🔷聖書の知識184ーキリスト教神学についての考察⑥ー主題の論点(3)ーインスピレーション・啓示・黙示・役事について
神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう(使徒行伝2.17、ヨエル2.28)
前回は神学の主要な源泉である啓示について考察しました。今回は、これを踏まえ、神の霊感である「インスピレーション」、「黙示」、「役事」について啓示との関連を意識して論考いたします。
【霊感とは】
霊感(inspiration)とは、神が示す霊妙な感応のことで、神が乗り移ったようになる人間の超自然的な感覚、あるいは霊的なものを感じとる心の働きであり、霊感にはインスピレーション・啓示・黙示・役事などがあります。
聖職者や預言者、修行者などの宗教家が修行や悟りの結果として神仏からの霊感を得る場合、高橋信次や大川隆法、あるいはジャーマンなどのように、もともと生まれつき霊能者として霊感を得る資質を持っている場合、そして一般の人々が時に応じて感じとる霊感があります。
使徒行伝には「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」(使徒2.17)とあり、終末には霊的現象が頻繁に起こることが預言されています。
また、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたもの」(2テモテ3.16)とある通り、聖書は霊感の書と言われています。過ちを犯す人間が、神の真理を書き記し、伝達するにあたって、神は、霊感を聖書記者たちに与え、彼らが正確、また十分に啓示内容を書き記すことができるようにしたというのです。これが神の霊(聖霊)による霊感の働きであります。
聖書は、このように「霊感」の書、「啓示」の書、そして、「正典」の書であるので、初代教会以来、特に、宗教改革以後、特にプロテスタント諸教会では、「信仰と実践の唯一の規範」、すなわち「神のことば」として権威あるものと受けとめられてきました。このような聖書観に立つ教会・教派、クリスチャンを「福音主義」と言い、 また宗教だけでなく、芸術や音楽、そして科学も、霊感的なひらめきを受けて進歩してきました。
一方、20世紀初頭、これと異なる聖書観、即ち、理性や合理性を重視し、聖書を客観的に批評する批評学が生まれ、そして「自由主義神学」が生まれました。この自由主義神学は理性を重んじ、超自然的な概念を排除する立場の神学であります。
しかし、「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4.24)とある通り、聖書は神は霊であると言っています。そこで以下、神の霊の働きに関する霊感とも言うべき「インスピレーション、啓示、黙示、役事」について考えたいと思います。
【神霊と真理について】
先ず、インスピレーション、啓示、黙示、役事を理解するための前提となる「神霊と真理」について述べておきたいと思います。
UC創始者は神霊について、「神霊とは何ですか。一時的に配分された霊力や霊的作用をいうのではなく、真の愛を中心として霊界と人間世界が調和、共鳴を起こし得る『神様の愛の力』をいうのです」と言われました(『文鮮明先生御言選集』より)。つまり、神霊とは「神様の愛の力」であり、天と地、心と体が繋がる原動力であるというのです。
これは、サムソンやダビデに激しく注がれた神の霊でもあります(1サムエル14.19、16.13)。神の霊は、旧約、新約、成約を通して働く、いわば万有原力のような「神の人格的な愛の力の作用」です。これが神霊、即ち神の霊であります。
次に、真理とは何か、と言えば、創始者は「真理とは、『神様の愛のみ言』をいいます。神様の真理は、ある特定の摂理的な人物を通して『啓示として』地上に伝えられます」(御言選集)と語られています。
「主の言葉がわたしに臨んで言う、『わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした』」(エレミヤ1.4~5)とある通りです。
また原理講論には、「生心とは神が臨在される霊人体の中心部分(霊人体の心の部分)のことで、生心の要求するものが何であるかを教えてくれるのが真理であり、真理を通して生心が求めるものを知ることができるというのです。これが生心の起源です」(『講論』P86)とあります。
即ち、神霊が「神の愛の力」であるのに対して、真理は「神の愛のみ言」であり、神霊は祈りによって、真理は啓示によって与えられるというのです。そして神霊と真理の関係は、霊と肉の関係のように、神霊が主体であり真理は相対であります。そして神霊と真理は私たちの心霊と知能を啓発いたします。
人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、癒しや悪霊の分立などその肉身に多くの変化を起こすようになるといわれます。神霊、すなわち神の愛の力は生力要素(神からの養分)を肉身に与え、真理によって方向性を得ることによって、神の愛の力が正しく横溢するようになるわけです。平たく言えば、神霊はエネルギー、そして真理はその羅針盤と言うことができるでしょう。
そして創始者は、神霊を求める祈りとその重要性について、次のように語られました。
「『絶えず祈りなさい』(1テサロニケ5.17)という聖書のみ言があります。これはとても重要なみ言です。なぜかというと、サタンは、一日中、あらゆる方向から堕落した人間を誘惑し、苦しめるからです。一方で神様は、ただ一つの方向から、すなわち精神の垂直的な方向(神霊)からのみ、力を及ぼすことができるのです。ですから、絶えず祈祷しなければなりません」(御言選集)
以上を前提に、以下の項では、神霊と真理との交わりを通して、私たちの心霊と知能が啓発される時、インスピレーション(暗示)→啓示→黙示→役事というように、段階的に霊的恩寵が深まっていくことを見ていくことにいたします。
【霊性の啓発とインスピレーション・啓示・黙示・役事について】
前述の通り、私たちは霊性が啓発されていけば、神の霊感、即ちインスピレーション・啓示・黙示・役事の恩寵に与ることになります。そこで、これらの4つの恩寵について、その概念、関係性などについて考えることにいたします。
若きソロモンの夢枕(ルカ・ジョルダーノ画)
<インスピレーション>
天聖経第七篇「地上生活と霊界」によると、私たちは、心の門(心門)に合わせて心田(霊性)を啓発し、神霊と真理で礼拝していくと、先ず始めに「暗示・夢・幻・直感」などによってインスピレーションを与えられるといいます。
暗示や夢のお告げ、啓示、黙示などがあるのは、天と関係を結ぶために広がる、開拓的で発展的な現象であり、暗示的なこと、即ちある人が語った言葉に、偶然何かを悟ることもあるというのです(天聖経P777)。
筆者は、世俗的傾向が強い人種でありますが、昔から直感力だけは長けていたように思います。この人はこうなるな、あの人はああなるな、といったことが直感で分かり、そしてその如くになっていきました。生長の家の谷口雅春総裁は、著書『古事記と日本国の世界的使命』の中で、「日本人はたいへん勝れた直覚的認識を持っていた国民である」(P7)と指摘し、しち難しい哲学はなくとも、何が正しく、何がおかしいかを直感で知る能力があったというのです。これがインスピレーションであります。
<啓示>
暗示の段階を経れば、夢の啓示のようなことを体験することがあり、パウロも夢うつつの中で三層の天を体験しました。パウロは霊界の三層の天の世界を見て体験したことが(2コリント12.2)、14年間、たゆまず宣教活動をすることができた原動力となったというのです(天聖経P774)。
この段階が「啓示」です。啓示については前回詳しく見できましたので、ここでは簡単におさらいいたします。
啓示(revelation)とは、人間の理性を越えたもので神により開示され、天啓または神示ともいわれています。宗教の教祖はそれぞれ啓示を受けました。即ち、啓示は神の言葉に他ならず、神学の源泉となるもので、信仰によって受け取られるものであります。啓示によって真理が開示され、それによって信仰が成立する宗教を、「啓示宗教」と呼び、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は典型的な啓示宗教、啓典の民であります。
聖書は一貫して、「神はモーセに言われた、わたしは主である」(出エジプト6.2)、「その時、主の言葉がサムエルに臨んだ」(1サムエ15.10)、「主はわたしに言われた」(イザヤ8.1)の如く、神からの言葉(啓示)で始まっています。先ず「神の言葉ありき」です。
キリスト教は自らを「啓示宗教」(revealed religion)とし、神自身がその行為と言葉において聖書を通じて自身を啓示されているとし、人間は神について聖書を通して認識することができるというのです。
<黙示>
そうして、啓示の段階を過ぎれば、次は黙示の段階に入ります。黙示によって、四六時中霊界の中に入り、神の生活感情に触れるという体恤的信仰を体験するというのです(天聖経P778)。
暗黙のうちに意思を表示す宗教における「黙示」は、おもに「神が特別な力で真理や神意を人に示すこと、神が選ばれた預言者に与えたとされる秘密の暴露」を意味し、「アポカリプス」と呼ばれます。ユダヤ教やキリスト教では、神が特別の方法により、通常の才能や知識では測り知ることのできない「隠された真理を開示すること」 であると言われています。
隠された秘密の啓示は、幻あるいは夢によって与えられることが多く、例えば『ダニエル書』の中に見られるように、ダニエルは夢や幻を見(ダニエル7.1)、三週間の断食の後にチグリス川のほとりに立っていると、天の使い(天使)が彼に顕れ、そのあとに啓示が続きました(ダニエル書 10.2~6)。ヨハネもまた『ヨハネの黙示録』のなかで、似たような経験をしています(黙示録1.1~2)。
神が選ばれた預言者に与えたとする「秘密の暴露」、またそれを記録した書を「黙示文学」といい、黙示文学はユダヤ教・キリスト教・イスラム教の伝統において極めて重要な位置を占めました。ユダヤで第2エルサレム神殿が再建されてから(紀元前539年)、 ローマに神殿が破壊されるまで(紀元後70年)が、文学ジャンルとしての黙示文学の盛期であり、後期の黙示文学は多く聖書の解釈と結びついています。ヨハネ黙示録はその典型で、黙示録以外の聖書の黙示文学の例は、ダニエル7章~12章、イザヤ24章~27章、エゼキエル37章~41章、ザカリヤ9章~12章が挙げられています。
黙示文学では、天地創造以来、終末に至るまでの時代区分、善と悪、光と闇の終末における闘い、メシアによる悪の時代の終焉、死者の復活、最後の審判、天国と地獄などの教義が書かれています。一般的には「黙示」という言葉は、終末、または終末に起こるできごとを指す言葉として使われ、キリストの再臨やハルマゲドンの戦いのような終末のできごとが黙示と呼ばれることもあります。
では黙示文学は何故このような象徴とイメージとで書かれたのでしょうか。黙示文学が書かれたのは、はっきりと普通のことばでメッセージを語るよりも、イメージと象徴とで神の計画を伝えたほうがより安全である時代だったとも言われ、またこのような象徴を使った目的は、混乱を引き起こすためではなく、困難な時代にあって神に従う人々を指導し励ますためでした。
<役事>
次に役事があり、霊的な力が電気作用のように入ってきて、啓示、黙示の具体化として、癒しや再臨復活などの役事が始まります(天聖経P778)。病気の癒しや悪霊の追い出しもその一例であります。
イエス様は、肉身の死後、3日目に霊的な自由の体(復活の体)で復活されました。そして霊界にいき「墓で眠っていた」先祖は、子孫に協助して自分たちがやり残したものを代理でやってもらうという「再臨復活現象」 の役事が起こってきます。洗礼ヨハネに再臨復活したと言われるエリアなどはその典型であります。この霊人の再臨現象は往々にして輪廻転生に見えることがありますが、各個体は自己同一性を保っており、輪廻ではありません。
また、再臨期における死人の復活は、伝統的キリスト教が信じるような肉体を伴うものではなく、イエスがそうであったように、あくまでも霊人のより高い霊への復活、即ち、霊形体から生命体へ、生命体から生霊体への復活であります。そして創始者は、善の天使世界が降りてきて、悪の天使圏の悪霊たちを全て追放すると言われました。悪神の業から善神の業への転換です。
以上、神霊と真理の概念、そしてインスピレーション、啓示、黙示、役事について見てきました。こうして、インスピレーション→啓示→黙示→役事という流れの中で、あるいは同時並行的に、私たちの心霊的背景は順次高められていくことになります。
(了)
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