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レビ記 注解 贖罪思想、聖別思想

🔷聖書の知識78-レビ記注解--贖罪思想、聖別思想


肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。(レビ記17.11)


レビ記は、聖い神との交わりを維持する方法を教え、「幕屋」と「祭儀」を正しく運用するための祭司のマニュアルであります。またレビ記には、「贖罪思想」と「聖別思想」が中心思想として色濃く表れています。


【レビ記の構造】


1章から16章が、儀式の方法や清浄と不浄の規定など「祭司のための規定集」からなり、17章から27章が神聖法集と呼ばれ、「すべての民に向けた規定集」です。レビ記の規定はユダヤ教における律法の核となりました。


<祭司の規定>


「献げ物」に関する規定(1章~7章)

「祭司の聖別」などの規定(8章~10章)

「清浄と不浄」に関する規定(11章~15章)

「贖罪日」の規定(16章)


<神聖法集>


「献げ物と動物の血」の扱いの規定(17章)

「厭うべき性関係」に関する規定(18章)

「聖なる者」となるための規定(19章)

「死刑」に関する規定(20章)

「祭司の汚れ」に関する規定(21章)

「献げ物」に関する規定(22章)

「主の祝祭日」に関する規定(23章)

「幕屋」に関する規定(24章1-9節)

「神への冒涜」に関する規定(24章10-23節)

「安息年とヨベルの年」に関する規定(25章)

「偶像崇拝と祝福と呪い」の規定(26章)

「誓い」と関係する献げ物の規定(27章)


古代、ユダヤ教では『レビ記』の内容は、神がシナイ山でモーセに語られたことであるとみなし、律法の源泉として尊重してきました。キリスト教ではモーセ五書の思想は引き継がれましたが、ユダヤ教の儀式は終わりました。『レビ記』を「イエス・キリストの祭司職の予型」として新たに解釈しなおした上で受け入れ、このような『レビ記』解釈は『ヘブライ人への手紙』などに見ることができます。


『レビ記』は祭司資料(P資料)に由来するもので、古代からの規定をまとめていった過程で成立したものであると言われています。



【罪の贖いのための献げ物】


献げものは、イスラエルの罪を贖い、神の前に出ていくための身代わりの供え物という意味があります。幕屋の祭壇にて朝夕献げられました。ささげ物には次のように、5種類が細かく規定されています。(1~7章)


a.焼き尽くす献げ物(はん祭)ー1章

この献げ物には、罪を贖い神の怒りを取り除く意味があり、ささげる者の信仰を見て、神 は満足されました。


b.穀物の献げ物(素祭)ー2章

これは、赦しを受けた者が、神の恵みに感謝して献げるもので、血を伴わないものです。


c.和解の献げ物(酬恩祭)ー3章

祈りや誓願が答えられたことへの感謝の献げ物です。ナジル人の誓願が完了した場合(使 21.23〜26)などが代表的です。


d.贖罪の献げ物(罪祭)ー4章

これは、個人的な無知や不注意から罪を犯した場合にささげるものです。


e.賠償の献げ物(愆祭)ー7章

これは、損害を与えた人に対して賠償する場合に命じられているものです。


【イスラエルの贖罪思想の考察】


旧約聖書の主な思想には、メシア思想、唯一神思想と並んで、贖罪思想があります。


<贖罪とは何か>


贖罪とは、「犠牲や代償を献げて罪を贖うこと」であります。贖罪はユダヤ・キリスト教の教義的核心であり、広義的には救済、許し、和解、償いという意味にもなります。また善行を積んだり金品を出したりするなどの実際の行動によって、自分の犯した罪や過失を償うことでもあり、平たく言えば「罪滅ぼし」であります。


こうして幕屋では、動物のいけにえが献げられました。キリスト教では、神の子キリストが十字架にかかって犠牲の死を遂げることによって、人類の罪を償い、救いをもたらしたという意味があり、この贖罪思想はキリスト教教義の核心であります。そしてこの贖罪思想は、唯一神思想、メシア思想と並んで、聖書3大思想の一つとなっています。


上記のように旧約聖書のレビ記1章から7章にかけて、いけにえの供え物の規定が書かれています。上述のように、これに象徴される贖罪思想は、ユダヤ・キリスト教の最も重要な概念の一つであり、この概念を正しく理解することは聖書の理解に決定的な意味を持つと言えるでしょう。


自己犠牲こそ男子の美徳だという石原慎太郎著『男の美徳』には、「キリストの生と死と復活の犠牲は、人類の罪を償い、神の恩寵として実現される罪からの解放と、これによってもたらされる神との交わりの回復を意味する。この贖罪は、人間存在の根本的悪としての原罪からの解放であるとされ、救済の条件であり、十字架は自己犠牲の極致である」と記しています。


またジェーコブズは著書『キリスト教教義学』において、聖書教義学で、神の存在は所与のものとして当然の前提とされており、敢えて神の存在を論証しようとはしないと言っていますが(P4)、同様にイスラエルにとって贖われるべき罪の存在は所与のものであり、幕屋における捧げものの儀式には、贖われるべき罪の観念を前提としています。人間は生来、罪責感を有し、罪の内在を本能的に知っているというのです。


<祭壇と供え物の系譜>


聖書には、「祭壇」と「供え物」の系譜があります。創世記のアベルの供え物(創世記4.3)、ノアの祭壇と燔祭の供え物(創世記8.20)、アブラハムの祭壇と燔祭の捧げもの(創世記12.7、15.9~10、22.9)、イサクの祭壇(創世記26.25)、ヤコブの祭壇(創世記33.20、35.3)、そしてモーセの幕屋と燔祭の供え物(出エジプト12.6~7、出17.15、出25.8~9、レビ記1~7)、ソロモンの神殿(1列王記6.1~2)などであります。


供え物には贖罪思想がその根底にあり、祭壇は供物を媒介に神的存在と交流する聖なる場でありました。供え物は、罪の贖いであると共に、罪人が神側に聖別される条件でもあります。アベルの供え物、アブラハムの三種の供え物には神側に聖別されるための条件の意味があり、幕屋での供え物は贖いという側面が強いと言えるでしょう。


<イスラエルの贖罪思想>


アブラハムに最初の贖罪思想が見られます。イサク献祭と身代わりの雄羊がそれであります。幕屋・神殿建設以降、ユダヤ人は幕屋や神殿で祭司によって日々捧げられる動物の犠牲によって民族の罪は贖われると信じてきました。贖罪の羊は、スケープゴート(身代わり)として重要な役割を果たしてきたのです。(レビ記16.8~10)


古代オリエントでは、他人に渡った奴隷を代価を払って買い戻すことであり、又犯した罪に対して償いをするという意味の「法的な概念」でありますが、ユダヤ・キリスト教的な伝統においては、「神に対して人間が犯した罪」が償われて、神と人間との敵対関係が和解されることを意味するようになりました。


この場合に、自分の力では償いをすることができない人間にかわって、犠牲が捧げられ、その代価によって失われたものがふたたび買い戻されるという意味で贖いといわれ、これが宗教的意味で用いられました。贖罪は。自らが捧げる行為主体であると共に、自分に代わって償ってくれるもの(又は人)の存在を前提としています。朝夕幕屋で犠牲の家畜を焼き尽くすことで、立ち上がる煙が、神と民とのつながりを保証しました。


<贖罪の日>


贖罪の日(ヨム・キプル)は、レビ記16章に規定されています。10月に行われるユダヤ教の祭日で、ユダヤ教における最大の休日の1つであります。前夜の日没時に、神への賛美の言葉が唱えられ、ユダヤ教徒はこの日は断食し、飲食、入浴、化粧などや、一切の労働を禁じられています。


贖罪の日の牛や羊の捧げ物は、個人の罪というよりは、イスラエルの民全体の罪を贖うためのものでした。贖罪の日の儀式は、毎年イスラエルの民を清め、また幕屋を清めました。これを通して、イスラエルの民は、自分たちが聖なる神と特別な契約関係にあることを再確認する最も厳粛な日、神の前に悔い改める日です。


私たちもユダヤの贖罪の日に倣って、自身にとっての贖罪日を定めるのも、信仰衛生上いいかも知れません。


<キリスト教の贖罪思想>


新約では動物のいけには廃止されました。へブル書9章12節には「やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所に入られ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」とある通り、イエスの十字架によって人類の贖罪は完結し、以後いけにえは不要であるとしています。


「私達はこの御子において、その血によって贖われ、罪を許されました、これは神の豊かな恵みによるものです」(エペソ1.7)とあり、「このいけにえは、ただ一度、御自身を献げることによって成し遂げられたからです」(ヘブル7.27)とあります。


そして、「自らの体を聖なる生きた供え物として捧げなさい。これが霊的な礼拝である」(ロマ書12.1)とある通り、新約以降は、内的祭壇、内的祭物がより重視されていきました。


また割礼には、万物割礼(レビ19.23)、肉身割礼(創世記17.10)、心の割礼(申命記10.16)かありますが、「私の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」(ヘブル8.10)とある通り、 心の割礼が重視されていきました。


<贖罪論の変遷>


教理史においては、贖罪論史はキリスト論史の一部をなしていると言われています。


カンタベリー大司教のアンセルムスは、人間にかわって罪の償いをなしたキリストに対して神から与えられる報償が、キリストにかわって人間に与えられて贖罪が成立したという「満足説」を唱えました。


唯名論のアベラールは、キリストの死を人間を道徳的に感化して新しい歩みへと向けさせる愛の最高の表現だとする「道徳感化説」を説いています。


また宗教改革者は、人間は元来神の怒りの刑罰を受けなくてはならない罪深い存在であるが、キリストは十字架において人間にかわってその刑罰を受け、それによって刑罰を免れた人間の贖罪が成り立つという「刑罰代償説」を主張しました。


近代においては、神の怒りとか刑罰などについて批判的な見解が多く、キリストの死を神の愛の表現、倫理的模範などと理解することが多くなりました。現代に至って、とくにバルトやプルンナーなどの弁証法神学者たちは、宗教改革者の贖罪を復活させると共に、贖罪における勝利者キリストを強調しています。


いずれにしても、贖罪思想には深い宗教的真理が刻まれています。


<原理観からみた贖罪思想について>


原理には「蕩減」という概念があり、この言葉は贖罪とよく似た宗教概念であります。


蕩減とは、失った本然の位置と状態を回復するためには、その必要を埋めるに足る償いの条件を立てなければならないとし、この償いの条件を立てることを蕩減とい言われています。この蕩減の条件は、離れるようになった経路と反対の経路を辿って立てなければならないとされています。従って、蕩減と贖罪には「償い」という共通思想があると言えるでしょう。


しかし、贖罪観念はより受動的あるのに対して、蕩減観念はより能動的であり、人間の役割(責任分担)を重視しています。即ち、聖書の贖罪観念には他力的な神の恵みを強調する傾向があり、「罪を犯した者がその罪を蕩減しなければならない」(み言葉)とする蕩減観念とは微妙な違いがあります。


また、蕩減には期間(成長期間)の観念がありますが、贖罪にはこの観念はありません。


【聖別思想についてー汚れからの分離の命令】


イスラエルには、贖罪思想と並んで聖別思想があります。


<汚れからの分離の命令>


レビ記には、祭司の聖別などの規定(8章~10章)、清浄と不浄に関する規定(11章~15章)があり、「聖別」や「清浄と不浄」といった罪や穢れをいかに分別し清めるかという思想が色濃く現れています。この聖別思想は、贖罪思想と並んで、レビ記の重要な思想です。


食物規定、性関係の規定、腫物や癩病の規定など、悪いものからの分離のための規定が細かく定められていますが、これらは異教的な習慣や偶像礼拝を排除し、いかに聖なる民になるかという問題を扱っているのです。キーワードは「聖別」であります。


本来、聖という言葉には、選り分ける、区別する、分離するといった意味があり、聖別とは、端的に言えば異教的なもの、サタン的なものから、いかに「分離分別」されて、聖なるもの、神に仕えるものになるかということであります。あるいは聖なるものとなるための「儀式作法」であります。


原始宗教では,山、川、岩、木などの自然の事物が聖なるものが宿る「依り代」とされて分離され、またタブーや物神などがある儀式によって聖なるものとされました。神道的な儀式として地鎮祭や棟上式などがあり、古代ギリシアやローマでは占官が寺院を建立する敷地を清めました。


旧約聖書ではアロンとその息子たちが「祭司として聖別」され、キリスト教では,「聖餐中のパンとぶどう酒の聖別」、「司 (主) 教の聖別」、「祭壇や教会堂の聖別」の3つが特に重要な聖別と呼ばれています。UCでも聖塩で分別したり、聖塩の他に聖酒、聖土、聖燭など「四大聖物」が清めの霊物として下賜されています。


<イスラエル聖絶思想>


イスラエルには聖絶という言葉があります。申命記2章34節に初めて「聖絶する」(ハーラム)ということばが出て、3章6節においても「私たちは王シオンにしたように、これらを聖絶した。そのすべての町々を聖絶した」と出てきます。


「聖絶する」という動詞は旧約聖書で51回使われていると言われ、特にヨシュアの率いるイスラエルの民がカナンを征服し、占領していくその戦いにおいて、「聖絶する」ことが強調されています。


つまり、徹底的に破壊する、完全に破壊する、すべてのものを打ち殺すという意味で、ことばの意味だけを考えるならば「なんと残酷でひどい」と思うかもしれません。しかし本来聖絶とは、「神のものを人間が自分のものとして横取りしてはならない」ということを意味し、自分のために取り分けて所有してはならないということ、即ち完全に神のものとして献げる行為が「聖絶する」という本来の意味であります。


モーセは「聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない」(申命記13:17)と語っています。ヨシュアも約束の地を征服していく前に、民たちに「ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。」(ヨシュア6:18)と警告しています。


しかし、ユダ部族のアカンはこのヨシュアの言いつけを守らず、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分のものとしました。そのためにイスラエルの敗北を招き、彼自身も身を滅ぼすことになりました(ヨシュア記7章)。


神が「聖絶する」ことを民に命じたその真意は「神の民が聖を失って、他のすべての国々のようになってしまわないため」です。神は聖絶によってイスラエルの民が、異邦人と同化することを防ごうとされたのです。つまり「聖絶」とは、神の「聖」を民に意識させて、それを守らせる戦いだったのです。


以下の聖句がこれらを示しています。


「すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである」(レビ記27.28)


「そのとき、私たちは彼のすべての町を攻め取り、すべての町、男、女および子どもを聖絶し、一人の生存者も残さなかった」(申命記2.34)


上記のとおり、善悪の聖別ないしは分別は、ユダヤ・キリスト教の重要な思想であり、この考え方は日本の和の思想とは対極にある思想と言えます。即ち和という概念には分けるという考え方はなく、むしろ寛容に融合していくことを志向します。


この和の思想は、自ら身を低くして相手を尊重し、相互の協調を見出だそうとする考え方であり、葛藤を深める現代世界にあって、対立する国家や宗教を結びつける有力な思想として、近年日本の役割に期待する声があります。しかし、和が単なる妥協、迎合を意味するとすれば、曖昧で中途半端になることも懸念されています。


以上、今回はレビ記の贖罪思想と聖別思想という聖書の重要概念について考察しました。次回は、民数記の解説をしていきます。(了)

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