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ローマ教皇とは何か - 三大ローマ教皇と首位権の確立

  • 6 日前
  • 読了時間: 15分

更新日:4 日前

🔷徒然日誌(令和8年5月6日)  ローマ教皇とは何かー三大ローマ教皇と首位権の確立

 

そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう」(マタイ16.15~19)

 

プロローグーキリスト教国家アメリカの矜持

 

アメリカはキリスト教国(約62%~70%)であり、プロテスタント(約40%~52%)が最大派閥で、カトリック(約21%~24%)がこれに続く。ユダヤ教、イスラム教、仏教などは各1%~2%程度である。だが、近年は急速に宗教離れが進み、無宗教(約29%~30%)が急増し、 2023年のデータでは、キリスト教徒が約2億5000万人、無宗教が約6500万人に達しているという。 

 

もともとアメリカはキリスト教国家であるが、とりわけトランプ政権は福音的である。3月5日、ホワイトハウス執務室で、イラン戦争の勝利を祈るため、ポーラ・ホワイト牧師など20人余の福音派リーダーたちが、トランプの肩に手を置いて祈りを捧げた。国防長官のビート・へグセス氏は右腕に「デウス・ウルト」(神がそれを望まれる)というラテン語のタトゥーを数ヶ所彫っている。米軍兵士は「このイラン戦争は神の計画の一部」だと司令官から聞かされているという。(Newsweek ゴールデンウィーク合併号)

 

だが、 アメリカ人初の第267代ローマ教皇に就任した「レオ14世」は、 米国とイスラエルによるイランへの軍事行動(イラン戦争)に対し、強い反対の立場を表明している。レオ14世は、「一握りの暴君に世界は蹂躙されている」とトランプを批判し、「神は戦争を拒む、戦争を起こす者たちの祈りを神は聞かれない」(イザヤ1.5)などと、イラン攻撃の直後から、一貫して反戦を訴え、「戦争はもうたくさんだ」と強い言葉で批判した。

 

一方トランプ大統領はソーシャルメディアへの投稿で、初のアメリカ出身の教皇を「リベラルすぎる、犯罪に弱い」と述べ、「教皇は政治的に過ぎ、急進左派に迎合している」と応酬した。福音派の牧師も、「教皇は(オールドメディアのように)聖句を都合よく切り取りをして聖書を誤用している」と痛烈に批判した。しかしレオ14世は「平和をつくり出す者は幸いである」(マタイ5.9)という聖句を引用し、「私は今後も戦争に反対し、平和を促進し、対話と多国間関係を推進する」と宗教的な観点から戦争に反対する意向を表明した。

 

では何故教皇は、テロ輸出国家であるイスラム独裁国家イランに、核を持たせないための「正義の戦争」に反対するのだろうか。レオ14世の姿勢は、もともとリベラル(容共)という個人の政治思想(オバマ元大統領と近い)にあると思われる。ちなみにレオ14世の教皇名は、工業化社会における労働者の権利を初めて認めた回勅『レールム・ノヴァールム』(資本と労働の権利と義務)を出した第256代のレオ13世(在位1878~1903年)から取られたという。レオ14世も同様に、貧困層や移民に寄り添う姿勢を示しており、その姿勢を引き継ぐ意図があると考えられている。これらの思想は得てしてリベラルな考え方に陥りやすい。


だがカトリックには一貫した倫理原則である「正戦論」という思想がある。カトリックの正戦論(せいせんろん)とは、アウグスティヌスやトマス・アクィナスに起源を持ち、戦争を道徳的に評価・抑制するキリスト教の理論である。正当な権威・大義・意図が揃った「やむを得ない戦争」の被害を最小化し、平和を回復することを目的としている。つまり、暴力一般を否定した上で、「例外的な暴力行使を正当化」する社会倫理であり、隣人愛を基盤としていかなる戦争も認めない「非戦論」とは異なる。

 

こうしてよくも悪くも、ローマ教皇は 13億人の信者を束ねるカトリックの最高指導者であり、いつの世にもローマ教皇の発言は世界的に大きな影響を持ち、時には世界を変えるきっかけになった。特にポーランド出身の聖ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005)の反共思想は、ポーランドの自由化を促し、東西冷戦に終止符を打つ力になった。パウロ2世は、「共産主義は無神論的悪魔」という価値観を共有していたレーガン大統領と連携し、ソ連や東欧の共産主義体制を崩壊に導く、国際的な精神的指導者としての役割を果たした。

 

そこで今回、カトリックの歴代教皇のうち、歴史的に最も評価されている3人の教皇について論考し、いかにローマ教皇の首位権が確立され、国王をも凌ぐ一大勢力になり得たか、またその力がどのように衰退していったかを考察したい。そして神が第二イスラエルとして摂理されたキリスト教の歴史に、改めて思いを馳せたいと思料する。

 

【カトリックの三大教皇】

 

カトリックの歴史において、最も評価が高く権威がある教皇を3人挙げよと言われれば、大抵、レオ1世(大教皇、在位:440–461)、グレゴリウス1世(大教皇、在位:590–604)、インノケンティウス3世(在位:1198–1216)を挙げる。従って、今回、この3人の教皇について論評したい。なお、共産主義を倒した教皇として、前記したパウロ2世を挙げる人もいる。

 

では、そもそもローマ教皇とはどういう存在で、何故権威があるのだろうか。ローマ教皇の権威は次のイエス・キリストの言葉に源泉があると言われている。

 

「そこでイエスは彼らに言われた、『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』。シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』。すると、イエスは彼にむかって言われた、『バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう』」(マタイ16.15~19)

 

この「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16.18)という言葉は、ペテロの「あなたはメシア」という信仰告白を基盤として教会が形成されることを示し、カトリックではペテロの首位権(教皇の起源)の根拠として解釈されている。この箇所は、サン・ピエトロ大聖堂の天蓋に金文字で刻まれており、ローマ・カトリック教会の歴史的基礎となっている。そして ペテロをキリストの代理人たる初代の教皇と位置付け、その使徒職を引き継ぐのが歴代の教皇であるとした。ちなみにサン・ピエトロ大聖堂はペテロの墓の上に建っている。

 

だがプロテスタント教会では、 ペテロ個人ではなく、ペテロが告白した「イエスはキリスト(救い主)」という信仰告白そのものが、教会の土台(岩)であると解釈し、信仰の重要性を説く箇所と考えている。

 

<レオ1世>

 

レオ1世(大教皇、在位:440~461)が評価されている第一の理由は、教皇の「首位権」を確立し、カトリック教会におけるローマ司教の優位性を確固たるものにしたことにある。首位権(しゅいけん)とは、カトリック教会において、ローマ教皇が全司教の中で「第1位」の地位にあり、教導・祭祀・司教の任命・法規定・教理の決定などにおいて、最高の権威を持つとする教義である。ペテロの後継者として、世界中の教会に対し普遍的・直接的な権限を行使する権利を指す。ただこの概念は、長きにわたり東西教会の分裂や教会内の権力構造の争点となってきた。

 

当時古代のキリスト教(主にローマ帝国下)において、特に重要視された5つの総主教座(教会)は、ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサレムの「5本山」であり、それぞれ同等の権威を有するとみなされていた。このような中、レオ1世は、ローマ教皇の首位権(ペトロの後継者としての普遍的権威)を神学的にも政治的にも形にし、自らを単なるローマ司教ではなく使徒ペトロの後継者と位置づけたのである。

 

レオ1世は「カルケドン公会議」(451年)で重要な役割を果たした。この公会議で、彼が主張したキリストの「二性一人格」(イエスは神であり人である)の教義が確立され、ローマ教皇が教義判断の最終権威であるという前例を作ったのである。カルケドン公会議で、キリストの神性と人性に関する決議である「カルケドン信条」が制定された。

 

「カルケドン信条」において、イエス・キリストは神性(divinity)と人性(humanity)という二つの性質を持つが、混同されず(混ざらない)、変化せず(どちらも失われない)、分割されず(バラバラでない)、分離されず(別人格ではない)、一人のキリストの中に、二つの完全な性質が共存しているという「二性説」が採択された。一方、イエス・キリストの神性と人性に関し、「人性は神性に吸収され、単一の神性のみが存在する」とする「単性説」は異端とされた。単性説は異端とされたものの、その後も非カルケドン派(コプト教会、アルメニア教会など)に受け継がれた。 

 

こうしてカルケドン公会議により、レオ1世の主張が認められ、ローマ教会の権威が強まり(ローマ教会の首位権の確立)、この結果、多くの議論を呼ぶ三位一体説が正統教義として確立されたのである。(参照-三位一体論の考察→ https://x.gd/JG5Dj )

 


またレオ1世は西ローマ帝国崩壊過程の中で、重要な政治的役割を果たした。452年、彼はローマの脅威であったフン族の王アッティラと直接会って会談し、言葉の力で ローマ侵攻を思いとどまらせたという。これはローマを救った伝説(アッティラの説得)として知られ、教皇が政治的・宗教的に高い権威を持つきっかけを作った。つまり、皇帝ではなく教皇が都市と民を守る存在になり、教皇は「宗教指導者」から「西方世界の実質的リーダー」へと変貌していった。こうして教皇首位権を思想・制度・現実の三層で確立したのであり、「大レオ」と呼ばれる理由がまさにここにある。

 

一方 レオ1世は、ローマはペテロの座であるので、コンスタンティノープルより上位であるとして、コンスタンティノープルの地位向上を拒否し、これは後の東西教会分裂(1054年)の伏線にもなった。

 

<グレゴリウス1世>

 

グレゴリウス1世(大教皇、在位:590–604)は、 教皇権を組織化し、広大な教会領の管理を行うなど、教会を地上の統治主体としても機能させた教皇である。先ず自ら「神の僕のなかの僕」と称し、ローマ司教を西ヨーロッパ全キリスト教世界の指導者とする教皇権の基礎を確固たるものにした。

 

グレゴリウス1世は、596年、修道士アウグスティヌスをイギリスに派遣し、ケント王国のエゼルベルト王を受洗させ、カンタベリーを拠点に布教に成功した。これにより英国教会の基礎が築かれ、ヨーロッパのキリスト教化に大きく貢献した。また典礼や聖歌(グレゴリオ聖歌の基礎)の整備や飢饉の救済など、教会文化の基礎を築いた偉大な教皇である。

 

グレゴリウス1世は、「ローマ貴族 → 修道士 → 外交官 → 教皇」という、かなりドラマ性のある道をたどっている。彼は ローマの名門貴族に生まれ(540年頃)、若い頃から行政能力に優れ、 ローマ市長にあたる「都市長官」に就任した。だが父の死を機に、回心して人生を一変させ、財産の大部分を放棄し、自宅を修道院に改造して自ら修道士となった。しかし能力を買われてローマ教会に召し出され、教皇の側近になって外交を担当するようになり、自らコンスタンティノープルに赴き交渉した。

 

ローマに戻ると聖アンドレア修道院の修道院長となり、修道生活の理想と現実の調整を行い、組織運営能力(霊性と実務能力の結合)を発揮した。本人はもともと「隠遁したい人」で、権力志向はなかったが、その後自らの意図に反して 教皇に選出された。 こうして教皇に即位し、「神に仕える静かな生活」と「現実世界を導く責任」という両方を統合した。そして行政(食糧供給・都市防衛)、宣教(イングランド布教)、典礼(グレゴリオ聖歌の基礎)を通じて中世教皇制を確立し「中世教皇制の父」と呼ばれている。

 

ちなみにグレゴリウス1世の「回心」は、劇的な一瞬の出来事というより、現実の重圧 (西ローマ帝国の崩壊後の混乱、疫病・飢饉など)と信仰的覚醒が重なって起きた方向転換だった。 即ち回心の引き金は父の死が契機となった人生観の転換であり、「この世の栄光ははかない」「永遠のものに向かうべきだ」という、古代キリスト教の典型的な覚醒であると思われる。

 

なお、レオ1世とグレゴリウス1世との違いは、 レオ1世が「理念の確立者」として「教皇とは何か」を定義した人であるのに対し、 グレゴリウス1世は「運用の完成者」として「教皇は何をするか」を実現したことにあると言われている。

 

<インノケンティウス3世>

 

インノケンティウス3世(在位:1198–1216)は教皇権の頂点(最盛期)を体現した教皇であり、「教皇は太陽、皇帝は月」という言葉に象徴されるように、宗教指導者であると同時に、ヨーロッパ全体を動かす政治家でもあった教皇である。1054年に東西教会の分裂があり、キリスト教がローマ教皇を頂点とする「カトリック教会(西)」と、皇帝が強い「正教会(東)」に分かれたが、西側ではローマ教皇の権威が向上し、ヨーロッパの君主たちを屈服させ、その権力を絶対的なものにした。以下はインノケンティウス3世の業績である。

 

①インノケンティウス3世は、1209年、イギリスのジョン王とカンタベリー大司教の任命問題で対立すると(聖職者叙任権問題)、イングランド全土に「聖務停止」(インターディクト)を発動し、王を破門した。ちなみに聖務停止とは教皇や司教が、特定の地域(教区、教会)や個人に対し、サクラメント(秘跡、ミサ、結婚式、葬儀など)の授与・実施を禁止する措置を指す。

 

「聖務停止」により教会儀式が止まり、国民が不安に陥って、王は最終的に屈服した。これは 「霊的権威(教皇)は、世俗権力(王)より上」ということを示した事例である。

 

②彼は第四回十字軍など、複数の十字軍を主導した。しかし結果は本来の目的(聖地奪還)から逸脱し、コンスタンティノープルを攻略・略奪したものの、これは東西教会の決定的な亀裂を深める事件になった。

 

③インノケンティウス3世は異端との戦いを行った。南フランスで広がったカタリ派(二元論的な禁欲主義)を異端とし、 アルビジョワ十字軍を開始しした。アルビジョワ十字軍(1209年 ~ 1229年)は、南フランスのカタリ派(アルビジョワ派)を殲滅するために派遣された軍勢であり、20年に及ぶ戦闘の末、フランス王権が南仏を征服・統合した。

 

④ 彼の最大の制度的業績は、「第四ラテラン公会議」を開催し、教会改革と制度整備を行い、カトリックの基本ルールを確立したことである。第四回ラテラノ公会議は、1215年に教皇インノケンティウス3世がローマのラテラノ宮殿で開催した、中世カトリック教会最大の公会議であり、教皇権が絶頂期にあることを示した。

 

ラテラン公会議の主な決定・決議としては、a.教理を確立し、パンとワインがキリストの体と血に実体変化するという「実体変化(化体説)」を正式な教義として制定したこと、b.キリスト教徒に対し、少なくとも年に1回、告解と聖体拝領を行うことを義務付けたこと、c.南フランスのアルビジョワ派(カタリ派)などの異端を排斥すること、d.キリスト教徒と区別するため、ユダヤ教徒に目印となる衣服やバッジの着用を義務付けたこと、e.第5回十字軍遠征の計画と具体的な手配をしたこと、などである。この公会議は、中世西欧教会法(教会法大全)の基礎となる重要な決定を行い、教会法における最大の教会会議と評価されている。

 

インノケンティウス3世は、 教皇が世界の支配者に最も近づいた時代を体現した人物で、宗教・政治・軍事を一体化させた。だが同時に、後の反発(近代への流れ)を準備した存在でもあり、インノケンティウス3世の成功そのものが、教皇権衰退の種になった。

 

ちなみにキリスト教神学を体系的にまとめ、教義的に中世キリスト教を支えた人物が「トマス・アクィナス」(1225年~1274年)である。彼は中世キリスト教神学の最大の大成者であり、著書『神学大全』 は、信仰と理性を統合した大著であり、西洋思想に長期的な影響を与えた。(参照-トマス・アクィナス再考② 信仰と理性、そして神秘→ https://x.gd/sRAy7 )

 

以上のように、レオ1世、グレゴリウス1世、インノケンティウス3世の3人の教皇について見てきたが、その他に、摂理的に重要な教皇として、フランク国王カール大帝にローマ皇帝の冠を授けた(800年のカールの戴冠)「レオ3世」が挙げられる。「カールの戴冠」は、西ヨーロッパ世界がビザンツ帝国から政治・文化的に独立したことを示す歴史的転換点であり、中世のキリスト教社会(西欧)が成立した象徴的出来事であった。 原理講論475ページには、「法王レオ3世は、紀元800年に、チャールズ大帝を祝福して、金の王冠をかぶらせることにより、彼を第二イスラエル選民の最初の王として立てたのであった」とあり、この時「再臨のメシアのための基台」が成就する可能性があった。

 

【教皇権の衰退と分裂】

 

インノケンティウス3世の後、教皇権は衰退に向かった。政治に介入する教皇を見て、各国の王は警戒するようになり、教皇を制御・排除しようとするようになった。また教皇が政治権力を握るほど、権力争い、財政問題、汚職、縁故主義など教皇庁の世俗化が進行し、結局、「霊的権威」への信頼が低下した。

 

ちなみにローマ教皇の中で「最悪」の評価を受ける代表的な人物は、アレクサンデル6世(在位:1492年~ 1503年)と言われている。彼は教皇職を富と権力の手段とし、汚職、ネポティズム(身内びいき)、多数の愛人との間に子を設けるなど、聖職者として道徳的・倫理的な堕落が著しかった悪名高い教皇である。ルネサンス期においては有能な世俗的君主だったが、宗教的指導者としては「腐敗の象徴」とみなされている。

 

教皇権衰退の象徴的崩壊事件として重要なのが、フランス王が教皇を拉致・拘束した「アナーニ事件」(1303年)である。アナーニ事件は、フランス王フィリップ4世が教皇ボニファティウス8世をローマ郊外のアナーニで襲い拘束した事件であり、王が教皇を実力で屈服させた一件である。また1309年には、フランス王フィリップ4世がクレメンス5世に圧力をかけ、南フランスのアヴィニヨンに教皇庁を移させるという事件が起きた。それ以後、1377年まで約70年間、ローマ教皇はローマを離れ、アヴィニヨンに居ることとなる。このことを旧約聖書に出てくるユダヤ人のバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」とか、「教皇のアヴィニヨン捕囚」と呼んでいる。

 

1377年に教皇はアヴィニヨンからローマに帰還したが、翌年からはローマとアヴィニヨンに教皇が併存する「大分裂」の時代となる。即ち1378年から1417年にかけて、ローマとアヴィニョンにそれぞれ教皇が擁立され、カトリック教会が二分された、いわゆる「教会大分裂」(大シスマ)である。即ち、約70年にわたる「教皇のバビロン捕囚」終了後、教皇の正統性を巡ってフランス派とローマ派が対立し、1409年には3人の教皇が並立する事態に発展し、教会権威は大きく失墜した。 

 

そして 決定的転換となるのがルターが口火を切った宗教改革(16世紀)によって、カトリックに対抗するプロテスタントが生まれたことであり、以後、両派が切磋琢磨していくことになった。

 

以上、「ローマ教皇とは何かー三大ローマ教皇と首位権確立」とのテーマで三大ローマ教皇の業績を辿り、ローマ教皇が如何に首位権を確立し、いかにカトリックがヨーロッパに君臨したかを概観した。また、その教皇権が衰退する歴史にも触れた。確かに神は、特に古代から中世において、キリスト教を第二イスラエルとしての役割を果たすべく、運勢を与え保護してこられた。これらを通して、神が如何にしてキリスト教を愛し、育成し、また裁かれたかが理解でき、まさに壮絶な絵巻物を見るようである。(了)

 

牧師・宣教師    吉田宏

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​新生聖書勉強会

​ユニバーサル福音教会牧師
​家庭連合ポーランド宣教師
   吉田 宏

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