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エズラ記 注解 神殿の再建と信仰の覚醒

🔷聖書の知識88-エズラ記注解-神殿の再建と信仰の覚醒


ペルシャ王クロスはこのように言う、天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに下さって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。あなたがたのうち、その民である者は皆その神の助けを得て、ユダにあるエルサレムに上って行き、イスラエルの神、主の宮を復興せよ(エズラ記1.2~3)


さて、もともと『歴代 誌』『エズラ記』『ネヘミヤ記』は一つの書であり、エズラ記は歴代誌の続編だと言われています。


ちなみに捕囚期後の歴史書としては、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記があり、捕囚期後の預言書には、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書があります。


エズラ記の主人公は、神殿再建を行い国造りを行ったゼルバベルと、ユダヤ教の基礎造りをしたエズラです。

エズラ記は、大祭司ヒルキヤの子孫であるエズラが書いたと言われますが、聖書批評学者は、これら3つの書は「歴代誌史家」とよばれる同じ著者グループの作品であると指摘しています。


エズラは、ペルシャ宮廷の高級官僚で律法の書記官でした。バビロン捕囚の間は、神殿もなく祭司として働くことは不可能であり、その間、モーセの律法を熱心に学んだ律法学者でした。


エズラは、律法によってユダヤ民族をまとめなおそうとしました。エズラは、ユダヤ教復興の祖と言われています。


歴史は、神の働きの足跡であり、エズラ記は、イスラエルの民の霊的、信仰的歴史であります。エズラ記を通して、悔い改めの力、み言葉の力、リバイバルの原則について考えていきたいと思います。


【エズラ記の概略】


全体の概略は、ゼルバベルらによる国の再建(1~6章)と、エズラによる信仰生活の再建(7~10章)になっています。


a.国の再建→ゼルバベルらのカナンの地への帰還(1~2章)、神殿の再建(3章)、敵の妨害との戦い(4~6章)。


b.信仰生活の再建→エルサレムに到着するエズラ(7~8章)、民の罪を告白するエズラ(9章)、国を清めるエズラ(10章)。


【カナンの地への帰還と神殿の再建】


<カナンの地への帰還>( 1 ~ 2 章)

前538年、アケメネス朝ペルシャの初代の王キュロス2世のキュロスの勅命によってバビロン捕囚から解放され、故国に戻ってエルサレムで神殿を建て直すことを許されます。(1.2~3)


この解放は、バビロン捕囚は70年で終わるとのエレミヤの預言の成就で、ペルシヤのキュロス王が、その預言を成就させたものと言われています。


「主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る」(エレミヤ29.10)


神がクロス王を用いて、バビロン捕囚からの解放を行ったと言うのです。しかしこのユダヤ人の帰還と神殿再建を許可は、本国防衛のための政治目的のためでもありました。


帰還した民の人数は、約4万人でしたが、一方でバビロンに留まった捕囚民は、ペルシャの統治の元で繁栄し、重要な地位に昇るものもいました。


多くは生活の安定などのためバビロンに留まりましたが、帰還した人たちは、生活の安定よりも、神との関係を優先させた「イスラエルの残れる者」であります。


<神殿の再建>( 3 章)

帰還民の中心はユダ族とベニヤミン族ですが、北の10部族もこの中に含まれていました。また帰還民たちは、エルサレムだけでなく、ベツレヘム、アナトテ、ラマ、ゲバ、ミクマシュ、ベテル、アイ、エリコなどにも住み着きました。


帰還民たちは、神殿建設のために、能力に応じてささげ物を捧げました。先ず最初に、神殿が建っていた場所に祭壇を築き(3.2)、仮庵の祭りを祝って、帰還民たちは、祭壇を中心にひとつとなりました。


祭壇完成から7ヶ月後(帰還の翌年の2月)に、神殿の工事を開始します。城壁再建の前に、先ず神殿の建設に着手したというのです。城壁は防衛のためですが、いかなる城壁も神がともにいないなら虚しく、神殿建設は、彼らの真ん中に神の臨在を招き入れるためのものでした。


この信仰姿勢は、アメリカに渡ったピューリタンが、先ず神のために教会を建て、次に子孫のために学校を建て、最後に自分たちのために丸太小屋を建てた精神を想起させます。


神殿の礎が据えられた時、祭司とレビ人たちは、ダビデ王の先例に倣って主を賛美しました。年老いた世代の中には、大声をあげて泣く人もいたのです。(3.12)


しかしソロモンの神殿と比較して、第二神殿は貧弱でした。神殿の豪華さは、神の栄光の現れであるとすれば、彼らは、神の栄光のために嘆いたのです。そうして前515年、神殿は完成し、奉献式が行われました。


「この宮はダリヨス王の治世の六年アダルの月の三日に完成した。そこでイスラエルの人々、祭司たち、レビびとおよびその他の捕囚から帰った人々は、喜んで神のこの宮の奉献式を行った」(6.15~16)


<敵の妨害との戦い>( 4 ~ 6 章)

北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ帝国は、征服した地に異民族を連れてきて「雑婚」を図りました。その混血民の子孫たちが、神殿建設に対する妨害が始めたのです。その中心がサマリヤ人でした。


彼らは、工事に協力するという申し出をしましたが、これは、指導者たちを撹乱するためでありました。彼らは、自分たちもイスラエルの神を求めていると言いましたが、彼らの信仰は「混合主義」で、ヤハウェ以外の神々も礼拝の対象となっていました。


政治的リーダーのゼルバベルと宗教的リーダーのヨシュアは、毅然とした態度で、ただちに協力の申し入れを拒否し、敵に付け入る隙を与えませんでした。


敵は、かく乱戦法から露骨な脅しに戦略を変え、サマリヤ人は、建設に携わっている人たちを脅迫しました。また議官(宮廷の役人)を買収して、この計画を打ちこわそうとしたのです。


結局工事は中断され、14年後に再開されることになりました。(4:24)


ダリヨス王は、クロス王の布告に基づき神殿建設の法的許可を与え、預言者ハガイとゼカリヤの霊的な励ましもあり、ゼルバベルとヨシュアは、神殿の工事を再開しました。


こうして、この宮はダリヨス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成し、ユダヤ人たちは、70年ぶりに過越の祭りを祝いました。


神殿が完成したのは、前515年のアダルの(2-3月)で、前536年の着工から21年後のことであり、前586年に第一神殿が破壊されてから70年後のことでした。


「彼らはイスラエルの神の命令により、またクロス、ダリヨスおよびペルシャ王アルタシャスタの命によって、これを建て終った。この宮はダリヨス王の治世の六年アダルの月の三日に完成した」(6.14~15)


【エズラの帰還と信仰の復興】


最初の帰還から80年経って、前458年、エズラがエルサレムに到着しました。上記のエズラ記1~6章は、エズラが到着する前に起こったことであります。


<エルサレムに到着するエズラ>( 7 ~ 8 章)

エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていました。(7.10)


アルタシャスタは、エズラをイスラエルの地における正義の執行役に命じ、エズラには、さばきつかさや裁判官を任命するという権威が与えられていました。


彼は、ペルシヤの王にこのような思いを与え、王と議官たちの好意を自分に向けさせてくださったのは、イスラエルの神であると告白しました。


80前の帰還民の数(4万人)と比べると、ほぼ10分の1ですが、「イスラエルの残れる者」はいつも少数派でした。


エルサレム到着後、エズラは神殿で全焼のいけにえをささげました。雄牛12頭は、イスラエル12部族のためであります。(8.35)


<民の罪を告白するエズラ>( 9 章)

当時、異民族との雑婚の問題が、信仰の妨げになるとして大きな課題になっていました。

エズラ帰還の主たる理由は、民が信仰の道に立ち帰るためでしたが、民の心には古い罪の性質が残っていたのです。


エズラは、「雑婚」(異教徒との結婚)の罪があることを知り憂慮しました。ソロモンの事例でもそうでしたが、異民族との結婚は、偶像礼拝をもたらすからです。


エズラは着物を裂いて悲しみ、毛を抜いて大いに驚きました。(9.3)


彼は、夕方のささげ物の時刻(午後3時)まで黙して座っていましたが、彼の周りには、「イスラエルの神のことばを恐れている者たち」(真の信仰者たち)が集まって来ました。


夕方のささげ物の時刻(午後3時)になってエズラは祈り始めました。


「民が約束の地に帰還できたのは、神の恵みのゆえである。ペルシヤの王たちを動かして、神殿と町の再建を可能にさせたのも、神の恵みの業である。雑婚の罪に関しては、どんな言い訳も通用しない。雑婚によって、イスラエルの地に汚れと忌むべき習慣が持ち込まれた」と。(9.6~15)


エズラはただ神の前にひれ伏し、神のあわれみにすがりました。


<雑婚の罪を分別するエズラ>( 10 章)

エズラのところに、「雑婚の罪」を悲しんでいた人々が集まって来て、エヒエルの子シカニヤが、異教徒の妻と子どもを追放することを提案しました。(10.3)


エズラがおふれを出し、3日後に、民はエルサレムに集まっできました。あいにくの大雨でしたが、集会は予定通りに開催され、エズラは、民の罪(外国の女と結婚したこと)を糾弾しました。


その罪を認め、主に告白すべきだと勧告したのです。さらに、霊性を聖く保つために、外国の妻を離別すべきだと命じました。全衆は、エズラの勧告に従うと大声で応答しました。民は、大雨の中で罪を告白し、悔い改めを実際の行動で示しました。(10.12)


それにしても、雑婚した妻子を離別して追い出すとは何という過酷な行為でしょうか。イスラエルの聖絶思想と並んで驚くべき分別のみ業です。神がこれを要求するほどまでに、雑婚による信仰の乱れが深刻であったということだと思われます。


エズラはネヘミヤ記8章でも、民に律法を読み聞かせたことが記録されています。こうしてエズラは、ユダヤ人社会の宗教と法の掟を整理し、後にユダヤ民族の信仰や生活の基準となるユダヤ教の土台を築いたと言われています。


エズラ記は霊的覚醒の書と言われ、エズラは、悔い改めとみ言葉の力による宗教改革者であり、リバイバリストでした。中川健一牧師は、リバイバルは、組織論や方法論では起こらず、次のリバイバルは「聖書研究によるリバイバルであろう」と言われています。


【バビロン捕囚・帰還の神学的意義】


バビロン捕囚は前597年、前586年、前578年の三回に渡って行われました。そうして約50年後の前538年、ユダヤ人はアケメネス朝ペルシャの王キュロス2世の勅命によって解放され、故国に戻ってエルサレムで神殿を建て直すことを許されます。


この国の崩壊・捕囚という未曾有の試練は、民族に決定的な信仰と思想の転換をもたらしました。この受難をどう捉えればいいのか、神殿崩壊による信仰の柱を何に求めるのか、そうして新しい神観の定立、などの転換です。


<バビロン捕囚とイスラエルの回心>

長期に渡ってバビロニアに居住することになったユダヤ人は、現地の文化の著しい影響を受けました。そうしてバビロンのユダヤ人たちは、バビロニアの圧倒的な社会風土や宗教に囲まれる環境の中で、それまでの民族の歩みや民族の宗教の在り方を、根本的に再考させられることになりました。


第一は、ヤハウェの神への信頼性と正統性をどう担保するかの問題です。


ヤハウェはイスラエルを救えなかった弱い神、駄目な神、捨てられるべき神なのか、それともなお民族を導く神として崇める神であるのかという、ヤハウェの神への信頼性の問題に直面しました。


何故なら、当時の古代世界では、神と民族・国家は固く結びつき、戦争に負けた民族の神は、捨てられる運命にありました。バビロンに滅ぼされたイスラエルの神ヤハウェは最早役立たずの神として葬られる筈だったのです。


この未曾有の受難に際し、多くはヤハウェを呪い、み限って神から離れて行きました。しかし一方では、ヤハウェを擁護し弁護する群れ、申命記改革の流れを汲む、いわゆる「イスラエルの残れる者」の存在がありました。


彼らは、この未曾有の受難を、神の弱さや無力さに帰するのではなく、この受難の原因は専ら民族の不信仰、即ちヤハウェへの契約違反にあると考えました。偶像崇拝や雑婚など神への背信こそ受難の原因だと考えたのです。これが苦難の神義論です。


従って、悔い改めて神に還ること、即ち民族的な回心こそ神との関係を回復する道であり、受難から解放される道であることを訴えました。そしてこれらの人々によって律法の書が纏められていき、新たな民族のアイデンティティーの確立、ユダヤ教の確立がなされていったのです。


第二は、神殿に代わる信仰生活の柱の問題です。


神殿の喪失と民族のディアスポラによって、神との繋がりを保証する宗教的な中心を失いました。この神殿とそこで行われる犠牲の捧げ物こそ、神と民族をつなぐ紐帯だったからです。


しかしイスラエルは、失った神殿の代わりに律法を心の拠り所とするようになり、神殿宗教であるだけではなく律法を重んじる宗教としてのユダヤ教を確立することになりました。捕囚中のユダヤ人は、儀礼的な神殿礼拝に代わる簡素なシナゴグという会堂礼拝を案出したのです。


即ち、長老や知識人を中心とした集会(後のシナゴーグの原型)で律法の言葉を学び、祈り、礼拝するようになり、異教徒からユダヤ人を区別する生活習慣-安息日、割礼、種々の食物規制-が定着しました。


ここで生まれたユダヤ人の信仰上の生活習慣は、彼らが世界中に離散(ディアスポラ)した後も、二千年以上に渡って彼らのアイデンティティとして保持されるのです。


第三は、神観の転換であります。


イスラエル民族は、アブラハム、モーセ以来、唯一の創造神ヤハウェを信仰してきましたが、まだこれは拝一神教としての民族神とも言うべき神でした。


つまり、その民族内においては唯一の神ですが、必ずしも他国の神々を否定するものではありませんでした。


しかしこの神観は、バビロン捕囚を契機に、大きな転換を迎えることなりました。神ヤハウェの再理解です。即ち、神ヤハウェはユダヤ民族の神であるだけでなく、他国を含む「世界を創造した普遍的な唯一神」である、と理解されるようになりました。


天地を創造した神は、アッシリアを使って北イスラエルを滅ぼし、バビロニアを用いて南ユダを打たれ、ペルシャに働いて民族を解放したというのです。この神観念は、「第2イザヤ」「祭司記者」などと呼ばれている宗教者たちにより確立されていきました。第2イザヤでは、ヤハウェこそ唯一の神で世界に他の神は一切存在しないことが宣言されます。


「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるためである。わたしは主である、わたしのほかに神はない。わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」(イザヤ45.5~7)


以上の通り、イスラエル民族の新たなアイデンティティは、こうしてバビロン捕囚をきっかけとして確立されていきました。これが、バビロン捕囚の霊的意味であります。


<神との思い出>

また千葉大学教授の加藤隆氏は、著書『一神教の誕生』において、聖書は、ベルシャ期のBC5世紀から4世紀に律法部分が成立し、全体が確定したのが1世紀末(AD90年のヤムニア会議)で旧約39巻が確定した上で、律法は、支配国の管理のために、ベルシャ当局の命令によって作られたという一面があると指摘されました。


そしてベルシャ期(前6~4)におけるユダヤの重要な出来事としては、第二神殿の建設と聖書成立の開始を挙げられ、この際のキーワードが「思い出」であるというのです。


イスラエルは、神殿・王・土地・民など全てを失いましたが、かって神に救われた思い出、神に愛された思い出、出エジプトの思い出だけは残ったと指摘されました。(加藤隆著『一神教の誕生』P80)


儀式と犠牲を行う施設である神殿は、神と民のつながりを保証するものでありましたが、

全てを失ったイスラエルは、この「思い出」を拠り所に、新しく神との関係を再構築していきました。


この加藤氏の見解は、かってパンタナールセミナーに参加して、レダの摂理について筆者が感じたインスピレーションと全く同じだったので、驚きました。


筆者はセミナーの感想文で、「南米摂理は神が南米を愛された『愛の記録』だ。そしてレダはその象徴であり、将来南米が苦難に遭遇したとき、この愛の刻印を手掛かりにきっと立ち上がるだろう」と指摘しました。


筆者が感じたこのインスピレーションが、上記加藤氏の話で裏付けられたような気がして、当に「目から鱗」でした。


以上、イスラエルのアイデンティティーとユダヤ教の成立に大きな影響をあたえたエズラ記を概観して参りました。次はこの信仰の刷新を踏まえ、外的な国の形を形成することになる「ネヘミヤ記」を解説いたします。(了)