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緊急提言 西部邁氏の自殺に思う

〇つれづれ日誌(平成30年2月1日) 緊急提言 西部邁氏の自殺に思う 


平成30年1月21日(2018年)早朝、保守思想の論客だった西部邁(にしべすすむ)氏が亡くなられました。享年78歳。多摩川の橋からの飛び込み自殺だったそうで遺書がしたためられていました。ショックです。衝撃です。西部氏の論調は、ユーチューブなどで何度も聞いて共感するところも多々ありましたので、身近な縁者の死に遭遇した感があり、私にとって死というものを考えさせるまたとない機会になりました。この際、死についての若干の考察をしたいと思います。


1、西部邁は保守陣営の異色の論客でした。「保守」を思想レベルまで引き上げた知性は多くの知識人の尊敬を集め、独立の精神を忘れて米国頼みになった日本のふがいなさを嘆く愛国者でもありました。自主独立の象徴としての核武装の必要性を公言してはばからなかった人物でもあります。

東大時代には東大教養部自治会委員長、全学連副委員長として唐牛健太郎などと共に60年の安保闘争を戦った行動派であり、東大教授の時には助教授選任に関し筋を通して辞表を出した熱血漢であります。20歳代の10年間はいわゆるサイコロ賭博にのめり込み、酒とタバコをこよなく愛した典型的世俗人でもありました。ヤスパースの「人間は(危ない)屋根の上に立つ存在」との認識に立ち「緊張感と平衡感覚が必要で、平衡感覚は歴史と伝統を学ぶことでしか得られない」と考え、一方アドマンド・バークの「保守するためには改革が必要」との思想の継承者でありました。

西部氏の人生や思想を概観するところ、その根底には反権力、反権威という情念があったようです。立憲主義とは少数意見を尊重する制度ですが、彼は常に少数派の立場に身をおいてきました。明治維新では会津藩を擁護し、西郷の西南戦争を評価し、アメリカとの戦争ではペリリュー島での日本軍の戦いを賞賛しました。負けを覚悟で人間の矜持を示した魂に限りない共感を覚えたのです。


全学連での反権力闘争、保守の立場に立ちながらも反米を唱え、批判を承知で日本の核武装を公然と主張する西部氏の姿の中に、既成権力に物申す真骨頂が現れています。しかし、西部氏は、知性と理論の人でありながら、一方では人なつこく義と侠の人でもありました。いわば、「保守」という言語を大衆化した稀代の教養人だったといえるでしょうか。

2、平成26年に妻と死に別れて、死への思索をさらに深め、著作などでも死について言及しました。最後の著作「保守の真髄」の中で、「自然死は偽装だ、実態は病院死だ。生の最期を他人に命令されたり弄りまわされたりしたくない」とし、「自裁死」を選択する可能性を示唆していたといいます。

西部氏は、死ぬ直前に行きつけのスナックのママにこう語ったといいます。「特攻隊で敵艦に突っ込んでいった彼らの1000分の1でも勇気があったらなあ」と。「今日はどうしてウオッカを飲むの。珍しいわね」といったママとの会話があったそうです。西部氏と言えども死を前にしての恐怖があったのでしょうか、45度もあるウオッカをあおらなければ飛び込めなかったのかもしれません。それにしてもこの西部氏の自殺は多くの推測と議論を呼び起こします。彼の死の動機や原因は一体何だったのでしょうか。

第一に、4年前の奥さんの死による孤独感、咽頭癌を病み自分で字も書けなくなって肉体の限界を感じていたこと、生に伴う虚無感から少々精神を病んでいたのか、といった個人的事情による原因が先ず考えられます。

しかし、西部氏は、哲学者ホセ・オルテガの「生きながら錆ついていく人生は醜い」との言葉や、小林秀雄の「人間、生きるためには一度死ななければならない」といった言葉を好んでいました。また西部氏自身、「死んでみせる」「死ぬという解決法がある」「もうこれくらいでいいだろう」といった言葉を残しています。西部氏は死を個人的事情の枠を超えた思想的思索の頂点として位置づけていったのではないか、言葉を変えれば西部流「死の美学」です。生への未練は強く、死は確かに怖いものですが、それを放棄しても守り得うるものがあると信じたのかも知れません。人間の尊厳、矜持、思想信条といったものでしょうか。

3、西部氏は、「生に伴う虚無感が常に付きまとう」と率直に告白し、人間は所詮「一人で生まれ、一人で生き、そして一人で死ぬのだ」と語り、「言論は虚しかった。結局人生はほとんど無駄だった」と呪い、「全学連の仲間は次々と死んでいったが自分はまだ生き残っている」といった自虐的心情を吐露しています。そこには、自らの思想や主張が受け入れらない絶望感、アメリカに依存し自立心を喪失した今の日本へのやりきれなさ、そして自らの思想的限界など複合的な要因が重なり、且つ上記個人的事情も相俟って死という解決法に殉じたのではないと思われます。

彼は「自分はかなり若いときから死について考える性癖が強かった」(保守の真髄)と述べ、大学を辞めて最初に書いた批評は三島由紀夫論だったといいます。三島を論じることを通じて、自己の人生に自裁をもって幕を閉じる決意がほぼ固まった(虚無の構造、死生論)と語っています。

これら西部氏の自殺を、晩節を汚す追い詰められた末の絶望死と考えるか、思想的集約としての自裁死と考えるか、はたまた西部流死の美学と考えるかは読者の主観に委ねるとして、この際、死についての私の見解を若干述べたいと思います。

4、死ぬことについては様々な有様があります。最近ユーチューブで「即身仏」と言う修行僧の生き様(死に様)を見ました。段々とミイラ化して死んでいく究極の修行で、真言宗の開祖空海が体系化しました。先ず1000日間「五穀」を断って体から脂肪や水分をなくしていき、歩き回って体力を消耗させていくのです。次に木食行といって木の皮や根っこなどを食して、断食に近い修行を6年位かけて行い徐々にミイラ化するのです。死ぬ前には肉体的限界の頂点に達し、余分な脂肪や水分などが一切無くなり、最後に自ら墓に入って死んでいきます。死ねばそのままミイラになって即身仏となるというのです。いわば緩慢な自殺です。こうして空海や西行も同様の死に方をしました。即身成仏です。これらはまさに宗教的信念に基づく死であります。

芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成、江藤淳などの著名作家も自殺しました。その死をめぐり多くの有識者が論評していますが、私も、その動機や死に様には深い関心があるところです。また、動機はともかくも、中川一郎、新井将敬、松岡利勝などの名だたる政治家も自殺しました。いかなる因果あってのことでしょうか。

懇意にしている池田昭弁護士の義父も最後は断食で亡くなったといいます。周りに迷惑をかけたくないので、不治の病と知ると延命治療を拒否して自ら食を断って死んだといいますが、最期は高潔だったそうです。佐伯啓思京大名誉教授は「西部氏を自死への覚悟へと至らしめたものは、家族に介護上の面倒をかけたくない、という一点が大きい」と言っておられます。古参信者のZ氏は、癌と知りながら病院を拒否して亡くなったそうであります。

武士は切腹が名誉の死でしたし、特攻隊は片道の燃料で大空に飛び立っていきました。敬虔なクリスチャンは「殉教」を信仰の証し、神の栄光と考えて嬉々として死に赴きました。いかに死ぬかは、いかに生きるかよりも難しい人間の最後の課題であります。そして、いかに死ぬかは、既に古稀を過ぎた私にとっても深刻で大きな課題であることは言うまでもありません。

5、私は、西部氏の死は、自裁死であり、単なる自殺ではないと考えています。追い詰められていたことは確かですが、追い詰められ切って自己を失った絶望的限界状況の中での死ではなく、追い詰められ切る一歩手前での、自らの主体的意思で選択した思想死、いわば最後の自己主張であったと考えています。

思想には、ものを見る視点や世界観だけでなく、人間の生き方や死生観も含まれます。その意味で彼は自らの思想に殉じたのではないでしょうか。即ち生き方の美学をぎりぎりのところで死をもって示したと言えるでしょう。それらは、「死んでみせる」と言った西部氏の言葉、スナックのママに最後に吐露した「(死が)怖い」という思いの中に、決断と共に微妙な心理の揺れが端的に現れています。知識人の欺瞞や偽善に厳しかった西部氏は、自らにも厳しく問い詰め、死という課題と真剣に向き合った悔い無き波乱の人生だったと言えるでしょう。前述の佐伯氏もその追悼文で「西部さんは存分に生き、満足して亡くなられたと思う。心からご冥福をお祈りします」と結ばれているとおりであります。

6、これらは古稀を超えた私にとって人ごとではありません。人間は必ず老い、必ず死を迎えます。またそこには人生の悲喜こもごもの場面が凝縮されることでしょう。私自身も、いずれ西部氏のように生と死の選択と決断をしなくてはならないことになる時が来るのではないかと思っております。「特攻隊の1000分の一の勇気があったら」との西部氏の問いかけは、私自身への問いかけでもあるのです。

ただ西部氏と私には、一つ重大な状況の違いがあります。西部氏は万巻の書や山なす知識とは会うことが出来ましたが、ついに神とは会えませんでしたし、またあえて会おうともしませんでした。西部氏は、オルテガやバークやヤスパースなど多くの碩学者の古典を引用しましたが、ついに古典の最高峰に位置する聖書からの全うな引用は無かったのです。彼は、絶対的真理に逃げることを良しとしませんでした。聖書よりも、むしろ著名な古典に精通すること、そしてそこからの引用をもって自らの思想を明らかにすることを知識人の矜持と考えていたと思われます。

彼の言う「生に伴う虚無感」は一体どこから来るのでしょうか。伝道の書3章11節に「神は永遠を思う心を人に与えられる」とありますが、虚無は永遠を知りえないところに発するのです。しかし彼は、あえて永遠を拒んだのでした。「神や仏を持ち出して永遠について語るのは詐話にすぎない」といい、「超越的な真理は探究すべきものであっても、そこに到達しうることもそれを信仰することも叶わぬものである」(保守の真髄)と述べているとおりです。即ち氏の根底には悟りを得る前のコレヒト(伝道の書)のように、底知れぬ人生の空しさ、ニヒリズムが横たわっていました。そしてそのニヒリズムの世界こそ自らの住処として甘んじて受け入れ、あえてこの絶望を脱して永遠の世界へ飛翔しようとなどとは考えていなかったのです。そこに思想家としての宿命と限界があるのかもしれません。神抜きの思想の宿命です。

私には西部氏のような碩学はありませんが、明確に神を知っています。世俗的人間の典型たる私のような者が、原理講論や聖書を通じて示された神の声を聞き、永遠という価値に触れることが出来、そしてそれらを受け入れることが出来たのは何の因果あってのことでしょうか。思想や知識が形成される以前に、神という観念は所与のものとして私に付与されていたのです。従って、私の場合には、どのような状況下であるかは別として、死に直面したとき神との関係をどう考えるかが重要な問題になってきます。

7、キリスト教では、「神が与えし命を自ら断つことは神への冒涜。汝、自ら死すことなかれ」といった教えがあります。曽野綾子さんは、サンケイ新聞コラムで「人間の生涯には、最期まで当人すら自由に扱えない未知の部分が用意されていることに対して、人は謙虚にならなければいけない。自分の未来を諦めたり、自殺して結論を出そうとするのは思い上がりで、人間の誰もが最後の日まで意外な運命の展開を持っている」と、書いています。確かに敬虔なカトリックの曽野さんらしい指摘ですね。キリスト者としての模範的回答と言えるでしょう。

しかし、原理講論には自死に関する記述は一切ありません。文先生もこの件に関しては論評されていないと理解しています。「真のご父母様の生涯路程」には死に関して次のような記述があります。

「そんなある日のことです。新聞で、私と同じ年の中学生が自殺したという記事を読みました。その少年はなぜ死んだのだろう。幼い年で何がそんなにつらかったのか。少年の悲しみがまるで私自身の悲しみであるかのよう感じられて、胸が締めつけられました。新聞を広げたまま三日三晩泣き通しました。とめどなく涙が流れて、どうしようもありませんでした。  世の中でなぜこれほど異様なことが相次いで起こるのか、なぜ善良な人を悲しみが襲うのか、私には全く理解できませんでした。曾祖父の墓を移葬する際に遺骨を目撃してからというもの、生と死の問題に疑問を持つようになった上、家の中で起こる理解しがたい出来事によって、私は宗教に頼るようになりました。しかしながら、教会で聞くみ言だけでは、生と死に関する疑問をすっきりと解くことができません。もどかしく思った私は、自然と祈りに没頭するようになりました」

以上の通りですが、これらをクリアにして、なお西部氏の思想死に同調するか否かは、今後の深刻且つ重大な課題として取っておきたいと思います。どういう形の死であるにせよ、縷々述べてきた諸々の考察や葛藤を含めて「一切を神に委ねる」ことであり、死に際して「悔い無し」との一言を残すことができれば本望です。ともあれ西部氏は私と似通った性向があることもあって、その死は私に大きなインパクトを与え、深く人生を考える一石になりました。ご冥福をお祈り致します。読者の見解はいかに!(了)

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