書『キリスト教神学入門』 において、「果たして神は男性なのか」と問いかけ、「神を男性とすることも、女性とすることも出来ない。性は被造物の秩序が持つ属性なのであって、創造者である神の属性に、そうした両極性に直接に対応するものがあると考えることは出来ない」と指摘しています(マクグラス著『キリスト教神学入門』教文館P364)。


また、今日多くの女性神学者が、神には男性と女性の特色の結合があると教えている、即ち、父なる神に対して、母なる神という概念があるとした上、「神を父としても母としても想像する。神は男でも女でもない。神は神であり、人間の父性も母性も超越する」とし(同著P365)、聖書の神は性差を越えた神であるとしました。


更にジュリアン著『神の愛の啓示』(1373年)の一節「私は見た。神は我々の父であることを喜ばれる。また我々の母であることをも喜ばれる。神は真の父であり、また真の母なのである」を引用して、神の両義性を指摘しています(同著P366)。ちなみに『神の愛の啓示』はジュリアンという女性がイギリスのノリッジの地で教会に庵を結んで瞑想生活を送り、神から受けた啓示を記した書で、母としてのキリスト像が示されています。


実際イザヤ書には、「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか」(イザヤ49.15)とあり、また「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」(イザヤ66.13)とあるように、いずれも神を「母」と比喩しています。


そもそも神は正義(審き)の神であると同時に慈愛(赦し)の神でもあり、父性的性質と母性的性質の双方の性質を有しておられることは自明の理であり、前述の通り、「神は真の父であり、また真の母なのである」との指摘には妥当性があります。この意味において、神を男性性相と女性性相の中和体とし、神を「天の父母」と呼ぶUCの神認識は理に叶っていると言えるでしょう。


<聖書の矛盾性の克服-文脈的解釈>


さて聖書には、性に関する矛盾する箇所があると指摘されています。例えば、コロサイ書3章18節には「妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである」とあり、また「なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。(1コリント11.8~9)とあります。


一方ガラテヤ書3章28節には、「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」とあり、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1.27)と男女を等しいものとして扱っています。


また、「イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、『あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう』。しかしイエスは言われた、『いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである』」(ルカ11.27~28) と逆説の言葉もあります。


このように聖書には一見矛盾した言葉がありますが、一つの箇所だけを選択的、恣意的、排他的に活用し、自己正当化のために聖書を利用するのではなく、文脈的かつ総合的視点を持ってバランスよく解釈することが肝要です。


<創造の秩序の再解釈>


またフェミニスト神学は、伝統的な「創造の秩序」の解釈に疑義を呈し、創造の秩序を聖書批評を用いて、伝統的な「創造の秩序」を再解釈しました。


「神の像」という概念は、もともと創世記1章27節「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」を中心とするヘブライ語聖書 のいくつかの箇所(創世記5.1~3、9.6)に由来し、そこから、人間は神の像(似姿)として造られているというユダヤ・キリスト教の代表的人間観が生まれました。


しかし、「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り」(創世記2.22)とあるように、歴史の中では、神にかたどられ、神の像とされたのはもっぱら男であり、女が仮に神の像として扱われたにせよ、それは男と比べると不十分なものとして考えられてきたとフェミニスト神学は批判します。


しかし、前述した「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」(イザヤ66.13)といった子を養い慰め庇護する母の姿は、イエスの自己理解の中にも継承されています。マタイ書23章37節の「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう」という表現は、その一例です。


【フェミニスト神学の功罪】


そもそも解放神学は、南米にしろ北米にしろ、神から人間に付与された自由かつ平等な本然の尊厳性を回復する神学運動であり、再臨終末期における本心の自由・人権を希求する必然的な現象と言えなくもありません。


今まで聖書が示した「父なる神」の概念には、自ずと「母なる神」の概念も含まれる、即ち「父」には母や子など家族を代表した言葉という意味があり、父と母を含めて父と呼んだと解釈できると思料いたします。しかし、ここに来て、神をより明確に「父母なる神」と定義し、今まで男性の影に隠れてきた女性を復権させ、文字通り男女が神から付与された賜物を調和的に発揮して、全体として神の創造理想実現に寄与していく時代圏にはいったと言えるでしょう。


つまり、宗教は、父の宗教と母の宗教の両方を兼ね備えるようになり、怒り、裁き、正義の父の宗教だけでなく、ゆるし、慰め、共に苦しんでくれる母の宗教という、この二つが合わさって、信徒の魂は満たされるというのです。従って、フェミニスト神学は、このような歴史的潮流の産物とも言えます。


ただ解放神学は、ともすれば共産主義と親和性があり、体制変革を目指す共産主義と結合して本来の意図から逸脱する危険性を内包しており、この点はよくよく留意することが肝要であり、しっかりした神主義に立たなければならないと思料いたします。


以上、フェミニスト神学について論じてきました。これで、いわゆる解放神学についての解説を終えることにいたします。(了)

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