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エステル記 注解

🔷聖書の知識90-エステル記注解


そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます(エステル記4.16)


イスラエルでは、アダルの月(2月か3月)の14日と15日に「プリムの祭り」が行われます。プリムの祭りとは、エステル記の主役であるユダヤ人の王妃エステルが、信仰と勇気によりユダヤ人殺害計画を防いで、ユダヤを救ったという物語をお祝いする祭りです。シナゴーグではエステル記が朗読されます。


エステル記は、聖書の中では実にユニークな書で、ルツ記と並んで女性の名が書名になっている書であり、また神の御名が一度も出てこない、モーセの律法や祈りへの言及が一度もない、新約聖書は一度もエステル記を引用していない、などの特徴があります。


にもかかわらずこの物語は、歴史を司る「神の摂理の御手」を鮮やかに語っている書、即ち、神が美しい女性エステルを用いてイスラエルを救われる物語であり、またエステルの信仰と勇気による応答、即ち「キリスト者は、死を覚悟してでも、神の召命に応えなければならない時がある」という信仰的教訓を与える書であるとも言えるでしょう。(4.16)


この書は、エズラ、ネヘミヤ、モデルカイなどが書いたという説もありますが確証はありません。ペルシヤの王宮の内情に詳しいユダヤ人であることは確かでしょう。ちなみにエステルとは「星」という意味です。


【概観】


エステル記で押さえておくべき登場人物は、主人公のエステル、準主人公のモルデカイ、そして王のアハシュエロス(クセルクセス1世)、大臣のハマンの4人であります。以下、この4人を中心に物語は展開されていきます。


<歴史背景>

エステル記は、エズラ記の6章と7章の間の出来事で、前476年にエステルはペルシヤの王妃になりました。


前538年、第一次として約4万人のユダヤ人たちが帰還して神殿が再建され、80年後の前458年エズラがエルサレム到着しましたが、その第一次帰還とエズラ帰還までの間の物語ということになります。


ベルシャの王アハシュエロスは前486年に王となり、その治世の3年目(前483年、都スサ)からこの物語が始まります。


「インドからエチオピヤまで百二十七州を治めたアハシュエロスの世、アハシュエロス王が首都スサで、その国の位に座していたころ、その治世の第三年に、彼はその大臣および侍臣たちのために酒宴を設けた」(1.1~3)


<概略>

エステル記は全10章からなり、王妃ワシテの失脚と新王妃となるエステル(1~2章)、ハマンの陰謀など反ユダヤ主義の台頭とモルデカイ・エステルの知恵深い勇敢な行動(3~7章)、神の守りとユダヤ人の勝利(8章~10章)、という全体の流れになっています。


【内容と論点】


以下、エステル記の流れにそって内容とその論点を見ていきます。


<王妃ワシテの失脚と新王妃エステル>

王は側近やスサの市民を王宮に招き、連日酒宴を開き、最終日に王はワシテの美しさを高官・市民に見せようとして宴席に招こうとしました。しかし何故かワシテは拒み、来ようとはしません。彼女は、酔客の見世物になることを拒否したのでしょう。


王は怒り、大臣は「噂が広まると、女性たちは王と自分の夫を軽蔑の目で見ることになるでしょう」と進言し、王妃ワシテは失脚させられることになりました。夫に従わない妻は、厳しく処分する必要があるという理屈であります。


その後王は大臣の助言により、王妃となる女性を選ぶため、全国各州の美しい乙女をスサの後宮に集めさせました。


ユダヤ人捕囚民の子孫の一人で、エステルの従兄であり義父でもある「モルデカイ」は、エステルを応募させますが、エステルは後宮の宦官ヘガイに目を留められ、誰にもまして王から愛されるようになりました。(2.17)


かくしてユダヤ人モルデカイの養女エステルは、ペルシャ王アハシュエロスの后に選ばれました。


<王暗殺の発覚>

王は王妃のために「エステルの祝宴」を開きますが、ある日モルデカイが王宮の門に座していると、2人の宦官がアハシュエロス王を殺そうと共謀していました。


これを聞き知ったモルデカイは、エステルを通じて王に知らせ、事なきを得て、2人の宦官は処刑されます。(2.21~23) こうしてモルデカイは王の危機を救いましたが、王は、モルデカイの功績をすっかり忘れていました。


そしてこの段階では、まだモルデカイとエステルは、自分がユダヤ教徒であることを明かさないようにしていました。いわゆる「カミングアウト」していなかったというわけです。


<ユダヤ人絶滅の策略>(3~4章)

アハシュエロス王は、アガグ人ハマンを高い地位につけ、皆がハマンに跪いて敬礼するようにとの布告を出しました。しかし、モルデカイだけはそれを拒否しましました。理由を問われたとき、彼は「自分はユダヤ人だから」と答えました。


「しかしモルデカイはひざまずかず、また敬礼しなかった」(3.2)とある通りです。


ハマンはモルデカイに大変腹を立て、モルデカイだけでなくユダヤ人全員の殺害を画策していきます。ハマンは、「ユダヤ人の存在は王のためにならない。またこの計画には経済的利益が伴う」と王に進言しました。


「お国の各州にいる諸民のうちに、散らされて、別れ別れになっている一つの民がいます。その法律は他のすべての民のものと異なり、また彼らは王の法律を守りません。それゆえ彼らを許しておくことは王のためになりません。もし王がよしとされるならば、彼らを滅ぼせと詔をお書きください。そうすればわたしは王の事をつかさどる者たちの手に銀一万タラントを量りわたして、王の金庫に入れさせましょう」(3.8~9)


彼は、ユダヤ人抹殺計画を実行する時期を決めるために、古代オリエントの習慣に従ってくじを引き、神意を求めました。最初の月(1月)にくじを引いたところ、最後の月(12月)に当たり、実行までに約1年間の猶予ができました。


ハマンはクセルクセス王に「ユダヤ人」への中傷を述べ、クセルクセス王の名による勅書を作成させ、アダル(12月)の13日にすべてのユダヤ人が殺害されることが決定され、着々と準備が進んでいきました。


「そして急使をもってその書を王の諸州に送り、十二月すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちにすべてのユダヤ人を、若い者、老いた者、子供、女の別なく、ことごとく滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取れと命じた」(3.13)


後述しますように、このハマンの策略は、いわゆる「反ユダヤ主義」の走りと言われ、ユダヤ民族は、歴史上 10回以上にわたって民族抹殺の危機に直面したと言われています。


キリストを迎える民としてのユダヤ民族迫害の背後には、それを阻止せんとするサタン勢力が存在するのであり、このような反ユダヤ主義は、神の摂理の否定につながり、ハマンは、「反キリストの型」であると言えるでしょう。


<エステルとモルデカイの行動>

これを聞いたユダヤ人の多くは「粗布をまとい、灰の中に座って断食し」(4.3)悲嘆に暮れました。粗布を着て広場に座ったモルデカイの存在を知ったエステルは、ここではじめて、なぜこうなったのかを知ろうとしました。王宮にいた彼女には何も知らされていなかったのです。


その後モルデカイは、宦官を通してエステルと意思の疎通を図り、自分に腹を立てたことが原因でハマンが陰謀をしかけたこと、ハマンが王の金庫に納めると約束した正確な金額、発布された法令の文書の写し、を見せて陰謀の情報を伝えました。


モルデカイは、ユダヤ民族のために王に憐みを求めるようエステルに要請しました。。


エステルは、「王へ近づくことはできない」とモルデカイに返答しましたが、モルデカイは、「この時のためこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」(4:14)と諭します。


王に召されないでかってに内庭に入ると、死刑に処せられるというベルシャの法律の定めがありました。 そのころ30日の間、エステルは王に呼ばれていなかったのです。王に面会を求めるためには、死刑になる覚悟が必要でした。 但し、王がその者に金の笏を差し伸ばした場合は、例外的に赦されることになっていました。


エステルは意を決して、「スサの全てのユダヤ人を集め、三日三晩断食するように伝え、自分も女官と断食をし、その後王に会いに行く」と返答しました。


「法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」(エステル記4.16)


<エステルの信仰と謁見の成功>(5~7章)

断食の後、エステルは王宮の内庭に立ったところ、王は彼女を見て笏を差し伸ばし、彼女は王の好意を受けることになります。


こうしてエステルは神に導かれて、王との謁見に成功しました。もし謁見に失敗した場合は死刑であったのです。


ここで彼女は、自分が設ける宴会にハマンとともに来てほしいと願い、それが叶えられると、再度ハマンと宴会に来てほしい、そのときには自分が何を願っているかを打ち明けると王に告げました。


ハマンは帰宅して自宅で宴会を開き、エステル・王との酒宴について喜んで家族にも話し、妻はモルデカイを木にかけてつるす柱を建てることを提案します。


一方、ある日王が眠れない夜、宮廷日誌を持ってこさせ読ませたところ、ここでモルデカイが王の暗殺を防いだ記録をはじめて知ることになりました。モルデカイの通報によってふたりの宦官を捕らえたという事件です。


驚いたことに、モルデカイにはなんの報償も与えていないというのです。王がモルデカイに何を与えるべきかを考えていたちょうどその時、ハマンが自分の計画を持って王宮の外庭に入って来ました。


王はハマンに、「王が栄誉を与えたいと思う者には、どうしたらよかろう」と尋ねたところ、ハマンはこれを自分のことと取り、図々しい提案をしますが、実は王が栄誉を与えたいと思っていたのはモルデカイでした。(6.7~9)


「それで王はハマンに言った。急いであなたが言ったように、その衣服と馬とを取り寄せ、王の門に座しているユダヤ人モルデカイにそうしなさい。あなたが言ったことを一つも欠いてはならない」(6.10)


<王の前でとりなすエステル>

いよいよエステルが王の前に心を明かす時が来ました。 エステルは、自分がユダヤ人であることを王に告白すると共に、理不尽なユダヤ殺害の陰謀を訴え、ユダヤ民族のために、命乞いをしたのです。


予想もしなかった内容に驚き、王は「そんなことをあえてたくらんでいる者は、一体だれか。どこにいるのか」と問い詰めます。


エステルは、「その迫害する者、その敵は、この悪いハマンです」と告白し、ハマンは、王と王妃の前で震え上がりました。


王妃エステル(ヤン・フィクトルス画)


「『わたしとわたしの民は売られて滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています』 アハシュエロス王は王妃エステルに言った、『そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか』。 エステルは言った、『その敵はこの悪いハマンです』。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた」(7.4~6)


こうしてハマンは、王の命令によって、モルデカイのために用意しておいた柱にかけられました。ハマンの死は、自業自得であります。


<ユダヤの勝利>

エステルは、文書の取り消しの公約文を書く許可を得ることに成功し、シワンの23日にモルデカイの指示により、事実上、ユダヤ人絶滅の取り消しがなされました。


当時のペルシヤの習慣では、王の命令で発布された法律は取り消せないのて、そこで王は、エステルとモルデカイに新しい法を作る許可を与えました。ユダヤ人を襲う者に反撃し、滅ぼすことを許すという法律がであります。


「その中で、王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した」(8.11)


ハマンがユダヤ人虐殺の日と定めたアダルの13日が、逆に自分たちを迫害した者への防衛の日となったのです。こうしてユダヤ人とその敵の立場が逆転しました。戦いの結果は、ユダヤ人の大勝利であり、帝国内全体で、ユダヤ人を憎む者たち75,000人が殺されたと言われています。(9.12)


アハシュエロス王は、ハマンの家を没収し、それをエステルに与え、またモルデカイは、宰相に引き立てられました。


【反ユダヤ主義とは何か】


このエステル記におけるハマンのユダヤ人殺害計画には、「反ユダヤ主義」の萌芽が見られると言われています。反ユダヤ主義とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見のこと、或いは、宗教的・経済的・人種的理由からユダヤ人を差別・排斥しようとする思想のことです。何故かくもユダヤ人は迫害されたのでしょうか。


<反ユダヤ主義の分類>

反ユダヤ主義の理由、歴史的経緯ついては、大きく以下の3つのカテゴリに分けることができると思われます。(ジェローム・チェーンズによる)


即ち、a.民族的な性格の強かった古代のもの、b.宗教的な理由によるキリスト教的なもの、c.19世紀以降の人種的なもの、の3つであります。


これを更に詳しく分析しますと、次のように整理できます。


第一に、キリスト教以前の古代メソポタミア、ギリシャ、ローマなどにおける反ユダヤ主義で、これは民族意識的な性格がありました。選ばれし者、神に愛されし者への嫉妬、即ち「ユダヤ選民主義」への反感です。


第二は、キリスト教誕生以後の、古代・中世における、いわゆる「キリスト殺し」という宗教的・神学的な偏見を持ったもので、近代まで続きました。


キリスト紀元の最初の1000年間で、ヨーロッパのキリスト教徒(カトリック)は、すべてのユダヤ人はキリストの処刑の責任を負い、ローマ人による神殿の破壊とユダヤ人が分散しているのは、過去の宗教上の罪と、ユダヤ人が自分たちの信仰を放棄してキリスト教信仰を受け入れなかったことに対する罰であるという教義を発展させ、固定化させたのです。


教義的には、ユ ダヤ人はキリストが神の子であるというキリスト教の信条を共有しなかったため、このイエスの神性を受け入れない姿勢を、傲慢と見なしました。


更には、イスラームにおける差別です。ただし、イスラム教ではユダヤ教徒はキリスト教文化圏よりも厚遇されました。


第三に、啓蒙時代の政治的、経済的なユダヤ人の「優位性への反発」で、これは後の反セム的な人種的なものの基盤をなしました。ナチスのホロコーストに見られる、19世紀以降の人種的な「反セム主義」です。


19世紀以降の人種説に基づく立場を反セム主義またはアンティセミティズムと呼び、近代人種差別主義以前のユダヤ人憎悪とは区別して「人種論的反セム主義」ともいいます。


ちなみにセムとは、西アジア・アラビア半島・北アフリカなどに分布し、セム語系の言語を用いる諸民族の総称です。アラブ人・エチオピア人・ユダヤ人などのほか、古代のアッシリア人・フェニキア人などが含まれ、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を生みました。


なお、デニス・プレガー、ジョーゼフ・テルシュキン,ジョーゼフ著『ユダヤ人はなせ迫害されたか』によれば、反ユダヤ主義の真因は、「ユダヤ教自体に対する反発」であることを指摘しています。


この著書は、「ユダヤ人はなぜ、これほどまで根深く、迫害されてきたのか」との問に対して、多くは、「スケープゴートが必要だから」「ユダヤ人は金持ちだから」.「人種主義や宗教的な偏見の故である」「反ユダヤ主義は病気にすぎない」、などの答えをするとした上で、実は反ユダヤ主義が「ユダヤ教自体に根ざす」と明言しました。


<反ユダヤ主義の歴史と要因>

上記に見たように、エステル記のハマンに見るユダヤ人殺害計画には、反ユダヤ主義の萌芽が見られます。前2世紀には、シリアセレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスによるゼウス神信仰の強要がありました。 そこにはユダヤ人は他の民と友好関係を結ぼうとせずに敵対しているとし、完全に絶やす意図があったと記録されています。


また、キリスト教に改宗し、ユダヤ教を批判したパウロは「ユダヤ人の敵」として、反ユダヤ主義の源ともいわれています。


66年、エルサレムが陥落し、ヨーロッパ諸国家がキリスト教を受け入れていくと、明確に「キリスト殺し」としての反ユダヤ主義と呼ぶべき事態が生じていき、またイスラム教世界では、ユダヤ人はアウトサイダーと見なされていきました。


科学革命と産業革命以後の近代社会では、人種に基づく反ユダヤ主義(反セム主義)が唱えられ始め、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺をもたらされるに至ります。


また1948年のイスラエル建国以後は中東においても反ユダヤ主義がはびこるようになりました。


なお原理観においては、特にイエスの十字架以降のイスラエル2000年歴史は、キリストを受け入れずして十字架にかけたことの罪を贖う、いわゆる「蕩減期間」という位置付けをしています。


<ユダヤ3 つの祭り>

ユダヤ人が迫害を受け、その迫害から救われたことを祝うユダヤの祭りがあります。


パロの迫害から逃れた「過越の祭り」、ハマンの迫害から救われた「プリムの祭り」、アンティオコス・エピファネスの迫害に打ち勝った「ハヌカの祭り」の3つの祭りであります。


以上の通り、エステル記を見て参りました。民族の危機を、霊妙な神の庇護の中で越えていったイスラエル民族の歴史を知るにつけ、神の実在とその導きを疑うことはできません。次回はヨブ記の解説になります。(了)