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キリスト教神学についての考察⑤ 主題の論点(2) 啓示ついて

🔷聖書の知識183ーキリスト教神学についての考察⑤ー主題の論点(2)ー啓示ついて


神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである(ヘブル1.1~2)


前回、神学の源泉は「信仰・啓示・理性」であり、「聖書と伝統」を要素(資料)としていると述べました。ルターも言っているように、神学とは、信仰の厳密な理解であると共に、本質的に聖書の論理的な解釈であり、その意味で使徒信条は、聖書全体の簡潔な抜粋であります。従って、拙著『体験的神学思想』(第二章)では、使徒信条を読み解くという形でキリスト教教理を説明しました。


特に今回は神学の重要な源泉の一つである「啓示」について考察いたします。


【啓示について】

啓示(revelation)とは、神または超越的な存在より、真理または通常では知りえない知識・認識が開示されることをいい、天啓、神示ともいわれ、大きくは霊感の一種と言えるでしょう。そして啓示によって真理が開示され、それによって信仰が成立する宗教を、「啓示宗教」と呼びます。


ユダヤ人は啓典の民と言われ、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は「啓示宗教」といわれています。仏教や哲学などのいわゆる「神への宗教」に対して、「神からの宗教」であります。神は預言者、賢者、使徒たちを通して、そして終わりの時にはキリストを通して(ヘブル1.2)、神の言葉を啓示されました。


また啓示には、「隠されていた覆いが取り除かれて明らかになる」という意味があり、神は様々な形で私たちに語りかけ、自らを啓示されておられます。そして理性は啓示に対して従属的立場にあり、啓示によって知られる真理は、人間理性の編み出した議論の産物ではありません。


さて啓示は、大きく「一般啓示」と「特別啓示」に分けられます。一般啓示には、「自然」(神は自然を通して自らを顕されている)、「良心」(神は人間の良心に顕れる)、「歴史」(特にイスラエルの歴史に神の啓示が顕れている)、があると言われ、神は自然、良心、歴史を通して自らを啓示されるというのです。


しかし、救いを伴う完全な啓示、即ち「特別啓示」としては「聖書」があり、その頂点に立つのが「イエスの受肉」だといわれています。神は聖書を通し、キリストを通して特別啓示として自らを完全に顕されたというのです。「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである」(ヘブル1.1~2)とある通りです。そして今一つが個々人の「信仰体験」です。


この点UC創始者は「原理には、神の直接の啓示にはるかに勝って、人間を指導し造りかえる偉大な力がありますから、原理を知ること自体が、啓示や高い良心基準の役割を果たしているのです」(『御旨と世界』創立以前の内的教会史P594)と語っておられます。


啓示は、聖霊に照らされた人間の精神が見出すもので神の言葉に他ならず、そして信仰の光に照らされなければそれを受けることが出来ません。(ジャン・ピエール・トレル著『カトリック神学入門』P6)。即ち「啓示は理性に優り、信仰は啓示に優る」というのです。


この点カール・バルトは、理性から啓示に達する道はなく、啓示から理性への結合があるのみであるとし、啓示が理性と結合した時、そこで始めて理性は創造の際の本来の自己の姿を想起すると指摘しています。


では私たちは、啓示ではなく、人間側から神の存在を証明することができるのでしょうか。そもそも聖書は神の存在を所与の前提としており、敢えて神の存在を証明しようとはしません。神の存在は当然の大前提であり、これこそがヘブライズムの根本思想であります。イスラエル人にとって、神の存在など自明の理であり、そもそもその存在を証明する対象ではありませんでした。


しかし敢えてこれを試みた人々がいます。その人々は、神の存在を、ぎりぎりまで証明しようとし、カントはその一人です。カントは理論理性では神の存在証明はできないとしつつも、以下の4つに分類して説明しました。


第一に「目的論的証明」と言われる証明方法です。つまり、極大から極小まで、世界が秩序整然としと規則的であり、かつ精巧なのは、目的を持って世界を創造した、人知を超越した存在である「神」がいるからだと主張します。


例えば分子生物学の権威である村上和雄氏は、人間の持つ60兆個の細胞の核の中の一つ一つに30億の遺伝子情報があり、しかも調和的にしなやかに機能しているとし、「一体誰がこの染色体に遺伝子を書き込んだのか、単なる偶然とは思えない」、村上氏はこれを「サムシンググレート」(神)と呼びました。


第二が「宇宙論的証明」です。宇宙論的証明とは、物事を因果律に従って原因の原因の原因の….と遡って行けば、その根因があるはずで、この根因、即ち第一原因こそが神だとする考え方です。


第三が「存在論的証明」です。これは、本体論的証明ともいい、可能な存在者の中で最大の存在者とは神であるとし、「存在する」という属性を最大限に持ったものが神だと主張しました。カンタベリーのアンセルムスは「神とは、これ以上偉大な存在を考えられない存在」と 言いました。


第四が「道徳論的証明」です。この考え方は、理性の必然的な対象である最高善の実現のためには、ぜひとも神の実在が「要請」されねばならないとするものです。倫理道徳の起源となる神が必要であるというのです。


このように、人間はぎりぎりまで神の存在を理由付けようとしました。では私達は、その神を如何にして知ることができるのでしょうか。それは前述した「一般啓示」と「特別啓示」であり、神は自らを色々な方法で既に啓示されているというのです。


【一般啓示について】


一般啓示とは、クリスチャンでなくても、神は全ての人に普遍的に自らを顕されるということです。即ち、神は、自然の中に、良心の中に、そして歴史の中に啓示されます。


<神は自然の中に自らを啓示される>


聖書の中に、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1.27)とあり、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ書1.20)とある通り、神は自然の中に自らを啓示されといるというのです。


神の実体対象として、神が自らに似せて創造された自然万物の中に神の真善美が顕れていることは明らかです。従って私達は自然を観察することによって神を知ることができるというのです。人間が自然に憧れ、山河を歩くのは、そこに人間の心を打つ神々しさ、即ち神の真善美を感じるからに他なりません。


イエスも、 「野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(ルカ12.27)と言って、自然の神秘を表現しました。


<神は良心の中に自らを啓示される>


私達の良心(本心)は、誰に教わらずとも、何が善で何が悪かを知っています。 善悪を判別する良心の主体が神であるからです。人は悪を行った場合、良心の呵責を感じますが、それは良心の主体たる神との関係で、直感的に感じるものです。


そして、「神は人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3.11)とありますように、人の良心は究極的に、永遠なる神の世界に憧れているというのです。人間の永遠の真理を求めるあくなき欲求は、良心に働く神の力に起因しているからに他なりません。即ち、神は時空を越えた超越神であり、また良心に内在する神でもあります。


ローマ教皇のパウロ二世は、「人間の心の奥底には、神を求める郷愁の種がある」と語りました。聖書も「わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によってあかしをしている」(ロマ9.1)と言っています。


そしてUC創始者は、「良心は師に優り、親に優り、神に優る」と言われ、これからの時代は「み言と良心が導く」と語られました。こうして、堕落した人間といえども、かろうじて良心作用だけは残っており、神はこの人間の良心を通して救援摂理を導いてこられました。「たとえ堕落人間がサタンの業により、善の生活ができないようになってしまったとしても、善を追求するその本心だけは、そのまま残っているからである」(原理講論P141)とある通りです。


かって筆者は、20才前半、本心(=良心)に内在する神と出会った体験があります。彦根での開拓の最中、神は、人間的な偶像の中でも、山の彼方の空遠くでもなく、「自らの本心に内在」することを体験しました。本心に内在する神、これが神との最初の出会いでした。神は超越神であると同時に、内在神でもあったのです。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(1コリント3.16)とある通りです。


<神は歴史の中に自らを啓示される>


また神は、人類歴史の中に自らを啓示されています。特に神はイスラエルの神「ヤハウエ」とイスラエルへの「神の働き」の中に、自らを顕されました。


全世界が多神教と汎神論の中に沈んでいた時、アブラハムの子孫たちだけが、神を「唯一にして創造主なる存在、人格的な啓示の神」と認識していたことは注目に値します。アブラハムはノアと並んで一神教を受け入れた人類最初の人物であります。


更には、この神に似せられた高貴な人間が、堕落して罪と呪いと死をもたらすに至ったこと、犠牲による贖罪、メシアによる救い、終末における審判とメシア王国、といった神の救援摂理を理解していたことは実に驚くべきことであります。これらはイスラエルに対する神の啓示による理解以外の何物でもありません。


また、イスラエル民族の多難な歴史とその栄枯盛衰からの復活を見ても、神の働きは明らかです。取るに足りない小国でありながら、全世界が眼を見はるような存在であり、受難の中にあって不死鳥のように蘇り、1948年には遂に建国いたしました。世界人口の0.2%でありながら、ノーベル賞受賞者は20%に昇っています。これら神が導いて来られたイスラエルの歴史を見れば、神の存在を疑う余地は有りません。


筆者はポーランドのアウシュビッツを二度訪問したことがあるのですが、奇跡の民ユダヤ人との強烈な出会いをして、ユダヤ人の歴史に思いを馳せるざるを得ませんでした。


マルクス主義は、歴史を階級闘争の歴史と見ましたが、キリスト教では「神とサタンの闘争史」(黙示録)と考えました。そして原理では、歴史を善悪分立による「蕩減復帰歴史」と捉え、歴史には一定の法則(同時性)が支配しているとしています。蕩減復帰とは、歴史の失敗を代価を払って罪を清算し元返していくという意味です。歴史は人類始祖の堕落以来、摂理的人物の責任分担の失敗により、歴史は繰り返されてきたと説明しています。


トインビーは文明は誕生・成長・挫折・解体・消滅を繰り返すと述べましたが、何故歴史が繰り返すのかは説明出来ていません。何故歴史は繰り返すのか、神の救済摂理において、摂理的人物の「責任分担の失敗」に起因し、その失敗を償う内容が、時と方法と程度を異にしながら同様の内容の「同時性」として典型的に展開されてきたと原理は理解しています(講論後編第二章第二節)。


即ち、ユダヤ・キリスト教の歴史を分析、精査することによって、神の救済摂理の原則とパターン、即ち歴史の数理的法則を見出すことができ、神は歴史の中に自らを啓示されていることが分かります。創始者は「人類の歴史の背後に、一つの公式とパターンのあることを悟り、歴史の秘密の全てを解明してその法則と原理を見出したのです」(創立以前の内的教会史P593~P596)と語られています。


【特別啓示】


更に神は、「聖書」の中に自らを啓示され、また「信仰体験」の中で自らを啓示されます。いわゆる特別啓示です。


<聖書を通しての啓示>


聖書には神の摂理とその働きが示されています。そこには、神からの語りかけがあり、神の「霊の注ぎ」があり、奇跡を通し、預言者を通し、そしてキリストを通して、自らを特別に啓示されました。


聖書は、1600年もの長きに渡って、40人もの著者によって書かれましたが、そこには一貫して貫かれる「唯一神思想」と「メシア思想」があり、これは背後に真の著者である思想的核心、即ち神が存在していることを強く暗示しています。


このように、救済を伴う完全な啓示は、聖書とその中心人物たるキリストの中にあるというのです。


<神は信仰体験の中に自らを啓示される>


そうして神は、各人の信仰体験を通じて自らを啓示されます。信仰生活の中で私たちは、回心体験、即ち神体験をいたします。召命の神、本心の神、導きの神、恩寵の神、そして試練の中で会う神です。このように、神は信仰体験を通じて自らを啓示されるというのです。


ここで一人の著名人物、台湾元総統李登輝の信仰体験を紹介いたします。

2020年7月30日、李登輝元台湾総統が97才で逝去されました。李登輝は学者であり、政治家でありましたが、実は熱心なクリスチャンでありました。政治家李登輝については多く論評されていますが、キリスト者李登輝についてはあまり知られていません。


しかしその李登輝は、1961年38才の時、洗礼を受けて長老派のキリスト教に入信した熱心なクリスチャンであります。そして李登輝は生涯3回の神体験(回心体験)をしています。


第一回目は、入信初期のころ、1961年38才の時、洗礼を受けて長老派のキリスト教に入信した初期のころの信仰体験です。


李登輝はその頃、キリスト教のイエスに関わる2つの教えに懐疑的でした。彼は次のように述懐しています。


「かって私は、キリスト教に改心するにあたって非常に苦しんだことがあります。『何故マリアは処女にしてイエスを産んだか』『何故イエスが磔にされて、そして生き返ったのか』。どう考えても理性では説明がつかない不可能なことです」


「5年の間台北のあらゆる教会を回り歩き、これは何なのかと悩み続けました。その結果、これはもう理性的に考える必要はないのだ、と悟ったのです。そうなのだ、イエスは本当に磔にされて生き返ったのだと信じること、それが信仰なのです」(以上、著書「武士道解題」P132)


「イエスの聖霊による身籠り」「イエスの肉体を伴う復活」という、この2点だけは科学者李登輝の理性に照らして理解し難い難問でありました。そうして聖書を読み尽くし、台北中の教会を訪ね歩いた末、「もはや考えることはすまい、信じることにした」と述懐しました。遂に信じることを「決断した」というのです。


即ち李登輝は信じることの決断、「信仰告白」によって聖書的真理を認識するに至りました。使徒トマスに、イエスは「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ20.28~29)と言われましたが、李登輝は「見ないで信じる者になろう」と決断したというのです。


かくして「イエスの聖霊による身籠り」「イエスの肉体を伴う復活」という2つの難問は、李登輝において信仰的事実となりました。


李登輝の二回目の信仰体験は観音山(616m)での神秘体験です。台北郊外の聖なる山、観音山に妻と孫との3人で登った時のことでした。峻険な山道を登り頂上の切り立った岩の上に立った時、天啓を受けました。


心と体からなる自分の上に、より高次元の神的存在を体験し、そしてその存在との間にただ一人立つ自分、神と自分だけの神秘体験をしたというのです。李登輝は以後、誤解や非難など一切の横的な人間関係を気にしなくなったと言います。神と自分との縦的な、確かな関係が確立したからです。何か、神奈川県の大山での久保木修己元UC会長の神秘体験を彷彿とさせます。


第三回目の信仰体験で、李登輝はようやく「自我」から解放されました。李登輝を長く苦しめ、手こずってきた自我からの解放です。李登輝は、自分を拘束しているものが、他ならぬ自分自身であり、その「自分(自我)から解放されることが真の自由」であるという真理を悟りました。


それは「自分でない自分」を見出だすこと、即ち、自我が一度死んで復活した「新しい自分の発見」であります。次の聖句が李登輝の回心聖句になりました。


「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2.20)


自由とはなんでしょうか。自由とは自分を拘束しているものからの解放に他なりません。では自分を拘束しているものとは何でしょうか。即ち、それが罪であり自分自身であります。「罪と自分自身(自我)からの解放」、これが自由であり、救いであります。こうして神は各人の信仰体験の中に自らを啓示されるというのです。


以上、啓示について論及いたしました。次回は、神の霊感である「インスピレーション」、「黙示」、「役事」について、啓示との対比の中で論考いたします。(了)



上記絵画*啓示を伝えるサムエル(ジョン・シングルトン・コプリー画)

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