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キリスト教神学についての考察⑫ 近現代神学の歴史と思想(7) 黒人解放神学とは

🔷聖書の知識191ーキリスト教神学についての考察⑫ー近現代神学の歴史と思想(7)ー黒人解放神学とは


もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。(ガラテヤ3.28)


前回、「解放神学」について解説しましたが、今回は、広い意味では解放神学の範疇に入る「黒人解放神学」について論じることにいたします。


【黒人解放神学について】


黒人解放神学は、非白人をさまざまな形の社会的、政治的、経済的、宗教的抑圧から解放することを目指しています。即ち、黒人(解放)神学とは、アフリカ人、特にアフリカ系アメリカ人の社会的、政治的、経済的、宗教的な面での、「抑圧からの解放」に重点をおいたもので、キリスト教神学を解放の神学とみなしています。ラテンアメリカの解放神学とは 「抑圧からの解放」という点において同じ脈絡にあると言えるでしょう。


本来、黒人解放神学の目的は「黒人のキリスト教信仰を本物にする」というものでしたが、黒人は歴史的に不当な扱いを受けてきたことから、現実の社会的抑圧と差別からの解放に力点がおかれました。


<奴隷を正当化する聖書的根拠>


16世紀から19世紀の400年、アフリカの黒人は労働力の供給源として、主に西アフリカから劣悪な奴隷船で奴隷としてアメリカ大陸に運ばれました。(1000万人以上)


白人キリスト者は、奴隷に関する次のレビ記の聖書箇所などを引用しながら奴隷売買や強制使役を正当化しました。


「あなたがもつ奴隷は男女ともにあなたの周囲の異邦人のうちから買わなければならない。すなわち、彼らのうちから男女の奴隷を買うべきである。また、あなたがたのうちに宿っている旅びとの子供のうちからも買うことができる。また彼らのうちあなたがたの国で生れて、あなたがたと共におる人々の家族からも買うことができる。そして彼らはあなたがたの所有となるであろう。あなたがたは彼らを獲て、あなたがたの後の子孫に所有として継がせることができる。すなわち、彼らは長くあなたがたの奴隷となるであろう。しかし、あなたがたの兄弟であるイスラエルの人々をあなたがたは互にきびしく使ってはならない」(レビ記25.44~46)


宗教は本来、人間を罪から解放して魂の救いを目指すものですが、一方では「キリスト教は白人支配者の宗教」として人々を抑圧するものにもなるという、両義性を持つアンビラレント(相反する感情が同時に存在するさま)なところがあるというのです。イスラム教の黒人至上主義を標榜する「ネーション・オブ・イスラム」は、キリスト教は白人支配者の宗教だと決めつけました。


ともあれ、自己の主張を正当化するため、聖書箇所を恣意的、選択的に使うのは自制すべきことであることは確かです。


<奴隷制度を否定する聖書的根拠>


一方、奴隷制度を否定する改革派の人々や黒人解放神学者は、以下の聖書的根拠を以て理論付けました。


第一に、黒人キリスト者が大変好む聖書箇所は「出エジプト記」であります。黒人は、自らの境遇をエジプトで奴隷の生活を余儀なくされたイスラエル人と重ね合わせ、奴隷から解放され約束の地へと脱出するイスラエルを自らの運命にダブらせました。出エジプト記は正に「奴隷解放の書」であるというのです。黒人霊歌では、出エジプト記がテーマになっている歌は少くありません。


また、次のルカ4章18節~19節は、囚われた者の解放を語っています。


「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」


更にガラテヤ書3章28節では、全ての人々のキリストの下にある平等を宣言しており、奴隷制否定の重要な根拠聖句です。


「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」


そして何よりも、人々に捨てられ、屈辱を受け、そして十字架にかけられたイエスは、黒人の運命と重なり大変共感できるものでした。韓国でキリスト教が広がり、今や国民の三人に一人はキリスト教徒であると言われますが、韓国人は自らの受難の歴史 をイスラエルになぞらえ、イエス・キリストに重ねたというのです。


<黒人神学の形成>


1969年、黒人は白人の神学的抑圧から解放されるべきと主張する牧師らは、デトロイトで開かれた「共同体形成のための緒宗教基金」の声明の中に、「黒人神学は黒人解放の神学である。この神学は黒人の状況を、イエス・キリストにおける神の啓示という視点から探る。黒人神学は『黒いこと』の神学である。これは黒人の肯定であり、黒人を白人から解放し、そのようにして白人と黒人の両者に真正の自由を与える」(マクグラス著『キリスト教思想史入門』キリスト新聞社P321)とあります。


またジェイムズ・H・コーンは『黒人解放の神学』を著わし、抑圧されたコミュニティの解放の力を「イエス・キリストである福音の本質に結びつける」とし、「解放のための黒人の戦いに関心を寄せる神」がテーマになっています。


コーン氏は、マーティン・ルーサー・キングの公民権運動やマルコム Xなどのブラック パワー運動の影響を強く受けました。「出エジプト記、預言者、イエス、この三人が黒人神学における解放の意味を定義した」と述べ、「私には自己嫌悪の黒人キリスト教徒を、黒人を愛する黒人キリストに変える使命があった」と言っています。正に黒人としての誇りの復権です。


マーティン・ルーサー・キング  中央・マルコム・X  右・ジェイムズ・H・コーン   


筆者もWCLC一周年記念集会を視聴しながら、黒人こそ、奴隷という過酷な生活の中で、償いを終え、蕩減が晴れた「現代の選民」であるとの強い印象を持ったことがあります。絶叫の歌と踊り、全身体を使っての躍動の中で、激しく神に祈り、時には霊通して苦しみを昇華していく姿は、正に神に召された群れであるとの感がいたします。


【黒人解放神学への批判】


しかし、黒人解放神学を批判する人々は、黒人解放神学の誤った点はその「焦点」にあると指摘しました。即ち、キリスト教の焦点を永遠の救いではなく、目の前の社会的な不当からの解放に置こうとしたことであるというのです。


既に 聖書は、「奴隷も自由人もない」(ガラテヤ3.28)と述べており、社会的不当からの解放は福音の中心ではなく、キリストの贖罪により罪から解放され新生して救いを得ることこそ本質であるというのです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(2コリント5.17)とある通りです。


また黒人解放神学は人種問題に重点を置きすぎていて、その結果、かえって人種が違うキリスト者を、特に白人と黒人を区別して隔離してしまう傾向があり、それは聖書の教えとは正反対だという批判があります。キリストが地上に来られたのは信じる者達全てを御自分の体としてひとつにするためであり(エペソ1.22~23)、キリストの体のそれぞれの部分であるキリスト者はみな、生い立ち、人種、国籍が違ってもキリスト者として一つであるというのです。

しかし、キングらの公民権運動・人種差別撤廃運動や黒人解放神学は、黒人差別という明らかな悪徳にメスを入れて聖書的平等を回復することに貢献したことは確かです。黒人解放神学が共産主義の温床になることなく、あくまでも聖書の再解釈という次元に留まったことは幸いであります。


更に特筆すべきは、黒人解放神学によって黒人としての聖書的アイデンティティーを確立したことです。ユダヤ人はユダヤ人であること、被差別民は被差別民であることの出自を秘匿する傾向があると聞きますが、黒人は自らが黒人であることを隠すことはできません。むしろ黒人神学は、黒人であることのマイナスイメージや卑屈さを解放し、堂々と黒人であることの矜持を主張する機会を与えたと言えるのではないかと思われます。(了)

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