top of page

​他のアーカイブ記事は下のカテゴリーメニューを選択し、一覧表示の中からお選び下さい。

​他の記事は下のVマークをタップし、カテゴリーを選択し完了をタップ。記事一覧が表示されます。

ウクライナ戦争の本質② ギリシャ正教とは何か

○つれづれ日誌(令和4年4月13日)-ウクライナ戦争の本質②ーギリシャ正教とは何か


国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。(イザヤ2.4)


依然として、ロシアのウクライナ攻撃は止むことはありません。首都キーウから敗退したものの、東部2州に軍を集中する作戦に変更を余儀なくされたロシア軍は、特にマウリポリ市を90%破壊し、2万人以上にのぼる市民を犠牲にして、なりふり構わぬ暴挙に出ています。正にこの戦争ほど大義のない戦争はありません。


【ロシア軍の残虐行為】


キーウ地域からロシア軍が撤退したあと、この地域で無抵抗の無垢の民間人を虐殺した、ロシア軍の残虐な行為が明るみになりました。


キーウ近郊のブチャでは、410人の銃殺された死体が散らばり、マカリウでも132人の銃殺死体が発見されました。またドネツク地域では、多くの避難民が集まっていた鉄道駅に砲弾が打ち込まれ、子供を含む52人が犠牲になりました。


その他の地域でも多数の民間人が犠牲になっており、これらは、第二次世界大戦末期、日ソ不可侵条約を破って旧満州に侵攻し、そこで行われた日本人に対する残虐行為と瓜二つです。


正にジェノサイドであり、未曾有の戦争犯罪として、プーチンには必ずその代償を払わせなければなりません。いや、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」(ロマ書12.19)とある通り、やがて神自らが報復されることでしょう。


ある軍事専門家によれば、これらの惨殺は、軍の規律の乱れによるものとし、またある識者は、相手に恐怖心を与えて反撃意思を削ぐために意図的に行われたものであるとし、またある歴史家は、これは民族浄化の一環であると断じました。いずれにせよ、今も昔も、 戦場で残虐行為を常に繰り返してきたロシア軍の本質は変わっていません。


しかし、死を賭しても自由と独立を守るというウクライナ国民の士気は、ゲレンスキー大統領を中心に揺るがないものがあり、私たち日本人も見習いたい精神です。


それにしても、いまだにネオナチやDSなどの陰謀論を振りかざし、これらの残虐行為を「フェイクニュースだ、ウクライナの自作自演だ」などと強弁するやからがいるというのは驚きです。人工衛星画像をはじめとする複数の証拠が、惨殺はデマだとするロシアの主張を否定しており、ロシア軍の仕業であることは明らかです。

ちなみにDSなどの陰謀論とは、「ディープステート(闇の政府)が世界を操っている」「コロナワクチンは人口削減が目的だ」などといった妄想であり、全ての事象を陰謀の仕業として過度に強調し、「黒幕が利益を得るために国民が犠牲になっている」といった共通点を持っています。


その黒幕は「一部のエリート層」「世界の金融資本家」「ユダヤ人」など様々で、反ユダヤを煽る目的でロシアの秘密警察が捏造した「シオンの議定書」などはその典型です。そしてプーチンはこれらの黒幕と戦うためにウクライナに侵攻したというような事実無根の暴論に走ります。


『世界の陰謀論を読み解く』 (講談社現代新書)の著者で宗教学者の辻隆太朗氏は、読売新聞において「こういった陰謀論にはまると、他人から客観的事実を伝えられても情報が操作されていると解釈するため、対話が成り立たない」と指摘され、「対処するには、陰謀論は昔から形を変えて存在する独特の思考様式だと知っておくことが大切だ」と言われています。夢々、陰謀論に陥らないよう注意したいものです。


【プーチンを侵略に駆り立てたもの】


では、プーチンを、このような未曾有の侵略に駆り立てた深層心理は何でしょうか。


筆者は前回のつれづれ日誌で、「歴史」に傾倒するプーチンの大ロシア主義の妄想を指摘し、またロシア至上主義を標榜する一部の超保守勢力の影響を指摘しました。プーチン・ロシアには、かってのソ連崩壊を敗戦と考え、失われた領土を奪還したいという衝動があり、またウクライナは10世紀のキーウ公国以来、ロシアの聖地であり、ウクライナへの執着には想像を越えるものがあるというのです。


そして何よりも、ロシア正教の「キリル総主教のお墨付きがあった」ことは、もともと熱心な正教信者であるプーチンにとって、ウクライナ侵攻を正当化する大きな動機付けになりました。一部では、キリル総主教は、プーチンがロシア正教に送り込んだ隠れKGBではないか言った情報さえあります。


即ちプーチンとキリルには、「ルースキー・ミール」(ロシアの世界)という共通の夢(妄想)があるというのです。ロシア正教会にとって、ルースキー・ミールは、988年にウラジミル大公が正教会の洗礼を受けた「ルーシの洗礼」を通して、神が聖なるルーシを築く目的のために、ルーシ人を捧げたことを思い出させる、「霊的な概念」でもあると言われています。


2009年11月3日、第3回ロシア世界集会において、キリル総主教はルースキー・ミールを「東方正教会、ロシア文化、そして言語と共通の歴史的記憶という3つの柱で成り立つ概念」(Wikipedia)と定義し、当然、ウクライナもこの中に入ります。


そして2019年1月31日、キリルは、ロシア正教会から独立したウクライナ正教会に懸念を表明し、「我々はキエフ(キーウ)を『全てのロシアの都市の母』と呼ぶ。我々にとってキエフはエルサレムである。ロシア正教はそこで始まった。我々はこの歴史的および精神的つながりを捨て去ることはできない」と述べ、キーウへの思い入れを表明しました。


そして筆者は、更に進んで、西欧と東欧、ヨーロッパとロシアの対立の背景には、根底に文明の相克があり、文明の相克とは即ち、ローマ・カトリックと東方正教(ギリシャ正教)の確執に他ならないと考えています。


さてこのように、ロシア正教が、この度のウクライナ戦争に、多大な影響を与えていることを鑑みて、一体「ギリシャ正教、ロシア正教、ウクライナ正教とは何か」、そして「カトリックとギリシャ正教とはどこが違うのか」、などについて、その歴史的背景を踏まえ、この際、おさらいしておきたいと思います。


実際筆者は、このウクライナ戦争に際して、神が「ギリシャ正教に注目しなさい」と言っておられるような気がしているのです。



聖ソフィア大聖堂 左からコンスタンティノープル(現イスタンブール)、 ロシア(ノヴゴロド)、ウクライナ(キーウ)


【ギリシャ正教とは何か】


「ギリシャ正教」とは何かを考える際に一番重要なことは、その歴史を知ることであります。


<東西教会の分裂>

古代キリスト教会はローマ帝国に発生し、全教区をエルサレム、アレクサンドリア、アンティオキア、コンスタンティーヌ、ローマの五大総司教区に分け、そのうちローマ教会と他の総司教区が11世紀に分離しました。以来ローマ教会はローマ・カトリック教会として発足し、他の東ローマ(ビザンティン)帝国内の諸教会は「東方正教会」と呼ばれるようになります。


即ち、ギリシャ正教の歴史は、カトリックとギリシャ正教の東西教会の分裂から始まりました。一般的に、1054年、ローマ教皇とコンスタンティノープル総主教の「相互破門」が世にいう東西教会の分裂、即ち「大シスマ」だとされています。


なお、広義の「東方教会」は、のちに中国へ入り景教とよばれるようになるネストリウス教会や、キリスト単性論とみなされるアルメニア教会・エジプトのコプト教会・エチオピア教会など、キリスト教の異端グループを含みますが、いわゆる「東方正教会」とはギリシャ正教を指す言葉であります。


現在の東方正教会(=ギリシャ正教)は、コンスタンティノープル、アンティオキア、アレクサンドリア、エルサレム、ブルガリア、ロシア、ジョージア(グルジア)、セルビア、ルーマニア、ギリシア、キプロス、ウクライナ、ポーランド、チェコ、スロバキア、フィンランド、アメリカ、日本の18の自立教会からなっています。


<ギリシャ正教とは>

前記の通り、ギリシャ正教は、全世界の正教会全体を指す通称であり、実際の歴史は1054年の大シスマが始まりと言えますが、正教としては1世紀の使徒以来の伝統を引く宗教だと主張しています。


つまり、この1世紀に起源を持つとする正教会は、主にギリシャ・東ローマ帝国を中心に伝統を継承したために「ギリシャ正教」の通称が使われており、カトリック、プロテスタントに並ぶ、キリスト教の教派の一つであります。


1054年の東西教会の分裂以降、カトリック教会、聖公会、プロテスタント教会などの西方教会と対置して「東方正教会」とも呼ばれ、正教会は例外はあるものの、ロシア正教会、ウクライナ正教会、ルーマニア正教会、日本正教会など、国ごとに「国名+正教会」の名を冠しています。


正教会系のキリスト教徒は全世界で2億6千万人で、そのうち約9000万人がロシア正教で最も大きく、他国の正教会の中には、モスクワ総主教座と連携しているものもありますが、今回のウクライナ侵攻により、ウクライナ正教会との関係に緊張が生まれています。


正教会は、バルカン諸国,西アジアに分布し,ローマ教皇に類する全体的な首長は戴かず,それぞれの国の総主教のもとに独立しています。古式の典礼,イコン崇敬,アトス山修道院に代表される厳格な修道制、などに特徴があり,思想的には「神秘主義」の伝統に特色があります。


<東西分裂の理由>

では、この東西教会の分裂は如何なる理由によるものでしょうか。これを解くことは、即ちカトリックとギリシャ正教の違いを明らかにすることになるでしょう。


395年にローマ帝国自体が東西に分割された後、476年の西ローマ帝国滅亡を経て、東西両教会の交流が薄くなり、数百年の間に教義の解釈の違い、礼拝方式の違い、教会組織のあり方の違いなどが増大しました。


特に、聖霊(聖神)の発出をめぐって、いわゆる「フィリオクェ」(filioque)問題で対立しました。つまり正教では、聖霊は父(神)より発出するとしましたが、カトリックでは、聖霊は父と子(イエス)より発出するとしました。


また、聖職者の結婚禁止やイースト菌を入れない除酵パンを聖体として使用することなど、ローマ側の慣行に対して東側が反対したというのです。


これらが重なって、1054年から古代教会は東西に分かれ、1204年に、第4回十字軍がコンスタンティノープルを攻撃したときから、西方カトリック教会、東方正教会との分裂は決定的になりました。


ロシア思想史をライフワークとする宗教学者の田口貞夫氏は、東西教会の違いや正教の特徴について、以下のように指摘しています。


① 東方正教は西のキリスト教に比べて、義よりも愛、十字架よりも復活、罪よりも救いを 重んずると言われ、神人隔離ではなく、神人一体を強調する。

②西のキリスト教が聖と俗を区別し、政教分離の傾向があるのに対して、東方正教は聖俗一 致、霊肉一致、政教一致の傾向がある。


③ カトリックが煉獄を認め、マリアの無原罪説をいうのに対して、正教では煉獄を認め ず、マリアの無原罪説をいわない。但し永遠の処女説を取る。


④ カトリック神学が思弁的、体系的で、神について知的に学ぶ傾向があるのに

対し、正教では信仰体験即神学であると言った傾向がある。


⑤正教では、神学は論文としてよりも、聖歌、イコン、教会規則、主教たちの書簡や説教の 形で提出される。


⑥ 静寂主義(ヘシカスム)は、アトス山出身の聖パラマ(1296―1359)が唱えた思想 で、静寂のなかで「イエスの祈り」を唱え、神を瞑想する修道法で、ビザンティン神学を 代表する。


⑦ カトリック教会では教皇無謬(むびゅう)説を主張し、教皇を頂点とするピラミッド型で ある。一方、正教では教皇の無謬説を認めず、むしろ教会無謬説を取る。


⑧ 東方正教の聖職者には、主教、司祭、輔祭(ほさい)職がある。司祭、輔祭には修道と在 俗の別があり、修道司祭・輔祭は妻帯しないが、在俗司祭・輔祭は妻帯する。また主教以 上は修道司祭でなければなれない。主教職の上には大主教、府主教、総主教がある。


以上の通りですが、3月20日、産経新聞掲載記事で三浦清美氏は次のように正教の特質を述べています。


「神の代理人たるツアーリというロシアの統治者観は、東方正教(ロシア正教)の神成(テオーシス)という神学に依拠し、ロシア国民は、正にプーチンに神の代理人たる姿を願望する」


ちなみに神成とは、クリスチャンが徐々に神に似ていき、神の性(神の本性)に与る事を言い、「神の性質にあずかる者となる」(ペテロ1.4) という聖句が、新約聖書における根拠とされています。


その他に正教は、a.ローマ教皇の権威を認めない、b.使徒から受け継がれた教会の聖なる伝統である「聖伝」を重視し、聖書は聖伝から生まれ、聖伝に聖書は含まれるとする、c. 聖書は人間の言葉で表現された神の啓示の言葉、信仰の書であるが、逐語霊感説は取らない、d.イエスは神が人となった方(=籍身)、即ち神が受肉し神格が人間性を取って完全に「人間になった神」とする、e.罪とは神への背き、あるべき姿を失ったこと、即ち傲慢になって神への不従順を自由意思で選択したことで、原罪の観念を否定する、f.マリアを「生神女」と呼び神を生んだ者とするが、童貞女(処女)がいかにしてイエスを産んだかは、分からないとする、g.神の摂理を信じ、迷信・占い・運命・因果応報、などを否定する、h.教会の祈りの全体を「奉神礼」と呼び人間は奉神礼的存在であるとする、などに特徴があります。


原罪について、日本ハリスト正教会の高橋保行司祭は、「ギリシャ正教の思想では、人が自分の意思で神の似姿を脱いでしまうことを堕落といい、堕落の罪は人の行為により生じるとします。従って、アダム以来、人の性質に本来あるという西の原罪の考え方はギリシャ正教の思想にはない。蛇の誘惑の中身は、この世を自分の像と肖とする人間の生き方である」(『ギリシャ正教』講談社学術文庫P260)と述べています。筆者は、この原罪観の違いこそ、最も際立った違いであり、正教会の最たる難点ではないかと思料いたします。


特に東方正教会において、教会生活の基準を示すものを「聖伝」といい、貴重視されています。聖伝には、聖書を筆頭に、全地公会議の決定、聖師父の著書、典礼、聖歌、イコンなどがあり、なかでも、聖書と典礼(奉神礼、公祈祷ともいう)は重要視されています。また聖書は聖歌でもあり、聖歌は心からの祈りであり、楽器などは使いません。


前述のように、正教では罪よりも救い、十字架よりも復活を重視しますので、祭りでは西側のキリスト教のように降誕祭(クリスマス)ではなく、復活祭(イースター)がもっとも重要とされています。信者はこの復活祭に参加することで、この世の終わりから来世の命へと「過ぎ越してゆく」人間の過程が、キリストの復活によって可能となったことを記憶します。


教理的には、プロテスタントよりも、ローマ・カトリックとより多くの共通点があり、プロテスタントの「信仰義認」という教理はありません。そして正教には、正教自体を改革する、西側に見るプロテスタントのような宗派は存在せず、旧態依然のまま存続を余儀なくされていると言えるでしょう。


なお、筆者が以前からロシア正教に違和感を感じてきた二つのことがあります。一つは、正教の聖職者は、「何故、奇異に写る『髭』を長く伸ばすのか」です。これは、旧約聖書の解釈により髪は力を表すとされ、サムソンに見られるように、髪と髭を伸ばす事が信仰の証明であるとされるというのです。


また今一つは、「何故、礼拝を立って行うか」ですが、起立という姿勢には「復活の生命」を象徴する意味があり、教会の聖堂では立ったまま礼拝をするということでした。


<東西教会の一致への模索>

では、東西教会の対話や一致を目指す動きはないのでしょうか。


正教は、前述した西側教会との違いはありますが、カトリックやプロテスタントと同じく、a.聖書を神の言葉であるとし、b.イエスが神の御子キリストだということを信じ、c.三位一体の教理を受け入れており、この点で正教信者は真性なクリスチャンであります。


同じクリスチャンとして、「相互破門」以降も、両教会にとり分裂の解消は大きな課題の一つひとつであり続けました。


第4回十字軍によるコンスタンティノーブルの陥落(1204年)による亀裂、オスマン帝国の領土拡大に圧迫された東ローマ帝国の政治的危機を背景とする歩みより、1870年の第1バチカン公会議において、教皇不可謬説が正式なカトリック教会の教義として採択されたことによる乖離、など紆余曲折の歴史がありましたが、1964年には、東方正教会とカトリック教会の間で和解に向けた一歩として、ローマ教皇パウロ6世とコンスタンティノーブル全地総主教アシナゴラス1世がエルサレムで会談しました。


また、1965年、教会の一致が大きなテーマとなった第2バチカン公会議において、東方正教会との和解への道が再び模索され、カトリックによる正教会への働きかけが行われています。


そうして1965年12月、カトリック教会と正教会による「共同宣言」が発表され、これによって1054年以降続いていた「相互破門」状態はようやく解消され、東西教会の対話が始められることになりました。


そして2016年2月12日には、教皇フランシスコとロシア正教会キリル総主教の直接会談が行われ、こうして、なお道遠しと言えども、分かたれた兄弟が、再統合する努力は続けられてきたというのです。


【ロシア正教会、及びウクライナ正教会について】


次に、ロシア正教、及びウクライナ正教について概観いたします。


<ロシア正教会>

現在、ロシア正教会は東方正教会の中核をなす教会で、以下、ざっと歴史を振り返ります。


前述しましたように、988年、ウラジーミル1世が洗礼を受けて正教を国教としましたが、このルーシ人の集団洗礼が、ロシア正教会の起点とされています。この当初のキーウ時代、ロシア正教会はコンスタンティノープル総主教の管轄下にありました。


1453年にコンスタンティノープルはオスマン帝国に滅ぼされ、東方正教会は、約350年間、トルコの支配下に置かれました。こうしてビザンティン帝国がトルコの支配下にあった間、ロシアが代わって正教の大保護国になり、モスクワは第三のローマと称するようになりました。


ロシア革命後、無神論を標榜するソ連邦時代には一貫して弾圧を受け続け、大多数の聖堂を破壊され、聖職者・修道士・修道女・信徒が虐殺されるなどの甚大な被害を受け、布教、宗教教育、慈善事業などの宗教行為は許されず、専ら個人の祈りに限定されました。


しかしゴルバチョフ大統領が就任した1990年の10月に「新宗教法」が成立し、信教の自由が大幅に認められるようになりました。エリツィンも大統領就任に際し、宗教の重要性について演説し、国教ではないものの精神的拠り所としてロシア正教は復活しました。


正にロシアにおける正教の復活は、旧ソ連の終焉と共産主義の消滅、東西冷戦の終結、新生ロシアの誕生、などを象徴する出来事でありました。


2010年現在のロシア正教会は約9000万人の信徒数を擁する世界最大の独立正教会組織であり、管轄地域はロシア、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンをはじめとしたソ連邦を構成していた諸国や、海外のロシア正教会系の教区に及んでいます


2009年2月1日より総主教にキリル1世が就任して、2019年現在、ロシア正教会はコンスタンチノープル総主教庁と新生ウクライナ正教会を除く、全世界の正教会とフル・コミュニオン(相互に同じ教理を分かち合う共同体)の関係にある独立正教会であります。


<ウクライナ正教会について>

ウクライナ正教会も、988年のウラジーミル1世の改宗に起源を有しますが、「ウクライナ独立正教会」の創立会議は1921年にキエフの聖ソフィア大聖堂で行われました。ロシア正教会の司祭の一部はモスクワ総主教庁から独立し、ウクライナの自治教会の創立を宣言し、府主教を選びました。


ソ連時代になると、ウクライナ独立正教会は弾圧、禁止され、聖職者全員と信者の一部はソ連の秘密警察によって惨殺されました。正教冬の時代です。


1980年代末に、ウクライナ独立運動がきっかけでウクライナ独立正教会は活動を再開し、1990年にキーウでの教会会議において、キーウ及び全ウクライナの府主教を選任しました。


ウクライナ独立正教会は、長らく正教会から教会法上の合法的教会として承認されていませんでした。しかし2018年10月16日、遂にコンスタンティノーブル全地総主教庁により、ウクライナ正教会・キエフ総主教庁とともに正統性を承認され、2018年12月15日には、ウクライナ正教会、キエフ総主教庁と統合し、新生「ウクライナ正教会 」が発足しました。


しかし、これら一連の動きに反対するロシア正教会は、ウクライナ正教会、コンスタンティノーブル全地総主教庁との関係を絶っています。ロシア正教のキリル総主教は、ウクライナを自らの「精神的管轄領域の不可分な一部」だと主張しており、このキリル総主教の意向が、プーチンのウクライナ侵攻に影響を与えたことは明らかです。


プーチンの盟友であるキリル総主教(75才)は、今回のウクライナ戦争について、同性愛を受容するなど、退廃的であると同師が見なす西側諸国への対抗手段であるとも考えていると言われています。


キリル総主教とプーチン大統領を結びつけるのは、「ルースキー・ミール」(ロシア的世界)というビジョンであることは、前述したところであり、これは旧ソ連領の一部だった地域を対象とする領土拡張に向かわせる構想であります。


しかし、キリル総主教は、今回のプーチンのウクライナ侵攻を擁護したことによって、「まぎれもなく正教会の信用をおとしめた」、「同胞が相争う戦争の即時停止すべき」、 などと、各国の総主教、正教会系の神学者から強く批判されています。


しかし、ウクライナには約3000万人の正教徒がいると言われ、ロシア正教会にとって文句なしに重要な存在であります。キリル総主教がウクライナに固執する所以であります。


プーチンとキリルが始めた理不尽な戦争に終止符を打つ唯一の道は、サタンの代理人たるプーチンのロシアに、一歩も引かないという断固たる姿勢と力を示すことしかありません。何故なら悪の本質は「傲慢」であるから、弱みを見せないことが一番肝心です。そして完全な解決の方案は、東西を隔てている西側キリスト教とギリシャ正教(ロシア正教)が一致し、神の摂理を担う宗教の統合が促進されることにあると思料いたします。



以上、プーチンのウクライナ侵略について、その残虐性、違法性を強調すると共に、侵略の背景にあるロシア正教とキリル総主教の存在、そしてギリシャ正教とは何かについて論述いたしました。


結局いつの時代にも、戦争で犠牲になるのは罪なき国民であり、神がこのウクライナ国民の犠牲を、世界が生まれ変わるための「清き祭物」「贖罪の羊」として取って下さり、ウクライナ戦争を恒久の平和実現の礎石とされんことを祈念いたします。


最後に、筆者はプーチン・ロシアに提案があります。荒唐無稽な夢物語と言わないで聞いて下さい。プーチンはNATO(北大西洋条約)の脅威がロシアの隣国まで迫り、安全保障上の危機をウクライナ侵略の口実に挙げていますが、ならば、かってG8に入っていたように、ロシアもNATOに加盟してはどうでしょうか。


NATOは、神に源を持つ、自由・人権・民主・法の支配という人類の普遍的価値を共有していますので、ロシアもその仲間に入れば、その普遍的価値故に、ロシアの安全は完全に保証されるからです。よしんばNATOが冷戦下の中で結成され、その目的が「アメリカを引き込み、ロシアを締め出し、ドイツを抑え込む」(反共主義と封じ込め)というものであったにしても、今や冷戦は終結し、NATO は文字通りヨーロッパと世界の平和機構として改編され、こうして、西も東もヨーロッパ全体がこのNATO平和機構にはいれば、ヨーロッパの平和、世界の平和と繁栄は確固たるものになるでしょう。


「国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」(イザヤ2.4)

(了)

bottom of page