◯徒然日誌(令和6年11月6日) イスラエル建国の聖書的意味ーイスラエル・イラン紛争に思う
その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる。(イザヤ11.11~12)
プロローグ
衆議院総選挙が自民党の惨敗に終わり、日本の政局は長いトンネルの中に突入した。石破首相は、「選挙に惨敗した首相は即辞任」との政治の常識を顧みず、厚顔無恥(こうがんむち)にも居座るつもりなのだろうか。しかし、石破政権に対する怨嗟の声は旧安倍派を中心に日増しに高まり、早晩辞任に追い込まれるのは必至である。早くも早期解散が喧伝され、少なくとも来年7月の参議院選挙には「衆参ダブル選挙」が行われるのではないかと思われる。
しかし、こうして日本の政治が停滞している間にも、世界は風雲急を告げており、低次元の政争を繰り返している時ではない。青山繁晴議員も、最近の動画で、「世界は戦争に満ちているのに、選挙ボケしている時ではない」と苦言を呈されている。そして日本時間の本日6日午後には新しいアメリカの大統領が決まる。
さて最近、ロシアの要請により北朝鮮の兵士がウクライナ戦争に動員され、ロシア・ウクライナ戦争は新たな段階を迎えた。そして中東では、10月26日、イランがイスラエルに行ったミサイル攻撃への対抗措置として、イスラエルはイランに空爆を行い、軍事施設(ミサイル製造施設)を攻撃し破壊した(但し、核施設や石油生産施設などへの攻撃は確認されていない)。またイスラエル軍は、ハマスの最高幹部シンワルを殺害するなど、ガザのハマスをほぼ殲滅し、そしてレバノンのヒズボラの最高指導者ナスララを空爆で殺害し、ヒズボラに激しい攻撃を加えた。まさにイスラエルとイランは一触即発にあり、これらの中東紛争は第三次世界大戦への火種になりかねず、決して日本も傍観できない
そこで今回、現在のイスラエルとパレスチナ・アラブ諸国との対立の出発点となった1948年の「イスラエル建国」について、その聖書的、歴史的、政治的意味について考察することにしたい。これは、イスラエル国家と現在の中東紛争を正しく理解するために、極めて重要な内容である。
【イスラエル建国とその聖書的意味】
1948年5月14日、満を持してイスラエルは建国された。このイスラエル建国に関する聖書解釈について、これは「聖書預言の成就である」という解釈と、「聖書預言の成就ではなく、普通の国の建国である」という解釈の両論がある。福音派の中川健一牧師やクラウドチャーチの小林拓馬牧師は、1948年のイスラエル建国は、「聖書預言の成就」であるという聖書解釈をされ、一方、日本基督教団甲府教会の斎藤真行牧師は、「聖書預言の成就とは言えない」という立場から論考されている。一体、私たちはどのように解釈すればいいのだろうか。
<聖書預言の成就という論理>
先ず、1948年のイスラエルの建国は「旧約聖書の預言の成就である」という説を解説する。
現在のヨルダン川西岸とガザ地区、東エルサレム、イスラエルはすべて、古代ローマ時代からパレスチナと呼ばれる土地の一部であった。一方、聖書に書かれたユダヤ人の王国の土地ともされ、ユダヤ人はアブラハムに神が約束した地とみなしている。 イスラエルはその土地で1948年、建国を宣言した。この建国は、神が旧約聖書の中でアブラハムに約束した、まさに「約束の成就」であるというのである。
「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、『わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える』」(創世記15.18~21)
確かにイスラエルは、出エジプト後、神がアブラハムに指し示したカナンの地に住み着き、ダビデ、ソロモンはこの地で王国を打ち立てた。その後、バビロン捕囚(前586年)やエルサレムの陥落(70年)で、イスラエルはディアスポラの民となって世界に四散した。そうして長い年月を経て、約束のパレスチナ(カナン)の地に帰還し、1948年、以前と同じイスラエルの名で建国した。アブラハム契約は今も有効であり、これはまさに聖書預言の成就であるというのである。即ち、聖書は随所で「世界の四角から散らされた民を集める」ことを預言しており、以下の聖書箇所はまさにイスラエル建国の預言であるという。
「その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる」(イザヤ11.11~12)
「わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国(すべての地)から集めて、あなたがたの国に行かせる」(エゼキエル36.24)
「わたしはあなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる」(エレミヤ29.14)
そしてイスラエル建国を聖書預言の成就とする立場では、終末にはイスラエルが国家的悔い改めに導かれ、民族全体がキリストを受け入れると考えている。パウロは、「彼ら(イスラエル)がつまずいたのは、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである」(ロマ書11.11)と言い、イスラエルは今は神に逆らっているが、「イスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われる」(ロマ書11.25~26)という救済観を開陳した。パウロはこれを奥義と呼び「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」(ロマ書11.33)と慨嘆したのである。
また、神に選ばれたイスラエル選民は、イエスを十字架につけたことにより、選民たる使命は第二イスラエルであるキリスト教会に置き換えられたという、いわゆる「置換神学」の立場には立たず、従ってアブラハム契約は今も有効であると主張する。そしてイスラエルの民族全体の悔い改めと救いは「再臨の前提条件」であるとする。
<普通の国の建国であるという主張>
しかし一方、1948年のイスラエル建国は、必ずしも聖書預言ではないとする立場がある。つまり、前記した旧約聖書の預言は、2500年後のイスラエル建国を預言したものではなく、バビロン捕囚など異邦人国家の侵攻により、バビロンやエジプトやベルシャなどオリエントの地方に四散したイスラエルを呼び集められるという意味だという。
即ち、エゼキエル書に「万国(全ての地)から集めて、あなたがたの国に行かせる」(36.24)とある「全ての地」とは、文字通りの世界を意味するのではなく、「残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。・・・主はユダの散らされた者を地の四方から集められる」(イザヤ11.11~12)とある通り、オリエントに散らされたユダヤ人ディアスポラの帰還、即ち「バビロンからの帰途」が主題であり、1948年のイスラエル建国に結び付けるには無理があるというのである。
そして旧約時代のイスラエルは、イエスを十字架につけたことにより、その選民としての使命が終わり、キリスト教会が第二イスラエル(霊的イスラエル)としてその使命を受け継ぐことなったという。つまり、聖書の人類救済史上のイスラエル選民としての役割は終わり、キリストを信じる異邦人教会にバトンタッチされたと主張し、まさにこれが第二イスラエル(霊的イスラエル)であるというのである。(イスラエル民族が異邦人教会に置きかえられたため、置換神学という名がつけられた)
従って、福音書やヨハネ黙示録の終末に関するイスラエルの記述は、文字通りのイスラエル民族ではなく、第二イスラエル(霊的イスラエル)としてのキリスト教会を意味し、イスラエルに関する終末論ではなく、教会に対する神の計画としての終末論と考える。即ち、神がイスラエルと結んだ契約(アブラハム契約など)はキリスト教会に受け継がれたとし、キリスト教をイスラエルに代わる第二イスラエルと位置付けた。従ってイスラエル建国は聖書の預言成就ではなく、イギリスやフランスのような普通の国としてのイスラエル建国であるという。聖書は次のように言っている。
「それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう」(マタイ21.43)
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである」(ロマ書2.28~29)
<普通の国イスラエルとユダヤ人の人類史的貢献>
筆者は後者の説、即ち、1948年のイスラエル建国は旧約聖書の預言成就ではなく、普通の国としてのイスラエル建国であると思料する。つまり、旧約聖書における選民としてのユダヤ人の使命が終わり、新約聖書の新しいイスラエルである教会にその使命が引き継がれたとする説を支持する。ガラテヤ書に「信仰による者こそアブラハムの子であることを知るべきである」(ガラテヤ3.7)とある通り、神がイスラエルと結んだ契約はキリスト教会に受け継がれたのであり、キリスト教はイスラエルに代わる選民と位置付けられる。
つまり、イスラエルは、もはや神において特別の国(選民)ではなく、イギリスやフランスやエジプトのように、普通の国として建国されたのであり、「特に」という形容詞は適切ではない。しかし一方、今日までのイスラエルは、歴史上、他に抜きん出た人類史的貢献をしてきたことは否定できず、その意味では「なお特別な国」である。「徒然日誌(令和6年8月28日) 」でも言及したが、以下の通りイスラエルは大きく3つの世界貢献をした。
第一の貢献は、世界に「一神教」をもたらしたことである。古代世界が皆多神教の偶像崇拝に沈んでいる時、アブラハムとその一族だけが一神教、即ち天地を創造された神は一人であることを主張した。イスラエルは一神教の元祖であり、今やユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教は世界の60%を占めるまでになった。
第二の貢献は、イエス・キリストを生み出したことである。イエス様はイギリス人でもフランス人でもなく、紛れもなくユダヤ人であり、イエス様が誕生しなければキリスト教もキリスト教文明も存在しなかったのである。イスラエルはイエス様を不信し十字架に架けたが、血統を糺してイエスというキリストを世界に生み出したことは、かけがえのない歴史的貢献である。
そして第三の貢献は科学の発展に寄与したことである。イスラエルは世界人口の0.2%でしかないにも係わらず(1500万人)、ノーベル賞受賞者の20%がユダヤ人である。
こうしてイスラエルが世界文明に寄与した点において他の追随を許さない。これらイスラエルの人類史的貢献こそ、中東紛争においてイスラエルを支持すべき大きな理由である。そしてイスラエルを支持べき今一つの理由は、イスラエル建国の歴史的背景にある。
即ちユダヤ人は、その強い「選民意識」故に、他国から反発を受け、また「キリスト殺し」というレッテルにより、2000年間、祖国を失った亡国の民として迫害と殺戮の悲惨な歴史を辿ってきた。特にナチスのホロコーストによって600万人という未曾有の犠牲者を出したのである。西欧諸国には、多大な犠牲を余儀なくされたイスラエルへの同情や、自ら迫害に加担したことへの自責の念(負い目)があり、パレスチナ地域(カナン)でのイスラエル建国を是認することは償いの意味もあったと思料する。
またイスラエルは多大な血の犠牲を払って十分罪を贖ったのであり、国を失って四散したイスラエルに、せめて約束の地と主張する地に、悲願の建国を認めることは道義に叶うものではなかろうか。中東紛争を、聖書的にはイシマエルの子孫たるアラブ人と、イサクの子孫たるイスラエルの葛藤と見ることができるが、長い苦難の歴史を経てやっと建国され安住の地を得たイスラエルの「自衛の戦争」を支持したいと筆者は思う。
<反ユダヤ主義・親ユダヤ主義・知ユダヤ主義>
巷間、「反日」「親日」「知日」という言葉があり、世界には反ユダヤ主義と親ユダヤ主義がある。しかし筆者は「知ユダヤ主義」を提案したい。
マルティン・ルターは、著書の中で、ユダヤ人に対する偏見に満ちた文章を残しているが、計らずもこれはヒットラー・ナチスの反ユダヤ主義に政治利用された。反ユダヤ主義については、「つれづれ日誌(令和5年9月20日)-UCバッシングと反ユダヤ思想」で論じているが、概ね次の通りである。
反ユダヤ主義とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見のこと、或いは、宗教的、経済的、人種的理由からユダヤ人を差別・排斥しようとする思想のことである。 概ね反ユダヤ主義は、①民族的な性格の強かった古代のもの(過度なユダヤ選民主義への反感)、②宗教的な理由によるキリスト教的なもの(キリスト殺しとのレッテル)、③19世紀以降の人種的なもの(ヒットラーに見る人種的な反セム主義)、の3つに分類できる。
そして前記した置換神学は「反ユダヤ主義」の温床になったという指摘もある。置換神学は、新約聖書解釈の一つで、キリストを拒否したので選民としてのユダヤ人の使命が終わり(見捨てられて呪い下にある)、新しいイスラエルとしてキリストを信じる教会に置き換えられたとする説である。しかしこれを強調するあまり、ユダヤ人に対する偏見と憎悪が助長され、異常な反ユダヤ主義が横行した。一方、1948年のイスラエルの建国こそ、まさに旧約聖書の預言成就であるとし、イスラエル建国を神聖なものとして美化し、過剰な「親ユダヤ主義」に傾斜することも誤認を招く。
私たちは反ユダヤ主義にも親ユダヤ主義にも与せず、イスラエルの迫害と建国の意味を正しく知るという「知ユダヤ主義」の立場に立ちたいと思料する。
【正しい聖書的終末観】
さて、キリスト教の言う「終末」とは、聖書によって示されたこの神の救いのご計画の終わりの部分を指しており、「終末論」とは、キリスト教神学におけるこの「終わり」の部分を取り扱い、一般に、再臨の予兆、キリストの再臨、死者の復活、千年王国、最後の審判、新天新地が、含まれている。
イスラエル建国を聖書預言の成就だとする説を唱える人々は、独特の終末論を有している。特に「契約神学」に対置される「ディスペンセーション神学」を唱える神学者や牧師は、旧約聖書においてイスラエルに約束されたことは、今も有効とし、まだ成就していない約束は、将来、イスラエルの上に成就すると主張し、イスラエルを中心とする終末論を展開する。(参照→徒然日誌(令和6年8月28日) 中川健一著『ディスペンセーショナリズム』を読んで)
即ち、旧約聖書においてイスラエルに約束されたことは、今も有効であり、将来、イスラエルの上に成就すると主張する。例えばカナンの地を与えると約束された「土地の約束」(創世記13.14~15)は、再臨のキリストが統治する地上のメシア的王国時代において成就するとするとし(イスラエル建国)、再臨のメシアが降臨されて千年王国を確立し、王として「エルサレムから世界を統治」されるというのである。即ち、王なるキリストによる神政政治が、エルサレムから始まり、全世界の上に神の支配が成就するとした。パレスチナの相続、神殿の復興、ダビデ王朝における異邦人世界の統治など、イスラエルに関する旧約聖書の預言が文字通り成就すると考えるのである。
そして再臨が天から降り立たれる場所は、かつてイエスが昇天されたオリーブ山であると考える(使徒1:10~12)。しかも戻って来る神殿は新しく建て直される「第三神殿」であり、現にイスラエルでは、やがてエルサレムの神殿の丘に(今は、イスラム教モスクの岩のドームが建っている)、第三神殿を建てるための全ての準備ができているという。
ディスペンセーショナリストや福音派の一部牧師は、以上のようなイスラエル観、終末観を支持し、終末の出来事は、「イスラエル国家の建国→携挙(空中再臨の時にキリスト者が天に挙げられてイエスと出会う)→大艱難期→イスラエルの霊的回復(艱難期の終わりに民族的にイエスをメシアとして認める)→キリストの再臨→千年王国→最後の審判→新天新地」という時系列で推移するとの説を唱えている。
しかしこのような終末観・イスラエル観は、イスラエルの使命はキリスト教(教会)に引き継がれたとする契約神学をはじめ、主流派キリスト教では否定されており、比喩や象徴で書かれたヨハネ黙示録を、主観的かつ空想的な解釈をしたものであり、いかにも時代錯誤の偏った教説というしかない。
前述したように、イスラエルが人類に多大な貢献をした事実は不滅であり、イスラエル建国を認め、これを支持することはやぶさかではないが、イスラエルはイギリスやフランスのように、(選民国家ではなく)普通の国になったのである。原理では、イスラエルを第一イスラエル、キリスト教を第二イスラエル、そして再臨主を仰ぎ見る統一の群れを第三イスラエルと位置付けている。
原理は「救いの摂理は復帰摂理であり、人類歴史は復帰歴史である」(原理講論P142)とし、「サタン主権の罪悪世界が、神主権の創造理想世界に転換される時代を終末(末世)」と解釈している。即ち、善悪二つの主権の歴史路程が交差する時(善悪交差)を終末といい、古いものの終わる点が、すなわち新しいものの始まる点にもなるのであり、古い歴史の終末期が、すなわち新しい歴史の創始期であり、その中心軸となるのが再臨である。(同書P174)
そして新しい時代の摂理は、古い時代を完全に清算した基台の上で始まるのではなく、古い時代の終末期の環境の中で芽生えて成長するので、古い時代の価値観に対しては、対立的なものとして現れるというのであり(同書P175)、これが正しい終末観である。従って、再臨はエルサレムのオリーブ山に降り立たれるのではなく、復帰歴史の中で神が認めた国に、選ばれた女の腹の中から来たりたもうのである。
以上、1948年のイスラエル建国についての聖書的、歴史的、政治的意味について論考した。そしてイスラエルは人類史的貢献をした特別な国であると同時に、日本や西洋諸国の国々と同様の普通の国であることを論証した。そしてこのような観点に立って、中東紛争を公正に見つめ、ひいては聖書の終末論を正しく解釈しなければならないのである。ちなみに、このイスラエル建国を、天一国建国・天苑宮建設の象徴的出来事として感じている信徒がいることを付け加えておく。(了) 牧師・宣教師 吉田宏