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キリスト教神学についての考察③ 神学への動機について

🔷聖書の知識181ーキリスト教神学についての考察③ー神学への動機について


神は人間の心に神を知ろうとする欲求を植え付けられた。人間の心の遥かな深みには、神を求める欲求と神への郷愁の種が宿っている(教皇ヨハネ・パウロ2世)


前回、神学書の構造や内容や分野について述べましたが、では、私たちは何故神学を学ぶのでしょうか、その動機は何でしょうか。その答えの一つとして、筆者の神学への動機について参考に述べることにいたします。


【キリスト教神学へのアフェクション(熱情)】


前々回、神学とは「福音と信仰の厳密な理解」であり、自分の信仰を理解しようと試みたキリスト者こそ、それと知らずに神学した人であると述べました。アウグスチヌスが、「自分が信じた信仰を、知性の目で覗いてみたくなった」と語っている通りです。


言い換えれば、神とは如何なる存在か、罪とは何か、そして救いとは何であり、救いの中心に立つキリストとは誰か、を体系的に明らかにすることであります。更に神学の今一つの性格は、「護教」、即ち異端を分別する弁証学という役割があります。そして神学を証すことができるのは「信仰を持った理性」であり、正に原理講論こそ究極の神学書と言えるでしょう。


さて筆者は、還暦を過ぎた頃、キリスト教神学に強い欲求を抱くようになりましたが、今回は筆者の神学への3つの動機、即ち、本心の欲求、知的探求心、そして実益について述べたいと思います。


<本心から呼びかけと原体験>


還暦を過ぎた頃、キリスト教神学に強いアフェクション(熱情)を抱くようになり、神学校に入り直して学びたいという欲求が湧いて参りました。その遠因はナチスの強制収容所があったポーランドのアウシュビッツでのユダヤ人との出会いです。


筆者は宣教のためにポーランドを13回訪れましたが、何と言ってもアウシュビッツです。その凄まじいユダヤ人迫害の爪痕を見て衝撃を受け、以来「ユダヤ人とは何か」「何故これほどまでに憎まれたのか」「ユダヤ人の神、ヤハウェとは何か」について強い関心を持ってきました。その延長が旧約聖書の研究です。


そして、「人間の心の遥かな深みには、神を求める欲求と神への郷愁の種が宿っている」とはポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉ですが、先ず、本心に内在する神を求める欲求、即ち神をより明確に知りたいという欲求が筆者を神学に向かわせました。原体験と本心の欲求、これが第一の動機です。


教皇ヨハネ・パウロ2世(ポーランド出身)   アリゾナ州セドナ山頂(聖十字教会)


<知的探求心、知的好奇心>


神学への第二の動機はセドナ信仰告白です。2011年7月27日、65歳の夏、宣教地のラスベガスを訪れた際、アリゾナ州セドナの山頂にある「The Chapel of the Holy Cross」(聖十字架教会)を訪れる機会がありました。筆者はその礼拝堂で、「原理が聖書の奥義を解明した究極的な宗教真理であること、イエス・キリスト、及びUC創始者が無原罪のキリストであること」を改めて信じ受け入れるという信仰告白をいたしました。先ず信仰告白ありきです。


そしてその後、この信仰告白が正しかったことを明確に実証することが最大の課題になり、このためには諸宗教の研究、特にキリスト教神学に精通することが至上命題になりました。何故なら、キリスト教神学が原理神学の土台になっているからであります。


こうして筆者にとって、神学とはセドナ信仰告白が正しかったことを証明することに他ならず、それはまた、自らの信仰を明確化、厳密化するプロセスでもあります。これが大きな「探求的動機」であります。


そして、それに加えて「知的好奇心」です。神学は学問の中の学問と言われ、「諸学は神学の侍女」とも言われています。あまたある学問の中で、神学を専門にできるのは稀有な存在であり、その意味で神学の賜物を与えられた者は選ばれし人々と言えるでしょう。


そう言えばオックスフォードもケンブリッジもハーバードも、西欧の著名な大学は皆、神学部から出発しました。法学も哲学も神学の侍女だったのです。「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める」(1コリント1.22)とありますが、正に神学とは信仰の厳密な理解であります。


「信仰体験は神学を伴う」というルターの言葉があります。ルターの個人的な信仰体験がプロテスタントの普遍的な教義にまで高められたように、個的信仰が公的教会によって承認されるとき、一つの教義となり得るのです。ここに神学の教会的性格があります。筆者は、教義とまでは遥かに及ばないとしても、自らの個的信仰を加味して『異邦人の体験的神学思想』としてまとめ、この度出版する運びになったものです。


このように、神学の研究ほど人間の知的好奇心を掻き立てる学問は他になく、生涯をかけるに足る研究のテーマであります。


<神学の実益>


第三の動機として、神学の実益、即ち、現実を動かす力について記しておきます。


筆者が神学へ目覚めた現実的な契機は、「世界情勢を理解するためには神学知識が不可欠」であること、即ち「神学が現実世界を動かす力」であることを知ったことであります。佐藤優著『自壊する帝国』を読んで、それはより具体的になりました。


ロシア大使館の三等書記官に過ぎなかった作家の佐藤優氏は、大物政治家にもできない太いロシア人脈を築きましたが、それには神学の力が大きかったことを告白しています。 特にキリスト教世界では、神学を共有することが、人間関係を深める際の力になるというのです。


また佐藤氏は「大きな変動が起きると、国際政治や国際法の知識より、教会史や組織神学の知識が役に立つ」と指摘しました。現下のウクライナ戦争の根本的背景には、ロシア正教と西洋キリスト教との相克があると言われていますが、生き馬の目を抜く国際政治の本質を理解するためには、「キリスト教神学の視点が不可欠である」ということであります。そしてこの認識こそ神学への現実的契機であります。


先進国サミットに参加する7ヵ国は、日本を除いて全てがキリスト教国家です。そしてその首脳たちは皆篤実なキリスト教徒であり、多かれ少なかれ神学の徒でもあります。神学を共有することは人と人の信頼をつなぐ太いパイプです。政策の奥にある神学の共有によって、人は相手を真に信頼するというのです。キリスト教というベースがない日本の首脳はサミットの中で取り残され、一人ぼっちになることが多いと言われています。


ちなみに佐藤氏は同志社大学神学部に在籍中、原理を研究した形跡があります。また有罪判決を受けて長期の拘留生活を余儀なくされましたが、拘留からの解放直後、自宅の押入から最初に原理講論を取り出して読み、「目から鱗だった」と筆者の知人にその感動を告白しています。そういえば先般亡く亡くなった幸福の科学の大川隆法総裁も、東大在学中に中川隆という名前でUCのアメリカセミナーに参加し、原理講義を聞いたといわれています。


「原理を知ること自体が、啓示や高い良心基準の役割を果たしているのです」(『御旨と世界』P594)とありますように、彼らは高い原理の霊性から、陰に陽に影響を受けたことは確かだと思われます。その意味では、原理の研究こそ最大の神学と言えるでしょう。


以上、神学への動機について、筆者の体験から述べさせて頂きました。人はそれぞれ個性真理体であり、それぞれの立ち位置も異なると思いますので、各人の動機と必要に基づいて、神学の研究、原理の研究に取り組まれますよう祈念いたします。(了)

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