🔷聖書の知識126ーアメリカのピューリタン 第二次宗教改革・リバイバルの旗手
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 (マタイ5.13~14)
前回で見てきた宗教改革に端を発するプロテスタンティズム、そしてこれを更に発展させた新プロテステスタンティズムは、新大陸アメリカで花開くことになりました。即ち、1620年にメイフラワー号にてピリグラムファーザーズと呼ばれるピューリタン(清教徒)らが新大陸アメリカに上陸して、アメリカのキリスト教史は事実上始まりました。
以下、宗教改革の更なる進展とリバイバルの視点
から、アメリカのキリスト教を概観していきます。
【アメリカのキリスト教史とその意義】
アメリカのキリスト教史を学ぶことの意義は何でしょうか。その意義は、第一に、プロテスタンティズムの本質を理解するために必須であること(新プロテスタンティズムはアメリカで開花した)、第二に、アメリカの基層精神文化にあるピューリタリズムを知ることがアメリカ理解に必須であること、第三に、アメリカの政治と世界情勢を知る鍵になること、更に付け加えれば、日本のキリスト教を知るためには欠かせないこと(近代日本のキリスト教は多くをアメリカ宣教師に負っている)、であります。そしてこれらを理解することを通して、信仰と教会生活の覚醒に繋がれば幸いであります。以下、キリスト教を中心としたアメリカの歴史を見ていくことにいたします。
ただ日本には、アメリカ歴史研究の書物は多く出ていますが、「アメリカのキリスト教史」は極端に少ないのが現実です。しかし「植民地時代」はピューリタンの時代であり、「ほとんど神学的とも言える信念によって建てられた、世界でただ一つの国」(森本あんり著『アメリカ・キリスト教史』新教出版社P5)と言われていますので、アメリカのキリスト教の歴史を語らずしてアメリカを理解することは出来ないということになります。
【アメリカの植民地時代】
「三つ子の魂、百まで」という言葉がありますが、アメリカの植民地時代(1620~1767)は、正に三つ子の時代であり、この時代にアメリカの基層精神が形成されました。この時代における主だったキリスト教の歴史は以下の通りです。
<ピューリタン以前の入植>
1492、コロンブスがアメリカ大陸を発見し、以後スペイン、フランスなどカトリックが入植を始めました。また1607年、イギリス人が、バージニアのジェイムズタウンへ入植し、イギリス国教会を「公定宗教」にしました。
このジェイムズタウンへの入植は、礼拝や清貧の生活を尊重するという点では、ピルグリムファーザーズらと同様のプロテスタント的な精神が流れていましたが、しかし入植者たちの目線は「本国への利益還元」に向けられており、あくまでも出先基地としての位置付けでありました。それに対して、不退転の決意をもって新天地を開拓建設しようとした、以下に見る「ニューイングランド」の人々とは根本的に反対の方向を向いていたのです。((森本あんり著『アメリカ・キリスト教史』P24)
<ピューリタンの起こり>
最初にニューイングランドに入植したのは、ピューリタンであり、これがアメリカの精神性の骨格になりましたので、先ずピューリタンの起こりを見ておきたいと思います。
イギリスのヘンリー8世(在位1509~1547)によって、カトリックから分離してイギリス国教会が生まれました。ヘンリー8世の死後、エドワード6世、メアリ1世と続きますが、特にメアリー1世(在位1553~1558)は、カトリックに再復帰し、これに抵抗するプロテスタントを徹底的に弾圧しました。
この弾圧を避けるため、800人ものプロテスタントがヨーロッパ大陸に亡命し、その一部はカルヴァンが宗教改革を行っていたジュネーブに逃れました。その中には、スコットランドの宗教改革を行ったジョン・ノックスも含まれていましたが、ジュネーブで彼らは「カルヴァン主義の強い影響」を受け、このことがピューリタンの起こりとされています。(大宮有博著『アメリカのキリスト教がわかる』キリスト新聞社P20~21)
メアリーの死後、エリザベス1世(在位1558~1603)即位後に帰国した亡命者たちは、イギリス国教会に残るカトリック的な残滓を一掃し、カルヴァン主義による教会改革を推進しようとしました。彼らは、清潔・清楚を意味するPurityに由来する「ピューリタン」(Puritan)と呼ばれ、次第に勢力が増大していきました。 しかし、エリザベス女王の後を継いだスコットランド出身のジェームズ1世は国教会を強制し、国王に迫害された人々の中に、後日「ピルグリム・ファーザーズ」と呼ばれる国教会から離脱した分離派のピューリタン(清教徒)の人々がいました。即ちロンドン北東の寒村「スクールビ」の人々であり、1607年、ジョン・ロビンソン牧師の指導のもとに海外移住を決意したのでした。
こうして生まれたピューリタンは、イギリス国教会内部からの改革を目指した「非分離派」と、国教会から分離・独立して独自の道を歩んだ「分離派」とに分かれますが、その分離派の一部は、弾圧を逃れて、1608年、オランダに渡り、ライデンで暮らすことになります。 しかし、ライデンでの生活にも見切りをつけ、1620年、メイフラワー号で北アメリカに向かいました。彼らは自らを「天を仰ぎ見る巡礼者」と呼びました。彼らは、1506年に始まったヴァージニア植民地の成功の話に学び、1920年9月、102名(ビリグリム41名+投資家・乗組員)がメイフラワー号に乗船し、イギリスのプリマス港を後にして新大陸へ向かったのである。総勢102名で、その内の41名がピューリタンだったといわれています。
乗船した41名はピューリタンの家族たちで、彼らは「神との契約」を守るため、新天地で理想の社会を構築し、宗教的に規律ある生活をしていきたいと望んでいました。ピューリタンの 唯一の目的は「新天地に新たな宗教社会(国家)を建設すること」であり、それゆえに神との契約を最優先させる生活をおくることを理想としていました。つまり、先ず神のための教会を建て、次に子孫のための学校を建て、最後に自分たちのための掘っ建て小屋を作ったのです。
彼らは北米大陸プリマス上陸直前の11月11日、 ピューリタンとよそ者と言われる乗組員は、「契約と法に服従する」ことを誓った契約神学に基づく政治社会契約である「メイフラワー誓約」を交わし、41名が署名しました。「神の名において、公正で平等な法、条例、憲法や役職をつくり、それらに対して我々は当然の服従と従順を約束する」と書かれているこの文書は、移民国家(多元国家)アメリカの「アメリカ型契約社会の原型」と言われています(森本あんり著『アメリカ・キリスト教史』(新教出版社P29) 。
こうして1620年12月21日、厳寒のプリマスに入植したピルグリム・ファーザーズでしたが、イギリスから持ち込んだ野菜や小麦の残りは十分ではなく、厳しい寒さもあって、その年の冬を越すまでに半数ほどが病死しました。しかし幸運なことに、彼らは親切なインディアン(先住民ワンパノアグ族)に出会い、ピリグリムに食べ物を与え、この土地で生き残る方法(家畜飼育法・トウモロコシ栽培法)を教えてくれました。翌年の秋には、先住民ワンパノアグ族から教えられたトウモロコシなどの栽培によって冬を越すことができたのであります。そして1621年、最初の冬を生き延びた人々が、収穫の感謝の気持ちを神に捧げるために、ワンパノアグ族を招き、共にその収穫祝う盛大な感謝の祝宴を行ったのでした。これがアメリカの「感謝祭」の起源であり、その後、アメリカの神話的な物語へと発展していきました。
その後、非分離派も、国教会の内部からの改革に見切りをつけ、1630年、1100人が、ジョン・ウィンスロップに率いられてアメリカに渡りました。本国イギリスでは、1625年にチャールズ1世が王位に就くとピューリタンへの弾圧はさらに高まり、プリマスや周辺のニューイングランド地域への入植数は増加し、ピルグリム・ファーザーズが入植した1620年から1630年代までの間に2万人を超える移民がイギリスから移住してきた。これらの人々はWASPと呼ばれるアメリカの骨格を形成しました。
<ジョン・ウインスロップらの入植>
前述のように、1630年には、非分離派のジョン・ウインスロップら1100人がマサセチュッツに植民しました。そしてこれに次ぐ10年間に聖職者を含むピューリタンらが2万人も渡来、発展の基礎をつくりました。
ジョン・ウィンスロップ(1587~1649年)は、イギリス清教徒の牧師で、新大陸上陸前のアルベラ号上で「キリスト者の慈善の模範」(A Model of Christian Charity)と題する説教を行いました。この時マタイ5章14節「あなた方は世の光である。山の上にある町は隠れることができない」を引用したウィンスロップの説教「全ての人々の目が注がれる丘の上にある町」は有名で、新たな選民的自覚のもとに、神との聖なる契約に入ったことを宣言しました。
その中で、「我々の目的は、神に対しいっそうの奉仕をし、キリストによる恵みと繁栄が与えられ、キリストによる救いを全うするという神との間の盟約に基づいて、『神聖なる共同体』を建設することである」と、新大陸における清教徒のビジョンを明確に述べました。この「丘の上の町」は、新大陸アメリカに渡った清教徒たちがつくろうとしたニューイングランドの「自由で公正な神の国」を表す象徴として用いられ、「アメリカ建国の精神」に引き上げられていきました。
そして「丘の上の町」は、「神聖な神の国」から「自由と公正と民主主義の理想的国家」へと呼び名を変え、しかもただの「丘の上の町」ではなく、「神に選ばれた特別な国」との自己認識のもと、「輝ける丘の上の町」へと進化し、アメリカという国家の象徴、国民的信仰とも呼べるべきものとなっていきました。多くの歴代大統領の演説で繰り返し引用され、ウィンスロップの説教から400年の年月を経た今日も、清教徒たちの目指した建国の理想は、アメリカ社会に生き続け、社会を動かす大きな原動力となっています。
<カトリック・バプテスト・クエーカー>
当初、ニューイングランドでは会衆派教会が、南部ではイギリス国教会が、いわゆる「公定教会」になっていましたが、他宗派の教会も入植してきました。 清教徒は、マサチューセッツに入植し、成長し、繁栄しました。そして、自らの成功は、神が満足していることを表す徴であると見なし、その宗教的信条に同意しない者を甘受すべきではないという考え方も芽生えていました。
しかしその住民の1人、ロジャー・ウィリアムズは、聖職者と意見が合わず、追放され、ウィリアムズは、誰もが信教の自由を享受できる、新たな植民地を設立しました。これが後にロードアイランド州となりました。
このほかにも、宗教的迫害を受けた人たちの避難所として誕生した州が2つあり、カトリック教徒の避難所となったメリーランド州と、クエーカー(フレンド会)のペンシルベニア州であります。クエーカーは、プロテスタントの1派で、質素な生活と平和主義を信奉する教派です。即ち、1634年、カトリック信徒のカルバートが「メリーランド」を拓き、1635年には、政教分離の元祖ロジャー・ウィリアムズにより、誰にでも開かれた「ロードアイランドのプロビデンス」が創設されました。
ここでは、信仰の自由を求めて移住してきたバプテスト派を受け入れ、バプテストの原理である国家と国教会からの独立、個人の意思による浸礼のバフテスマを受けた信徒による自治という教会が成立しました。
<ペンシルベニア入植>
また1682年、クェーカー信者のウィリアム・ペンがクェーカー、メノナイト、アーミッシュ、ルター派、長老派、カトリックなど、いずれの宗派にも門戸を開いた「ペンシルベニア植民地」を開始しています。
この北部諸州形成のかなめとなったペンシルヴェニア(礎石の州)は、宗教的にもっとも多彩な都市で「市民宗教の原型」と言われています。兄弟愛の町を意味する州都「フィラデルフィア」では、ピュリタンの政治改革が大きく花開きました。 ここはクェーカーの町であり、長老派の砦であり、バプティスト教会の本拠地であり、英国国教会の中心地であり、ドイツ各教派、モラヴィア教徒、メノナイト派の故郷であり、カトリック教会が寛大な扱いを受けて賑わったところでもありました。また、独立宣言が署名された地でもあります。
こうして、アメリカへの移民の最初の中核となったのは主にイギリスからの移住者で、ニューイングランドなど13州を形成し、彼らは後にWASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント)と言われ、アメリカ社会の中核となっていきました。
しかし、アフリカ奴隷やオランダからの入植、18世紀にはスコットランド、アイルランド、フランスなどの非イギリス系移民も入植してきました。人口は、17世紀には約5万人でしたが、1775年のアメリカの人口は約250万人に増えています。
また、次項で述べますように、1730年代にジョナサン・エドワーズやジョージ・ホイットフィールドによって火がつけられた信仰の回心を重視する大覚醒(リバイバル)によって、必ずしもピューリタン一色ではなかったアメリカの宗教事情でしたが、以後超教派的なキリスト教会と「アメリカ人」というアイデンティティーが形成され、更に独立の気運が醸成されていきました。
しかし、この入植から独立までの植民地時代150年はピューリタンの時代と言え、ここに、神学的とも言える信念によって建てられた国、アメリカの源流があります。 そして、ピューリタンを中心とするアメリカのキリスト教は、以後数回に渡るリバイバルを興し、キリスト教の霊的な力を維持・発展していきました。
【ピューリタンの思想と行動】
さてピューリタンの思想の特徴ですが、これは徹頭徹尾、「個人の信仰の自由」を追求したことであります。教皇からも、国家からも解放されて、個人が宗教や教会を自由に選択できる権利を追求しました。「信仰の自由」「教会選択の自由」、「教会設立の自由」、即ち「神への自由」こそピューリタン思想の骨子であります。そしてこのような信仰の自由は、今でこそ当たり前のことですが、当時としては画期的なことだったのです。
<民間重視>
そして、この思想は、民間重視のアメリカ型社会の源流になりました。典型例は、私立大学制度で、日本と違ってアイビー・リーグなど有名大学は全て私立大学です。
ちなみにアイビー・リーグ(Ivy League)とは 、アメリカ合衆国北東部にある8つの著名私立大学(ブラウン大学、コロンビア大学、コーネル大学、ダートマス大学、ハーバード大学、ペンシルベニア大学、プリンストン大学、イェール大学)の総称であります。「アイビー・リーグ」の名称は、これら8校で構成するカレッジスポーツ連盟の名称から由来していると言われています。
ここにも国家の干渉を嫌う自己責任型社会の在り方が表れています。そしてアメリカは自由の国といいますが、基本にあるのは「国家からの自由」であり、何が本質的な自由なのかと言えば、それは自由の源泉となっている「信教の自由」を指しています。
<ピューリタンの神学思想>
ピューリタン神学は、基本的にはカルヴァン主義であり、この特徴を端的に言えば、「聖書主義」と「絶対的主権者としての神」という二つの原理であります。即ち、前者は権威の所在を教皇ではなく聖書に置くという考え方であり、後者は神の絶対性を強調したもので、いわゆる予定論の根拠となる思想です。ここから、先ず神のために教会を建て、次に子孫のために学校を建て、最後に自分達のために丸太小屋を建てるといった行動原理、即ち、「神第一主義」の考え方が生まれました。
これらピューリタン思想の系譜にあるのが会衆派(組合派)やバプテスト派の教会であります。これらの教会は、ヒエラルキー型の主教制度を拒否し、聖職者も長老も信徒も、全て平等という原則と完全自治を主張しました。 各個教会の独立と自治、回心体験を経た平等な成員による合議制であります。また、礼拝や儀式典礼はカトリック的な要素を排して簡素にし、そしてこれらの教会運営の在り方はアメリカキリスト教会のベースになっていきました。
【アメリカのアイデンティティー】
以上がピューリタンの歴史と精神の骨子ですが、これがアメリカという国の基本にあるというのです。「三つ子の魂百まで」といいますが、「日本的霊性」が、上古に形成された古神道的思想に源流があるように、見えざる国教としてのアメリカ市民宗教(アメリカ的霊性)、即ち、アメリカのアイデンティティーのバックボーンに、植民時代に形成されたピューリタン思想があるのは否定できません。
こうして、17世紀のイギリスやヨーロッパ諸国から信仰の自由、即ち「神への自由」を求めての移住から始まり、1776年の独立宣言に至るまでの1世紀半こそ、いわゆるアメリカ精神の基層を形成した期間と言えるでしょう。
一方、商業主義的なマスコミの影響もあってか、近時アメリカは、性の紊乱、麻薬、享楽主義、物質的世俗主義の国というイメージがあり、筆者自身も長らくそう思ってきました。また近時、若者の教会離れも深刻であり、白人の差別主義、アメリカの強権に対する国際社会からのバッシングも無視できません。しかし、アメリカの成り立ちを知れば知るほど、その正反対の一面がクローズアップされ、上記に見てきましたように、もともとアメリカは宗教の町、信仰の国だったというのです。
なお、アメリカ合衆国として独立した最初の13州(Thirteen Colonies) は、成立順に、1787年:デラウェア、ペンシルベニア、ニュージャージー、1788年:ジョージア、コネティカット、マサチューセッツ、メリーランド、サウスカロライナ、ニューハンプシャー、ヴァージニア、ニューヨーク、1789年:ノースカロライナ、1790年:ロードアイランドとなっています。
以上、アメリカの基層精神となった初期アメリカのピューリタンの時代を概観いたしました。(了)