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日本キリスト教の歴史概説

🔷聖書の知識35―日本キリスト教の歴史概説

しかし、ついには霊が上からわれわれの上にそそがれて、荒野は良き畑となり、良き畑は林のごとく見られるようになる。(イザヤ32・15)

今回は日本におけるキリスト教の歴史を概観し、その特徴を探り、これからの在り方を考えたいと思います。再臨のために備えられたキリスト教会とクリスチャンの歴史を知ることは、今後のキリスト教へのアプローチに有益な情報となり、「何故、日本にキリスト教が根付かないのか」、そして「如何にすれば一神教が日本に定着するのか」という問いにヒントを与えてくれると信じるものです。この文書は、日本キリスト教団出版局の書籍、講談社文庫のキリスト教史、ウキペディアのネット情報などを参考にし、且つ原理観を加味してまとめました。保存資料としてもご活用ください。

さて、今まで日本のキリスト教は3回の集中的な宣教の時期がありました。1回目は1549年フランシスコ・ザビエルによって始まった宣教の時期、2回目は明治維新前後、3回目は戦後の時期であります。1回目はスペインなどのカトリックの宣教師によって、2回、3回目はアメリカを中心にした欧米の宣教師によってもたらされました。

先ず、キリスト教を日本に最初に伝えたのは、1549年のイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルでした。その後、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会など宣教団による宣教と多額な資金が投入されました。次は明治の開国時期です。ヘボン、ブラウン、バラなど、アメリカを中心に欧米から宣教師が多数入ってきました。そうして、3回目の日本宣教は戦後GHQの占領期で、マッカーサーは、日本をキリスト教国家にするチャンスだと考え、大量のアメリカ宣教師を招き、1000万部の聖書を軍用船で持ち込みました。カトリック、ロシア正教、プロテスタント各派もこぞって日本宣教に乗り出しました。

こうして、欧米によって、日本に宣教のための莫大な人的、資金的資源が投入されました。そして、宣教師たちの命がけの宣教のお陰で、キリスト教文化は、教育分野、医療分野、慈善分野などで日本人に大きな影響を与え、聖書は国民に広く啓蒙されていきます。そしてその恩恵の上に私たちは立っているのです。

「聖書の知識21」でも述べましたが、筆者は、これら日本のキリスト教史を学びながら、「これでは日本は外国から与えられっぱなしではないか。一体、日本は世界のために何を発信したというのか」という疑問が沸き上がると共に、激しい羞恥心に襲われました。「日本は海外からの世界宣教の犠牲の上に立っている」という負い目です。しかし日本のキリスト教史の中で、おそらく家庭連合(以下、「UC」と呼ぶ)だけが、新しい福音の宣教のために初めて日本発の宣教師を世界に送り出し、足りないながらも物心両面の犠牲を伴うミッションを世界に向けて発信し得たのではないでしょうか。筆者はここに至って、安堵の思いでしばしの慰めを得たことを告白いたします。

ザビエルからは470年、明治維新からは150年、終戦からは75年たちました。ちなみにUCは韓国創立1954年から66年、日本創立1959年から61年になります。しかし、依然として日本のキリスト教人口は1%を超えていません。お隣の韓国では33%、中国でも7%というのにです。また、先進7ヶ国サミット参加国で唯一日本だけが非キリスト教国家で他はすべてキリスト教国家です。一体これは何故なのか、これを探ることを通じて日本への福音の定着化・土着化、超教派・超宗派運動への道筋が見えてくるのではないかとの希望を持っているところです。

【キリスト教歴史の主要な出来事】


先ず、日本におけるキリスト教歴史の主要な出来事を列挙して全体を鳥瞰したいと思います。キリスト教史を学ぶに大切なことは、細かい史実より、歴史の流れを大きく掴んで、神がどのように働いてこられたか、その息づかいを読むことが大切です。

a.ザビエルから明治維新

・283年  秦氏渡来(秦氏ユダヤ人景教徒説)、6世紀~8世紀の飛鳥時代・奈良時代伝来説

・1549年 ザビエルによるキリスト教伝来

・1563年 戦国大名の受洗(1563年大村純忠受洗、1576年有馬義忠受洗)、宣教の進展

・1585年 天正遣欧少年使節派遣

・1587年 豊臣秀吉のバテレン追放令

・1596年 バテレン追放徹底、26聖人の殉教

・1612年 徳川家康の天領(幕府領)での教禁令、高山右近マニラに追放

・1614年 徳川幕府の全国禁教令

・1619年 京都52人の大殉教

・1622年 元和の大殉教(55人)

・1644年 国内最後の宣教師、小西マンショ神父が殉教して国内司祭不在となる

・1737年 島原の乱

・1805年 天草崩れ、キリシタン5500人が検挙

・1858年 日米修好通商条約締結、フランス他五ヶ国と修好通商条約 、踏絵廃止

・1865年 大浦天主堂にて潜伏キリシタンの信徒発見

・1867年 浦上四番崩れの勃発


b.明治以降

・1868年(明治元年)五榜の禁令(切支丹禁制の継続)、五島崩れ、浦上キリシタンの流刑

・1873年(明治6年)「切支丹禁制」の高札廃止(キリスト教の解禁)

・1863年~1876年 3つのバンドが結成

・1889年 大日本帝国憲法→信教の原則自由、教育勅語(1890年)、天皇制の強化

・1891年 内村鑑三の不敬事件

・1899年 内務省令第41号→キリスト教公認

・1932年 上智大生靖国神社参拝拒否事件

・1941年 日本基督教団設立→32派が合同、戦争支持

・1942年 ホーリネス教団への弾圧


c.戦後

・1945年終戦、GHQによる統治

・1948年日本キリスト教協議会(NCC)成立

・1957年日本国憲法施行→信教の自由確立

・1968年日本福音同盟(JAE)成立

・1981年 ヨハネ・パウロ二世が初来日

・2018年長崎と天草地方世界文化遺産に登録

・2019年 教皇フランシスコ来日

【日本のキリスト教歴史概観―ザビエルから明治維新まで】

先ず最初に、1549年の宣教から明治維新までのキリスト教の流れをザッとポイントをみておきます。


<初期の宣教>


1549年8月15日、フランシスコ・ザビエル(1506~1552)ら一行が鹿児島に上陸して、日本布教の第一歩を記しました。スペインの貴族の子として生まれたザビエルは、プロテスタントへの対抗宗教改革の一環として、カトリック教会の立場で布教を展開したイエズス会創設者の一人でした。


ザビエルやトルレスら8人一行の初期の宣教は薩摩から始まりました。薩摩の島津貴久の宣教許可を受け、ザビエルは鹿児島に1年間滞在し、約100人の信者を得ました。次にトルレス神父とフェルナンデス修道士を伴って平戸に行き、ここでも100人くらいの信者を得ています。この時洗礼を受けた木村一族の中から最初の日本人司祭であるセバスチャン木村神父が出ています。その後1550年10月、天皇の布教許可を得るために京都に赴きました。途中、大内義隆の領地山口に一か月半くらい滞在し毎日二回街頭で説教して布教しています。1551年1月、フェルナンデス修道士と共に天皇に謁見し布教許可を得るべく京都に着きました。


キリスト教会の宣教方法は、先ず上層階級を宣教の対象とし、ついで彼らを通して下層民の改宗を行うという、初期教会以来の伝統的なやり方が踏襲されていました(五野井隆著『日本キリスト教史』吉川弘文館P41)。しかし戦国時代の当時、天皇や幕府に統治権力はなく、断念して地方の有力な大名の庇護を得る戦略に切り替えました。ザビエルは京都を離れ平戸に戻った後、当時西の京と称されていた山口に拠点を移し、山内義隆から布教許可をもらって、日に二度辻説法をするなど布教に務め、4か月あまりで500人くらいが洗礼を受けています。この受洗者の中に、以後多くを信仰に導いた盲目の琵琶法師ロレンソ了一斉がいました。また1551年9月、ザビエルは豊後の藩主大友宗麟に招かれ宣教の許可を受け、大友宗麟はカブラス神父から洗礼を受けました。


1552年4月、ザビエルは日本における改宗事業の進展のためには、日本に強い影響を与えてきた中国を無視できないと考え、二年三か月の日本滞在(1449年8月~51年11月)のあと、中国に行くべく先ず拠点のインドに向かいました。キリスト教が中国で受け入れられるようになれば、もともと中国から伝来した日本の仏教諸宗派は、その誤りを正さざるを得なくなると確信したからです(五野井隆著『日本キリスト教史』P44)。その後中国へ向かう途中、1552年12月3日、中国上川島にて病気で死去しました。46才。ザビエルの日本滞在中にキリスト教徒になった日本人は、およそ700人でした。日本の宣教はザビエルが種子を蒔き、その同行者コメス・デ・トルレスによって基礎固めが行われ、トレルスが始動した1570年に至る18年間に、仏教からの迫害を浴びながらも約3万人がキリシタンになりました。


日本人を「もっとも優秀で理性的な国民」であると評価したザビエルは、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を要請しました。ザビエルの要請により優秀な人材が積極的に日本に送られ、ザビエル以降、ガスパル・ヴィレラ、ルイス・デ・アルメイダ(豊後府内に日本最初の病院を開設)、ルイス・フロイス(織田信長や豊臣秀吉と会見し、『日本史』を記す)、ガスパール・コエリョなどのイエズス会員が日本に来航し、布教活動にあたりました。

日本における宣教方針は、大名など上からの伝道と適応主義です。日本の伝統文化と生活様式を尊重すること、日本人司祭や司教を養成して日本の教会を司牧させることにおかれました。「適応主義」と呼ばれたこの指針によって日本での宣教は順調に進みました。しかし日本人には司祭になる能力も適性もないと考えて軽視したフランシスコ・カブラルが布教長であった時代、ポルトガル人と日本人たちの間で溝が深まって宣教活動が停滞したことがあります。イエズス会本部からの巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは各地を回って実情を視察した上で、カブラルを解任してその方針を否定、従来行われていた適応主義の復活を命じました。

ヴァリニャーノは日本人司祭の養成を急務とし、各地にセミナリオ(小神学校)とノビシャド(修練院)、コレジオ(大神学校)を設置しました。これらの学校では当時の学術語であったラテン語、日本語および哲学・神学、自然科学、音楽、美術、演劇、体育と日本の古典を必修科目として学習させていました。これは人文主義的素養を重視したイエズス会の教育方針によるもので、イエズス会による教育は日本の明治以降の学校教育の先取りともいえるものだったのです。

<織田信長のキリスト教容認>


1559年、宣教師ガスパル・ヴィレラが京都に入って布教しようとしましたが、戦国大名の争乱や比叡山や法華宗などの批判勢力も強かったので、布教は困難でした。しかし、当初困難だった京都の宣教も、織田信長が1568年に京都に入ると事情は一変し、信長はルイス・フロイスらに京都での布教を認め、教会学校(セミナリオ)が作られるようになりました。これらキリシタン大名の影響もあり、キリシタンの数は1600年ごろには40万人~60万人にも達し「キリシタンの世紀」と言われています。当時の日本の人口は約1500万人くらいだったので、キリスト者の割合は3%を超えていました。


前述しましたように、キリシタン大名の中には鉄砲や貿易による利益への関心からキリシタンになった者もいましたが、高山右近のようにこの世での不利益を受けながらも信仰を貫いた大名もいました。また代表的な九州のキリシタン大名である大村純忠・有馬春信・大友宗麟の三大名は、巡察使ヴァリニャーノの勧めにより、1582年に天正少年遣欧使節をローマ教皇の元に派遣しています。


代表的なキリシタン大名である大村純忠は1579年、長崎と茂木をイエズス会に寄進し、甥の有馬晴信は浦上村を同じく寄進しました。また大村純忠・有馬晴信・大友宗麟の三大名は、巡察使ヴァリニャーノの勧めにより、1582年に天正少年使節をローマ教皇の元に派遣し、1585年にローマ教皇グレゴリウス13世に謁見しています。

<豊臣秀吉のバテレン追放>


当初、秀吉は織田信長のキリスト教政策を踏襲し布教を認めていました。しかし、1587年、九州島津征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって多数の神社や寺が焼かれ仏教徒が迫害を受けていること、日本人がポルトガル商人によって奴隷として海外に売られていたこと、そして長崎がイエズス会領となっていること、などを理由としてバテレン追放令を発布し宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を表明しました。ここでザビエル以来のキリスト教布教は36年目で大転換し、自由な布教ができないこととなったのです。

一方、バテレン追放令後のキリシタン取り締まりは、それほど厳しくはなく、日本に残った宣教師も多く、彼らは非公然ではあるがかなり自由に活動しました。この段階では日本人のキリスト教信仰が禁止されたわけはなかったのです。しかし、豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンから、フランシスコ会やドミニコ会などの修道会が来日するようになると事態は複雑化しました。彼らは日本宣教において、社会的に影響力を持つ人々に積極的に宣教していくというイエズス会のやり方とは異なるアプローチを試み、貧しい人々の中へ入っての直接宣教を試みました。

けれども、これらの修道会がイエズス会のように日本文化に適応する政策をとらずに秀吉を刺激し、イエズス会とこれら後発の修道会の対立が激化したことで、日本での宣教師の立場は徐々に悪化していきました。このような中で、スペイン王国は宣教師の布教を征服の手段に使っているとの話が秀吉の耳に入り、長崎二十六聖人の殉教(1596年)が起こりました。これらの殉教者は1862年に列聖されています。

<徳川幕府の禁教令>


徳川家康は江戸幕府を開くと、秀吉が開始した朱印船貿易をさらに活発に行い、スペインとの南蛮貿易もさかんになりました。そのため、カトリック宣教師によるキリスト教布教についても黙認され、1609年(慶長14)には全国の信者が60万人(人口の3%)という最盛期となりました。

しかし、豊臣氏の勢力を打倒する大坂の陣を控えていた家康は、キリスト教勢力が豊臣方に付くことを恐れたこともあり、また1612年に岡本大八事件(キリシタン大名の有馬晴信がからんだ疑獄事件)が起こり、関係者がいずれもキリシタンであったことから、家康はそれまでの態度を一転してキリスト教禁教に傾き、1612年に天領(幕府領)でのキリスト教禁止に踏み切りました。

さらに1614年に全国禁教令を発布して京都や長崎など全国の教会を破壊し、高山右近や内藤如安など信者の有力者はマニラなどに追放されました。特に島原の乱(1637年~1638年)以降、取り締まりは格段と厳しくなり、1644年に最後の日本人司祭の小西マンショが大阪で殉教すると、秘蹟を授ける司祭は一人もいなくなりました。この禁教令は1873年(明治6年)のキリスト教解禁まで260年続き、万を越える殉教者を出すことになります。

天皇自らが神道の祭祀を主宰し、仏教にも帰依してきた朝廷にとって、神仏習合、多神教の宗教的秩序の上位にあるとするキリスト教一神教の思想は、早くから警戒され、排除が試みられる対象でありました。このキリストの教禁止は、江戸幕府と朝廷が連携・協同して取り組めるもので、朝幕関係にとっても、寺社勢力にとっても望ましかったのです。

<殉教の歴史>


日本キリスト教の迫害や殉教については、「聖書の知識28ー殉教を考える(2)」、及び「つれづれ日誌(12月)-長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地」 で詳しく述べていますが、ここでは簡単に振り返ってみたいと思います。


前記したように、1596年に長崎二十六聖人の殉教が起こりました。これは、サン=フェリペ号事件で、キリスト教宣教の背後にスペインの侵略意図があるとしたことをきっかけに、秀吉が態度を硬化させたものです。

1619年10月6日、京都鴨川の六条から七条の間、現在の正面橋のあたりで、将軍秀忠の命により、棄教しないという理由で52人の信者が火あぶりの殉教を遂げ、うち11人は子供でした。3人の子供と一緒に縛られた若い母テクラは、最期までわが子らを堅く抱き締めていたと言います。

1622年9月10日、長崎の西坂で神父や修道師を含むキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑されました。日本に密航しようとしたポルトガル人宣教師が発見されたことが発端になりましたが、日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信徒が同時に処刑され元和の大殉教と言われています。

1637年に肥前島原と肥後天草で、農民やキリシタンの元武士たち3万8000人の島原の乱があり、全員が殺されました。蜂起の直接的原因は島原藩と唐津藩の過酷な税金の取り立てにありました。

また、潜伏(隠れ)キリシタンの摘発があり、浦上の一番崩れ、二番崩れ、三番崩れ、四番崩れなど各地で迫害がありました。

近代日本のキリスト教歴史概観①―幕末から明治】

次に、幕末から明治期にかけてのキリスト教の動向を概観いたします。


<動向>


1858年には日米修好通商条約や日仏修好通商条約などが結ばれ、居留地内での信仰の自由や礼拝が認められたことで、外交使節や貿易商と共に多くの宣教師たちが来日いたしましたが、当初、明治新政府もキリスト教禁止の幕府政策を継続しました。1868年、明治政府は浦上村全村民流罪という決定を下し(浦上4番崩れ)、3414名が長州、薩摩、津和野、福山、徳島などの各藩に配流され、さらに迫害は長崎一帯の村々に及びました。この浦上4番崩れは、浦上のキリシタンが神父の助言により、聖徳寺の僧侶抜きで自葬したことが発端となり、幕府が潜伏キリシタンを知るところになったものです。

このキリスト教徒弾圧を決定した政府の中心人物は木戸孝允や井上馨でありました。地元長洲は反キリスト教の浄土真宗の牙城であり、また平田派の神道観に基き、祭政一致の国家神道による思想統制をはかろうとしていたのです。しかし、そのキリスト教徒弾圧は外国使節団の激しい抗議を受けて、ようやく1873(明治6)年に政府は「切支丹禁制」の高札を廃止し、徳川幕府の1614年の全国禁教令から260年ぶりに、日本におけるキリスト教信仰の原則自由が回復いたしました。

<プロテスタントの宣教の開始>


日本のプロテスタントの歴史は概ね、1859年~1873年の準備時代、1873年~1889年の創立の時代、1889年~1909年の試練の時代、1909年~1931年の発展の時代、1931年~1945年の艱難の時代、1945年~2020年の自由の時代、の6時代に区分できるでしょう。(藤代泰三著『キリスト教史』講談社文庫P464)


ちなみに、1859年~1873年の準備時代は、いまだ禁教政策の時代であり、宣教師は公には宣教できませんでしたが、指導者の養成、聖書の邦訳、宣教師の日本語習得などの宣教準備はできました。また1873年~1889年の創立の時代は、解禁により教会の基礎作りが進んだ時代です。そして1889年~1909年の試練の時代は、大日本帝国憲法(1989年)や教育勅語(1990年)が発布され、天皇絶対主義の国粋主義が台頭して、キリスト教排斥気運が高まりました。1991年には内村鑑三の不敬事件が勃発しています。加えて、自由主義神学の流入により、教会自体も動揺しました。 1909年~1931年の発展の時代は、プロテスタント8教派合同の日本基督教会同盟の結成され(1911年)、1914年から20世紀大挙伝道運動が展開されました。1931年~1945年の艱難の時代は、天皇絶対の思想統制の中で弾圧された時代です。


さて、プロテスタントが日本にもたらされたのは、外国宣教師、特にアメリカ宣教師によるところが大でありました。プロテスタントの宣教師として最初に来日したのは1859年5月到来の米国聖公会(監督教会)ジョン・リギンズ と6月来日のチャニング・ウィリアムズ でありました。これを皮切りに1859年中には、米国長老教会の医師ヘボン、米国オランダ改革派教会宣教師サミュエル・ブラウン とグイド・フルベッキ 、医療宣教師ダン・B・シモンズ などが続々と来日しました。

さらに翌年の1860年にはバプテスト教会のジョナサン・ゴーブル 、1861年にはアメリカ・オランダ改革派教会(ダッチ・リフォームド、現RCA)の牧師ジェームズ・バラ などが日本の土を踏み、これがプロテスタント各教派の最初の宣教師グループであります。やや遅れて1869年にはアメリカ伝道委員会(アメリカン・ボード) のダニエル・クロスビー・グリーン が来日し、1873年には米国メソジスト監督教会宣教師メリマン・ハリスが函館に着任しました。しかし、キリスト教はなお禁じられていたため、当初彼らは、英語教育、聖書の翻訳、医療活動を先ず行いました。


さて、近代以降の日本のプロテスタントを語る上で欠かせない三つの流れがあり、それは「横浜バンド」、「熊本バンド」、そして「札幌バンド」の3つのバンド(団体)であります。

a.横浜バンド

1863年に長老教会のヘボンの開いた横浜英学所は、後日バラ学校と呼ばれていました。1872年、押川方義(東北学院創立者)らバラ学校の青年たち9人が信仰を告白し、バラから洗礼を受けました。このグループが中心となり、1872年、横浜にプロテスタント最初の教会「日本基督公会」(横浜海岸教会)が創立されました。これが「横浜バンド」であります。

この時行われていた祈祷会の聖句が冒頭のイザヤ32章15節「しかし、ついには霊が上からわれわれの上にそそがれて、荒野は良き畑となり、良き畑は林のごとく見られるようになる」でした。なお押川方義(おしかわ まさよし)は、東北学院及び宮城学院の創立者で、新島襄、本多庸一、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされています。

1873年にはサミュエル・ブラウンの自宅に集まった青年たちによって「ブラウン塾」が発足しました。生徒の中には前出の押川方義のほか、メソジスト系の青山学院の院長となる本多庸一や、明治学院創設メンバーである植村正久、井深梶之助らがいました。これらは、日本基督教会(1890年)へと発展し、長老主義教会とその神学思想を形成していきました。

1887年、このバラ学校とブラウン塾の流れを起源とする、日本最古のキリスト教主義学校(ミッションスクール)である東京明治学院が誕生し、また、メアリー・キダー がヘボンの診療所で教育していましたが、ここから後のフェリス女学院が誕生します。

b.熊本バンド

1871年、熊本洋学校に教師として招かれた元陸軍士官L・L・ジェーンズ は会衆派教会の熱心な信徒であり、彼の感化によって教え子たちが信仰に入りました。「熊本バンド」(1876年)と呼ばれたこのグループはジェーンズの勧めで、新島襄がアメリカンボードの資金援助で1875年に開いた同志社英学校に加わりました。その中に宮川経輝、小崎弘道(同志社第二代総長)、海老名弾正(第八代同志社総長)らのメンバーがいました。これらは、日本組合基督教会の主要メンバーとして、会衆主義教会を形成しました。

c.札幌バンド

札幌農学校(現在の北海道大学)で教壇に立ったW・S・クラークとメリマン・ハリスの薫陶を受けた教え子によって結成されたのが「札幌バンド」(1877年)です。クラークの教え子たちの中には、一期生の佐藤昌介、大島正健、二期生の内村鑑三、新渡戸稲造、植物学者の宮部金吾、土木工学の広井勇らがいました。内村は無教会主義キリスト教の基礎を築きました。

日本のプロテスタントはこれらのグループを核として発展し、横浜バンドの流れから「日本基督教会」(長老派系)が、「熊本バンド」から日本組合基督教会(会衆派系)が生まれました。そしてアメリカとイギリスの聖公会の流れから日本聖公会が、メソジスト系の諸派から日本メソジスト教会が誕生しました。初期の宣教師たちの宿願であった日本語訳聖書の出版事業もこの時期精力的にすすめられ、1880年に新約聖書、1888年に旧約聖書が出版されています。

1873年までに、ほとんどのプロテスタントの教派が来日し、1882年時点で日本に在留していた宣教師は138名でした。初期の宣教師は聖書信仰と保守的な神学を持ち、その宣教の情熱の背景にはアメリカの大覚醒と呼ばれたリバイバルがありました。ブラウンら宣教師は大覚醒運動の影響を受け、アメリカの宣教師によって日本に福音主義(エヴァンジェリカリズム)が伝えられました。

なお前記3バンドの他、中田重治とホーリネス運動の「松江バンド」も注目されます。松江バンドは島根県松江市で始まった日本の純福音運動の源流の一つで、バークレー・バックストンが宣教師として松江市に滞在している時に、笹尾鉄三郎、讃美歌作家の三谷種吉、中田重治らが訓練を受けました。それらの人々が成長して日本の各地で純福音運動の指導者になって活躍しました。

メソジスト出身の中田重治は、日本ホーリネス教会の創始者の一人で、日本ホーリネス教会を既存の五大教派(長老派・メソジスト派・会衆派・バプテスト派・ルーテル派)に並ぶ組織に発展させた功労者です。その後、「きよめ教会」を創設し、同教会の終身監督になりました。明治、大正、昭和初期に渡るきよめ派(聖潔派)の中心的な指導者としての活動は、松江バンドと共にきよめ派の流れを作りました。それらの人材は戦後の福音派の形成の中心的な存在になります。雄弁な説教と大規模な伝道活動から日本のムーディとも呼ばれるリバイバリストとされています。

そして日本の初期のプロテスタントは教育中心に、上流・中流階級に伝道し、指導者は特に知識階級、それも没落した佐幕派の士族階層が中心でした。植村正久(旗本)、井深梶之助(会津)、本多庸一(弘前藩)、押川方義(松山藩)、新島襄(安中藩)、内村鑑三(高崎藩)、新渡戸稲造(盛岡藩)、など、ほとんどが佐幕派の武士出身で、「すべての精神的革命は、多くは時代の陰影より出づ」という通り、薩長が主導権を握る明治政府から閉め出された佐幕派が、英語やキリスト教に人生の活路を見いだしました。


また、明治期のキリスト教は、日本の欧米化・近代化に寄与する一方で、急激な富国強兵政策の陰に取り残された弱者を救済することにも努め、隣人愛に基づいて被差別部落解放運動、廃娼運動、孤児院設立、更正保護事業、知的障害者施設やハンセン病および結核医療施設設立などを推進しました。


女性の人権保護のために基督教婦人矯風会が大きな役割を果たし、また社会的弱者の立場に立つ社会主義運動の指導者の多くはキリスト者でした。足尾銅山鉱毒事件に立ち向かったのもキリスト者で、また非戦平和主義をクエーカーはじめ、内村鑑三などキリスト者が唱えました。社会鍋などで知られる救世軍はとくに社会的救済活動に熱心で、これらの社会活動によってもキリスト教は日本に徐々に浸透していきました。

しかし、徳川幕府による禁教政策以来のキリスト教に対する邪教観が日本社会に根強くあり、それは昭和期の軍国主義的天皇制国家体制下で特に明らかになっていきました。

<カトリック教会の復興>


一方、カトリック教会のローマ教皇庁は、鎖国期を通じて日本への再宣教の方策を模索していましたが、19世紀半ばには日本に開国の兆しありと見て、フランスに本部を置く「パリ外国宣教会」に日本への宣教師派遣を依頼しました。1858年に日仏修好通商条約が結ばれたことで、日本入国が可能になり、メルメ・カションは函館に赴き、ジラールは江戸を経て横浜に拠点を構えました。ジラールは1862年、横浜に開国以来最初のカトリック教会となる聖心教会(その後移転し、現在の山手教会)を建てています。

1865年には、ユネスコ世界遺産である「大浦天主堂」が建てられました。その一か月後、教会を訪れた浦上地域の婦人たち15人が、自分たちは禁教下で信仰を守り続けた潜伏信徒(隠れキリシタン)であることを告白し、プティジャン神父は驚愕しました。これは「長崎の信徒発見」(復活キリシタン)といわれています。しかし、彼らは寺請制度を拒否したために迫害され(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治新政府も1868年4月7日に五榜の掲示という高札を掲示してキリスト教禁教を継続したため、信徒への拷問や流刑などが行われました。

なお、1884年には、信者数は30,230名、司祭数54名、伝道士252名、教会数は84でありました。キリシタン時代の日本において活躍したイエズス会は、「日本にカトリック高等教育機関を」という教皇庁の求めによって明治期の終わりになって来日し、1913年に上智大学を開いています。この時期、パリ外国宣教会の司祭たちは、政府によって活動を制限されていたため、日本人信者の協力を得て慈善事業・社会福祉事業に力を注ぎ、児童福祉施設、ハンセン病療養所、孤児院の開設など主に下層階級への宣教活動を行いました。

なお、日本における正教会伝道は、1861年にはロシア正教会のニコライ・カサートキンが来日し、函館の領事館付き修道司祭に着任したのが始めです。 出版事業に重きを置いたニコライにより、各種祈祷書・聖歌譜が日本語に活発に翻訳されていきました。1904年に日露戦争が開戦され、厳しい立場にたたされましたが、ニコライ主教は日本にとどまり、「諸君は皇軍の為に祈れ」と言い、苦難の下にあった日本人正教徒たちを激励し続けました。

日本のキリスト教歴史概観⓶―明治から大正へ】


明治初期から中期にかけては、国を挙げて欧化政策が進められたため、西欧精神の中枢であるキリスト教に関心を持つ者が増えました。上流階級がキリスト教に殺到した時代であります。しかし明治中期以降、日本が富国強兵政策をとって近代国家への歩みを模索し、国粋主義的思想が強まるようになるとキリスト教への見方にも変化が起こります。1889年(明治22年)に発布された「大日本帝国憲法」では日本が立憲君主制国家たることを宣言し、信教の自由が謳われましたが、信教の自由は限定的なものとされました。

さらに天皇に対する忠誠を説く「教育勅語」(1890年)で明治日本における天皇の位置づけが明確に示されました。国家の核としての天皇と国家神道の位置づけが明確にされたことで、キリスト教に対する風当たりが強まっていきます。このような風潮を象徴するできごとが内村鑑三の不敬事件(1891年)であります。

<プロテスタント教会の動向>


この時期はプロテスタントにとっても試練の時期でありましたが、キリスト教的社会福祉事業、社会運動、廃娼運動が起こっています。

また、この時期、自由主義神学や高等批評が導入され、日本の教会に混乱を与えることになります。1885年にドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーが来日し、「聖書は人間の宗教的な記録である」と主張しました。またこの派からオットー・シュミーデルも来日しました。この立場は、新神学と呼ばれましたが、彼ら自身は「最も進歩せる学術的キリスト神学」と称しました。これは日本組合基督教会に強い影響を与えました。また1887年にはアメリカからユニテリアンの宣教師が来日し、三位一体、キリストの神性を否定しました。熊本バンドの小崎弘道はリベラルな新神学を受け入れ、また、1891年に金森通倫も「モーセ五書は、ユダヤ人の伝説や神話の寄せ集めである」と主張しました。

1901年9月から、リベラル神学を巡って、植村・海老名論争が起こっています。1902年(明治35年)に福音同盟会は総会を開き、「本同盟が福音主義と認める物は、聖書を以って信仰と行為の完全なる規範とし、人とその救いのために世に降り給える吾等の主『イエス・キリストを神と信じる』ものを言う」と宣言され、海老名は福音同盟会から追放されました。その後日本基督教会は植村の立場の東京神学社とより保守的な神戸神学校に分かれましたが、しかし、その植村もさすがに十全霊感説は受け入れていません。

このころ、自由主義神学輸入以降のプロテスタント教会には、国家主義とのかかわりから見て三つの大きな潮流があったとされています。一つは外国人宣教師の神学を克服した植村正久の「教会的精神主義」で、日本基督教会を中心として教界の大勢を指導しました。二つ目は聖書中心主義の内村鑑三を中心とする「精神的個人主義」で、自由主義神学を排撃しました。三つ目は自由神学を利用し、キリスト教をもって国家精神の主柱にしようとした海老名弾正らの「国家的精神主義」と称するものでした(五野井隆史著『日本キリスト教史』吉川弘文館P287)。


1904年の日露戦争では、海老名弾正、植村正久、井深梶之助、本多庸一が主戦論を唱え、内村鑑三、柏木義円、白石喜之介が非戦論を唱えました。トルストイの影響を受けた、キリスト教社会主義者の安部磯雄、木下尚江、西川光次郎、石川三四郎、片山潜らも無抵抗主義の非戦論でした。

1910年(明治43年)の朝鮮併合後に朝鮮総督府は、日本基督教会の指導者植村正久に朝鮮宣教を持ちかけました。植村は朝鮮併合には賛成していたものの、朝鮮宣教は断ったため朝鮮総督府は、日本組合基督教会の指導者海老名弾正に朝鮮宣教を命じました。日本組合基督教会は、同年10月の第26回定期総会で全会一致をもって「朝鮮人伝道」を決議し、渡瀬常吉を派遣し、日本組合基督教会は朝鮮総督府より莫大な資金援助を受けて朝鮮植民地伝道を繰り広げました。

明治の終わりから大正期にかけて、明治時代後半にみられた国粋主義への傾きが一時的に退潮しました。1912年(明治45年、大正元年)の「神仏基による三教会同」は、ようやくキリスト教の地位が宗教界で同等なものとみなされたかのような印象を与えましたが、その一方で昭和に入ってキリスト教が国家の統制下に組み込まれていくことへの伏線となりました。この時期、日本基督教会の信徒であった賀川豊彦(1888~1960)は労働組合運動など活発に社会運動を行いましたが、彼の設立した消費組合は後の生活協同組合へとつながります。

1918年頃には中田重治、内村鑑三、木村清松が再臨運動を展開しました。1919年11月、淀橋教会の祈祷会から、ホーリネス・リバイバルが起き、四重の福音(新生・聖化・神癒・再臨)を唱えるホーリネスは教勢を拡大していきました。なお1907年には救世軍の創立者ウィリアム・ブースが来日し、2万人を超える群集がブース大将を歓迎し、彼は西園寺公望、大隈重信、明治天皇に面会し、1912年に救世軍病院が開設されます。

<カトリックの動向>


高等教育や出版活動において日本のカトリック教会は、プロテスタントに大きく遅れをとっていました。明治末期になると、パリ外国宣教会による日本の独占司牧体制に無理があることは、同会の一部でも認められ、今後の教会の発展には他の修道会の来日が必要であるとの意見が出始めました。即ち、日本人の司祭や信徒の一部から「パリ外国宣教会の宣教活動は、近代国家となった日本では十分な成果を挙げ得ないもの」として、教会改革の必要性を唱える者が現れました。高等教育や学術活動に強いイエズス会の誘致運動を行い、教皇庁にその必要を主張する意見の具申を行っています。

そして日本のカトリック教会もフランスのパリ外国宣教会の独占から多様化され、スペインよりドミニコ会、ドイツより神言会、イエズス会、フランシスコ会、カナダよりフランシスコ会、ドミニコ会、イタリアよりサレジオ会が来日し、この多様化によって教育事業においても、従来の初等中等教育から高等教育にも取組むようになります。

イエズス会は、1908年に3人のイエズス会員を派遣し、1913年に専門学校令による大学(上智大学)を開校しました。1916年には、聖心女子学院高等専門学校(後の聖心女子大学)が設立され、カトリックは貧民層のためという印象は薄れていきました。

このような流れの中でも、社会福祉事業は続けられました。1926年、司祭のアルベール・アンリ・シャルル・ブルトンによって神奈川県鎌倉市に結核療養所「聖テレジア療養所」が設立されました。また女子教育においても1907年、司祭のルイ・ルラーブによって京都府宮津市に宮津裁縫伝習所が創設され、後の京都暁星高等学校へと発展しています。

なお、大正以降の正教会の動向については、日露戦争・ロシア革命の影響が大きく、反露感情・反共感情の広がりと母教会(ロシア正教会)に対する共産主義政権による弾圧もあり、他教派とは歴史的に置かれた環境が異なるために独特の経緯をたどった部分が少なくありません。日露戦争に代表される日露関係の悪化から、日本正教会は日本において他教派よりも一層厳しい立場に置かれていました。正教側は、正教はロシア専有の宗教ではなく世界の聖公使徒教会であると主張していましたが(これは世界の正教会と共通する見解)、世間からは「露教」と誤解する向きが根強かったのです。

日本のキリスト教歴史概観③―昭和初期(戦時時代】


次に、昭和初期(戦時時代)におけるキリスト教を概観します。


昭和初期(1926年~)には軍部が擡頭すると、軍国主義のイデオロギーとして国家神道が利用されるようになり神道以外の宗教団体への圧力が強まりました。特に教育や思想の分野において国粋主義が強化されたことで西洋の宗教であるとみなされたキリスト教は苦しい立場におかれることになり、特に1931年(昭和6年)の満洲事変勃発以降はその傾向が強まります。1939年(昭和14年)、帝国議会によって戦争遂行のため宗教団体を統制する目的で「宗教団体法案」が可決成立し、翌1940年4月1日から施行されました。これによって、日本のキリスト教界において多くの団体が政府に協力を余儀なくされていきます。

<プロテスタント教会の動向>


プロテスタントでは、朝鮮の長老派が神社参拝を拒んでいたため、日本政府は1938年6月末、同じ長老派系統の日本基督教会大会議長富田満を派遣して朱基徹(チュ・ギチョル)牧師ら朝鮮の長老派を説得させますが、朱基徹らは拒んだため、殉教することになります。朝鮮の教会は、牧師、信徒らの多くの殉教者を出しました。

1939年(昭和14年)に成立した宗教団体法を受けて開催された皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会の決議に基づいて、1941年にプロテスタント32教派が統合し、「日本基督教団」が結成されました。

この困難な時代、日本のキリスト教界において多くが国家に妥協する一方、戦争反対を表明した一部の教会、再臨信仰を咎められたホーリネス系教団、神社参拝を拒否した美濃ミッション等には徹底した弾圧が加えられ、解散に追い込まれました。ホーリネス弾圧の中で命を落とした者に小山宗祐、菅野鋭、斉藤保太郎、辻啓蔵、小出朋治(獄中での死亡順)、竹入高、池田長十郎、佐野明治(出獄後死亡)などがいます。

<カトリック教会の動向>


カトリック教会では、1932年(昭和7年)には上智大生靖国神社参拝拒否事件が起こりました。大学の意向で靖国参拝の強要に反対した学生への弾圧を受けて、以後日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解を示した「祖国に対する信者のつとめ」を出し、以後戦争については沈黙しました。ただ、司祭や信徒の中には天皇の神性を否定して逮捕された者もいます。なお、1940年の登録信者数は119,324人でした。

このような状勢の中でも、社会福祉事業は続けられ、パリ外国宣教会の司祭であったヨゼフ・フロジャックは、1927年、東京市中野療養所の結核患者の一人を見舞ったことを契機に療養所訪問を始めました。1929年には野方町丸山に民家を借用し、療養所から退院させられて行き場所のない患者5名を収容し、1930年には中野療養所の近くに「ベタニアの家」を建設し、患者15名を収容しています。同年、女子患者のため、別に民家を借用して患者5名を収容しました。また1932年、今度は患者の子供を救済するため「ナザレトの家」を建設し、男児10数名を収容、さらに1933年、療養農園「ベトレヘムの園」を建設し、軽患者の男女60名を収容しました。1934年、ベトレヘムの園隣接地を買収し、養護施設「東星学園」(現在のベトレヘム学園)を建設、ナザレトの家の児童33名を移し、ナザレトの家は乳児院に転換します。1936年には学園児のため、「東星尋常小学校」を開校しました。

1941年5月、日本のカトリック教会は、宗教団体法に従いローマ教皇直属である日本の各司教区と日本に所在する修道会をすべて統合する団体として「日本天主公教教団」を設立、初代統理者に東京の土井辰雄司教を選出しました。

【日本のキリスト教歴史概観④―戦後のキリスト教】

1945年8月に第二次世界大戦が日本の降伏により終わると、進駐してきたGHQの指示によってキリスト教各派は自由に活動できるようになりました。


1945年10月、宗教団体法が撤廃され宗教法人令が公布・施行されると、戦時中に統合・監督的束縛を加えられていたキリスト教各派は、一斉に組織の再編に着手すると共に、日本各地で大規模な布教を開始しました。1946年(昭和21年)、日本国憲法によって完全な信教の自由が認められると、海外のキリスト教諸団体は活発に宣教師を派遣するようになりました。さらに、かねてから準備されていた口語訳聖書も出版(新約1954年、旧約1955年)されました。

<プロテスタント教会の動向ー二つの流れ>


1959年のプロテスタント宣教百周年記念行事は、エキュメニカル派と福音派で別々に開かれました。エキュメニカル派では「日本キリスト教協議会」、「日本基督教団」(日本基督教会・日本メソジスト教会・日本組合基督教会、他)を中心として開催されました。日本キリスト教協議会とは、1948年に成立した日本基督教団などが加盟する連絡協議会であり、エキュメニカル派とも呼ばれています。

その後1970年の大阪万博では、カトリック教会とエキュメニカル派のプロテスタントとの共同によるキリスト教館の出展がありました。この頃から日本基督教団では、教会派と社会派が対立し、教団紛争と呼ばれる紛争状態が勃発します。

一方、福音派(聖書信仰派)は、イムマヌエル綜合伝道団の蔦田二雄、ホーリネスの車田秋次、日本キリスト改革派教会のマキルエン、常葉隆興、岡田稔、聖書キリスト教会の尾山令仁らを指導者として、1959年に日本宣教百年記念聖書信仰運動を展開し、翌年「日本プロテスタント聖書信仰同盟」の発足を見ました。この働きが新改訳聖書(新約1965年、旧約1970年)の出版と「日本福音同盟」の成立(1968年)につながりました。また日本基督教団から離脱した日本福音同盟基督教団、日本アッセンブリーや、日本ホーリネス教団、イムマヌエル総合伝道団、ペンテコステ派諸教団などの福音派が成長しました。

戦後のプロテスタント教会は、「日本キリスト教協議会」(NCC)に所属する主流派と、「日本福音同盟」(JEA)に所属する福音派に二分されました。主流派、エキュメニカル派は世界教会協議会 (WCC) と交わりを持ち、福音派は世界福音同盟、ローザンヌ運動と交わりを持っています。

<カトリック教会の動向>


戦後の組織改革により、登録信者数は1946年の108,324人から1950年には143,461人に増加し、さらに1955年には212,318人、1968年には344,343人となって戦前をはるかに凌ぐ比率で増加しました。また、教会生活全体の見直しが行われ、その一環として典礼の国語化が進められました。日本でもミサをはじめとする典礼の日本語式次第と、典礼の中で用いられる日本語聖歌(典礼聖歌)が作成されました。

また第二バチカン公会議(1962年~1965年)では他宗教、特にキリスト教他教派への敬意と対話という方針がはっきりと打ち出され、こうしたエキュメニズムの精神にそってプロテスタント諸教派とカトリック教会の聖書学者が結集して聖書の翻訳事業が行われることになりました。ここに共同訳聖書(1978年)が完成し、さらに共同訳聖書における問題点を改善して出版されたのが新共同訳聖書(1987年)であります。

1981年には、史上初めてローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が来日。東京、広島、長崎を訪れ、「平和アピール」を発表するなどしました。

なお、日本正教会は戦後を迎えてもなお安定することはありませんでした。長期に亘る苦悩の原因としてソビエト連邦の存在があり、教勢は衰退していきました。ロシア総主教アレクシイ2世は、来日時、日本正教会の首座主教の着座式を執り行うとともに、天皇とも会見しています。混乱の時代を経ながらも、日本正教会は明治時代の日本語訳による奉神礼を守り続けて今日に至っています。

教派の和解と一致にむけて】


2009年には、日本プロテスタント宣教150周年を記念して、エキュメニカル派、福音派、聖霊派の三派の共同になる「日本プロテスタント宣教150周年記念大会」が開催されました。また2010年5月に、エディンバラ宣教会議100周年を記念して「世界宣教東京大会」が開催され、初日に大川従道牧師らが説教しました。また閉会式で尾山令仁牧師が日本の犯した罪を謝罪し、これにこたえてアメリカ合衆国の代表が日本に原爆を投下した罪と世界に対して犯した罪を謝罪しました。

2013年時点でのキリスト教人口の内訳は、カトリック教会444,719人、プロテスタント諸教派総計243,479人、日本ハリストス正教会9,863人、末日聖徒イエス・キリスト教会126,856人、エホバの証人215,966人、世界平和統一家庭連合610,000人などとなっています。

以上の通り、日本のキリスト教の歴史をみてきました。確かにクリスチャン人口こそ1%ですが、教育分野、医療分野、慈善分野、そして聖書の普及などその文化的影響は極めて大きいものがあります。私たちは、その恵沢の上に立っていることは否定出来ません。

反キリスト的性向か強かった筆者が原理に導かれたいきさつを見ても、聖書普及の恩恵に浴し、聖書的土壌の影響を受けていることは明白です。初めて聖書の創世記1章~2章の天地創造の話、同3章の失楽園物語の奥義を伝道所で聞いた筆者は、そのまま友人の下宿に直行し、何故か興奮気味にノートに書き、聞いた講義の骨子を話した情景をありありと思い出します。異邦人の筆者ですら失楽園の物語を、あの時既に知っていたのです。(了)



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