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哲学の父ソクラテスの哲学、及び金明熙(キムミョンヒ)女史との聖人祝福結婚について

◯つれづれ日誌(令和6年1月3日)-哲学の父ソクラテスの哲学、及び金明熙(キムミョンヒ)女史との聖人祝福結婚について 

 

ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える(1コリント1.22~23)

 

年頭に当たり、今回筆者がソクラテスに関心を持ち、ソクラテスを論評したいと思ったのは次に述べる二つの理由からであります。 

 

一つは、最近知人から、五大聖人の祝福結婚について、特に1998年6月13日、哲学者を代表する聖人ソクラテスと霊肉界祝福結婚された金明熙(キムミョンヒ)女史について、その来歴などのかなり詳しい情報を頂き、認識を新たにしたことです。それによれば金明熙女史は、予定された摂理的女性であったことが述べられており、この金女史と霊肉祝福結婚をしたソクラテスとは一体どういう人物なのかと、大いに注目し興味を抱いた次第であります。 

 

二つ目は、ギリシャ哲学の権威である東大教授の納富信留(のうとみのぶる )氏の翻訳本であるプラトン著『ソクラテスの弁明』の解説講座を何回か聞く機会があり、『ソクラテスの弁明』を読んで、改めてギリシャ哲学の父と呼ばれるソクラテスについて考えることになりました。 

 

経緯は以上の通りですが、以下、ソクラテス、及び金明熙女史について論考することにいたします。但し、ここに記した内容は全て筆者個人の見解であり、筆者の責任において論評するもので、異論があればご指摘下さい。 

 

【ソクラテスとは誰か】 

 

ヨーロッパの思想的源流には二流があり、一つはユダヤ・キリスト教の流れを汲む「ヘブライズム」(神本主義)であり、今一つはソクラテスに代表されるギリシャの古典哲学に源を持つ「ヘレニズム」(人本主義)であります。そしてヘレニズム思想の中心に位置するのが、前5世紀~4世紀のギリシャ哲学であり、イデア論のプラトン、万学の祖アリストテレスと並んで、ギリシャ哲学の祖と言われるのがソクラテスであります。 

 

ちなみに「哲学」とは、世界・事物の根源的で究極的なあり様や原理を、理性または経験によって求めようとする学で、ギリシア語「philosophia 」は「知への愛」を意味します。また、ソクラテスは人間の生き方や価値(よさ)を問い、その根拠を明らかにして、魂へ配慮する(魂を磨く)のが哲学であるとしました。つまり、「~とは何か」「~は何故か」と根っ子から問を発して物事の本質や生きる意義を知的に明らかにして言語化する議論の営みであります。哲学者である東京医科大学教授の西研氏は、哲学は「そもそも何なのか」を問い、「合理的な共通理解」を議論によって得る学であると定義され、価値(よさ)の根拠を問い、生きることを励ますのが哲学の目的だと言われています。


哲学は、超自然的な存在に対する信仰や神霊を前提とする宗教とは対極にある概念であり、神から人間へ降りてくるのがユダヤ・キリスト教に見られる啓示宗教で、人間から神(真理)へ積み上げて向かうのが古代ギリシャに端を発する哲学であると見ることができます。UC創始者は、神の啓示と神霊に直接耳を傾けられながらも、「~とは何か、~は何故か」という根源的な問いかけをされて真理を見出してこられましたので、その意味では偉大な宗教家であると同時に、卓越した哲学者であると言えるでしょう。近年筆者も、神や人間や歴史への抑えがたい探求心と知識欲に目覚め、「~とは何か、~は何故か」という本質的な問と格闘しており、その意味では哲学しているということになります。

 

<歴史の二流>

 

ところで、信仰と理性の融合、すなわち聖書的信仰(ヘブライズム)とギリシャ哲学(ヘレニズム)の融合の歴史はヨーロッパの伝統であり、アウグスチヌスはキリスト教神学にプラトンの哲学を活用し、トマス・アキナスは自己の神学体系にアリストテレスの思想を借用しました。即ちキリスト教神学には、キリスト教の外にあるギリシャ哲学などの知的財産を、「神学的洞察を発展させる手段」として用いる伝統があるというのです(アリスター・マクグラス著『神学のよろこび』P33)。 

 

ヘブライズム思想はユダヤ・キリスト教の一神教の流れで、「神中心主義」「信仰・啓示・預言」「非合理性」「しるし・寓話・象徴・詩文での表現」、などを特徴とします。一方、ヘレニズム思想は、いわゆるギリシャ風の文化で、「人間中心」「理性重視」「合理主義」「論理的思弁的表現」、などが特色であります。いわば、ヘブライズムが神からの思想であるのに対して、ヘレニズムは神への思想であると言えるでしょう。ヨーロッパ、中東地域の文化は、この二つの潮流の中で、あるときは葛藤しあるときは調和して歴史を形成してきました。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵求む」(1コリント1.22)とありますが、この聖句は、ヘブライズムとヘレニズムの特徴を端的に表しています。 

 

しかし、キリスト教神学においては、理性は「神学の伴侶」ないしは「神学の侍女」(トマス・アクィナス)であると言われています。「神学を証すことが出来るのは、信仰をもった理性である」と指摘し、ルターの宗教改革は「信仰と聖書のみ」に基礎をおいて理性による哲学を排除したと言われ、カルバンも、「神の認識は理性ではなく信仰による」と指摘しました。一方、ギリシャ人は理性による思索や哲学を好み知恵を求めました。筆者は、ヘブライズムもヘレニズムも、大きくは神の摂理の中にある歴史の二流だと理解しています。 

 

<ソクラテスの弁明> 

 

さて、『ソクラテスの弁明』とは、プラトンが著した対話篇で、前399年、師匠のソクラテスが身に覚えのない理由で告訴され、裁判にかけられて死刑判決を受けた際に、無実であることを法廷で主張したソクラテスの弁明を、裁判を傍聴していたプラトンの視点から書いたものです。 

 

アテナイ(アテネ)とスパルタとの戦いであるペロポネソス戦争(前431年~前404年)で反国家的な働きをしたり、恐怖政治を主導した青年らを教育した師であるとみなされたソクラテスは、糾弾されました。またソクラテスが「ダイモニオン」(神霊)から諭しを受けていると公言していたことが、「いかがわしい神を輸入した」との非難の原因となり、こうしてソクラテスは、「国家の信じない神々を導入し、青少年を堕落させた」として「涜神罪(とくしんざい)」(神を冒涜した罪)で公訴されました。紀元前399年初頭に裁判が行われましたが、本書『ソクラテスの弁明』はその場面を題材としたもので、ギリシャ哲学の古典とされています。 

 

なお「ダイモニオン」とは、ソクラテスが時折受けていた超自然的・神的な徴(しるし)であり、ソクラテスの幼年時代からあらわれるようになった一種の神霊で、それは常に何事かを諫止(禁止)する形であらわれたと言われています。ソクラテスがこういったことを公言していたことが、「国家の信ずる神々を信ぜずして、他の新しき神霊(ダイモニア)を信ずる」といった訴状の内容に影響を与えたと考えられています。 

 

この告発に対しソクラテスは全面的に反論し、妥協なく持論を述べ、有名な「無知の知」、即ち自分が何も知らないことを知っていることの大切さを説きました。ソクラテスの弟子がデルフォイの神アポロンに「ソクラテスより知恵ある者がいるか」と尋ねたところ、「ソクラテスより知恵のある者はだれもいない」(『ソクラテスの弁明』光文社P29)との神託(デルフォイの神託)に驚いたソクラテスは、自分より知恵のある論客(ソフィスト)を訪ね歩きました。自分が賢明な者ではないと自覚していたからです。しかし結局、誰も知者とは言えず、彼はこの神託の意味を「知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している方が賢い」ことを指しているのだと理解したというのです。そして、人知の価値は僅かにしか過ぎず、「最大の賢者とは、自分が無知であることを自覚する者」、即ち、分をわきまえ節度を知る者と解釈するようになりました。


こうして彼はその「神意」に則り、それを広める「神への奉仕」として、ソフィスト(職業的知識人)達のように報酬を受け取るでもなく、家庭のことも省みず、極貧生活も厭わずに歩き廻っては出会った賢者たちの無知を指摘していくことをライフワークとするようになりました。 

 

しかし結局ソクラテスには死刑が宣告され、ソクラテスは「悪法もまた法である」として理不尽な判決を受け入れ、また魂の不死を真理として信じ、毒杯をあおって従容として死に就きました。いわゆる「哲学死」といわれていますが、弟子たちは「真理のためなら死をもいとわず」との師の精神に衝撃を受けました。イエス・キリストの死をめぐって、弟子たちが後付けでイエスの死の意味を問いかけ、意義付けしましたが、同様に弟子のプラトンらはソクラテスの哲学死を哲学しました。 

 

ところでソクラテスは倫理学の創始者、ギリシャ哲学の父と謂われていますが、イエスや釈尊と同様、一冊の本も残さず、専ら街角でソフィストらの論客との「対話」(ディアロゴス)や「問答」(ディアレクティケー)を重ね、魂と魂がぶつかり合う中で、勇気や正義や節度や知恵の意義、即ち「善く生きる」ことについて深め探求していきました。文字にするよりは、実際の話し言葉こそ、生きた言葉だという信念からです。従って詳細なソクラテスの生き様や思想は、専らプラトンらの弟子が書いた書物に頼る他ありません。 

 

「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める」(1コリント1.22)とある通り、もともとギリシャ人は、知識や言葉を重視し、言葉により事柄を理解し、他人に理解させ、それを再確認していくという学問的な姿勢が旺盛であり、ソクラテスは正にその典型でした。前記した納富教授は、ギリシャ哲学の特徴を一言で言えば「アゴーン」と「コイノーニア」だと指摘されました。「アゴーン」とは競争や論争を意味し、「コイノーニア」は共存、共同体を意味する言葉で、疑うこと、論争すること、批判精神はギリシャ思想の文化とも言えるというのです。 

 

しかし一方では、ソクラテスは魂の不死を信じ、アポロンの神託やソクラテスだけに聞こえたというダイモニオン(神霊)の声に耳を傾けるといった超自然的なものに親和性がある一面もありました。神秘主義(ミスティシズム)とは、神や超自然的なものと言葉を媒介せずに合一すること、即ち言葉を捨てて成り立つもので、その意味ではソクラテスは、言葉(ロゴス)の人であると同時に、神秘主義者でもあったと言えるかもしれません。その意味では真言密教の祖「空海」も神秘主義者でした。

 

<ソクラテスの生涯と思想> 

 

ソクラテス(前470年頃 ~前399年)は、アテナイ出身の古代ギリシアの哲学者で、道徳哲学・倫理学を基礎付け、後生の哲学者たちに絶大な影響を及ぼしました。キリスト、マホメット、釈迦、孔子と並び5大聖人に数えられ、ギリシャ3大哲学者であるソクラテス、プラトン、アリストテレスの中でもソクラテスは哲学の祖と呼ばれています。 

 

父は石工(彫刻家)で、母は助産婦であり、アテナイに生まれ、生涯のほとんどをアテナイで暮らしました。彼の顔は醜かったと言われていますが、身体と精神は強靭で、ペロポネソス戦争において重装歩兵として4度従軍しました。 

 

妻はクサンティッペとミュルトの2人であったとされ(当時は少子化対策で二人の妻が認められていた)、クサンティッペはガミガミ屋でうるさく、モーツァルトの妻コンスタンツェ、トルストイの妻ソフィアと並んで世界三大悪女と揶揄されることがあります。ソクラテスは、「結婚しなさい。良い妻を持てば幸せになるだろう。悪い妻を持てば哲学者になるだろう」との名言を残しています。クサンティッペとミュルトの間に3名の息子をもうけています。 

 

ところで西洋哲学は古代ギリシャのイオニア地方ミトレスで、それまでの神話的な世界観を打ち破り、「万物の原理は何なのか」について考え始めたことから始まり、世界で最初の哲学者とされるタレスが紀元前600年頃、「万物の根源は水である」と唱えました。その後、ギリシャの最大の都市国家として発展したアテネで民主政治が隆盛となり、そこで弁論術にたけたソフィスト(職業的知識人)が台頭し、ソフィストたちは普遍的な真理や正義を否定する相対主義や自己中心に基づく弁論術(詭弁術)を市民に売り込んでいました。 

 

そのような中で、ミレトスで興った事物(世界)の根源的・究極的原理求めようとする哲学に対して、ソクラテスは人間の生き方や価値(よさ)を問い、その根拠を明らかにしていく哲学へと、問の対象を自然から人間へと転換しました。即ち、「勇気」、「正義」、「節度」、「知恵」といった「徳」の本質を追求し、ソフィストらの価値相対主義に危機感を募らせました。「正義とは何か」「徳とは何か」といった「~とは何か」を問い、さまざまな人と議論を行い、対話や問答によって理解を深めていきました。そうして人々に「無知の知」の自覚を促し、そして知と徳、知と行は一致すべき(知徳合一・知行合一)と説いて人望を集めました。しかしその一方で、無知を指摘された人々からは憎悪され、数多くの敵もつくることとなりました。 

 

前記したように、裁判では、ソクラテスは自ら弁明(ソクラテスの弁明)を行い、自説を曲げませんでした。死刑執行が言い渡され、投獄されても、「知への愛」(フィロソフィア)と「ただ生きるのではなく、善く生きる」という正義の意思を貫き、弟子たちから脱獄を勧められても断ったと言われています。 

 

ソクラテスは著書を書かなかったのでクセノポンによるソクラテス関連著作4篇として知られる『ソクラテスの思い出』『ソクラテスの弁明』『饗宴』『家政論』や、プラトンによる『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』などの対話篇群で知ることができます。 

 

クセノポンとプラトンが共通に描いているソクラテスの人物像は、a.金持ちではなく、質素で自制的な生活をしていたこと、b.身体的および知的な鍛錬に勤めていたこと、c.敬神家であり、ダイモニオンの諭しに従っていたこと、d.「善き市民・国家運営者」を養成していくための教育に熱心だったこと、e.問答法のような議論・検討・教授方法を好んだこと、f.特に、道徳・人倫に関わる概念の明確化を試みる議論を好んだこと、g.報酬をもらうソフィストとは異なり無報酬で、誰とでも問答したこと、h.彼を慕う国内外の仲間や弟子に囲まれたこと、などであります。(ウキペディア)

 

こうしてギリシャ哲学とその代表たるソクラテスは、ユダヤ・キリスト教と並んでヨーロッパ文化のもう一つの源となりました。ソクラテスは、哲学の目的は「魂に配慮すべきこと」そして「善く生きること」であると説き、真理に全生命を賭けましたが、プラトンは魂とは何か、善とは何かを明らかにしたと言われています。 

 

【ソクラテスの霊肉祝福結婚と金明熙女史の生涯】 

 

さて、1998年6月13日、3億6000万双世界祝福式「霊肉界の統一祝福式」が米国、NYマジソンスクエアガーデンで挙行され、この時、ソクラテスと金明熙(キムミョンヒ)女史は霊肉界祝福を受け結婚しました。正に驚くべき事実です。他にも聖人祝福は、イエス・キリストと張貞順女史(1971年祝福されていたが再度祝福)、釈迦と崔元福女史、孔子と李京俊女史(元鮮文大学校総長)、マホメットと李貞玉女史がおられます。ちなみにイエスもマホメットも釈迦も孔子も、そしてソクラテスも、霊界通信によると、この結婚に心から感謝していると言われています。 

 

また、特筆すべき霊肉祝福結婚としては、1984年1月2日に自動車事故で死亡された興進様(17才)と朴普煕氏の娘薫淑女史の例が注目されます。美しい文薫淑女史は、清いままその生涯を神と霊界の興進様に捧げられました。何という犠牲、何と言う愛でありましょうか。このような結婚儀式を可能にし司られる方は、まさしく無原罪の罪なきメシアとして誕生された再臨主にしかできないみ業であるという他ありません。なお、文鮮明先生の実子であり金明熙女史の長男喜進様(1969年夏15才で事故死)は、前記の3億6千万双祝福式のとき、数え年8才で聖和された李惠信(イヘェシン)女史と霊人祝福を受けられました。 

 

筆者は、上記の聖人らの霊肉祝福結婚や喜進様の霊人祝福結婚が事実であるとするなら(実際、事実なのだが)、これは驚くべき大事件で、正に歴史がひっくり返る出来事だと改めて事の重大さを深刻に考えざるを得ませんでした。一方、ソクラテスと金明熙女史の霊肉祝福結婚を納富教授が知れば、どういう反応をされるか、その信憑性に疑念を持たれるのがおちではないかと思料しました。 

 

しかし、特に釈迦と崔元福女史との霊肉祝福結婚は、既にネパールの仏教最高指導者も認め、崔元福女史には敬意を表されており、やがて孔子と李京俊女史の結婚も認知され、東洋でしっかりした市民権を得る日も夢ではないと祈念するものです。もちろんイエス・キリストと張貞順女史らの祝福結婚も広く認められ、やがて西洋文化が統一思想と融合することを信じたいと思います。 

 

さて前記の通り、金明熙女史(1930年~2020年4月9日)はソクラテスと霊肉結婚されましたが、ソクラテスは他の聖人が宗教界出身であるのに比して、唯一のヘレニズム世界からの聖人であります。そしてあまり知られていないのですが、金明熙女史の道は、一言で言えばイエスとマリアの蕩減の道を歩まれた方でありました。 

 

日本の統治から解放直後、キリスト教を中心とした7年の出発摂理路程で聖進様(ソンジンニム)の生母崔先吉(チェソンギル)女史は、アダム家庭において不信したエバの立場に落ちてしまい、やむを得ず、天は教会創立前後第二次7年路程で、金明熙女史を、第二アダムであるイエスの時代におけるザカリヤとエリサベツの前に立つマリアの立場として召されたと言われています。 

 

即ち、イエスの母マリアはガブリエルから告げられた天の命に絶対服従し、婚約者ヨセフを差し置いて祭司ザカリヤとの間でイエスを受胎して出産しました。これはエデンの園で天使長が奪っていったエバを復帰して、原罪ない本然のアダムを取り戻す摂理だったと言われています。そしてヨセフとマリアは乳飲み子を連れて、当時摂理的にエバ国家の立場にあったエジプトに逃れ、蕩減路程を経て再びイスラエルに戻ってきました。正に金明熙女史は、その歴史にしこりとなったものを蕩減する運命の道を歩まれたというのです。 

 

ところで金明熙女史は、1930年12月12日、平安北道朔州郡水東面で牧師の父金ヂョンオクと母洪ファクシルの長女として敬虔なクリスチャンの家庭環境で誕生し育ちました。金明煕女史は牧師である父親の影響で小学1年から祈祷生活に目覚め、神霊と真理で信仰生活をされました。「人の子が天の雲に乗って来る」(マタイ24.30)とある通り、再臨主を待ち焦がれ、飛行機が噴き出す白い雲を見ても、「もしかして主が来られるのではないか」と考え、夜には天の星を見て主の啓示を切に求められたと言われています。 

 

初めて文鮮明先生に会われたのは、1953年9月24日であり、1954年1月17日、延世大学英語英文学科三年の時にソウル本部教会で入教されました。その後、金明熙女史は暗記するほど原理原本を学び、全て書き写したということです。 

 

以下は早稲田OBの松田治男氏の提供による情報です。 

 

1954年以後、第2次摂理の花嫁としての召命を受けられた方は、当時延世大学の学生であった金明熙女史であり、1954年1月に梁允永氏と叔母に紹介され、ソウルの清渓川で文先生にお会いされました。後日母親と共に教会を訪ね、文先生にお会いし、母子ともにみ言を受け、花嫁としての使命を与えられましたが、その時文先生は、全てを見通されておられるようだったといいます。

 

その後金女史には、様々な事情で日本に来なければならない路程がありましたが、日本で、喜進様を出産された時、文先生は李花女子大事件で西大門刑務所に拘束されておられた時でありました。日本がエバ国として立つ為に、風穴を開け宣教師(1958年07月15日、崔奉春(西川)宣教師、日本宣教出発)を迎えるための耕しの期間であったと言われています。そして崔奉春宣教師の密航も、金明熙女史のお母さんが助けられたといいます。このような道を歩まれた金明熙女史は、再臨主の血統を日本で生み育て、神様と日本との父子の因縁を結び、愛の心情でひたすら日本の国をエバ国として立てられようとする道でありました。

 

厳しい逆境の日本生活の中でも、金女史は時間があれば、神のみ霊を受けた人たちを探してみ旨を伝え、宣教的努力を続ける密使の本分を果たそうとしたと言われ、また文先生は機会ごとに人づてに書信と費用を送って下さったそうです。しかし金女史は大村収容所に向う直前、一人で喜進様を養育していた時、近隣の男性による侵犯加害で挫折したマリアの立場に立ったと言う風聞があります。 

 

金女史は、大田区雪谷に移って過していた頃(1958年7月頃)、密入国の容疑で捕まり長崎の大村収容所に移送されました。そこで8ヶ月滞在した後、1959年3月31日に下関港を出航し、4月1日、釜山に到着し帰国しました。結果的に金明熙女史は、エバ国としての日本に父子の心情を植えて、無事に帰国することができたのです。み言葉集『御旨と世界』には、「創立以前の内的教会史」と題する重要なみ言がありますが、日本での金女史の歩みは正に「日本教会創立以前の内的教会史」と言っていいでしょう。


実家に帰って数ヵ月後に、喜進様を文鮮明先生の元にお連れすることが出来ました。文先生は、金女史の苦労を労られましたが、自分には子供を沢山生むという健康に自信がない旨を話し、身を退くことになりました。実は金女史は幼少の頃より、何度か若い東洋の女性の夢をみておられ、主の花嫁はこの方であって、自分ではないと考えておられたと言われています。若くて相応しい方がおられるという夢を見て、夢で見た女性を探され、洪ハルモ二の娘さんが、真の母になるための神様が準備した人であることを悟りました。崔元福先生とも相談し文先生にお手紙を出し、若くて美しい花嫁候補としての韓鶴子女史をご推薦されたのでした。 

 

金女史は回顧録で、「真のお母様は清く純粋で、天が準備された本当に大切なお方です。統一教会のシンボルとして、ただ、天のためにお生まれになったお方です」とお母様を証されました。こうして崔先吉女史、金明熙女史と続いた天の摂理は、韓鶴子女史で完結するようになっていたというのです。正に全ては神の摂理の中にあったというしかありません。 

 

なお喜進様は中学生時代の1969年夏、弱冠15歳で自願して慶北金泉を任地として開拓伝道に行かれましたが、しかしその日、8月1日、忠清北道梅浦(メポ)駅近くで予想外の列車事故で殉教の供物になられました。その母子の犠牲の運命を目の前にして、文先生が慟哭される姿を三度も見たと金明熙女史は述懐されました。 金明熙女史は真の父母様の家庭とみ旨のために絶対信仰の生涯を生き、これを土台に1998年6月13日、3億6千万双祝福式でソクラテスを夫に迎え、霊肉界の家庭祝福を受けられ、喜進様は李惠信女史と霊人祝福を受けられました。 

 

そうして2020年4月1日3月9日午前11時1分(天一国8年天暦3月9日午前11時1分)、満89才で聖和されました。お母様は、「祝 神統一韓国時代開門安着忠誠子  聖人祝福家庭 金明煕 女史」との揮毫を下さり、「教会聖和式」をもって、お送りいたしました。 

 

日本帰国後、釜山長老会神学校、ソウル漢城女子大英語英文科を卒業し、1981年には統一神学校で英語を教えられた金女史は、学問に余念がなく、哲学の祖ソクラテスの配偶者らしい正に似合いのカップルではありませんか。また金女史は、若い時からキリスト教的なメシア思想を色濃く持たれた方であり、ヘレニズム世界からきたソクラテスにとって、これ以上ない家庭教師になられることでしょう。この聖人カップルが、ヘブライズムとヘレニズムの調和のために大きく働かれることを願って止みません。 

 

文字通り、葉の陰でひっそりと咲く君影草(きみかげそう)の名で知られるスズランのような人生でしたが、そのみ旨に殉じた金女史を、こうして少しばかり書き留めておくのもみ心ではないかと思います。筆者も目に見える教会歴史の背後に、目に見えない神の摂理の深さを垣間見るような気がして、大いに示唆されるものがありました。 

 

以上、哲学の祖ソクラテス、ソクラテスの霊肉祝福結婚の意義、金明熙女史の生涯、ヘブライズムとヘレニズムなどについて論考いたしました。(了)

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