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キリスト教神学についての考察⑨ 近現代神学の歴史と思想(4) 新正統主義神学について

🔷聖書の知識188ーキリスト教神学についての考察⑨ー近現代神学の歴史と思想(4)ー新正統主義神学について


そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た(ヨハネ1.14)


前回論考した自由主義神学は、時代の要請に呑まれて社会の中に埋没し、福音の真理を見失うおそれがあり、その「行き過ぎ」に対して「危機神学」「弁証法神学」とも称される新潮流を興したのが、カール・バルト、パウル・ティリッヒ、ルドルフ・ブルトマンなどの「新正統主義」の神学者らであります。


【新正統主義神学とはーバルトの思想】


一般的に近代プロテスタント神学では、ルターやカルバン、そしてその神学の継承者の主張を中心とした流れが「正統主義」とされていますが、18世紀に入り聖書内の矛盾を追求する聖書批評学の台頭により道を阻まれることになりました。19世紀に入りこのような聖書の矛盾を克服する道として、聖書を神の言葉としつつも聖書批評学を受け入れる立場の「自由主義神学」が興りました。


<新正統神学者の神学>


そのような状況下、20世紀に入り、今日に至るキリスト教復興の道を拓いたのがカール・バルト(1886~1968)やパウル・ティリッヒ(1886~1965)に代表される「新正統主義」(Neo-orthodoxy)と呼ばれる神学の流れであります。


カール・バルト(1886~1968)     パウル・テェリッヒ(1886~1965)


新正統主義神学とは、自由主義神学により切り捨てられた啓示や、福音主義などの正統主義神学が持っていた神学的概念を、実存主義的観点から見直すものであります。つまり、バルトらの神学は、福音の真理を堅持しながら、20世紀の学問的成果を自己の中に取り入れた神学であります。


バルトらの新正統主義は、自由主義神学を批判して、神の超越性、人間の罪性、神の恩寵を強調すると共に、宗教改革の思想(正統主義)を新しい次元で捉え直そうとする20世紀の有力な神学の流れで、「弁証法神学」とも呼ばれています。バルトは、当時の哲学や自由主義神学などに見られる理性に絶対的信頼を置く思潮に対し疑義を呈し、神は歴史の中で「キリストの受肉」によって自己を啓示されたとしました。「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネ1.14)とある通りです。


この新正統主義の源流は、ニーチェと共に実存主義の祖とされる「セーレン・キェルケゴール」であると言われています。バルトは、当時の哲学や自由主義神学などに見られる理性に絶対の信頼を置く思潮を批判し、神は歴史の中で自己を啓示するときにのみ人に知られるとし、そこにおいては理性より啓示が優先され、啓示との実存的出会いが強調されています(W・E・ホーダーン『現代キリスト教神学入門』P147)。


<バルトの聖書観と神学>


バルトの聖書観は、聖書は神の言葉(啓示)を証しするものであるが、聖書自体を啓示の書とせず、「啓示についての人間による証言の書」としています。従って、言語霊感説の立場には立たず、「聖書の中から神の言葉を見つけ出すこと」が人間の役割であり、そのために「神との出会い」を強調します。


即ち聖書それ自体は、神の言葉と直ちに同一ではないとし、人間が書いた有限な聖書が、それ自身を越える大いなる何か(神)を指し示す証言になることが決定的に重要とし、神の言葉に「成る」のだと考えます。つまり、聖書の主人公である神が聖書を通して語りかける時、聖書ははじめて神の言葉へと生成するというのです。(福嶋揚著『カール・バルト未来学としての神学』日本キリスト教団出版局P67)


そしてバルトは、神はイエス・キリストにおいてご自身を啓示されたという「キリストの出来事」をあらゆる神学的思考の出発点とする啓示神学の確立を目指しました。そしてバルトにおいてキリストの受肉、十字架の死、復活、再臨が根源的なキリストの出来事であると言います。


即ち、聖書を通しての啓示(神の言葉)そのもの、つまりその実体である「キリストに出会う」ことにより、また「聖書の言葉と実存的に関わる」とき、その言葉はその人にとって神の言葉(啓示)となるとしました。人間が聖書について語るのではなく、聖書が人間に語りかけることこそが重要であると言うのです。


ここに啓示と聖書の「直接的同一性」を主張する福音派と、啓示と聖書の「間接的同一性」を主張するバルトとの見解の相違があります。バルトは「聖書において根源的に大切なのは、歴史的記録ではなく、最高最上の「神の言葉の証言」だと主張し、聖書の性格を何よりも「証言の書」とみなしました。


バルトは自由主義神学は神の言葉を人間学に引き下げていると批判しましたが、聖書についての高等批判は受け入れました。前述しましたように、バルトは聖書の文字そのものが神の言葉ではなく、聖書は神の証や啓示の伝達方法であり、「神との出会いの契機において、神のことばと見なされる」としました。この点こそ福音派との最大の違いであり、バルトの神学が新福音的神学と言われている所以であります。


神が聖書の言葉を使って誰かをキリストに向けさせる時だけ、聖書は神の言葉になるというこのバルトの洞察は、示唆に富む見方です。これは、「聖書は真理そのものではなく、真理を教える(過渡的な)教科書である」とする原理観とほぼ一致しています。但し、正統主義からは、何が神の言葉であるのかについての意見の一致が難しいと批判されています。                     


更にバルトは、前記の通り、自由主義神学に欠陥があるとして批判しましたが、一方、リベラル派が主張している「高等批評」は受け入れました。 新正統主義の神学者ブルンナーは、文字通り信じる福音派の聖書観を「紙の教皇」(Paper Pope)と呼んで否定しています。また伝統教会からも「文字崇拝に陥っている」と批判されています。聖書を神の言葉として貴重視するのは是としても、一字一句、文字通り信じる信仰では、科学を重視する現代人を納得させることは出来ません。福音派はこの要請に答え、自らの聖書観を克服しなければなりません。そして、その克服の彼方に「新しい福音主義」の姿が見えてくるはずです。


バルトの神学は弁証法神学と言われますが、弁証法とは、先ずテーゼ(命題)があり、そのテーゼに対するアンチテーゼ(反対命題)があり、それをジンテーゼ(統合)として止揚する神学です。正統神学というテーゼがあり、自由主義神学というアンチテーゼがあって、それを新正統神学として総合し、双方を両立させるという試みをしました。バルトの神学が、常に改革する神学と云われる所以です。


以上、新正統神学について論考しました。次回は、新正統神学の元祖と言われている「カール・バルト」(1886~1968)について、その生涯と業績について解説いたします。(了)

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