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「捨てる」ことの意味を考える 断捨離と清貧の思想

  • 8 時間前
  • 読了時間: 11分

🔷徒然日誌(令和8年5月13日)  「捨てる」ことの意味を考えるー断捨離と清貧の思想

 

すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った(ルカ5.10~11)

 

プロローグ

 

最近筆者は、ある老婦人の「引っ越し」を手伝った。やはりその時感じたことは、引っ越しとは「捨てるチャンス」であるということだった。人間、特に日本人は、とかく物に執着し、不必要な物でも「もったいない」と思って取っておくのだが、結局、部屋のじゃまになってゴミ同然になる。実際、8割の持ち物は不要と言われており、これらを捨てることで心がすっきりし、健康や精神的安定が生まれるという。

 

今筆者も、可能な限り身の回りの物を「捨てる」べく、粗大ゴミ屋さんに頼んで、家にあるものを半分にしようという減量作戦を立てて実行した。かって片付けのコンサルタントである山下秀子さんは、「断捨離」(だんしゃり)という言葉を現代の片付け術として提唱した。不要なモノ(Clutter=ガラクタ)を片付けることで心と住まいの混沌を解消する専門家である


 

ちなみに「断捨離」とは、ヨガの行法である断行・捨行・離行に対応し、断とは、入ってくる不要な物を断つこと、捨とは、不要な物を捨てること、離とは、物の執着から離れること、という意味があると言われている。即ち、不要な物や執着を断ち、捨て、手放すことで心身の自由を得られるという。

 

然り、「断捨離」とは執着から解放され、すっきりした空間を作ることであり、筆者は本年9月で傘寿を迎えるが、この機会に際断捨離業に挑戦し、再度「捨てる」という意味を考えることにした。

 

【断捨離と清貧思想】

 

「捨てる」ことで、不要なモノや過去への執着を手放すことは、ストレス軽減や人生の好転をもたらし、何よりも「真に大切なものとは何か」を気づかせてくれる。筆者はかって、金の先物取引に失敗し、意に反して一切を捨てることを余儀なくされたことがある。この時、一切を捨てた(捨てさせられた)代わりに、逆に真に必要なものは何かという知恵を得た体験がある。筆者は全てを失った代わりに「神の言葉」を真に得たのである。

 

即ち、断捨離には、a.心と空間の整理、b.生き方の変革、c.本当に大切なものの気付き、といった効用がある。

 

そして、「断捨離」と後述する「清貧」は、共に「捨てる」という共通性があるが、「断捨離」は神との関係なくしても(自分との関係において)成り立つ概念であるが、イエスや修道院に見る「清貧」思想は、神との関係において成り立つ概念であるという違いがある。

 

<原体験>

 

前記したように、筆者は全てを失って、事務所や自宅マンションの引っ越しを余儀なくされたが、その時今までこつこつと貯めてきた大量の蔵書を一掃したことがある。神の言葉(聖書・原理講論・み言集)と六法全書など数冊だけを残して全てを「捨てた」のである。それから十数年経った今、前にもまして蔵書は多くなった。しかもその蔵書の95%は、以前と違ってキリスト教をはじめとする宗教関係の本で占められている。

 

つまり、筆者は「捨てる」ことによって「得た」のである。捨てることによって、真に自分に必要なものは何かが分かったのである。断捨離の本質とは、外的には片付け、内的には執着からの解放であると共に、「何が最も大切なものであるかを明らかにすることにある」との筆者の確信は、このようにして実証された。 そして気がつけば筆者は、法律家から神学の徒(聖職者)に変身していたのである。(参照-断捨離とは何か→ https://x.gd/JsKLe )

 

ところで信仰と理性を統合して、中世スコラ学を大成したトマス・アクィナスは、「諸学は神学の侍女」と言ったが、神に関する学、即ち「神学」こそ、哲学、法学、医学、自然科学などの他の諸学問の上位にある最高位の学問であるという。

 

そもそも西洋の大学は神学を学ぶために生まれたという。中世では神学は、「諸学の女王(Queen of the Sciences)」と呼ばれ、ボローニャ大学、パリ大学、オックスフォード大学などの有名大学は、皆修道院学校や大聖堂学校から発展し、最初に設置されたのが神学部だった。国際基督教大学名誉教授でクリスチャンの森本あんり氏は、著書『反知性主義』(新潮社)の中で、「アメリカでトップの位置を占めるハーバード、イェール、プリンストン大学は、ピューリタンの牧師を養成することを第一の目的として設立された」(P34)と記している。1936年に設立されたハーバード大学の初期の学生規則には、「学生は人生と主たる目的が『神とイエス・キリストを知ること』にあることを熟慮し、各々祈りに専念すべきこと、聖書を一日二回読み、毎朝七時に教師の部屋で祈りをもって一日を始めること」などが定められているという(『反知性主義』P36)

 

即ち、人生の目的は「神とキリストを知ること」にあるというが、これは筆者が全てを失って得た結論でもあった。こうして筆者は、捨てることで神の言葉(神学)と真に出会い、人生の最終章を、「神の言葉の研究を以て天職とす」ということになった。

 

<清貧のイエス>

 

不要な物を自ら手放すのか断捨離であるが、もともとキリスト教の教祖イエスは何も持たない清貧の人だった。イエスは、家族、親族の基盤を失い、30才にして公に宣教を始めた時は、まさに何も持たないひとりぼっちの無産者だった。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕する所がない」(マタイ8.20)とある通り、「清貧」こそイエスに似合う言葉である。文鮮明先生のイエス様に関するみ言集である『イエス様の生涯と愛』(光言社)には、次のようにある。

 

「イエス様は母マリアからも、ザカリヤやエリザベツからも反対され、洗礼ヨハネからも反対されて、肉親の保護を受けながら使命を遂げることを断念せざるを得ませんでした。そして新しく霊的基盤を求め、再び復帰摂理をしようと出発したのがイエス様の出家でした」(同書P107)とある。(参照-隠されたイエスの実像と新しいイエス観→ https://x.gd/e8cy8 )

 

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16.24)とある通り、イエスは弟子たちに、「すべてを捨てて従いなさい」と言われ、事実弟子たちは「いっさいを捨ててイエスに従った」(ルカ5.11)とある。またイエスは金持の若者に「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(マタイ19.21)と言われた。

 

さらにイエスは弟子たちに、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10.37)と言われ、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう」(マタイ19.29)と言われた。

 

だがこれらは、単に「物や人を捨てなさい」という教えではなく、「神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6.24)とある通り、先ず「神を最優先しなさい」という戒めであり、自分自身への過度な執着から解放されることを説いたものである。

 

<修道院の思想ー貞潔・清貧・従順>

 

このイエスの「捨てる思想」は、清貧、慈善、禁欲主義の思想を生み、修道院の修道士たちは、神との関係において「捨てる」ことを徹底した。ある意味、修道院の生活とは究極の断捨離である。

 

「貞潔・清貧・従順」の三誓願は西洋キリスト教修道院の中心理念であり、最も有名なのが、 ベネディクトゥス(480年~547年)の『ベネディクトゥスの戒律』である。「祈り、かつ働け」をモットーに、規律と謙虚さを重んじる「中庸の道」を示したこの戒律は、中世ヨーロッパ全土の修道院生活の規範(原型)となった。

 

「清貧」とは清く貧しく美しくという思想であり、私有財産を持たないという誓願であるが、特に フランチェスコ会(托鉢修道会)を作ったアッシジのフランチェスコ(1182年~1226年)は、この教えを極限まで徹底した。彼は裕福な家を離れ、全財産を教会に捧げ、裸同然で町を出て乞食のように生き、貧者と共に暮らすという徹底した清貧を実践した。彼は、 豪華な教会や富裕化した聖職者を見て、「キリストは裸だった」と言ったと伝えられている。

 

つまり「清貧」は、単なる貧乏礼賛ではなく、腐敗した権力へのアンチテーゼでもあった。また女性版フランチェスコと言われる聖クララ( 1193年~1253年)はフランシスコの感化を受け、フランシスコ会(女子)の基礎となる「クララ会」を創設した。


 聖フランチェスコと聖クララ      アッシジの聖フラチェスコ大聖堂


他に著名な修道士には「砂漠の父」と呼ばれた「聖アントニウス」(251年~356年)がいる。教会で、「持ち物を売って貧しい人々に与えよ」(マタイ19.21)という福音の言葉に感化され、 財産を処分して 砂漠へ入り、孤独、断食、沈黙、祈りに生きた。彼の存在は衝撃的で、 後に無数の修道士が続いたという。

 

では何故「清貧」が重視されたのだろうか。「私のもの」という所有欲が、霊的堕落を生むと考えたためである。中世キリスト教では、富は傲慢、支配欲、快楽、執着を生み、人間を神から遠ざけると考えられていた。そのため修道士は、「神だけに依存して生きる」ことを理想化したのである。 

 

従って、これは単なる禁欲ではなく、「自分自身を神に全面的に献げる」ための信仰姿勢であり、特に中世ヨーロッパでは、修道院は神の国を地上で先取りする共同体のように考えられていた。歴史家の中には、「ヨーロッパ文明を組織化したのは修道院だった」と言う学者もいる。

 

<中山みきの清貧思想>

 

天理教の中山みき教祖にも、かなり強い「清貧」思想が見られる。ただし、それはキリスト教修道院のような体系的な「清貧誓願」ではなく、「この世の執着を離れ、神に委ねて生きる」という、日本的・宗教的実践として現れた。

 

中山みきは、もともと庄屋層の比較的裕福な家に嫁いだが、しかし「神がかり」(天理教では親神のやしろとなったとされる)以後、財産を施し、困窮者を助け、家財を手放すようになる。家族は大変苦しみ、家運の衰退、貧困、周囲からの迫害を経験した。これは周囲から見れば、「家を潰した」とも見えたほどである。

 

ただし天理教は、「貧乏そのもの」を理想化した宗教でなく、天理教の中心理念は、「陽気ぐらし」である。つまり、人々が助け合い、感謝し、喜んで生きる世界を目指す。そのため、富そのものを絶対悪とするのではなく、むしろ問題は、欲、執着我欲、自己中心だという。これは仏教の執着を避けるという思想と似ている。

 

興味深いのは、日本の新宗教には、大本教、天理教、金光教など、「清貧」「献身」「世俗放棄」に近い教祖像が見られ、多くの教祖が、貧困、病、家庭崩壊、社会的迫害を経験している。その苦難が、「神に選ばれた者」という宗教的意味に転化されていくのであり、これは世界宗教史的にも、かなり共通したパターンと言える。

 

以上の通り、「捨てる」という共通性を持った「断捨離」と「清貧思想」の意味を概観した。ヨブ記のヨブは神を敬う正しい人物だったが、財産、子供、健康のすべてを奪われる不条理な試練に遭遇した。しかしヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ」(ヨブ記1.21)と言って神の前に罪を犯さなかったとある。このヨブの信仰は「断捨離」や「清貧思想」の極致を示したものである。

 

【新しい潮流】

 

一方、近代キリスト教は、中世修道院の清貧思想を超えて、社会的な成功を肯定し始めた。特に宗教改革以後、 プロテスタント世界では、「勤勉な労働」による社会的成功が、むしろ神の祝福と見なされ始めた。マックス・ヴェーバーは著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 で、勤勉、節約、職業への献身が近代資本主義を生んだと分析した。特にカルヴァン派では、「神に選ばれている者は、 地上でも実りを示す」という思想が生まれ、浪費は悪だが成功して富を築くことは善となっていく。

 

ここに至って、「清貧」は中世的修道院の理想から「世俗内禁欲」へ変化する。つまり、世を捨てるのでなく、世の中で働き、成果を出し、しかし享楽には溺れないという姿勢であり、現代アメリカの 成功した実業家クリスチャンの寄付文化は、 この延長線上にある。

 

またトランプ大統領のメンター(信仰助言者)であるポーラ・ホワイト牧師は「繁栄の神学」を提唱している。繁栄の神学(繁栄の福音)は、富や健康を与えることは神のみ心(約束)であり、聖書に基づく積極的な信仰告白や宗教的な目的への奉仕や寄付によって、物質的な豊かさがもたらされるという。

 

即ち、繁栄の神学とは、一部のカリスマ派(聖霊派)キリスト教徒の間での信念で、クリスチャンは富と健康という祝福を受け取る権利があり、それを手にするためには、「私はできる」という積極的な告白と、「積極的なささげもの」(献金・奉仕)が大切であるという。そして、経済的な成功は神の恩寵や祝福の証拠と見なされ、貧困と病気は信仰と正しい行いによって打ち破ることができるとしている。(参照-繁栄の神学とは→ https://x.gd/wGb5p  )

 

だが主流福音派からは、繁栄の神学はキリスト教版「ご利益信仰」であり、金銭の「偶像崇拝」を助長すると批判されている。モルモン教会の使徒ダリン・H・オークスは、「富や多額の収入を所有していることは天の恵みの証ではなく、またそれらがないことが天の恵みの証拠でもない」と述べ、すべての悪の根源は金銭ではなく「金銭への執着」であると主張した。

 

この点、ハーベストタイムの中川健一牧師は、正当な努力と勤勉によって得た富を神が祝福されるということには理があるが、富自体が祝福の目的ではないとし、富という祝福は結果であって目的ではなく、主客転倒してはならないという。

 

確かに、「神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6.24)とあるように、富自体を自己目的化してはならないが、動機と目的を分別することによって両立は不可能ではない。

 

以上、「捨てることの意味を考えるー断捨離と清貧の思想」と題して、捨てること、失うことの意味を考えた。人生には、捨てること、失うことで大切なものを得ることがある。引っ越しや部屋変えを機に、思い切って無駄なものを一掃することは、外的なすっきり感だけでなく、内的にも分別されて、霊的飛躍の契機になることがある。そして、物の断捨離だけでなく、体の断捨離が必要である。余計なものを取らず、余分なものを出し、体をいたわらなければ.....。(了)

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​新生聖書勉強会

​ユニバーサル福音教会牧師
​家庭連合ポーランド宣教師
   吉田 宏

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