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内村鑑三の世界④

◇聖書の知識39ー内村鑑三の世界(4)

今まで3回に渡って内村鑑三の人生と信仰を述べて参りました。これで一応内村の人生・信仰・思想を網羅したのではないかと思っています。

しかし敢えて今一つ、内村の結婚と愛、離婚、死別、定職なき流浪の人生など「人間内村」について取り上げて見たいと思います。

内村は、生涯、定職らしきものを持たず、文筆活動と聖書の研究にほとんどを費やし、雑誌の講読料と講義料だけが唯一の収入でした。国家からも教会からも異端視された、紛れもないアウトサイダー、荒野で叫ぶ預言者でありました。

この内村の境遇はユダヤ人と共通しており、内村は生涯ユダヤ人の数奇な運命に並々ならね関心と同情を示しました。また、同じような苦難の歴史を持つ朝鮮人に対しても同様の感情を持っていました。

そして内村は、独学で聖書と神学を自分のものにしました。神学校を出たわけではない内村は、当に聖書を独学したのです。しかし、その聖書理解は、決して我流でも傍流でもなく、インスピレーションと体験に基づく独自流であり正統的でした。

1、自ら語るように、内村は人生に三回の信仰的転換を経験しています。


前回も述べましたが、先ず第一に、17才で唯一にして天地の創造主たる神を受容し、多神教から一神教へ転換したことです。迷信から科学への転換であります。次は、25才の時、アマースト大学のシーリー総長の感化で、十字架の贖罪信仰へ回心したことです。道徳家から信仰者への転換であります。下記聖句は内村のお気に入りの聖句です。

「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった」(ロマ書3・25)

そして3回目が58才での再臨信仰への目覚めであります。内村は聖書に基づいてキリストの再臨を確信し、再臨による死者の復活、万物の復興、宇宙の完成、平和の成就を確信し、再臨こそ真理の中心、聖書の中心であることを理解しました。内村にとって再臨運動は、自らの信仰表現の極みでありました。

2、さて、ここで内村の家庭事情を語らなければなりません。


内村は配偶者と生涯4回の結婚、2回の離婚、1回の死別を経験しています。それに加えて娘ルツ子と死別しました。

このように内村の家庭事情は尋常ではありませんでした。内村には妻という存在が4人いたのです。浅田タケ、横浜加寿子、築山もと、そして岡田静子です。浅田タケとは結婚後半年で別離し1889年5月に離婚手続きをしています。2人の間にはノブという娘がいました。2番目の横浜加寿子とは1889年7月に結婚して、1891年4月に死別しました。

3番目の築山もとの詳しい記録はありません。会ってすぐ別れたのだと思います。最後の岡田静子とは1892年12月に結婚し、内村が亡くなるまで共に暮らしました。静子との間に娘と息子が生まれましたが、娘ルツ子は1912年に19歳で病死しました。息子の祐介は、東大医学部の教授を務めています。

内村の32才の時の処女作「基督信徒のなぐさめ」には、失ったもの、捨てられたものなど6つの災難が挙げられています。妻を失ったこと、国家(不敬事件)とキリスト教会から捨てられたこと、事業に失敗したこと、貧に陥ったこと、病に伏せたこと、の6つであります。

神は、内村をどん底に追いやられたのです。愛するものを失い、愛する者から(国家・教会)から捨てられ、全てを失って死の淵に追いやられました。しかしそこから甦り、復活のからだを得ることになります。

特に1891年4月の妻加寿子との死別は試練でした。内村は著書「基督信徒のなぐさめ」の第一章「愛するものの失せし時」で加寿子について記しています。(若松英輔著「内村鑑三」より)

内村は、「愛する者を失うことは己を失うことに等しい」と記しました。この加寿子の死を通して、死と来世について身を持って理解するようになります。

「愛するものの失せしより、数月間、祈祷を廃したり。祈祷なしには箸を取らじ、祈祷なしに枕に就かじと誓いし余さえも、今は神なき人となり」と、生命視していた祈祷さえできないほどうちひしがれた内村でした。

しかし当時不敬事件、貧乏、病気などで最悪の境遇にあった内村に献身し、若くして国賊の妻として死んでいった加寿子に報いる機会が、永遠に失われたのではないことを悟っていくようになります。

「汝もしわれに(亡き妻に)報いんとならば、この国この民に事えよ」との天よりの細き声を聞くことになります。神と日本のために働くことこそ亡き妻に報いる道だ、と。

しかして、「祈祷は無益ならざりしなり。余は祈祷を廃すべけんや、以前に勝る熱心をもって祈祷を捧ぐべし」との霊的心境に引き上げられました。

かくして内村は、「失せしものを回復するや、神は一層近きを覚えたり」と記し、妻・国・神を喪失したかに思えた出来事は、それらとより深く交わるための道程だったのです。

「愛するものの肉体は失せてその心は余の心と合せり」と愛するものとの新たな交わりを体感したのでした。

若き日に、内村に心酔した作家の正宗白鳥は、この「基督信徒のなぐさめ」を高く評価し、その中でも第一章の「愛するものの失せし時」が最も優れているとしました。

3、しかし、ここで一つの疑問を呈しなければなりません。


筆者が内村を描く時、唯一気になり、いまだに腑に落ちないことが一つあります。それは、上述のようにあれほど愛しその死を悼んだ妻加寿子と1891年4月に死別してのち、僅か1年半の間に2回も結婚したという事実です。

3人目の女性築山もととの結婚(同棲?)についての言及はなく詳しくはわかりません。その後、生涯を供にする静子とは1892年12月に結婚しました。

孔子は「3年喪に服す」ことを唱えました。内村は、せめて最愛の妻に敬意を表して、3年くらいは待てなかったのか、と。

パウロは結婚について「わたしのように、ひとりでおれば、それが一番よい」(1コリント7・8)と語りました。無教会教会の主宰者たる内村がこのことを知らなかったはずはありません。

内村の他の全てに敬意をはらう筆者ですが、上記1点だけは理解に苦しむところです。内村は自らの結婚観、女性観について、かのアウグスティヌスが情欲に苦しんだ自分を赤裸々に告白したように、自らのそれを語った形跡はありません。ある神学者は、内村ほどの天才にとって「1日は千年の如し」だと弁護しています。

内村の長男祐介の妻内村美代子は、内側から見た「晩年の父内村鑑三」(教文館)を書いています。美代子は内村の講演会で、当時東大医学部の学生だった祐介と知り合い婚約することになりました。

この結婚は「神のみむ旨である」といい、内村は、二人に諭し、「肉の関係をつけてはならない。肉の関係をつけると霊の関係がおろそかになる」といったといいます。二人は内村の戒めに従って、結婚するまでの4年弱に渡る婚約期間中、一度も男女の関係を持ったことはなかったと本の中で証言しています。

そう考えると、禁酒禁煙を守る内村は、男女関係にもキリスト教徒としての厳格な規範を持っていたことになります。一体、内村は女性にだらしなかったのか、そうではなく、なお毅然たる純潔観念を持っていたのか、はたまた無頓着だったのか、筆者はこの問題に関して確たる論評は出来ず「無記」とせざるをえません。これらの事情を知る方は、是非ご教示下さい。

4、妻加寿子と並んで、娘ルツ子との死別は内村に大きな思想的、神学的転換をもたらしました。


ルツ子は1912年1月、18才の若さで病死しました。ルツ子は死が近付くなるにしたがって敬虔な信仰者となり、臨終の3時間前、聖餐式にあずかりました。その時のルツ子の晴れやかな顔を見た内村は「人の体は聖霊の宮なり。今日のこの葬りの場はルツ子の結婚式であります」と記しています。

愛する者の死は、生者とかの国との距離を縮めることになりました。内村は、ルツ子の美しい死の最後の言葉「モー行きます」によって霊魂の不滅、来世の確信を得、その照り返しとしての新たな現世観を得たと言うのです。ルツ子がその死によって、残され者のために天国の門を開いてくれたと信じました。

1912年10月、ルツ子の死を越えて、札幌で13回の講演を行い大成功をおさめました。その中で、「死というものは永久に別れたのではありませぬ。否、さらに近しくなったのです」と語り、死は再会の道程だと講演しました。

「私は死者の存在を信じる者であり、世を去りて天にある人が助けてくれると信じる者です」とも述べ、ルツ子との再会を信じ、協助の霊となって働くことを疑いませんでした。

内村は自らを「筆を採る者」であって、「口をきく者」ではないとしていましたが、ルツ子の死後、札幌講演を初め、再臨運動での講演(58回2万人)、ロマ書の研究講義(60回)など、語る人としても開眼していきました。そしてその際、クラーク先生、シーリー先生、ルツ子などの霊が「立つ」のを感じたといいます。その講演「我は福音を恥とせず」(ロマ書1・16)の中で語ることの本質について次のように語っています。

「それは哲学でも、思想の系統でも、解釈の方法でもありません。実にキリストの福音は、ダイナミックな力であり、原動力であります。学説は思想を供しますが、福音は力を授けるものです」(若松英輔著「内村鑑三」)

不敬事件と妻加寿子の死は、内村に復活と再生をもたらしましたが、この度のルツ子の死は、更に決定的な復活と再生、そして永生の思想をもたらしました。こうして、加寿子とルツ子との死別は、内村に新たな死者論、再臨論へと向かわせることになりました。

5、荒野に叫ぶ孤高の預言者の如く


アメリカ在住の4年間で、理想と憧れたキリスト教国家アメリカの良きも悪しきも知った内村にとって、「日本的キリスト教の創造」は生涯のテーマでした。そして内村ほど内外から様々なことを言われた人物は珍しいかもしれません。宣教師たちの大部分は内村をよくは言わなったでありましょう。

多くの弟子が集まりましたが、多くの弟子に裏切られ、「弟子を持つの不幸」という文まで書いた内村でした。去っていった弟子たちが内村のどの部分に共鳴し、どの部分を拒否したかはわかりませんが、個性的な堅物であったことは確かです。

その中にあって、宮沢賢治の有名な詩「雨にも負けず」のモデルといわれている斉藤宗次郎は、厳父のような峻烈な信仰を持つ内村に最後まで師事しました。臨終にも立ち会い、内村の著作の出版に尽力しています。

そして妻の静子は、主義主張の激しい内村の欠いていたものを、見えないところでおぎなう、穏やかなマリア的役割をはたした人だったと言われています。



内村は、その人生を信仰とその思想に捧げました。多くの欠陥と危うさがありましたが、多くの優れた著作と説教を残し、多くの弟子を残しました。確かに内村は、日本を代表する、そして最も影響力あるキリスト者でありました。

1930年3月28日8時51分、よき戦いをなし終え、家族や弟子たちに見守られて、内村は次なる生への旅路につきました。

以上で内村鑑三の項を一旦終えることにしたいと思います。内村の人生、その信仰と思想、如何でしたか。皆様の忌憚ないご意見をお聞かせください。日本のキリスト教に引き続き、次回は韓国のキリスト教について考えていくことにいたします。(了)



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