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どん底からの復活 安倍事件で異端(カルト)とされたUCの復活

◯つれづれ日誌(令和4年10月26日)-どん底からの復活ー安倍事件で異端(カルト)とされたUCの復活


キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それは、わたしがキリストを得るためである」(ピリピ3.8)


最近、元東京地検特捜部検事の高井康行弁護士は、フジプライムニュースで、「異端を認めない社会は全体主義だ。異端の存在を認めるか、認めないかが、民主主義と全体主義の判断基準だ」と述べられ、昨今のマスコミのUC叩きや、岸田自民党総裁のUCへの「断絶発言」は、全体主義への兆候であり、全ての国民の自由な政治参加を認めた憲法違反の疑いがある、と明言されました。


政権党たる自民党は政府そのものと見なせますので、その政権党の自民党が「統一教会と一切断絶する」「各議員に統一教会との関係の調査、アンケートを行う」という決定は、明らかに信教の自由違反(憲法20条)であり、自由な政治参加を思想、信条によって排除する差別であり、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により差別されない」とする憲法14条に違反しています。


一昨日、自民党所属で長年地方議員を務めている方に、「自民党を相手取って憲法違反の訴訟をやるべきだと思うがどうか」と尋ねたところ、「やるべきだ」との答えが返ってきました。


【異端とは】


UCは、マスコミからカルトと呼ばれ、キリスト教からは「異端」と呼ばれています。では異端とは何でしょうか。異端とは、正統と見なされているものから外れていること、また、その時代に多数から正統と認められているものに対して、例外的に少数と見なされている宗教、学説、団体、個人などをいいます。


しかし、異端とは「正統」に対する対概念で、正統がなければ異端はありません。キリスト教で言えば、キリスト教の伝統教理を正統として、それと異なる教えを異端としているのです。従って、正統・異端は、主観的、相対的な概念と言えるものです。


カトリックにおいての最大の異端はプロテスタントであり、プロテスタントの最大の異端はカトリックでありました。仏教はバラモン教にとって異端だったのです。このように、正統・異端は、あくまでも正統とする立場から見た分け方と言えるでしょう。従って、今日の異端は、明日の正統になり得るというのです。


UCは伝統的キリスト教からは異端とされていますが、昨今日本の社会では、異端どころか「カルト」と言われ、全国弁連やマスコミから「反社会的団体」とのレッテル貼りをされています。


こういったレッテルについて、経済学者の竹中平蔵氏は、マスコミは意図的に煽って、UCに反社というイメージを植え付けているが、使っている反社という言葉の概念が曖昧で、何が反社なのか、きちんと「定義や法的根拠を示すべきである」と指摘されています。


また、こういった捏造された世論は、ひとえに山上容疑者のテロが、UCに恨みを抱いた結果によるものとされ、あたかもテロの責任がUCにあるとの煽りと断罪から来るものです。しかし、テロの責任はひとえにテロリストにあるのであって、UCに責任は一切なく、正に冤罪であることを、先ず事の大前提として確認しておきたいと思います。また、山上容疑者の犯行動機に思い込みや矛盾があることは、今までも指摘した通りです。


さて、今のUCと同様、明治維新の高杉晋作や吉田松陰、青嵐会の中川一郎や石原慎太郎、球界の野茂英雄や落合博満などは、それぞれの分野で、それぞれの時代において、皆「異端児」と呼ばれていました。しかし実は、歴史はこれらの異端児によって革新され発展してきたのです。


元大阪府知事の橋下徹氏は、最近『異端のすすめ』(SB新書)という本を出しました。橋下氏はこの本の中で、「今死んでも後悔はない、死に際して、悔い無しと言える生き方、心から納得できる人生か否かが問題だ」と語っています。そして自ら大胆にチャレンジして、敢えて異端児としての人生を選択したと告白し、「今や、いつ死んでも悔いはない」(P202)と言い切り、自ら異端児であると告白しました。


孔子は「四十にして惑わず(不惑)、五十にして天命を知る(知命)」と語りましたが、高々50才にして「我が人生悔い無し」と言える橋下氏には脱帽するしかありません。


【異端のレッテルを貼られたイエスと統一教会】


振り返ればUCは、原初から異端として追われる立場にありました。北においても、南においても、平壌でも、ソウルでも、釜山でも、「ほかの福音」(ガラテヤ1.7)とされ「異端の頭、追放せよ」と追われたのです(『真の父母経』第3篇、第2章第四節14)。 


無論、日本においてもUCは、エホバの証人、モルモン教と並んで、キリスト教の三大異端の筆頭に挙げられ理不尽な差別にさらされて来ました。キリスト教における異端の基準は、三位一体の神を認めないこと、聖書以外に聖書と準じる、または聖書以上に価値視する経典をもっていること、主にこの2点でありますが、日本社会においては、マスコミ仕立ての社会的常識通念、即ち「甘いヒューマニズム」が異端(カルト)の基準になっているようです。


かってイエス・キリスト自身も、律法の破壊者としてパリサイ人たちから排斥され、正に正真正銘の異端児だったのであり、キリスト教初代教会も異端のレッテルを貼られ数々の迫害にさらされました。


そして前記しましたように、カトリックとプロテスタントの異端論争ほど大規模で歴史的なものはなく、互いに相手を異端と呼びました。プロテスタントにとって教皇は「悪鬼の頭」であり、カトリックにとって、ルターは「サタンの代理人」でありました。 ルターは破門され、カルビンも祖国を追われたのです。


我が内村鑑三も、処女作『基督信徒のなぐさめ』(岩波文庫)の中で、「無神論者として排斥され、危険なる異端者、聖書を蔑ろにする不敬人、ユニテリアン、野望家、教会の狼などの名称を付せられ、過酷の批評を蒙れり」(P40)と記しています。


しかし、47年間メソジスト系教会の牧師をされてきた鈴木崇巨(たかひろ)牧師は、その著書『福音派とは何か』で、上記異端とされている3教派を異端視せず、プロテスタントの一派として認めた上で、聖書の「傷ついた葦を折らず」(イザヤ書42.3)を引用して次のように弁明されました。


「彼らは異端といういやな言葉のレッテルを貼られ、反論することなく、涙をこらえている傷ついた葦、受難者たちです」(『福音派とは何か』P189)


【どん底からの復活】    

内村鑑三も異端児としてどん底を体験し、そして復活しました。処女作『基督信徒のなぐさめ』の中で、「愛する国家と教会から捨てられ、愛する妻加寿子を亡くし、事業に失敗し、貧に陥り、病を得て、全てを失った」と記しています。


内村鑑三は、1891年(明治24年)、教育勅語の礼拝を怠った罪に問われて教職を追われたいわゆる「不敬事件」のあと、困窮の中から処女作である本書を世に送りました。不敬事件により苛烈な批判を受けて、国から捨てられた内村は、さらに最愛の妻の死に遭遇し、教会からも異端児として捨てられ、事業に失敗し、貧に落ち、重病を患うという「6重の苦しみ」に襲われました。


しかし、彼は全てを失ったどん底から神を再発見し復活しました。「国は一層愛を増し、神には一層近きを覚え、愛する者の肉体は失せて余の心と合せり。余は万を得て一つを失わず。神も存せり、国も存せり、妻も存せり」(P28)との境地に引き上げらたというのです。


「人もしこれを得んと欲せば、まずこれを捨てざるべからず」(マタイ16.25)とのキリストの言葉が内村の中で蘇えりました。「死にて生き、捨てて得る。キリスト教のパラドックスとはこのことを言う」(P25)と内村は語っています。そうした逆境からの自己の再生を綴った本書は、多くの人々の共感を呼び、正宗白鳥はこの書を愛読して大きな影響を受けたと言われています。またこの書において内村は初めて無教会主義の概念を提示しました。


そして今我がUCは、マスコミから社会の異端児、反社会的なカルト団体とのレッテルを貼られて、今や絶体絶命の窮地に追いやられているかのようです。岸田首相は、宗教法人の解散を見据えた前代未聞の質問権の行使に踏み切り、民法の不法行為も解散事由に含まれるとする、反民主主義的な朝令暮改の解釈の変更を行いました。


そして自民党から引導を渡されただけでなく、最近の世論調査では、解散命令を裁判所に請求すべきとの回答が多数を占めています。もちろん、この数字はマスコミの偏向報道で洗脳された結果であり、ある意味で予想通りの結果とは言え、厳しい世論には違いありません。こうして一見UCは、猫に追い詰められたネズミのように、これ以上ないどん底に直面しているかのようです。しかし、イエス様の十字架と復活が示し、内村が「死にて生き、捨てて得る」と語っているように、死してこそ復活があり得るというのです。そもそも復活とは死が前提となった概念であり、復活するためには一度死ななければなりません。


もはや失うものなど何も無く、死ぬことを恐れない人間の怖さをマスコミは知るべきであり、それはキリスト教2000年の殉教の歴史を見れば明らかです。殉教は「福音の種子」とあるように、およそ豊かになって滅んだ宗教はあっても、迫害によって滅んだ宗教はありません。


このような大艱難の中で、今や「教会改革推進本部」を立ち上げ、組織全体が生まれ変わるために、出直し的な抜本的改革に乗り出しました。そしてこの改革は、不退転の意思をもって必ず成功させなければなりません。かって主君に諫言するにあたって、忠臣は切腹覚悟で進言し、ルターもカルバンも、破門の宣告を受け、異端として追放されながら、身を捨てて宗教改革を成し遂げました。私たちも、腹を切る覚悟でこの改革を成し遂げなければならないと思います。


そして、そのような覚悟の上に、神は私たちの冤罪を晴らして下さり、カナンに導いて下さることでしょう。筆者は既に「善神」、即ち、お父様を中心に、久保木修己、岸信介、安倍晋三の三位一体の霊が、日本とUCを守り導いて下さるという強いインスピレーションを与えられています。


それにしても、かのヨブが発した神への訴え「何故善人が打たれ、悪人が栄えるのか」(ヨブ記21.7)を想起いたします。かって筆者は、約30年前のいわゆる霊感商法がマスコミで叩かれていたとき、全国弁連対策で、紀藤正樹、山口広、渡辺博などの弁護士と渡り合ったことがありました。そしてその際強く思ったことは、「何故神はこれらの宗教迫害者を野放しにして、制裁されないのか」、ということであり、この問をかけて神に談判祈祷したことがありました。今回筆者はまた、以前にもまして、このヨブが発した同じ問をかけて真剣に神に尋ねています。


私達は冒頭の聖句「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それは、わたしがキリストを得るためである」(ピリピ3.8) を想起し、どん底からの復活を遂げたいものです。(了)



上記写真*上・髙井康行弁護士、下・セドナの聖十字架教会

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