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対馬訪問記

○つれづれ日誌(8月4日)-対馬訪問記


わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる(ガラテヤ6.9)


筆者は、7月12日から14日にかけて、長崎県対馬を訪問いたしました。生まれて始めての対馬でしたが、まさか生きている間に訪問できるとは思いもよらなかったことです。


今回の訪問の目的は、大きく3つありました。即ち、日本海・玄界灘を挟んで日韓の中間に位置する対馬という特別な島にあって、教会を少人数で守る食口を、み言葉をもって励ますということ、そして食口の経営に関する助言をすること、更に日韓トンネルの中継点たる対馬における建設工事の歴史と進捗状況を視察すること、であります。


そしてお陰様で、結果的にはかなりの手応えと、ある種の満足感を感じる訪問になりました。こうして目に見えない神が、筆者を対馬に導いて下さったことを深く感謝したものです。


【対馬の概観】


先ず始めに、対馬についての、地理や人口、歴史、隣国との関係などの概観を、諸情報を参考にして見ておきたいと思います。


<対馬の地勢>

対馬は、島全域が対馬市の1島1市体制で、島内人口は3万470人(2019年9月現在)であります。


対馬全島の人口は、1960年の6万9556人をピークとして減少し、1980年には5万0810人、2016年には3万1963人まで減少しました。世帯数は1万5166世帯で、島に若者が働ける仕事先が少なく核家族化と高齢化が進んでいます。


対馬は、南北82km、東西18km、面積710k㎡ですが、90%が山林で稲作には適していません。日韓の中心にあり、北東アジアのほぼ中央にあります。ちなみに壱岐は平坦で 稲作に適し、その地形から、対馬は男性的、壱岐は女性的と言われます。


唐津から壱岐まで30㎞、壱岐から対馬までま50㎞、対馬から巨済島まで50㎞、福岡から釜山までは140kmの地理的位置にあります。



こうして地理的に朝鮮半島に近いため、古くからユーラシア大陸と日本列島の文物が往来し、日本にとっては大陸との文化的・経済的交流の窓口の役割を果たしてきました。


もし日韓トンネルと国際空港ができれば、対馬は北東アジアの「ハブ」になる可能性があり、文鮮明先生は、釜山と福岡一体が新文明の中心、新エルサレムになると言われました。


現在は大韓民国(韓国)からの観光客が増加しており海釣りの名所として知られています。


また対馬は国境の島であり、大日本帝国陸軍は対馬警備隊・対馬要塞を置き、戦後は1956年より自衛隊の駐屯地がおかれています。


対馬海峡には暖流の対馬海流が流れているため、その影響で年間通して比較的温暖で雨が多いという典型的な海洋性気候であります。


透明度の高い海は浅茅(あそう)湾や神崎などで海中公園となっており、昭和43年には、対馬全島は壱岐島とともに壱岐対馬国定公園に指定されました。


<対馬の歴史>

対馬は、『古事記』では最初に生まれた大八島(おおやしま)の1つとなっています。大八島とは、日本国の別称で、大倭豊秋津洲(本州)・伊予二名州(四国)・筑紫(九州)・淡路・壱岐・対馬・隠岐・佐渡の八州の総称です。


古くから大陸との交流があり、歴史的には朝鮮半島と倭国(倭人・ヤマト)をむすぶ交通の要衝でした。


大化の改新ののち律令制が施行されると、対馬国として現在の厳原(いづはら)に国府が置かれ、大宰府の管轄下に入りました。


663年の白村江の戦い以後、唐や新羅の侵攻に備え、防人(さきもり)が置かれ、667年には浅茅湾南岸に城を築いて国境要塞とし、674年には厳原が正式な国府の地となりました。


12世紀には、のちの宗氏の始祖となる惟宗(これむね)氏が筑前国の宗像郡から対馬に赴任しています。惟宗氏は、もと大宰府の官人でしたが、守護代として次第に対馬で勢力をのばし、武士化していきました。


従来対馬で強い勢力を持っていた阿比留(あびる)氏は、大宰府の命に従わなかったため、1246年、惟宗重尚(これむねしげひさ)が阿比留氏を征討して、対馬の支配権を確立しました。


鎌倉時代の日本は、2度にわたる元(モンゴル帝国)とその属国高麗による侵略(元寇)を受けました。対馬はその最初の攻撃目標となり、史上最大の受難を迎えることとなります。


1274年(文永11年)、蒙古・漢兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日佐須浦・小茂田浜に殺到しました。この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い迎撃しましたが、圧倒的な兵力差により全滅しました。


この受難を伝えた小茂田浜神社の『日蓮聖人註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたといいます。これが対馬における文永の役の難でありました。


1281年(弘安4年)に2度目の日本への侵略、弘安の役が起こりました。元・高麗軍の陣容は、合浦(現在の馬山市)より侵攻した蒙古・漢兵30,000人、高麗兵9,960人、水夫等17,029人より構成される東路軍と、寧波より侵攻した旧南宋・漢兵を主力とした100,000人の江南軍でした。弘安の役について『八幡愚童記』正応本には、次のように記されています。


「其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民ささへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり」


1587年豊臣秀吉の九州平定に際して、宗氏は事前に豊臣政権への臣従を決め、本領安堵されました。1590年には、宗義智が従四位下侍従・対馬守に任ぜられ、以後、宗氏の当主に与えられる官位の慣例となりました。


秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、対馬からは宗義智が5,000人を動員しました。義智率いる対馬勢は一番隊から九番隊に編成された派遣軍のなかでも最先鋒部隊にあたる小西行長の一番隊に配属されました。


義智は、1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、みずからは伏見城攻撃に参加し、大津城攻めや関ヶ原本戦では家臣を派遣して参陣しました。西軍敗北後は徳川家康から許され、以後代々徳川氏に臣属し、李氏朝鮮に対する外交窓口としての役割を担うこととなりました。特に対馬藩に仕えて日韓の交流に貢献した儒学者の「雨森芳洲」(あめのもりほうしゅう)は有名です。


こうして江戸時代を通じて宗氏が対馬藩の藩主を務め、城下町は対馬府中(厳原)につくられました。1609年には己酉約条(慶長条約)が締結され、釜山には「倭館」が再建されました。


<隣国(韓国)との問題>

1999年に厳原港・比田勝港~釜山港間の定期船航路が開設され、多くの韓国人観光客が対馬を訪れるようになりました。しかし同時に、一部の韓国人観光客のマナーの悪さが島内のみならず本土でも問題が取り上がられるようになります。


2012年の対馬仏像盗難事件をはじめ、韓国人による文化財の窃盗事件が頻発しています。またアワビ密漁の韓国漁船による領海侵犯が日常的に行われており、密漁船の多くは釜山港を拠点としており、組織ぐるみで密漁しています。


また対馬には陸上自衛隊対馬警備隊、海上自衛隊対馬防備隊、および航空自衛隊第19警戒隊が置かれて、国境を守っています。


以上が対馬の概観であります。


【旅の顛末】


以下の項で、この度対馬で体験した旅の顛末、そこで感じたインスピレーションなどを記すことに致します。


<教会訪問>

対馬に来て先ず驚いたのは、減少しているとは言え、3万人を越える人口を要し、立派な町を形成していたということでした。辺境の小さな島だとの先入観があったからです。


しかし、我が教会は数名の食口がかろうじて礼拝を守っていました。また対馬には「国際ハイウェイ財団対馬事務所」があり、城尾弘信さんが所長として赴任されていました。


筆者は13日と14日の早朝礼拝を担当し、インスピレーションにより、今対馬に必要と思われる話を講話形式で行いました。


13日の早朝礼拝では、奥山実牧師の「人間は神を礼拝するために生まれてきた。人生の目的は神を礼拝することだ」との人生観を引用して「礼拝の意義」を話し、そしてリバイバルの本質である「悔い改めの意味」について語りました。また14日は、宗家10万石の菩提寺である万松院の墓地を訪れた時に感じた印象を、対馬教会に関連付けて語りました。


この万松院と後述する和多都美(わたづみ)神社は、対馬の伝統的霊性の中心になっているような気がしました。そして対馬教会に、これらの霊的伝統を越える霊的基準が立ち、10名位の礼拝人数になれば、神が大きく働かれると確信しました。その中でも、唯一、一族ぐるみで復帰されている内山家は、大切な役割を担っているのではないかと思われます。


また対馬教会には、日韓トンネルの中継地としての事業を、霊的に守るという特別なミッションがあるため、是非ともその成長が期待されます。まさに今は「種を蒔く時」かも知れません。


<ポイント箇所の訪問>

13日は、城尾さんの案内で、丸一日をかけて、対馬のポイントとなる要所を見て回りました。


先ず小浦の国際ハイウェイ財団対馬事務所への訪問を皮切りに、今里の日韓トンネルの斜坑現場、 豊玉姫命を祭る和多都美神社(わたづみ神社)、浅矛湾(あそうわん)を一望する万関(ばんせき )展望台、そして万松院(ばんしょういん)参拝というコースでした。


最初の訪問先である「国際ハイウェイ財団対馬事務所」では、過去行ってきた日韓トンネル事業の歴史写真が整然と展示されていました。


1981年11月8日、「科学の統一に関する国際会議」(ICUS)にて、文鮮明UC教祖が国際ハイウェイ構想を提言され、これを受けて、1982年に日本に「国際ハイウェイ建設事業団」が設立されましたので、もうかれこれ40年の歴史になるわけであります。この間、日韓トンネル事業の火を消すことなく、たゆまず活動を続けて参りました。


そして次に案内されたのが、今里にある「日韓トンネルの斜坑現場」であります。まだ、ほんの少しの掘削現場ですが、ここから真っ直ぐ韓半島にトンネルが伸びていくことになります。


ガラテヤ書に「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」(6.9)とある通り、小さな一歩であっても、先ず種をまくことが大切です。この斜坑現場は、このことを語っているようでした。


ちなみにこの斜坑現場一帯の土地は、ハイウェイ財団が所有しているとのことでした。対馬全体では約90万㎡の土地を所有しているということでした。


私たちは、対馬ふるさと伝承館で昼食をしたあと、彦火々出見尊(ほおりのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめ)を祭る和多都美神社を参拝しました。


この和多都美神社は、古事記に出てくる海幸彦・山幸彦の伝承と龍宮伝説で知られる神社で、山幸彦と 豊玉姫が出会ったという玉の井の跡が残っています。彦火火出見尊(山幸彦)は天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と木花開耶姫(このはなさくやひめ)の子で、小船で海宮(竜宮城)に行き、 そこで豊玉毘売と結婚しました。


海に造られた鳥居は満潮時には海中に沈むということで、対馬にこういう古い伝承のある神社があったとは、驚きです。それだけ対馬が古くから注目されていた島であったことの証左であります。


そしてこの日の旅の終わりは、絶景の浅矛湾を一望する万関展望台を経て、万松院(ばんしょういん)と宋家墓地の参拝でした。


万松院は天台宗のお寺で、1615年に宗家20代義成(よしなり)が父義智の冥福を祈って創建した寺で、以降、宗家累代の菩提寺となり、高い格式を誇っています。桃山式の朱色の山門が有名で、また荘厳な花崗岩の石塔群は、金沢の前田藩墓地、萩の毛利藩墓地と並んで日本3大墓地の一つとなっています。


義智の妻は小西行長の娘でクリスチャン名マリアで、義智本人もダリオという受洗名を持つクリスチャンでした。


筆者は、132段の石段を一段一段踏みしめながら、やっとの思いで辿り着けば、なんと眼前に壮重な歴代宋家藩主(夫婦)のお墓が、整然と広がっているではありませんか。心なしか打たれるものがあり、中央に立って、宋家の霊に祈りを捧げ、教会とハイウェイプロジェクトの成功を祈念いたしました。


以上がこの日の顛末です。何かこの島は、特別に神に召された島のような気がして、感慨もひとしおで、この地に導かれたことを改めて感謝しました。


【日韓トンネル建設プロジェクトについて】


対馬は、日韓ないしは北東アジアの橋渡しになり得る要地でありますが、なんと言っても「日韓トンネルプロジェクト」の要になる地であります。そこで、このプロジェクトについて概観し、その意義などについ再確認しておきたいと思います。


<国際ハイウェイ構想>

1981年11月8日、韓国ソウルで開かれた第10回「科学の統一に関する国際会議」(ICUS)にて、文鮮明UC教祖は次のように提言されました。全てはここから始まったのです。


「私は一つの提案をしたいと思います。それは中国から韓国を通り日本に至る『アジアハイウェイ』を建設し、ゆくゆくは、全世界に通じる『自由圏大ハイウェイ』を建設することです」


これは、九州から壱岐・対馬を経て釜山に至る海底トンネルを構想していることは明らかです。そしてこの構想に即反応されたのが、西堀栄三郎と佐々保雄の二人の(元)大学教授でした。


日韓の協力が不可欠な日韓トンネルは、日韓友好のシンボルであり、その先には南北統一、アジア共同体の実現を展望する平和の構想でもありました。(一般財団法人国際ハイウェイ財団編・梶栗玄太郎著『国際ハイウェイプロジェクト』P34)


しかもその背景には、歴史を俯瞰した文明史観があるというのです。


<日韓トンネル>

上記文鮮明先生の提言を受けて、1982年4月、久保木修己UC会長を会長とし、梶栗玄太郎氏を理事長として「国際ハイウェイ建設事業団」が日本で設立されました。


唐津から壱岐まで30㎞、壱岐から対馬まで50㎞、対馬から巨済島まで50㎞、福岡から釜山まで140kmの距離にあり、これを一本のトンネルで通そうというのです。


国境をまたぐ国際海底トンネルとしての日韓トンネルは、正確には対馬から巨済島(こじゅど)にわたる約66㎞であります。



<日韓トンネル研究会>

そうして1983年、佐々保雄氏を会長として、日韓トンネル研究会が設立されました。研究会は、第一部会から第四部会に分かれ、それぞれの分野での研究が始まりました。


第一部会では、日韓トンネルの位置付け、理念構築、社会的・経済的インパクトなどの「政策理念」を研究し、金山政英氏(元駐韓大使)を部会長に、鳥羽欣一郎、中川学、清水馨八郎ら各氏が参加しました。


また第二部会では、トンネルルートの「地形・地質の把握」と問題点提起などを担当し、佐々保雄氏が中心になりました。


第三部会ては、トンネルの「設計・施工の研究」と問題点提起で、北原正一氏(元青函トンネル事務所長)らが担当しました。


最後の第四部会では、トンネルルートの「海域の気象や海象条件の把握」と問題提起で、佐々木忠義氏(元東京水産大学学長)が中心になりました。


こうして日韓トンネル研究会はスタートを切ることになります。そうして全国の専門家に発起人就任を呼び掛けたところ、なんと1000人以上の発起人が集まるという盛況で、日韓トンネルへの関心の大きさが如実に示されました。


こうして文先生の構想と提言の正しさは、1000名の専門家によって証明されたのです。


筆者はこの話しを聞いた時、国際ハイウェイ事業、即ち日韓トンネルプロジェクトは、統一思想・神主義思想の最大の広告塔になるのではないかとの思いがこみ上げてきました。


佐藤博文著『平和の大道ー国際ハイウェイ・日韓トンネル』には、日韓トンネルの調査・研究・予算・建設開始に至る展望が示されているだけでなく、文明論的視点からのビジョンや歴史的意義・平和の理念・実現戦略が示されています。


特に対馬のスーパー・インターナショナル・リージョン化、すなわち「超国際地域構想」を提言し、対馬に国連の支部や国連墓地を誘致する文先生の構想をを紹介しています。(『平和の大道』P83),


また、文先生の次の預言的な言葉が引用されていました。(P45)


「これからの世界文明の中心はソウルでも東京でもない。釜山と福岡が一つの都市になり、その一帯が新しい文明の中心となり、新しいエルサレム、新文明の聖地ともなる」


<一般財団法人国際ハイウェイ財団の誕生>

1982年に国際ハイウェイ建設事業団を設立して以来、当該事業団の財団法人化を模索してきました。そうして、政府は2006年に公益法人制度の改革を行い、2008年に新制度が施行されました。


この制度改革を受けて、国際ハイウェイ建設事業団の財団法人化が行われ、2009年1月8日、悲願の「一般財団法人国際ハイウェイ財団」が誕生しました。


その設立趣旨には次のような文明論が宣言されています。


「東アジア・ハイウェイ、国際ハイウェイを実現して、アジアを起点として、世界統一経済圏『世界共同体』を実現し、東洋と西洋を『新文明』の中に結合することによって、新しい世界の平和が具現化されるでありましょう」


また、定款第三条の目的には「国際ハイウェイ建設による平和統一世界の実現を目指し、文化的、宗教的、経済交流並びに科学技術交流を促進し、日本とアジア、世界の自由と平和と繁栄に寄与することを目的とする」と明記されています。


筆者は、これらの設立趣旨を全面的に支持すると共に、神主義思想啓蒙の広告塔としても、大きな期待を寄せています。


ただ、修正した方がいいのではないかと思われる箇所が一ヶ所ありますので、この場を借りて敢えて提言させて頂きたいと思います。


設立趣旨の中で「島国である日本は、アジアで初めて西洋文明を定着させました。次は半島文明の時代です」とあり、続いて「韓半島こそ、東洋と西洋の両文明が結合しつつある場所なのです」とあります。(『国際ハイウェイプロジェクト』P127)


確かに趣旨はその通りで異論はありませんが、国際情勢や日韓関係などの諸事情に配慮して、「次は半島文明の時代」を「次は半島文明・北東アジアの時代」と修正し、「韓半島こそ、東洋と西洋の両文明が結合しつつある場所なのです」の直接的なフレーズは削除した方がいいのではないかと思料致します。従って、この箇所の修正と削除を関係者、特に財団理事の方々に謹んで提言するものであります。


「日暮れてなお道通し」という感もある日韓トンネルプロジェクトですが、蒔いたよき種は、必ず刈り取る日が来ることを信じるものです。


「神の国を何に比べようか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」(マルコ4.30~32)



さて、以上の通り対馬についてしたためて参りました。対馬に導いて下さった神の恩寵に改めて感謝いたします。まだまだ語り足りないことが多々ありますが、以上を持って対馬訪問記と致します。(了)

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