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イスラエル神殿の崩壊とバビロン捕囚 イスラエルのシナゴーグに学ぶ

  • 執筆者の写真: matsuura-t
    matsuura-t
  • 6月13日
  • 読了時間: 13分

◯徒然日誌(令和7年6月11日) イスラエル神殿の崩壊とバビロン捕囚ーイスラエルのシナゴーグに学ぶ 

 

イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。(申命記6.4~5)

 

プロローグ 

 

新バビロニアの攻撃で国を失い、神殿を失ったイスラエルは、捕囚の地でコミュニティー(信仰共同体)を作り、その集会所であるシナゴーグで、「シェマ・イスラエル」(聞け、イスラエル)を祈り唱った。シェマ・イスラエルとは、唯一の神に対する信仰告白であり、申命記に「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6.4~5)とある。イスラエルはシナゴーグで朝な夕なこの祈りを唱えたのである。 

 

確かに数次に渡るバビロン捕囚(前 597年、前586年、前581年)はイスラエルにとって民族的大受難であった。しかしこの試練はかえって民族の結束を強め、信仰を純化する端緒となったのである。シナゴーグで信仰を維持すると共に、祖父から伝承されてきた聖書(律法-トーラー、預言書-ネビイーム、諸書-ケスビーム)が集成されていき、ユダヤ教、ユダヤ人が形成されるきっかけになった。 

 

即ち、イスラエルは国と神殿を失って信仰の拠り所を喪失したが、神殿に代わるシナゴーグを作り、そこで祈り、律法を研鑽し、ユダヤ教を確立していった。神殿は神が臨在される場所であるが、神は神殿からシナゴーグに住まいを移されたのである。このイスラエルの歩みは、同じ大艱難、即ち「令和のバビロン捕囚」の中にあるUCにとってよい雛形(モデル)になる。また、律法の学びを中核にしたシナゴーグの在り方は、今後のホームチャーチのよいヒントになる。筆者は6月9日、「X」に次の通り投稿した。 

 

「イスラエルほど数奇な運命を辿った民族はいない。バビロン捕囚で国と神殿を失ったが、逆に信仰を純化する端緒となった。神殿を失って信仰の拠り所を喪失したが、神殿に代わるシナゴーグを作り、そこで祈り、律法を研鑽し、ユダヤ教を確立した。同じ大艱難の中にある統一にとってよい雛形になる」 

 

【神殿の崩壊とシナゴーグ、及びユダヤ教】 

 

前述の通り、イスラエルは新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、国を奪われ神殿を破壊された。そして、前 597年、前586年、前581年の3回にわたって バビロンに捕囚された。その中でも前586年の第二回捕囚が、代表的な「バビロン捕囚」である。こうして3次に渡る捕囚が行われ、多くの人々(指導層)がバビロンに連行された。エレミヤ書52章によれば、全体で指導層1万5千人くらいが連行されたという。しかし、預言者イザヤ(前8世紀~7世紀)、エレミヤ(前7世紀~前6世紀)、エゼキエル(前6世紀)は、捕囚の民が再び集められ、国が再建されるとイスラエルを励ました。 

 

「バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る」(イザヤ29.10)

 

筆者はこのバビロン捕囚になぞらえて、この3年弱のUCバッシングと文科省による解散請求を、UCにおける「令和のバビロン捕囚」と呼んでいる。この間のUCへのバッシング、偏見、差別、人権侵害、解散請求等々は、かってイスラエルが、神殿を破壊され、生命と財産を奪われ、国を追われた、あのバビロン捕囚に酷似すると感じられるからである。(参照→ HP徒然日誌-令和7年3月5日  バビロン捕囚解放後の国の再建ーイスラエル復活に学ぶ教会の再建)

 

<バビロン捕囚と解放> 

 

前597年、新バビロニアの攻撃を受けたユダ王エホヤキンは降伏し、数千人の貴族、聖職者および中産階級の国民とともにバビロンに連行された。そして前586年には、ゼデキア王が反バビロニアに加担したため、ネブカドネザル2世は再度エルサレムを包囲・陥落させ、神殿を焼き払い、城壁(砦)を潰し、多くの指導者層を捕囚の身としてバビロンに連行した。 

 

逃亡を図ったゼデキア王は捕らえられ、目の前で家族が虐殺され、自らは盲人とされ、足械(あしかせ)をかけられてバビロンへ連行されたという。列王記上には次の通りある。 

 

「カルデヤびとは王を捕え、彼をリブラにいるバビロンの王のもとへ引いていって彼の罪を定め、 ゼデキヤの子たちをゼデキヤの目の前で殺し、ゼデキヤの目をえぐり、足かせをかけてバビロンへ連れて行った。 バビロンの王ネブカデネザルの第十九年の五月七日に、バビロンの王の臣、侍衛の長ネブザラダンがエルサレムにきて、 主の宮と王の家とエルサレムのすべての家を焼いた。すなわち火をもってすべての大きな家を焼いた。また侍衛の長と共にいたカルデヤびとのすべての軍勢はエルサレムの周囲の城壁を破壊した。そして侍衛の長ネブザラダンは、町に残された民およびバビロン王に降服した者と残りの群衆を捕え移した」(列王記上25.6~11)

 

こうして国は滅亡し、神殿は焼き払われ、イスラエルは捕囚の民となった。捕囚民の大部分はバビロニアにあるニップル市そばの灌漑用運河であるケバル川沿いに移住させられた(エゼキエル1.3)。 

 

しかし神は、前538年、ペルシャのクロス王を用いてイスラエルを解放され、ゼルバベル、エズラ、ネヘミヤらを使ってエレサレムを再建された。即ち、捕囚後のイスラエルの再建は、①ゼルバベルによる神殿の再建、②エズラによる宗教改革(信仰と律法の復活)、③ネヘミヤによる城壁の再建と民の生活改善、という三段階で1世紀をかけて行われたのである。とりわけ祭司にして神学者エズラによる罪の分別と律法の確立は、民に悔い改めと信仰の復興をもたらした。捕囚民は、捕囚時代を通じて、神に選ばれた民族として、いかに生きるべきかを真剣に問い続け、その結果、新しい民族、即ちユダヤ民族に生まれ変わっていったのである。 

 

解放された人々、即ち「イスラエルの残りの者」(イザヤ10.20~22)が戻ったときには比較的民族としてのまとまりを維持し、かつてのイスラエル12部族の内、バビロン捕囚後も存続できたのはほとんどがユダ王国の中心部族だったので、バビロン捕囚後は「ユダの民」つまり「ユダヤ人」といわれるようになった。(山我哲雄著『聖書時代史』旧約篇P170~172)

 

<シナゴーグの成立> 

 

では、バビロン捕囚で神殿を失ったイスラエルは如何にして信仰を守ったのだろうか。民族共同体の重要な枠組みをなしていた王国と神殿祭儀を失った捕囚民は新しい枠組みを何に求めたのであろうか。彼らはそれを、民族の伝統的慣習を遵守する律法とそれに基づく生活規範に求めたのである。 

 

この間、捕囚民の間で多様な伝承からなる律法の収集が行われ、律法を定期的に学習する制度が発達した。これがシナゴーグ(集会所)と呼ばれるユダヤ教独自の会堂の始まりである。シナゴーグにおいては、祈りと律法の学習とコミュニティーの勤行が行われた。獨協大学名誉教授の高橋正男氏は「前538年にバビロン捕囚から帰還してエルサレムに神殿を再建してから、70年にローマによって破壊されるまでの第二神殿時代、ユダヤ教団が発展させた制度のなかで、後代に最も大きな影響をおよぼしたものはシナゴーグだった」(高橋正男『物語イスラエルの歴史』中公新書 P124)と指摘した。 

 

即ち、神殿の祭儀を失ったので、それにかわって安息日礼拝が中心になり、シナゴーグ における律法の朗読と祈祷を中心とする新しい礼拝様式が始められた。神殿供犠が途絶しても、それに代わる贖いの方法が見出だされたのである。それが祈りであり、律法の学習であり、実践であった。申命記6章4節~5節の「シェマ、イスラエル」が朗読され、神殿が破壊されてから、ラビたちはこの供犠(シェマの朗読)をシナゴーグ礼拝の柱とした。いけにえとして捧げるのは、牛や羊ではなく、人間の心であり(心の供犠)、神への献身であった。 

 

またこの時期に律法(トーラー)、預言書(ネビイーム)、諸書(ケスビーム)の(旧約)聖書が集成されていき、ユダヤ教・ユダヤ人が形成されるきっかけになった。預言者や祭司に代わって律法学者やラビが重要な位置を占めるようになり、旧約の宗教は「書物の宗教」の性格を強めていった。そして前5世紀後半にネヘミア、エズラが帰国して新しい法典のもとに民族の再建をはかり、ここにユダヤ教が成立することになった。 

 

即ち、新しく信仰の中心となったシナゴーグとは信者の集会所であり、ラビと言われる指導者から律法(トーラー)に基づいた信仰を共有するための教会でもある。ユダヤ人の歴史の中で、バビロン捕囚の時期に生まれ、ユダヤ人が地中海世界から世界各地に広がっていくと共に、各地のユダヤ人居住地やゲットーには、それぞれシナゴーグが建てられた。もともとは聖書の朗読と解説を行う集会所であったが、現在では、祈りの場であると同時に、各地のディアスポラのユダヤ人の礼拝や結婚、教育の場となり、また文化行事などを行うコミュニティーの中心的存在ともなっている。




<ユダヤ教> 

 

なお、ユダヤ教は、族長時代の神ヤハウェ、即ち「アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神」の崇拝に起源があるが、直接的にはバビロン捕囚に処されたユダヤ人たちが、バビロンで一神教、選民思想、律法、契約などについての既存の概念を再構築し、後世の支配的な神学を成立させたことにある。その後、ヤムニア会議(90年代)でヘブライ語聖書(旧約聖書)が確立し、AD3~6世紀に口伝律法の集成である「タルムード」が編纂された。 

 

タルムードは、ユダヤ教の律法、倫理、哲学、慣習、歴史などについてのラビの討論が入ったユダヤ教の正典として、主流派ユダヤ教の中心を成す文献である。成文律法も口伝律法も、ともにシナイ山でモーセに啓示されたものであるという「二重のトーラー」の観念を確立し、成文と口伝という二重のトーラーによって、ラビ・ユダヤ教は、神の言葉の学習を社会の基本に据えたのである。(市川裕著『ユダヤ人とユダヤ教』岩波書店P62)

 

ちなみにタルムードは220年頃に形成された「ミシュナー」(口伝律法)と、500年頃に形成された「ゲマラー」(ミシュナーの注釈)とで構成され、ユダヤ人にとり、1世紀末に成立した聖書(旧約聖書)に次ぐ権威をもつものとされる。 タルムードは生活上あらゆる問題を網羅して論じているので、祖国を離れたユダヤ人は常にこれを生活のよりどころとしてきた。 

 

バビロン捕囚後帰国したエズラは、成文律法を現世に適用する形で同胞に教えた最初の律法学者だった。エズラ以降、ユダヤ人は、ユダヤ教団の広汎な権威に基づいて決定された「口伝律法」をも成文律法と同等の神聖な権威ある法規と認めた。以後、およそ千年の間に、口伝律法の解釈は幾重にも積み重ねられ、膨大なものとなった。ちなみにラビのユダヤ教には613の戒律(義務律248、禁止律365)がある。高橋正男氏は「ユダヤ教団はバビロン捕囚を父とし、ペルシャ帝国を母として生まれた子供にたとえられる。それは、ローマ帝国を母体として生まれたキリスト教団と比べられる」(『物語イスラエルの歴史』中公新書 P132)と指摘した。 

 

<イスラエル受難史ー反ユダヤ主教>

 

それにしてもイスラエルほど数奇な運命を辿った民族はない。多くの神学者は、「イスラエルの歴史を見れば神が存在しないということはできない」と述べている。これはイスラエルの受難の歴史の背後に、民族を摂理された神の働きを否定できないということである。 

 

エジプトでの奴隷生活から始まり、バビロン捕囚、ローマによる第二神殿の破壊とディアスポラ(離散)、宗教的偏見による十字軍の虐殺、キリスト殺しのレッテルによる西洋キリスト教国家からの差別・虐殺・追放(宗教的反ユダヤ主義)、陰謀論的冤罪の押し付けによるロシアのポグロム(破壊)、そして人種差別主義・民族浄化思想によるナチスヒットラーのジェノサイド(人種的反ユダヤ主教)。こうして何度も民族絶滅の危機を潜り抜けてきたイスラエルだが、1948年、ようやくパレスチナの地、即ち約束の地に建国したのである。 

 

ちなみに、このイスラエルの建国を聖書預言(アブラハム契約の成就)と見て、大艱難後のイスラエルの民族的回心によりキリストの再臨がシオンに降臨し、エルサレムが世界を統治する首都となるといった極端なイスラエル観(終末観)を持つ神学思想がある。この神学思想の是非はともかく(筆者は否定的である)、二千年に渡る受難の歴史の末、約束の地に建国したことはまさに歴史の奇跡である。 

 

筆者はポーランドの古都クラクフから南西約50kmのオシフィエンチム市の郊外にあるナチスの絶滅収容所「アウシュヴィッツ」を2度訪問したことがある。ガス室、処刑台、立牢・餓死牢、焼却炉、重労働、人権侵害、人体実験、劣悪な住環境、粗末な食事など、「緩慢な死刑」と呼ぶに相応しい凄まじさであり、この時の体験で、「ここまで迫害されるユダヤ人とは何か」という問題意識が与えられ、以後、旧約聖書を研究する動機となり、旧約聖書は筆者の座右の書となった。

 

では、何故、ユダヤ人は迫害されたのだろうか。先ず第一に宗教的要因がある。周りと同化しないユダヤ教独特の違和感に加えて、キリスト教世界からの「キリスト殺し」への憎悪がある。「キリストを十字架にかけて殺したユダヤ人」のレッテルは、中世以来、ヨーロッパのキリスト教社会に根付いてきた。第二は、経済的・政治的・社会的要因である。貸金業で富を築いたユダヤ人への嫉妬と反感、ペスト(黒死病)の流行をユダヤ人のせいにするなどの陰謀論、シオンの議定書に象徴されるユダヤ人をスケープゴートにした権力掌握の政治的利用、などがそれである。第三に劣等民族としての人種的偏見である。ヒットラー・ナチスの世界観は、「人類史の実相は、優等人種アーリア人と劣等人種ユダヤ人の抗争に還元される」(大田俊寛著『一神教全史下』河出新書P276)というもので、この人種的反ユダヤ主義がユダヤ人弾圧を容赦ない過酷なものにした。その象徴がアウシュヴィッツである。 

 

ちなみに反ユダヤ主義とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見のことで、 前記した宗教的・経済的・人種的理由からユダヤ人を差別・排斥しようとする思想のことだが、反ユダヤ主義は、これらの要因が重層的に重なって、12~13世紀にヨーロッパにおいて確立された。 

 

しかし、ユダヤ人迫害の最も根源的な要因は、ユダヤ人が選民であること自体から来る宿命、即ちあらゆる受難を経てこそメシアを迎える選民たる民族としての資格があるという、救済摂理上の要請があると筆者は思料する。 

 

以上の通り、ユダヤ人は、様々な陰謀論的レッテルを貼られてスケープゴートにされ、世界から迫害・差別・断絶を余儀なくされたが、程度の差こそあれ、これは現下のUCバッシングに瓜二つであり、ユダヤ人と同様、神に召された群れの宿命である。しかしその先に大逆転があると筆者は考えている。 

 

【イスラエルに学ぶ】 

 

イスラエルはバビロン捕囚という大艱難の中で、シナゴーグを中心にモーセ以来の律法を体系化し、天地を創造した唯一の民族を越える普遍的な神と再結合して、ユダヤ教とユダヤ人のアイデンティティを確立した。 バビロン捕囚は、イスラエルを神に立ち返らせるための「試練」であり、クロス王による解放は「神のご計画」であったと理解された。

 

こうしてメシアを迎える民族に再生したのである。このイスラエルの艱難からの再生は、同じ艱難の中にあるUCとその信徒の雛形になり、これ以上ない貴重な道しるべになる。このイスラエルの再生から、私たちは以下の通りUC改革の教訓を得る。

 

先ず第一に、イスラエルが律法の原点に立ち返ったように、原理のみ言への回帰が必須である。もう一度、神の言葉に立ち返り、み言を学び、研鑽し、体恤し、そして悔い改めなければならない。イスラエルがエズラによって律法を甦らせたように、み言に立ち返り、神と再結合しなければならない。まさに「神に還れ、神の言葉に還れ」である。 

 

第二に、祈りと学びと実践の場としての自立(自律)したUC版シナゴーグである地域教会と家庭教会(個団教会ことホームチャーチ)を強化育成することが肝要である。 

 

第三には、ネヘミヤによってエルサレムの城壁が再建され、国家の防備を確かなものにしたように、反対勢力への防衛を固め、分派を分別し、異端を聖別する「正統神学」を再構築しなければならない。これらが急を要することは、今回の解散命令の教訓を待つまでもない。 

 

以上、バビロン捕囚により国と神殿を失ったイスラエルが、シナゴーグを中心に如何に再生され再建されたかを見てきた。大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに神でいます主は(詩篇90.2)、「我が計りごとは必ず成り、我が目的をことごとくなし遂げる」(イザヤ46.10)と言われ、私たちと共に働いて「万事を益となるようにして下さる」(ロマ8.28)と約束されている。煩わず、振り返らず、先ず「神の国と神の義」を求めて歩む私たちには、無限の希望がある。(了)

 

                           牧師・宣教師   吉田宏

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​ユニバーサル福音教会牧師
​家庭連合ポーランド宣教師
   吉田 宏

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