🔷聖書の知識182ーキリスト教神学についての考察④ー主題の論点(1)ー神学の源泉(信仰・啓示・理性)と要素(聖書・伝統)
哲学は真理を求め、神学は真理を見出だし、宗教(信仰)はこれを所有する(1989年2月15日 メモ)
今までも述べましたように、神学の目的とは、第一に、救いとは何か、どうすれば救われるのか(義とされるか)、救いの確証をいかにして得るか、を厳密に論証することにあると言えるでしょう。そして第二には、異端や分派を分別する知恵であり、また教派の違いにおいて自らの教派の正統性を弁証する役割を担いました。
神学は、答えが出ない「不毛な論争」といった意味で、「神学論議」などと揶揄されることもありますが、しかし自らの信仰を厳密に理解するためには不可欠であります。例えば、キリスト教の根幹の教えである「十字架による贖罪」という救済観を理解するためには、単に信仰だけではなく、そもそも何故キリストは十字架に死んだのか、キリストの死の意味とは何か、贖罪とは何であり、何故それが救いになるのか、といったことへの論理的な説明が欠かせません。正にこれが神学の役割であります。
つまり神学は、先ず特定の宗教と信仰があり、それを厳密に根拠付けるために後付けで生まれたものであるということもできるでしょう。
そして神学の源泉は「信仰・啓示・理性」であり、聖書と伝統を要素(資料)としています。以下の項において、先ず神学の源泉である「信仰と理性」の役割とその関係について、考察することにいたします。
【信仰と理性】
カトリックの神学者ジャン・ピエール・トレルによると、「神学とは啓示と理性の二重の照明のもとに、信仰について深く省察することである」と述べ、キリスト教神学の3つの源泉は「信仰・啓示・理性」だと指摘しました。(『カトリック神学入門』白水社P5) ちなみにアリスター・マクグラスは、「聖書」、「伝統」、「理性」を神学の要素としています(著書『神学の喜び』P22)。即ち、神学は、信仰・啓示・理性を源泉とし、聖書と伝統を要素としているというのです。
信仰と理性はそれぞれ重要で、宗教的真理を知る上でいずれも欠かせないものですが、それぞれ役割が違うというのです。そして信仰と理性、神学と哲学の関係は神学上の重要な論点であり、この問題を整理し、信仰と理性の調和を目指した第一人者は何と言ってもトマス・アクィナスであります。
即ちトマスは、キリスト教思想とアリストテレス哲学を統合した総合的な体系を構築した(或いはしようとした)カトリック最大の神学者であります。そこで先ず、トマス神学最大の課題であり、中世を席巻したスコラ学最大のテーマでもある「信仰と理性及びその関係」について考察したいと思います。
<信仰と理性について>
さて事実には、「科学的事実」と「信仰的事実」があると言われます。ユダヤ人にとって神の存在は自明の信仰的事実でありました。また、イエスの処女懐胎、三位一体の神認識、キリストの(肉体の)復活、これらは後世、信仰的事実の領域として論じられることになります。
ヘンリー・シーセンがキリスト教の三位一体論について、「三位一体の神秘」(シーセン著「組織神学」P224)と言っていますように、確かに、神の認識は理性を超えた信仰の領域の問題であると言えるでしょう。ある神学者は信仰と神学の関係を「神学なき信仰は盲目であり、信仰なき神学は不具である」と言い表しました。またジャン・ピエール・トレルは、「神学を証すことが出来るのは、信仰をもった理性である」と指摘しました。
<理性は神学の侍女>
このように、神学的真理の認識には信仰と理性が不可欠であるというのです。しかし、神学は信仰によって獲得した真理を理性の力で確かめ体系化することであって、理性によって信仰に行き着くことではありません。カルバンは、「神の認識は理性ではなく信仰による」と指摘しました。
しかし、神の存在は理性が最後まで証明できない何かでありますが、神の存在が理性に反しているということではなく、信仰的認識は理性を超えていますが、理性と矛盾するものではないというのです。つまり、信仰は超理性的ですが、理性を否定するものではありません。
このように神学において、理性は「神学の伴侶」乃至は「神学の侍女」(トマス・アクィナス)であるという訳です。「哲学は真理を求め、神学は真理を見出だし、宗教(信仰)はこれを所有する」という言葉は、これらの関係をよく言い表しています。
原理講論に、「我々が正しい信仰をもつためには、第一に祈祷により、神霊によって、神と直接霊交すべきであり、その次には、聖書を正しく読むことによって、真理を悟らなければならない。イエスが神霊と真理で礼拝せよ(ヨハネ4.24)と言われた理由はここにある」(P191)とある通りです。
<信仰と理性の調和>
2006年9月、ドイツの大学で教皇ベネディクト16世が「信仰と理性の考察」というタイトルで講演を行いました。そのテーマは「信仰と理性の調和」でありました。つまり、近時のヨーロッパにおいて、理性が世俗化する一方、逆に信仰が理性と切り離され理性が軽視されているという指摘であります。確かにルターの宗教改革は「信仰と聖書のみ」に基礎をおき、理性による哲学を排除したと言われています。
しかし、信仰と理性の融合、すなわち聖書的信仰(ヘブライズム)とギリシャ哲学(ヘレニズム)の融合の歴史はヨーロッパの伝統であり、アウグスチヌスはキリスト教神学にプラトンの思想を借用しました。 即ちキリスト教神学には、キリスト教の外にあるギリシャ哲学などの知的財産を、「神学的洞察を発展させる手段」として用いる伝統があります。(アリスター・マクグラス著『神学のよろこび』P33)
その哲学的な諸体系は、神学に刺激を与え、「キリスト教と異教徒の間の懸け橋」になるというのです。その重要な例が、プラトン主義、アリストテレス主義との対話です。拙著『異邦人の体験的神学思想』が、聖書と原理の橋渡しを目指すのと同義です。
「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める」(1コリント1.22) とありますが、最初の5世紀まで、キリスト教とライバルになり得る世界観はプラトン主義であり、殉教者ユスティノスやクレメンスといった著述家らは、プラトン主義の持つ知的な長所を、キリスト教自身の完全性を損なうことなく、如何に活用するかに腐心しました。正にヘブライズムをギリシャ語で語るということであります。
そしてもう一つがアリストテレス主義の活用です。13世紀のスコラ哲学がアリストテレスを再発見し、物理学、哲学、倫理学など、広くアリストテレスの見解や方法を活用したことです。その金字塔がトマス・アクィナスの『神学大全』です。キリスト教神学はこれらを神学の侍女として用いました。(アリスター・マクグラス著『神学のよろこび』)
即ち、ギリシャ哲学など異教徒の中にも、キリスト教と肩を並べる活用すべき思想があるというのです。この点新渡戸稲造や内村鑑三は、神道、仏教、武士道などで構成される日本の精神性や道徳観念は、唯一神と贖罪の思想を除けば、決してキリスト教に引けを取らないと述べています。さらには19世紀においてドイツの神学者が、ヘーゲルやカントの思想を有益な神学のパートナーとして活用し、20世紀のプルトマンやティリッヒらは、実存主義を神学のパートナーとして活用しました。
但し、マルティン・ルターは、中世期、アリストテレスの思想を過度に、無批判に用いて、神学的歪曲に陥ったと批判しました。
<信仰告白は理性を超克して神秘を認識する>
理性と神学の力でギリギリまで突き詰めても、なお認識できない宗教的真理(神秘)があるというのです。では、人間は如何にして理性の彼方にある神秘、即ち究極的な宗教的真理を認識することができるのでしょうか。次の言葉に重要なヒントがあります。
「究極的な宗教的真理の認識は、信仰告白によって可能になる」(韓国牧会者団宣言より
この言葉は次の聖句が裏付けています。
「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ10.9~10)
この「究極的な宗教的真理の認識は、信仰告白によって可能になる」との言葉は、筆者において信仰と理性の問題に決着をつける言葉になりました。「目から鱗」とはこのことです。つまり人間理性の限界を超えるものが信仰告白であるという真理です。ある牧師は「神を知る方法は一つです。信じるということです」と語りましたが、信じる信仰こそ真理に到達可能な唯一の道であるということであります。
かくして筆者は、2012年、アリゾナ州セドナにある聖十字架教会にて、イエスキリストが無原罪のメシアであること、UC創始者が無原罪の再臨主であることを、心で信じ口で言いあらわして力強く告白いたしました。無原罪来臨という宗教的真理を、理性の壁を破って完全に認識した瞬間であります。
【トマスアキナスの神秘的体験-理性の彼岸に見たもの】
かのトマス・アクィナス(1225年~1274年3月7日)も、信仰と理性の問題で格闘しました。トマスは理性では知り得ない事柄として、「三位一体の神秘」(神学大全)という表現を使い、神秘とは、「あまりにも隠されているために理解することが出来ない神的な神秘」としました。トマスは他に「キリストの神秘」「受肉の神秘」「信仰の神秘」「恩寵の神秘」といった神秘という言葉を多用しており、如何に信仰と理性の問題と戦ったかということが分かります。
実はトマスは晩年、決定的とも言える神秘体験をしています。信仰と理性の融合、即ち、キリスト教思想とアリストテレス哲学を統合した体系を構築した中世最大の神学者トマスは、大著『神学大全』の執筆に1265年ころから取り掛かかりました。しかし、1273年12月6日、ミサの中で神の「圧倒的な霊的体験」に遭遇し、第三部の「秘蹟の部」の途中で筆を置き、以後沈黙し一切の著作活動を放棄しました。かくして神学大全は未完に終わったのです。(その後、弟子たちが書いて完成させました)
トマスはその神秘体験について、友人に「レギナルドスよ、私にはできない。私は大変なものを見てしまった。私が見、私に示されたことに比べれば、私が書いた全てのことは藁屑(わらくず)のように見える」と語ったと言われています。一体、トマスはミサの中で何を見、何を啓示されたのでしょうか。そして何故、絶筆し以後一切を沈黙したのでしょうか。この問いは、今まで如何なる神学者と言えども正面から論評したことはありません。
ある神学者は、それをヨハネ黙示録5章の「7つの封印の巻物」の一端を見たからだといいます。十字架、復活、再臨、三位一体、と言った聖書の根本奥義の驚くべき解釈を示されたというのです。そしてこの見解には一理あると思われます。
この理性の彼方にある神秘体験により、トマスは、イエスの十字架や復活の教理など、伝統的なキリスト教教理からのコペルニクス的転回を余儀なくされたのではないか、あるいは、理性の限界を決定的に感じさせられる体験をして、自らの神学に自信が持てなくなったのではないか、と思われます。そして、カトリック教理の弁証と証明に費やしていたそれまでの著作に、何の意味も価値も見い出せない、文字通り「藁屑」になったのでなはいかと推測されます。
このように考えなければ、トマスの「絶筆と沈黙」の意味を説明できません。彼は、以後完全に沈黙しました。いや、神に沈黙を迫られたというべきかも知れません。そしてその3ヶ月後、地上での用を終えて他界しました。一体あの時、トマスが見、聞き、悟ったものは何だったのでしょうか。いずれにせよ、このトマスの体験ほど理性の限界を感じさせる出来事はありません。
以上、信仰と理性の問題について考察いたしました。次回は、「啓示」について論評し、併せてインスピレーション、啓示、黙示、役事の関係と内容について考えたいと思います。(了)