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キリスト教神学についての考察⑧ 近現代神学の歴史と思想(3) 自由主義神学について



聖書には、重大な内容が比喩と象徴で描写されているのです。比喩と象徴は天からくるメシアによってのみ明確にされます。聖書は神の創造理想、堕落、復帰の道が隠された秘密の啓示書です。私が明らかにした原理は、各種の経書で疑問視されていることに対するすべての答えが、明快に表されています(平和経 神様のみ旨から見た環太平洋時代の史観1P1590)


さて聖書観には大きく、a.聖書は誤りなき神の言葉であるとする福音主義の立場の「根本主義的聖書観」(十全言語霊感説)、b.聖書全体を必ずしも神の言葉とは見做さず、人間の理性や歴史的実証性を重視する神学的立場の「自由主義的聖書観」(自由主義神学)、c.カール・バルトら弁証法神学者の新伝統主義の立場の「新正統主義的聖書観」(断続的神言化説)の3つがあります。


前回、プロテスタント正統主義神学の聖書主義に、鋭く問題提起した聖書批評学について解説しました。これを踏まえ、聖書批評学に影響されつつも、なおキリスト教信仰の新しい在り方を示さんとした「自由主義神学」について論考したいと思います。


【自由主義神学とは】


自由主義神学はリベラル神学とも言われ、キリスト教のプロテスタントの神学的立場の一つで、19世紀半ばのドイツで生まれ、近代主義神学と同義的に用いられる場合があります。


一般的に、ルネサンス・ヒューマニズムや、18世紀の人間性や理性と合理性を重視する啓蒙主義思想の影響のもとに,伝統的教理や信条、聖書や教会の権威の束縛からの自由(解放)を旨とする神学であり、従って、高等批評(上層批評)と呼ばれる聖書の歴史的・批評的研究を受け入れています。


そもそも自由主義神学は、伝統的なキリスト教信仰と聖書批評学などの最新の知識との間の「橋渡し」を意識して生まれたものであり、キリスト教信仰を同時代の新しい知識と文化に適合するようなかたちで言い換えようとしたものです。(アリスター・マクグラス『キリスト教思想史入門』(キリスト新聞社P303~304)


即ち、原罪理解やイエスの神性理解など伝統的な聖書解釈や信仰が、最新の知識の発達で合理性を欠くとして疑義を呈される場合、それらを「再解釈」して、最新の知識と調和させなければならないという要請があるというのです。


<自由主義神学の特質>


自由主義神学の特質としては、a .聖書の聖書無謬説や逐語霊感説を採用せず、聖書批評(高等批評)を受け入れる、b .科学的な見方(進化論等)を許容し、聖書に記されている神話的要素(天地創造、ノアの箱舟、バベルの塔、ヨシュア記等)を必ずしも科学的・歴史的事実とは主張せず、宗教的に意味のある寓話と見る傾向、c.キリストの神性を強調せず、道徳的模範者としてのキリストを強調する、d.人間の自由や自律性を重んじ、楽観的歴史観を持つ、e.考古学、史学の成果も最大限活用して、そこから現代の課題に合わせたキリスト教信仰を再構築しようとする、と言ったものがあります。


但し、これらの特質は、福音主義神学とは対極にあり、自由主義(リベラル)と福音主義の見解の対立は、19世紀から、21世紀初頭の今日に至るまで継続しています。


さて前述しましたように、本来19世紀の自由主義神学は、科学や聖書学の成果を謙虚に受け入れる立場を取りつつ、同時に伝統的信仰を両立させようとし、啓蒙主義や聖書批評の克服という自覚のもとに起りました。しかし、伝統的なキリスト教の教理や信条に対する疑義、批判、不寛容が含まれるようになり、世俗的問題意識に無批判に振り回されたり、同時代の思想や文化への迎合が見られることが指摘されるようになりました。


そして自由主義神学の倫理性や人間の能力についての強い楽天主義、文明の進歩に対する楽観主義は、ヨーロッパに大惨禍をもたらした第一次世界大戦によって打ち砕かれ、自由主義神学に対するそれまでの楽観も翳りが生じることになりました。


<自由主義神学者・グループ>


自由主義神学に立つ主な神学者としては、近代自由主義神学の父と呼ばれる「シュライエルマッハー」がリベラルの「始祖」にあたるとされ、「アルブレヒト・リッチュル」と「アドルフ・ハルナック」が代表的な神学者として挙げられます。


左*シュライエルマッハー 中*アルブレヒト・リッチュル 右*アドルフ・ハルナック


またマクグラスは、「自由主義(リベラル)という言葉は、シュライエルマッハーとティリッヒとの伝統に属する神学者で、同時代の文化への応答によって信仰を再構築することに関心を寄せている者」と一応定義しています(マクグラス『キリスト教思想史入門』P305)。


19世紀・20世紀の自由主義神学に大きな影響を与えたのは,ドイツ観念論哲学を開花させた哲学者たち、特に、カント(1724~1804年)、ヘーゲル(1770~1831年)、シュライアマハー(1768~1834年)の3人であり、これらの思想家のいずれかの影響を深く受けていると言われています。


自由主義神学に立つ教派・グループとしては、日本基督教団内の一部、ルーテル教会各教派などのプロテスタント各主流派(メインライン・プロテスタント)がこうした立場を受け入れ、リベラル派、エキュメニカル派と呼ばれることもあり、プロテスタント教会の主流エキュメニカル派の多くが採用しています。


日本では、同志社大学第二代総長であり日本組合基督教会の「小崎弘道」は高等批評を擁護し、逐語霊感説を否定しました。また今世紀初頭に見られた,海老名弾正と植村正久の論争(福音主義論争)は、キリスト論を巡る論争であり,海老名は自由主義の立場に立ち,植村は正統主義の立場に立ちました。植村によれば,海老名はキリストを師表と仰ぐのみであって、贖罪の事実を認めていないと指摘し、従って、キリストは神か人か、信仰の対象か信仰の模範か、を巡る論争であるといいます。しかし一方では、植村正久の聖書観もリベラルの影響を受けており、言語霊感を逐語霊示と呼び、「文字崇拝の聖書崇尊説」としてこれを否定しています。


そして自由主義神学者は、キリスト教教義の批判的研究である「教義史」を確立しました。教義史の創始者である「ヨハン・イェルーザレム」は、イエスの両性説や三位一体説を聖書に根拠がないとして退け、ハルナックは、キリスト論、受肉の教理はヘレニズム由来だと批判しました。エホバの証人やユニテリアンなどもイエスの両性説を採用していません。


【自由主義神学への批判】


しかし福音派やカトリック教会においては、自由主義神学の限界が認識されています。19世紀の自由主義・合理主義の流れに対して、伝統主義者達が反発して「正統派」「福音主義」と呼ばれる流れが生じ、それ以降激しい抗争が行われるようになり、危機感を募らせた福音主義者は、英国やアメリカでキリスト教根本主義(ファンダメンタリズム)を興しました。


福音派は自由主義神学の聖書観を否定し、またカトリックでは、聖書よりも教会の権威を上位に置き、曖昧な聖書の箇所を教会が明らかにしなければならないとの立場をとっています。


教皇ベネディクト16世は、「自由主義神学は、神の国を個人主義的に解釈しようとするものであり、一面的で根拠のないものである」としました。なお、東方教会(正教会・東方諸教会)ではそもそも神学・歴史の前提が西方教会と異なっており、「自由主義神学」とか「反自由主義神学」といった論争の軸が存在しません。


また後述するように、自由主義神学の「行き過ぎ」に対して「危機神学」「弁証法神学」と称される新潮流を興したカール・バルト、エミール・ブルンナー、ラインホルド・ニーバー、ヘルムート・リチャード・ニーバー、パウル・ティリッヒ、ルドルフ・ブルトマンなどのいわゆる新正統主義の神学者らの弁証法的な批判があります。


以上、自由主義神学の起源や特徴、批判などを見てきました。自由主義神学は正統主義神学に問題提起し、伝統的な聖書や信仰に一定の合理性を要求しましたが、宗教と科学の統一を掲げるUCの神学と、一部軌を一にしていると言えなくもありません。正しい聖書観を確立していく上で、重要な問題提起をした点は評価したいと思います。(了)

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