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内村鑑三の世界②

🔷聖書の知識37ー内村鑑三の世界(2)

ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである(マタイ18・20)

筆者は、歴史上のキリスト教徒の中にあって、世界的にはアウグスチヌス、日本においては内村鑑三を最も共感できる代表的クリスチャンと考えております。そしてアウグスチヌスにつきましては、聖書の知識33にて既に論じているところです。

我が内村には、キリスト教徒としての確固たる矜持と思想があるだけでなく、その書には文学的な響き、溢れる教養に裏打ちされた豊かな表現力に満ちています。

代表作『余はいかにして基督信徒となりし乎』は、アウグスチヌスの『告白』と並んで、自伝的文学としても歴史的な一級品と言っても過言ではないでしょう。筆者は、内村の文書、文体に魅了されている一人です

その冒頭に記載がある「自己の内部に真にあるものを語る人には、どんなに話下手でも耳を傾ける人がいる」との内村が影響を受けたトマス・カーライルの言葉が印象的です。

律法が自分をキリストへ導く「養育係」になった(ガラテヤ3・24)とパウロは述べましたが、確かに内村の神学思想は、非西欧的なキリスト教として日本の人々を再臨へと導く良き「養育係」になり得ると確信いたします。

前回、内村鑑三がキリスト教に入信し、回心に至る経緯を見ていきました。今回はそれを踏まえ、内村の教会に対する考え方(無教会主義)及び生涯の仕事である聖書研究会を中心に考察し、最後に内村の非戦論について考えることにいたします。

1、先ず、内村の唱える「無教会主義」とは何かという問題であります。

内村は、米国留学中の様々な経験の中で、アメリカのキリスト教の功罪を吟味した上、日本帰国後は、アメリカの宣教師に頼らず独自にキリスト教を教えていこうと方針を固めたようです。

彼の信仰は、欧米からの単なるコピーではなく、武士道の精神の上に立つキリスト教でありました。武士道の上にキリストを「接ぎ木」するものです。内村は、欧米の教会の在り方をむしろ毛嫌いし、あくまでも「日本的キリスト教の創造」を目指しました。

内村は、日本の神道や仏教、なかんずく武士道は、その道徳性において、贖罪思想を除けば、決してキリスト教にひけをとらないと考えていました。キリスト教国家アメリカの表裏を見ながら、異教徒の国日本にも、神が育成してきた摂理的使命、即ち、天職があるとの確信に至りました。

そして、自分たちで聖書を読み、自分たちが解釈して、自分たちのやりかたで運営しようとする独自的なもので、そういう意味で 、プロテスタントの本道に沿ったものだと言えるかもしれません。

教会なき者のため教会、教会主義をよしとしない者のための教会、無教会主義の詳細は3章、4章で後述することにいたします。

2、教会論ー聖なる公同の教会とは 

 

内村の無教会主義は一種の教会論の一つと言えるでしょう。そこで先ず最初に、伝統的な教会論を述べ、その中で内村の無教会主義とは何かを考え、更にすすんで我々のホームチャーチ(家庭教会)とも対比しておきたいと思います。

いわゆる教会論とは、教会に関する議論です。エクレシア(教会)という言葉には「呼び出されたもの、選り分けられたもの」という意味があります。聖書的には、キリストは教会のかしら、教会はキリストのからだ(エペソ1・23)という位置付けにあり、教会は建物ではなく神によって呼び出された「信徒の集まり」であります。 

教会には、地域の信徒の集まり(地域信徒共同体)と普遍的教会(キリストに与る全てのクリスチャン共同体)があり、キリストを受け入れた時点で、私たちは先ず普遍的教会に属することになります。そして、三位一体の教理を宣言した4つの世界公同信条(使徒信条・ニカイア信条・アナタシウス信条・カルケドン信条)を受け入れている教会・信徒の群れは「公同の教会」といえるというのが伝統的教会の立場であります。

普遍的教会とは「ホーリー・カトリックチャーチ」とも呼び、目に見えない教会として、初代のペンテコステ以降終末携挙までの全ての信者から構成されます。キリストが普遍教会の所有者で、み名をもって呼び集められた普遍的な信徒の集まりであります。そして、その見えざる普遍教会が各個別教会として現れるのが「地域教会」で、見える教会としての地域教会に所属する具体的な信徒の集まりであります。例えば横浜海岸教会、銀座教会というように。

教会は正に「信徒の集まり」であり、二人、三人でもキリストに与るところは、すべからく教会であります(マタイ18・20)。従って内村鑑三の無教会主義においても、即ち「信徒の交わり」を意味します。

教会には、教派教会の他に、どの教派にも属さない単立教会、スモールチャーチと呼ばれている教会もあります。我々のいうホームチャーチ(家庭教会)は、UCの組織に属していますが、形の上では無牧の単立教会と言えるでしょう。一人教会(ワン・パーソン・チャーチ)も教会であります。宮岸進司祭は、筆者への按手礼が終わったあと「今後は、あなたの居るところ、あなたの居る場所が教会です」と語られました。

万人祭司とは、聖書に従って敬虔な信仰を行う者全員を司祭とするというプロテスタントの考え方で、教皇や聖人を通さずとも、聖書を読み、信仰によって、直接神の前に出て恵みを受けることが出来、一人一人が単独で神の前に祭司となるという思想で、これこそワン・パーソン・チャーチに他なりません。祭壇は教会にあり、家庭にあり、そして我が内にもあり、大自然の中にもあるというのです。我が内なる祭壇の前で祈るのも立派な礼拝です。

内村鑑三は、教会のあり方に失望して、或いは捨てられて無教会主義を唱えましたが、二人、三人の信徒が神の名によって交われば、そこは(無教会の)教会であるというのです。主にあって志を一つにした信徒の交わりは聖霊が働く場となり信仰を高める場となることでしょう。

そして、次の聖句を胆に銘じておきたいものです。

「からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エフェソ4・4~5)

3、内村の無教会主義とは


内村が無会主義を唱えるまで、いくつかの思想形成の過程がありました。洗礼後、聖公会でもメソジストでもない、教派を越えて信徒で設立・運営した「札幌独立基督教会」の経験もその一つです。

内村は、間接伝道より直接伝道の道を選択して、職業を捨ててアマースト大学に入りましたが、卒業後入ったハートフォード神学校を中退して、敢えて教会教師(牧師)の資格を取得しませんでした。資格よりも実質を重視するのが内村の矜持でした。   

更に不敬事件での代拝を謗られ、植村正久ら基督教主流からの批判を浴びたり、牧師を無視するような言動が目障りになるなど、教会から異端視され捨てられた経験も大きかったことでしょう。

そうして、聖書研究会を主宰しました。これが事実上の無教会教会(信徒の集まり)になっていきました。無教会について以下の如く内村は語っています。

「世に無教会信者の多いのは無宿童子の多いのと同じであります。ここに於いてか私共無教会信者にも教会の必要が出て来るのであります。此の世に於ける私共の教会とは何であって何処にあるのでありましょうか。神の造られた宇宙であります。天然であります。是が私共無教会信者の此の世に於ける教会であります。其の説教師は神様御自身であります。是が私共無教会信者の教会であります」(雑誌「無教会」1901年3月14日付)

無教会主義は、ルターの聖書主義と万人祭司主義を更に徹底させたものであると言えましょう。しかし、無教会といった誤解を与える名称より、「聖書を研究する信徒の集まり」或いは「聖書聖会」と呼んだほうが良いかも知れません。当にイエスがマタイ18章20節で言われた「二人または三人がその名によって集まるところ」そのものであります。

4、無教会の特徴


内村の無教会には洗礼や聖餐の儀式はありません。牧師、長老、執事も置かず、信徒と聖職者との境はなく、説教は信徒が持ち回りで行います。従って、聖書の講義や研究が主体となっていきます。これらはかって札幌独立基督教会でやっていたことでありました。札幌農学校のクラーク博士は牧師ではありませんでしたが、教え子を自宅に招き、家庭で礼拝をいたしました。

内村は次のように語りました。


「真正の教会は実は無教会であります。天国には実は教会なるものはないのであります。監督とか、執事とか、牧師とか、教師とか云う者のあるは此の世限りの事であります。彼所(天国)には洗礼もなければ晩餐式もありません」

実は内村には聖職者・牧師への強い嫌悪感がありました。それには、第一に外国人宣教師に隷属して養われる日本の牧師への蔑視があり、人の情けにすがって生きる僧侶への偏見もありました。ハーフォード神学校へ入学したのは、牧師になるためでも、神学者になるためでも、神学博士号をとるためでもなく、純粋に福音伝道のための生きた聖書を研究するためでありました。しかし、ハーフォード神学校の自由主義神学の教育内容に嫌気がさし、また体力的限界もあって結局5ヶ月で退学することになります。

また内村は、1901年2月22日に「洗礼晩餐廃止論」を「聖書之研究」6月号に発表し、1902年聖書之研究に「洗礼晩餐を以て救霊上の必要とは信ずる能わず」と投稿し、信仰告白だけで入会を認める方針を取りました。確かにイスラム教では、「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒である」だけが唯一入会の信仰告白になっています。

内村鑑三は、彼の処女作『基督信徒のなぐさめ』において、初めて「無教会」という言葉を用いています。

「余は無教会となりたり、人の手にて造られし教会今は余は有するなし、余を慰むる讃美の声なし、余のために祝福を祈る牧師なし。大自然の無限と交通し、また、失せにし聖者と霊交を結ぶ」

その後、彼は「無教会」という名称の雑誌を創刊し、教会に行けない、所属する教会のない者同士の交流の場を設けようとしました。

また、無教会主義は「教会」よりも「キリストの十字架」を重んじると言われ、実際、内村はキリスト教は十字架教であるとも言っています。無教会主義は、教会主義からの脱却を目指す主義であって、キリスト教の福音信仰そのものを否定する主義ではありません。

無教会礼拝で中心を占めるものは聖書講義、聖書講話であり、前後に讃美歌を歌い、祈りや黙祷をするなど、プロテスタントの礼拝形式を簡素化した形をとっています。

しかし、洗礼(バプテスマ)、聖餐式等の儀式は通常行われませんが、かならずしも洗礼反対、聖餐反対という意味ではありません。現に内村も十数人の洗礼を自ら授けており、自分の子供にも洗礼・聖餐を施しています。その意味では、無教会主義は「反教会主義」ではありません。

しかし内村の、教派を認めず、洗礼などの宗教儀式を認めないことで、既成のキリスト教会と真っ向から対立いたします。儀式を認めないことは、既成の教会にとって致命傷になるからです。我がUCの聖酒式や祝福式を認めないとなればどうでしょか。波紋の大きさが分かろうというものです。

実はキリスト教会において、洗礼の効力の有効性を巡って、二つの議論があるというのです。真に悔い改めた者の洗礼には実際に罪の許しが伴うという「有効論」と、洗礼はあくまで罪の許しの象徴であって、むしろキリスト教徒として正式な信徒となる儀式であるという「象徴論」があるのです。我々はどちらに与するというのでしょうか。

そして、実際の無教会には、学者人脈(元東大総長の矢内原忠雄、南原繁など)と並んで、在野での伝道を行っていった人々(斎藤宗次郎、政池仁など)がおり、いわば二つの系統があると言われています。

5、聖書研究会の主宰と「聖書之研究」発刊

1901年(明治34年)に内村は自宅で聖書講義をはじめました。日曜日の午前、家族を中心として20名ほどを集めたものでした。

1902年(明治35年)に3回目の夏期講談会が成功に終わった後、内村鑑三の角筈の自宅で、有志によって内村鑑三を講師とした角筈(つのはず)聖書研究会が始められました。25名定員の東大生を中心とした聖書研究会です。これこそ無教会の教会(信徒の集まり)の始まりであります。

内村は誰からも独立するために、以後定職につくことなく、この聖書研究会の主宰と月一回の「聖書之研究」発刊が、内村のメインの仕事となりました。ここを足がかりに、内村は精力的に持論を発信していくことになります。

1903年9月聖書研究会を一時解散しますが、これは、教会のない者のための無教会主義を唱えるものが、教会と思われるまぎらわしいものを作っていると見られることを嫌ったためであると言われています。しかし、1904年2月再開しています。

また、1905年9月ころから聖書之研究の読書組織、「教友会」が各地に作られました。その後、1907年11月角筈から淀橋町柏木に引っ越して柏木聖書研究会と呼ばれるようになります。1908年6月には自宅敷地内に今井館が開館されました。

1909年には新渡戸稲造の読書会の東大生グループが新渡戸の推薦で紹介され、聖書研究会に入会し、柏会と命名されました。メンバーには、塚本虎二、藤井武、前田多門、矢内原忠雄などがいます。

1918年(大正7年)1月、聖書の預言的研究演説(再臨運動)を中田重治、木村清松らと共に基督教青年会館(YMCA)で開催しました。これが好評を博して大勢の聴衆を得、これがそのまま内村個人の聖書講演会となっていきました。

1919年に会場を大日本私立衛生会館に移して行い、1921年に中央聖書講演会へと発展しました。のち東京聖書研究会、内村鑑三聖書研究会と名称が変わります。

1923年(大正12年)の関東大震災により、大日本私立衛生会館が倒壊し消失し、以降は、会場を柏木の内村邸内にある今井館に移しています。

6、韓国教会、海外との関係


内村鑑三の集会に参加していた者の中に朝鮮人が78名もいたと言われています。当時学生だった金教臣(キムギョシン)などは、帰郷後、無教会の集会を立ち上げ、また「聖書朝鮮」という伝道雑誌を発刊しました。韓国独立後は「霊断」(宋斗用)、「聖書研究」(盧平久)が創刊されるなど、その後も無教会は日本と切り離し少数派として存続しました。

内村は韓国を愛しました。「将来余を最も良く理解してくれる者は或いは朝鮮人の中より出るかもしれない」といい、「神は将来において、朝鮮人を用いて大いに日本人を教え給ふであろう」との予言もしました。

一方、イギリスで発生した平信徒運動でブレズレンとよばれるキリスト教のグループや、ヨーロッパで起こったメノナイトなどの再洗礼派(アナバプテスト)運動などが、その礼拝や理念、信条など無教会主義に近いとの指摘があります。また、同じくイギリスで起こったクエーカーと無教会主義のキリスト教徒との類似点を指摘する研究者は多いです。

内村自身、米国留学以来クエーカーとの交際があり、新渡戸稲造をはじめ日本のクエーカーとも親交が深く、内村の弟子の中には後にクエーカーに入信した者も少なくありません。

内村自身も著作の中で、「キルケゴールが無教会主義のキリスト教を世界に唱えた」と述べているように、内村本人も無教会主義を提唱するにあたって、国外の哲学や神学思想との類似点を認識していたことは確かであります。

7、内村の非戦論について


最後に内村の非戦論について考えることにいたします。

内村鑑三は、「万朝報」の英文欄主筆となった1897(明治30)年以降、社会問題に対する発言も積極的に行っていました。特に足尾鉱毒問題については田中正造らと協力し、実質的に鉱毒反対運動の第一線に立っていたといえます。1901(明治34)年7月には、朝報社の黒岩涙香、幸徳秋水、堺枯川らと社会改良団体「理想団」を結成しています。

内村は当初、日清戦争については「義戦」を主張していました。中国清を傲慢な無礼な国とし、朝鮮への愚民化政策、弱体化政策で、朝鮮を中国の朝貢国家として縛りつける身勝手な国として非難しました。明治27年9月3日に発表した「清戦争の義」で、次のように述べています。

「私たちは信じます。日清戦争は、私たちにとっては、実に義戦であったと。この二十余年間、支那は我が国に対して、無礼極まりなく、私たちには忍耐しかねるほどでした。支那は社交律の破壊者です。人情の害敵です。野蛮主義の保護者です。支那は正罰を免れることはできません」

「朝鮮において常にその内政に干渉し、我が国の朝鮮に対する平和的政略を妨害しました。支那は朝鮮の無力化を計り、これを永く支那に依存する国にしたいと思ったのです」

上記の通りの内村ではありましたが、その後、戦勝に奢る軍人らの姿を目の当たりにし、また一方では戦争で夫を失った寡婦の悲惨な姿を見るにつけ、次第に非戦論に傾いていきました。内村の繊細にして鋭敏な感性は、軍人、為政者の驕りを感じ取り、義戦の美名の後ろに自己中心的動機を感じたのでした。  

日本の戦後処理の実情に失望する中で内村は「猛省」し、とくに日露戦争以降、彼の姿勢は「非戦論」という言葉によって知られる「戦争絶対的廃止論者」としての姿勢を打ち出していき、「戦争廃止論」を萬朝報に発表しました。

日露戦争では、戦争中、日本メソジスト教会の本多庸一や日本組合教会の小崎弘道らキリスト教の多数派が主戦論に傾いて積極的に戦争に協力しましたが、非戦論は内村や柏木義円などのきわめて少数でありました。内村は弱者、寡婦、病者など、弱いもののへの強い愛がありました。戦争はかならず弱い者にしわ寄せがいく、これが絶対平和主義の原点で聖書の教えでもあります。

しかし、戦争反対を強く訴えた内村でしたが、彼の元に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、「家族のためにも兵役には行った方がいい」と助言しました。弟子の斎藤宗次郎が、内村に影響されて本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をした時には、内村がわざわざ岩手県花巻の斎藤のもとを訪れ、説得して翻意させています。

この言動は「キリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって戦場に行く」ことを信者に対して求める、無教会平和主義者の教理「戦争自体に直面したときの無抵抗」に基づいています。内村は「一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である」と述べて、弟子に兵役を避けないよう呼びかました。

以上の内村の非戦論思想における、「戦争政策への反対」と「戦争自体に直面したときの無抵抗」という二重表現は、あらゆる暴力と破壊に対する抗議を表明すると同時に、「不義の戦争時において兵役を受容する」という行動原理を示したものです。

こうして内村は、祖国愛と絶対平和の狭間で葛藤いたしました。ただ、利害が衝突し流動する国際環境の中にあって、内村の絶対平和主義は机上の理想論の謗りを免れず、また、勝者こそ正義としてまかり通る国際環境の中にあっては無力であることは確かです。

内村は、戦争に傾く日本を一旦見限り、「神は日本を滅ぼすことを決定されました。復活するために一度日本を葬って下さい」と祈りました。内村には日本の運命が、バビロン捕囚で一旦滅亡したイスラエルが、帰還して復活再建したあの歴史とだぶっていたに違いありません。

内村の非戦論は、売国奴との謗りにもかかわらず、深い愛国的心情から出たものであることを理解したいと思います。そして日本が世界の仲介者としての「天職」を自覚し、これを全うするように促す預言者的とも言われる発言を繰り返しました。

以上、内村鑑三の無教会主義、聖書研究会、非戦論について述べました。次回は、内村の再臨思想、復活論・永生論について述べることにいたします。(了)



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