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高野山訪問記 真言密教の祖空海の世界①

◯つれづれ日誌(令和5年8月23日)-高野山訪問記ー真言密教の祖空海の世界①


阿波の大滝岳に登りよじ、土佐の室戸岬に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す(『三教指帰』序文)


この8月17日、念願の高野山を訪問することができました。和歌山で聖書セミナーがあり、筆者は講師として参加しましたが、セミナー後、真言密教の聖地空海の高野山を訪れ、今もなお空海が瞑想して修行しているという「奥の院」で祈って参りました。



かって『文鮮明 -人と思想』という本を書かれ、アカデミー会長をされた元立教大学総長の松下正寿先生は、「文鮮明先生は一言で言えば空海のような人」と言われたことを思い出します。正に空海は文先生と同じく、一宗派の教祖というにとどまらず、思想、文化、書家、そして事業家として、多様な分野で多彩な足跡を残しました。


今回はこの高野山訪問の機会に、空海とはどういう人物だったのか、空海が帰依した真言密教とは如何なる教えなのか、空海の思想と信仰を原理と対比しつつ考察したいと思います。



【空海の生涯(略歴)】


先ず、空海の主だった履歴について、その概略を記すことに致します。「空海」(774年~835年4月22日)は、平安時代初期の僧で諡(おくりな)は「弘法大師」、真言宗の開祖で幼名は佐伯眞魚(さえきのまお)であります。通名、「お大師さん」と呼ばれています。


仏教が伝来して250年くらい経て、日本仏教が、奈良仏教から平安仏教へと転換していく流れの中で、天台宗の開祖最澄と並び称される空海は、中国より真言密教をもたらしました。また優れた文筆家であり、書家でもあった空海は、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられています。


<誕生から唐に留学するまでの修行時代>


空海は、774年、讃岐の地方豪族佐伯直田公(さえきのあたいぎみ)を父、母は学者家系阿刀氏の出身で、讃岐国多度郡(香川県善通寺市)に生まれ、幼名は真魚(まお)と言いました。空海は、幼少の頃から優れた利発さを見せ、さながら神童のように言われて成長しました。


788年(14才)、平城京に上り、789年、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の叔父である儒学者「阿刀大足」(あとのおおたり)について論語、孝経、史伝、文章などの漢学を学びました。


792年、18歳で官吏の養成を目指す京の大学に入り、経道・春秋左氏伝・毛詩・尚書などの儒教や中国古典を熱心に学びました。


しかし793年、大学での勉学内容に飽き足らず19歳を過ぎた頃大学を中退し、山林での修行に入りました。大学在学中、一沙門(修行僧)より「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)を教えられました。また『大日経』と出会い、密教経典にも手を伸ばしました。


797年、24才で儒教、道教、仏教の優劣を論じた処女作『三教指帰』(さんごうしき)を著しています。『三教指帰』には、求聞持法を修めたこと、室戸岬の洞窟である御厨人窟(みくろど)で100万回の求聞持法唱え、「口から明星が飛び込んでくる」という神秘体験をし、神との合一を果たしたことが記されています。


ただ、空海の20才~31才までの足取りの詳細は不詳であり、空白となっています。


なお空海の得度については、入唐直前、東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されています。


<唐への留学>


804年(31才)、中国語の能力の高さや医薬の知識面での能力、そして叔父阿刀大足の後押しもあり、遣唐使の長期留学僧(20年)として唐に渡ります。この第18次遣唐使一行には、貴族の「橘逸勢」や当時の仏教界で既に確固たる地位を築いていた「最澄」もいましたが、空海はまったく無名の一沙門でした。従って、空海は20年の自力の留学生、最澄は官費による短期の還学生でした。


804年7月、肥前田浦を出航し、途中で嵐にあい難航しましたが、804年8月10日、福州に漂着しました。一行は海賊の嫌疑をかけられますが、空海の嘆願書の理路整然とした秀逸な文章と優れた筆跡により遣唐使と認められ、同年12月23日に長安に入りました。


805年5月、空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の「恵果」を訪ね、以降約半年にわたって師事しました。恵果は空海が既に十分な修行を積んでいることを初対面で見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は6月13日に胎蔵界灌頂、7月に金剛界灌頂を受けました。


また8月10日には阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する「遍照金剛」(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられたというのです。


8月中旬以降には、曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われ、恵果からは 伝法の印信である「阿闍梨付嘱物」を授けられました。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 →不空→恵果と伝えられてきた仏舎利、金剛尊像など8点、恵果から与えられた袈裟や供養具など5点の計13点であります。なお恵果は空海に託すがごとく805年12月15日入滅しました。


そして、806年3月(32才)に長安を出発し、帰国の途につきましたが、空海は本来20年の留学僧だったので、2年で切り上げての帰国は朝廷との約束を破る違反行為でした。


途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開いたため、後に「大宝寺」は西の高野山と呼ばれるようになります。


<唐より帰国し入定するまで>


806年10月(32才)、空海は無事、博多津に帰着しましたが、違反帰国により大宰府に留め置かれ、三年間を筑紫の観世音寺で過ごしました。10月22日付で、唐から持ち帰った多数の経典類、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付嘱物などの目録である「請来目録」(しょうらいもくろく)を朝廷に提出しました。


809年(35才)、最澄の尽力もあり、許されて入京し「高雄山寺」に入りました。その後、最澄と空海は10年程交流関係を持ち、密教の分野に限っては最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていました。しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、816年(42才)に訣別しています。2人の訣別に関しては、最澄からの「理趣釈経」の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の愛弟子泰範が空海の下へ走った問題もあると言われています。


809年、平城天皇に代わって嵯峨天皇が即位し、文化人であった嵯峨天皇と空海は親密な関係になります。翌年薬子の変が起こったため、嵯峨天皇のために「鎮護国家の大祈祷」を行いました。この頃から本格的な密教の布教活動を行います。


813年(39才)、京都の「高雄山寺」にて金剛界結縁開壇、さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇し、入壇者は最澄を始め、その弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼりました。


813年7月、国家護持のための趣意書である名文の「願文」を執筆し、空海の名を世に知らしめました。


816年(42才)、密教修行の道場建立のため「高野山」の下賜を請うて勅許され、早速弟子をつかわして高野山を整備させました。そして同地に「金剛峯寺」を建立しました。この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』などを立て続けに執筆しています。


821年(47才)、地元に請われ、讃岐の「満濃池」(まんのういけ)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導きました。


822年(48才)、東大寺に灌頂道場(真言院)を建立しました。平城上皇に灌頂を授けたのもこの道場でした。823年(49才)、嵯峨天皇より「東寺」を賜り、ここを密教の根本道場とします。 これより832年高野山に隠棲するまでは、空海の東寺時代でした。


824年2月(50才)、勅により神泉苑で「祈雨法」(雨乞い)を修しています。


828年(54才)、「大僧都」になり、東寺の東に私立の教育施設「綜芸種智院」を開設し内典・外典を教授しました。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていませんでしたが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた学校でした。また、空海の主著と言える『秘密曼陀羅十住心論』と、これを簡略した『秘蔵宝鑰書』(ひぞうほうやく)を書きました。


やがて病を得て高野山に隠棲し、死病に抗って醜態を晒すことなく荘厳な死を遂げることを願い、五穀を断って肉体を衰えさせた末、835年3月21日に入同地にて入定し、荼毘に付されました。享年62才。921年、醍醐天皇より「弘法大師」の諡号(しごう)を賜わりました。


【求道時代の神秘体験】


以上、上記の通り空海の生涯の要点を概観しましたが、以下の項で特に幼少期から入唐するまでの求道時代の空海について、つぶさに見ていくことにいたします。


<大学を去る>


上記で見てきた通り、幼少の頃から秀才の誉れ高かった空海は、叔父の阿刀大足から論語、孝経、史伝、文章などを学びました。7才の時、近くの「捨身ガ嶽」(しゃしんがだけ)に登り、谷底めがけて飛び降りましたが、天女が現われ、真魚をしっかり受けとめたという伝説があります。


空海は、中央の官吏としての栄達を望む父母の期待を受けて18才で大学に入り、勉学に励みました。しかし、儒学を始めとする大学の学問が、浮世の処世を説く学問としか思えず、空海の渇望する宇宙と生命の真実について何ら解答を与えてはくれないとの限界を感じていました。


翻って仏法は世俗の理を超越して普遍的真理を追求していることを感じ、経書を暗誦するのみの学問に飽きたらず、この世を動かす大宇宙の原理を知りたいという飽くなき欲求に突き動かされ仏門に出家する決意をします。不忠不孝と謗しられつつ、大学を飛び出し山岳修行することになり、こうして官の許可のない「私度僧」となった空海は、ふとしたきっかけから虚空蔵菩薩の秘術を知ることになります。


<虚空蔵求聞持法と神秘体験>


前述の通り、19才で大学を中退し、空海は山林での修行に入りました。この頃、一沙門(修行僧)より、「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)の真言を百万回唱えると悟りを得るとの秘術を受け、阿波の大瀧岳(たいりょうのたけ)や土佐の室戸岬などで求聞持法を唱えながら修行しました。そして室戸岬の洞窟(御厨人窟)で100万回の求聞持法を唱えていた時、遂に「輝く明けの明星が口の中に飛び込んでくる」という神秘体験をすることになります。


明けの明星(金星)は虚空蔵菩薩の化身とされており、この体験こそ虚空蔵求聞持法の真髄であり、またこの体験こそ虚空蔵菩薩と一体化した瞬間であり、正に原理でいう「神人愛一体理想」という信仰体験でした。空海の24才の時の処女作『三教指帰』(さんごうしき)には、「阿波の大滝岳に登りよじ、土佐の室戸岬に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す」 と記しており、正に空海の真言密教探求の「一丁目一番地」になりました。


ちなみに「虚空蔵求聞持法」とは無限の智慧と記憶と慈悲を持った菩薩である「虚空蔵菩薩」を本尊として修法する修行で、一定期間のうちに虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱える者は、あらゆる経典を瞬時に理解して記憶する能力が得られるという荒行です。『三教指帰』序には次のように記されています。


「ここにひとりの沙門あり、余に虚空蔵求聞持を呈す。その経に説く、もし人、法によってこの真言一百万遍を誦すれば、すなわち一切の教法の文義、暗記することを得る」


多分に巫人的体質(霊媒体質)を持ち超自然的神秘の存在に馴染む空海は、我が身に電撃的感応を与えてくれるこれらの秘術に強い関心を抱きました。室戸岬の洞穴で得た神秘体験は、正に儒教的教養を完全に打ち砕き、肉体を地上に残したままその精神を神的世界に没入させる決定的な契機となりました。見えるものといえば空と海のみの洞穴の中で、夜明けの明星が衝撃とともに口中に入るという体験をしたことこそが「空海」の名を名乗るきっかけとなり、彼をして後の弘法大師たらしめる最初の一歩となったというのです。


<大日経との出会い>


以後、空海は畿内や四国の山林を徘徊して修養に励む一方、諸寺を巡って万巻の経典を読み漁り、遂に『大日経』に巡りあうことになります。この世のすべての現象は大宇宙の真理である大日如来の一表現であり、諸現象の大本であるこの普遍的原理の中に入り込み、原理そのものと一体化する「即身成仏」こそ究極の目的と説くその思想に空海は激しく魅了されます。


さて真言宗が重要とする経典は3つあり、「大日経」「金剛頂経」「理趣経」であります。「金剛頂経」は即身成仏するための修行法を説いている実践のための経典であり、「理趣経」は 真実の知恵(般若)の極致(理趣)は、現実の愛欲や欲望をそのままの形で汚れないものとして肯定できる立場(一切法自性清浄)であり、この苦楽を超越した絶対境(大楽)が悟りであると説いています。


そして真言宗で根本経典とされる「大日経」は、『大毘盧遮那経』(だいびるしゃなきょう)といい、大乗仏教における密教経典で、八世紀に漢訳されました。一般の仏教は悟りに至る道筋を理論的に説く傾向があるのに対して、密教経典では、悟りの境涯を感性、知情意のすべて全身で体得することを強調し、これらは空海が求めていたものでした。


仏教の経典は教祖である釈尊が説いた内容を弟子が聞き取ってまとめあげた形式になっており「如是我聞」つまり「このように私は仏から聞いた」という出だしから始まりますが、大日経では宇宙の真理を神格化した大日如来が諸菩薩の代表である金剛薩埵(こんごうさった)の質問に答えるという形式になっています。内容としては真言宗の理論の「教相」と実践の「事相」の両部門から成り立ち、教相の部分では金剛薩埵の問いに対して毘盧遮那如来が菩提心を説くなど、密教の理論的な根拠が説かれています。また事相の部分では胎蔵界曼荼羅の描き方や真言、密教の儀式などが詳細に説かれています。


例えば大日経には「三密」「三業」の教えがあり、三密とは仏の身(身体)、口(言葉)、意(心)によって行われる三つの行為のことで、三業とは人間の身体の行為である身業(動作)、言語表現である口業(言葉)、心のはたらきである意業(意思)の三つの行為のことで、人間の三業は仏の三密と感応することにより、「即身成仏」できるという教えが大日経にあります。


こうして空海は大日如来を中心に、未だ整理されない状態にある密教を体系立てる発想に辿り着きますが、折しもこの時期インドでは大日如来を本尊に据える新たな密教体系が成立していました。密教こそが「仏教の完成形態」であると確信した空海は、密教思想の追求に生涯を捧げる決意をし、教義についての疑義を正すべく遣唐使船に乗って唐へ渡ることになりました。


小説『空海の風景』を書いた司馬遼太郎は、本作で空海を「日本史上初めての普遍的天才」(人類的存在)と評し、土俗の呪術として未整理な状態にあった密教を、破綻のない体系として新たにまとめ上げ、本場のインドや中国にもなかった鮮やかな思想体系を築き上げたと評価しました。


しかし、空海の20才~31才までの歩みの詳細については、一部を除いて確実な記録はなく空白となっています。


<空海と久保木修己UC元会長の神秘体験>


ところで筆者は、上記した空海の室戸岬の洞窟での神秘体験と、久保木会長の厚木大山山頂での神秘体験に、強い同質的な類似性を感じています。拙著『久保木修己著「愛天愛国愛人」を読み解く』の二章「劇的回心と宗教家久保木修己の誕生」の中で久保木会長の神秘体験について述べていますが、久保木会長は、40日修練会を終了したあと、厚木大山での断食祈祷で空海と同じような神体験をしています。


久保木会長の著書『愛天愛国愛人』の中に、1963年1月末(32才)、はじめての40日原理修練会の後、凍てつく厚木の大山に登り、「神の回答を得るまで祈り続ける」との決死の覚悟で、神の存在と原理の正しさについて断食談判祈祷した下りがあります。あげく、断食5日目の最後の祈りで遂に「神と一対一の出会いという神秘体験」をしたというのです。(『愛天愛国愛人』P80~85)


「断食して真剣に祈れば分からないことはない」との文鮮明先生の言葉を信じて祈りましたが、なお神からの回答はなく、「やはり自分には宗教家の資質はないのか」と諦めて山を下ろうかと思いかけたその瞬間でした。目の前の空が急に赤焼けしたと思うと、それはやがて渦巻いた紅蓮(ぐれん)の雲のようなものが金色となって、ぐるぐると口から吹き込まれたというのです。ワッと叫んで大地に叩きつけられた会長に、神は覚悟のほどを問われました。「汝、この信仰を全うする気持がありや。ならば立って山を下り福音を宣べ伝えよ」との神の威厳のある大きな声です。そして躊躇する久保木会長に「私が共にある」と釘を刺さされたというのです。会長はその場で暫く意識を失ったようになり、その後宙を舞うような足取りで「別人となって」山を降りたと証言されました。奇しくも1963年2月3日、会長32才の誕生日のことでした。


会長にとって、この山頂での劇的な神秘体験こそ、神への帰依と、その後の宗教活動の原点、即ち、信仰者としての「一丁目一番地」となるものでした。おそらく、空海の室戸岬の洞窟での神秘体験なくして、その後の空海がなかったように、この霊的体験無くして、その後の久保木会長は無かったことでしょう。実に会長とUCにとって、それほど大きな意味を持つ「回心体験」であり劇的な「召命」でありました。もはや会長には一切の迷いはなくなったというのです。正に、神への宗教(求道)から、神からの宗教(啓示)への大転換です。


【空海の『三教指帰』を読んで】


『三教指帰』(さんごうしき)は、空海による宗教的寓意小説に仮託した比較宗教の書であり、また空海の出家決意の書であります。797年12月、空海が24歳の著作であり、出家を反対する親族に対する出家宣言の書とされています。ただし、この時の題名は『聾瞽指帰』(ろうこしいき)であり、その後、序文などを改訂して朝廷に献上した際に書名を『三教指帰』に改めたと言われています。


即ち、仏教・儒教・道教の三教の帰着点(指帰)を示し、これを比較して仏教の優越性を説き、仏教に帰依することを宣した空海24才の時の書であります。その序文には、「人たるもの、心の悶えを晴らそうとすれば、詩文を作っておのれの志を述べずにおれようか」とあり、若き日の内的な煩悶や親不幸の謗りを乗り越えて、仏教への帰依を最終的に選びとった精神遍歴を窺わせるものがあります。


筆者は、主に聖書と原理の対比、あるいはそれらの橋渡しを意識して『異邦人の体験的神学思想』を書きましたが、一つの宗教を他宗教との比較の中で論考することは、その宗教の深い理解には欠かせないものです。故に比較宗教の祖マックス・ミューラーは、「一つの宗教しか知らないものは、いかなる宗教を知らない」といいましたが、正に至言です。仏教では、仏教経典を、分類・体系化し、相互の関係や高低、優劣を価値判断して仏の究極の教えがどこにあるかを解釈する「教相判釈」という分野がありますが、『三教指帰』は正にその先駆けとなるものです。そして聖書と原理(講論)との対比こそ究極的な比較宗教と言えるでしょう。


筆者が最も感動したのは、その内容というより、むしろ『三教指帰』の格調高い文章と、中国の古典などからの頻繁な故事・仏典・説話の引用であり、たかだか24才にもかかわらず、空海の文筆力の秀逸さ、学問的知識の深さと広さに脱帽しました。これには幼いころから漢学を学んだ素養が生かされたと思われます。空海は三教指帰序の中で、「文章は、人が心に感動し、その感動を紙に書き記す」と語っていますが、正に然りです。


『三教指帰』は流麗な4字句,6字句を基調とした「四六駢儷体」(しろくべんれいたい)の漢文で書かれており、放蕩児の蛭牙公子(しつがこうし)、依頼者・主人公の兎角公(とかくこう)、儒教教師の亀毛先生(きもうせんせい)、道教教師の虚亡隠士(きょむいんし)、仏教教師の仮名乞児(かめいこつじ)の五名による対話討論形式で叙述され、戯曲のような構成となっています。


本の中で、亀毛先生は儒教を支持しますが、虚亡隠士の支持する道教によって批判され、最後に、その道教の教えも、空海に見立てた 仮名乞児が支持する仏教によって論破され、仏教の教えが三教の中で無常や解脱や生死を説く最高の真理であることが示されています。正に日本における最初の比較宗教論であります。


他に空海は顕教と密教を対比した『弁顕密二教論』を著作し、密教の優位性を述べています。一般に仏教は歴史上の人物である釈尊の教えとしますが、密教では宇宙の真理、即ち法(ダルマ)そのものを仏の身体と見て「法身」と称し、法身が直接説法すると説きます。


宗教学者の島薗進氏は、本書における儒教と道教の記述が仏教の記述と比べて不十分かつ深みがないと指摘しつつも、本書は3つの宗教を比較し、空海自身とそれらとの関係について考察しているため、日本における比較宗教学の先駆けと位置付けることができるとしています。空海出家時の心境や密教との出会い、出家当時の仏教環境などを知る上で重要な資料であります。


【高野山とは】


さて、おしまいに高野山についてまとめておきます。セミナーを主宰された信徒の親切な案内で、図らずも念願の高野山を訪問することが出来ました。何といっても比叡山を開いた最澄と、高野山を開拓した空海は日本仏教界の両横綱であり、以前より空海について深く知りたいと思っていたのです。


高野山とは山の名称ではなく、1000m級の山に囲まれた標高800m位の位置にある盆地のような平坦な場所を言います。この広い平地に、高野山の聖地である「壇上伽藍」(金堂、根本大塔、曼陀羅など)と空海の廟である「奥の院」があり、また真言宗本山の「金剛峯寺」(こんごうぶじ)が鎮座しています。但し、「総本山金剛峯寺」という場合は、金剛峯寺だけではなく、高野山全体を指し、これは高野山が「一山境内地」を称しているため、高野山全体がお寺という考え方に基づいています。


ちなみに金剛峯寺の名前の由来ですが、これは「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)という経典から取られています。瑜伽(ゆが)とは心を統一することによって絶対者(大日如来)と融合してひとつになった境地で、瑜祇(ゆぎ)とはその修行をするものを意味し、「大日如来と一体となるための修行を積む者たちが暮らす場所」という意味だと言われています。筆者は金剛峯寺に参拝しましたが、本殿に祭られている本尊は空海の座像でした。


そして高野山には117の真言宗の寺が点在し、その中の51寺が宿坊になっており、またお土産店やコンビニや銀行や民家や学校(高野山大学)が並んでいる一つの町と言ってもよく、この全体が高野山であり、また総本山金剛峯寺であります。


弘法大師は835年3月21日に入定され、荼毘にふされましたが、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入り、現在も高野山奥之院の弘法大師御廟で生き続けていると信じられています。唐でキリスト教(景教)にも触れたという空海は、死に際して「56億7千万年後に弥勒菩薩と共に降り立つ」とのメシア預言を遺しています。


奥の院までの約二キロの参道の両脇には、ざっと20万基の墓や供養塔がぎっしり並んでおり、その中には織田信長、石田光成、豊臣秀吉、武田信玄親子、島田藩などの戦国武将の墓がある壮大な歴史道路で、如何に弘法大師信仰が篤く広がっているかが分かります。


筆者は世界遺産にもなっている奥の院の空海の墓前にて、しばし祈りの一時をもち、空海の世界の一端に思いを馳せました。今さらに仏教の聖地高野山の清浄な霊性を感じると共に、空海の求めていた究極の真理が、原理の中にあることを悟らしめ、文鮮明先生との劇的な邂逅があらんことを祈念いたしました。


以上、今回は、誕生から入唐までの、主に求道時代の空海について論評しました。次回は、唐の留学時代の顛末、そもそも恵果から伝授された真言密教とは如何なる教えなのか、更に空海と最澄の対比について考察する所存です。(了)

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