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ウクライナ戦争の本質③ 「神の名による戦争」を考える

○つれづれ日誌(令和4年4月20日)-ウクライナ戦争の本質③-「神の名による戦争」を考える


地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。(マタイ10.34)


前回、前々回とウクライナ問題について、ギリシャ正教との関連を踏まえて論評したところ、やはり時局柄関心があり、かなりの反応がありました。


ある信徒は、「ロシア正教会はスラブ民族主義の体現者になり、プーチン大統領はその代表者だと思います。エジプトの正教会アレクサンドリア総主教も、アフリカへの勢力拡張を、プーチンの軍事支援と共に犯して来ました」とのコメント、またある信徒は「ルースキー・ミール、誤った霊的、信仰的な確信にプーチンもキリルも陥ってしまったようです。傲慢の極致に至り、万死に値する愚行を犯しました」との感想をよこされました。


特にある兄弟の、「ウクライナ問題がきちんと整理され、いわゆる陰謀論から解放されました」との告白には、大変嬉しく思いました。


さて、その中で、ある信徒からの率直な疑問、「何故人類は、神の名のもとに戦いや殺戮を繰り返すのでしょうか」という問が寄せられました。つまり、そもそも何故人間は「神の名において」殺し合うのかという、誰もが持つ素朴な疑問であります。


従って今回は、アルファでありオメガである命題とも言うべきこの問を共に考えることにしたいと思います。言い換えれば、「戦争と平和」の考察であります。


【戦争ウクライナ戦争の本質】


如何なる戦争にも、必ず大義が必要であり、大義なき戦争は無法者や強盗と変わりありません。そしてプーチンのロシアは、遂に一線を超え、ロシアの歴史に致命的な汚名を残しました。よしんば一定の成果をロシア軍があげたとしとも、勝敗に関係なく、あのドイツのナチスのように、永遠にその非道な行為は語り継がれ、批判され続けることでしょう。


4月19日の産経新聞に「非ナチ化-偽りの大義」と題して、産経新聞論説顧問斎藤勉氏の論評が掲載されていました。斎藤氏はウクライナ戦争に関して次のように述べています。


「プーチン大統領は大義なきウクライナ侵略で、焦土化作戦と無慈悲な虐殺を続けている。徹底的な言論弾圧と反体制派粛清などで、プーチンはロシアをソ連史上最も過酷なスターリン時代に逆戻りさせた。国際的孤絶が進む中で、プーチンの戦争犯罪は、自身とロシア双方の破滅への道となろう」


プーチンは今回の侵攻を、アメリカの圧力やNATOの勢力拡張への安全保障上の対抗措置だとか、ジェノサイドにあっている東部親ロシア住民の保護だとか、はたまたネオナチやDSを一掃するためだとか、もっともらしい理由を掲げていますが、これらは全く根拠のない口実であることは、前回既に論述した通りであります。また、前記産経新聞の斎藤氏も「ウクライナに反露的なネオナチなど存在せず、ウクライナによるジェノサイドの証拠もない。プーチンの主張は世界を欺く悪辣な歴史戦の武器なのだ」と明言されています。


また、百歩譲って、仮に、このもっともらしい理由が事実であったとしても、他国の主権と国境を力で犯し、罪なき国民を殺戮する権利などどこにもなく、戦争犯罪であることは明白であり、このことは、繰り返し述べてきたところであります。しかし、いわゆる陰謀論者たちは、この明白なロシア軍の絶対的違法性について、何故か口を閉じて言及しようとしないのは、如何なものでしょうか。


前述したように、この度のプーチンのウクライナ侵略の本質は、ロシア正教キリル総主教のお墨付きのもとに、ルースキー・ミール(大ロシア主義)の妄想的な野心を動機とする侵略戦争であることは明らかであります。


ロシア正教には、「ロシア語を話し、正教を信仰する人々がいる世界は精神的に一体であり、政治的な国境も認めない」とするルースキー・ミールという概念があり、プーチンはこの国家観の守護神だというのです。


即ち、スラブ民族のロシアによる支配というプーチンの領土的野心と、ロシア正教の拡張というキリルの宗教的願望に基づき、ルースキー・ミールという偶像の神の名のもとに、身勝手に起こされた侵略戦争にほかなりません。しかしプーチンとロシア正教にとっては、いわば「神の名による聖戦」と言うことになるでしょう。


かってアメリカを中心とした自由主義陣営とソ連を中心とした共産主義陣営との冷戦は、いわばキリスト教と無神論との戦いでもありましたが、今回のウクライナ戦争は、民主主義と独裁主義との戦い、言い換えれば、「自由の神と偶像の神との戦い」.であります。


そして筆者は、人類史に初めて共産主義国家を生み出した国ロシアは、良くも悪くも、創世記4章に出てくる典型的な「カインの末裔」の象徴であり、人類を代表して、歴史的な何かを背負った国家なのではないかとさえ感じるものです。


あの時、弟を殺したカインの心の中にあったものは、妬み・憎悪であり、聖書は、人類の半分以上は皆このカインの末裔なのであり、生まれながらに罪深い性質を持っているということを示しています。つまりプーチンは、このカインの末裔の代表としての「役割」を背負わされ、一方、殺される側のウクライナ国民は、平和のための「贖罪の羊」なのかも知れません。


【イスラエル聖絶思想】

さて、神の名においてなされた戦いの典型例として、旧約聖書に出てくる「聖絶思想」があります。


<聖絶とは>

「聖絶」(ヘーレム)とは、本来、神のために完全に分離するという意味で、「聖」という言葉には、選り分ける、区別する、分離するといった意味があります。


つまり聖絶とは、端的に言えば異教的なもの、偶像的なものから、いかに「分離・分別」されて、完全に聖にして神に仕えるものになるかということであります。あるいは聖なるものとなるための「儀式作法」であります。


一方聖絶には、徹底的に破壊する、すべてのものを打ち殺すという意味もあり、政治的概念ではなく宗教的概念であり、イスラエルの民は、「裁きをもたらす神の器」として用いられたというのです。


<イスラエル聖絶思想>

このように、イスラエルには「聖絶思想」といわれる観念があり、旧約聖書には、「聖絶する」という動詞が51回使われていると言われます。


「そのとき、私たちは彼のすべての町を攻め取り、すべての町、男、女および子どもを聖絶し、一人の生存者も残さなかった」(申命記2.34) とある通りです。


特にヨシュアの率いるイスラエルの民がカナンを征服し、占領していくその戦いにおいて、「聖絶する」ことが強調されています。 ヨシュア記は大量殺害、皆殺し、ジェノサイド(抹殺行為)の連続で、一見、愛と平和の対極にある物語に見えます。


「民が角笛を聞いて、一斉にときの声をあげると,城壁が崩れ落ち,民はそれぞれ,その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした」(ヨシュア記6.16~21)


つまり聖絶は、選り分け、分離分別するという意味と同時に、徹底的に破壊する、すべてのものを打ち殺すという意味でもあり、ことばの意味だけを考えるならば「なんと残酷でひどい」と思うかもしれません。


しかもこの聖絶を、なんと神が命じられたというのです。つまり、神の名による戦争であります。


「あなたはその町の住民を必ず剣の刃で討たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も剣の刃で聖絶しなさい」(申命記13.15)


「あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない」(申命記20.16)


<聖絶の規範と真意>

しかし聖絶には決まりがあり、「神のものを人間が自分のものとして横取りしてはならない」ということ、即ち略奪を厳に戒められました。


従ってモーセは「聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない」(申命記13:17)と語り、ヨシュアも約束の地を征服していく前に、民たちに「あなたがたは、奉納物に手を触れてはならない」(ヨシャア6.18) と警告しており、戦争にありがちな征服地での略奪、強姦などは禁止されました。


しかし、ユダ部族のアカンはこのヨシュアの言いつけを守らず、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分のものとしました。そのためにイスラエルの敗北を招き、彼自身も身を滅ぼすことになりました。(ヨシュア記7章)


神が「聖絶する」ことを民に命じたその真意は、神の民が聖を失って、他のすべての国々のように偶像の民となってしまわないためであるというのです。 「それは、彼らが、その神々に行っていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなた方に教え、あなた方が、あなた方の神、主に対して罪を犯すことのないためである」(申命記20.16~18) とある通りです。


即ち、神は聖絶によってイスラエルの民が、異邦人と同化することを防ごうとされたというのです。つまり「聖絶」とは、神の「聖」を民に意識させて、それを守らせる戦いだというのです。 ここに「天が地よりも高いように、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55.9)とあり、また「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」(ロマ11.33)とある通り、地上的な善悪を越えた神の摂理、究極的な愛と平和の神の思想を見ることができます。

<善悪分別と和の思想>

上記のとおり、善悪の聖別ないしは分別思想は、ユダヤ・キリスト教の顕著な特徴であり、この考え方は日本の「和の思想」とは対極にある思考と言えます。即ち和という概念には分けるという考え方はなく、むしろ寛容に融合していくことを意味します。


この和の思想は、自ら身を低くして相手を尊重し、相互の協調を見出だそうとする考え方であり、葛藤を深める現代世界にあって、対立する国家や宗教を結びつける有力な思想として、近年日本の役割に期待する声があります。しかし、和が単なる妥協、迎合を意味するとすれば、曖昧で中途半端になることも懸念されています。


【イスラムのジハード(聖戦)】


今一つ、神の名による戦いとして有名なものに、イスラムの「ジハード」(聖戦)という言葉があります。このジハードは、イスラエルの「聖絶」とは対極にある概念であります。


ジハードは本来、イスラームの聖典コーランの「神の道のために奮闘することに務めよ」という句のなかの「奮闘する」「努力する」にあたる意味と言われています。


しかし、コーランにおいてはこの言葉が「異教徒との戦い」を指す場合にも使われており、これが異教徒討伐や非イスラム教徒との戦争をあらわす「聖戦」の意に転じたといえるでしょう。


初期イスラムの世界において、イスラムの地を拡大するため、不断の宣教が信徒全体の奮闘義務とされ、これを武力に訴えるものがジハードであると解されるようになりました。のちには、反権力闘争や、イスラム諸国間の戦闘、さらには西欧列強の支配に対する抵抗などにもジハードの理念が援用されるようになります。


さらには、イスラムによる統治を武力によって実現すると主張するイスラム過激派を「ジハード主義者」と呼ぶようになりました。いわゆる「IS」|アル・カーイダ」「イスラム過激派」「イスラム武装勢力|などで、ジハードを拡大解釈して、無差別テロの正当化に悪用するにいたります。



この過激派によるジハードは、正に「偶像の神」の名のもとに戦争自体を正当化する典型例で、イスラエルの聖絶思想とは似て非なる一種の悪霊現象、イスラム過激派の無差別テロに準じる、偶像の神、即ち悪霊に支配された業と言えるでしょう。


【神の救済史から見た戦争の理由】


では一体、戦争は何故起こるのでしょうか。そして、それは避けることが出来ない人類の宿業なのでしょうか。この点について、原理講論(以下、「原理」と呼ぶ)は、以下の通り神の根本摂理から説明しています。(原理「人類歴史の終末論」P162~163)


神の創造理想は人類始祖の堕落により喪失し、その後の歴史は神による救済歴史になりました。即ち、堕落した人類を本然の位置に元返さんとされる、神の復帰歴史であります。


神はこの復帰歴史において、一方に宗教を立てて摂理することにより、内的なサタン分立による心霊復帰の摂理をされ、また、他方においては、闘争と戦争による外的なサタン分立をすることにより、内外両面における神主権復帰の摂理をしてこられたのであります。


今や、内的にはキリスト教を中心に世界的な心霊復帰の趨勢を見せていますが、一方、外的には国家興亡史に現れた神の主権復帰として展開されてきました。


即ち、世界で勃発する闘争や戦争は、単純にある利害関係や思想の衝突から起こる結果ではなく、より根源的な神の復帰摂理から来る必然的なものであると原理は述べています。


つまり、堕落により、人間は神にもサタンにも支配されるという、善悪混沌とした中間状態におかれるようになりました。復帰原理総序に「堕落直後、まだ原罪だけがあり、他の善行も悪行も行わなかったアダムとエバは、神とも、またサタンとも対応することができる中間位置におかれるようになった」とある通りです。


このような中間状態におかれた人間世界に、もし戦争や分裂がないとすれば、その中間状態はそのまま永続せざるを得ず、従って、善主権世界は永遠に復帰できないということになります。


この認識に立った上で、それゆえに、神はより善なる主権をして、より悪なる主権を滅ぼさせながら、漸次、天の側の主権を復帰していくという、「善悪分立の摂理」をしてこられました。


したがって、復帰摂理の目的を成就するためには、闘争と戦争という過程を経なければならないというのです。即ち、闘争や戦争は、善悪分立という神の復帰摂理から来る必然的なものとして理解しなければなりません。


勿論、ある局限された時間圏内においてだけを見れば、一時的に悪が勝利を勝ち得たときもないことはありませんが、しかしそれは結局敗北し、より善なる版図内に吸収されていくのです。


それゆえに、戦争による国家の興亡盛衰は、善主権を復帰するための摂理路程から起こる、不可避的な結果であり、これが「神の名において」戦争が起こる根本的な理由であります。即ち、真の神と偶像の神との戦いであり、神が、ヨシャアを立ててカナンの七族を聖絶された理由がここにあります。また、この善悪分立は、国家だけではなく、個人、家庭、社会においても同様の「善悪分立」という展開を経るというのです。


以上の通り、神の名による戦争を論じてきました。今回のウクライナ戦争も、ある意味で「善悪分立」の一環と言えなくもありません。このウクライナ戦争を、「歪んだ政治と宗教が一体となった独裁主義や大ロシア主義というカイン型思想を、ウクライナを善悪分立の供え物として、神に淵源を持った自由・民主・法の支配へと転換する神の摂理」と捉えるのは、考え過ぎというものでしょうか。


更に進んで筆者は、このウクライナ戦争とウクライナ国民について、西方キリスト教と東方キリスト教が、天の父母なる神のもとに一致せんがための「贖罪の羊」との思いを禁じ得ません。(了)



上記絵画*アベルを殺すカイン(ピーテル・パウル・ルーベンス画)

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