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論点⑧ 三位一体論の考察

🔷聖書の知識51 論点⑧-三位一体論の考察

あなたがたは行って、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施しなさい(マタイ28.19)

[三位一体論とは]

キリスト論が、イエスキリストが誰か、その本質や位格を論じる神学であるのに対して

三位一体論とは神がどのような構造と構成を持った存在なのか、具体的には、父(神)と子(イエス)と聖霊がどのような関係で神を構成しているのかという問題を扱っています。

「三位一体」(trinity)という用語それ自身は聖書の用語ではなく、古代カルタゴの教父テルトリヌアスによって最初に使われた用語でした。

キリスト教の三位一体の教義が最終的に確立されたカルケドン公会議(451年)で、「神は唯一の実体であり、父、子、聖霊という3つの位格(人格)を有し、そして父・子・聖霊は各々が神であり、しかも同質で一人の神として存在する」と宣言されました。

即ち、「父と子と聖霊は、それぞれ独立した神であるが、そこに三人の神がいるのではなく、三者は完全に一つとなっており、そこにいるのは一人の神である」(梅本憲二著「やさしいキリスト教神学」P36)というわけであります。

そしてこの三位一体の教義は、聖書の啓示であり奥義であるとされています。


神学者のジョージ.カランツィスは、「聖書は一貫して、神が父なる神、子なる神、聖霊

なる神を証言しており、神が三位一体であることは、キリスト教徒にとっては基本的な信仰告白です」といい、「神が一つであることと、同時に神と子と聖霊が相互に異なっていることを理解しなければなりません」と語っています。(キリスト教神学Q&A教文館P57)

そして、三位一体は、3人の神がいるという「三神論」ではなく、また神が父と子と聖霊という三役をしている、といった「様態論」も否定されています。

また、エホバの証人が主張するような、唯一の真の神は父なる神であり、子と聖霊は神の被造物で、御子は被造物の最初の最良の者という「従属主義」でもないといっています。

三位一体論においては、神は一つの実体(本質substantia)と、「父なる神」、「ロゴスである子なる神」(イエス・キリスト)、及び「聖霊なる神」の本質を一つにする三つの位格(persona)において、永遠に存在すると言い表されているのです。

救済摂理の経綸においては、父なる神により造られ、十字架に架けられたのは子なる神(第二位格)、信徒に新たな命を吹き込んだのは聖霊で、神のすべての活動は、同時に、父と子と聖霊の活動であると言われています。

即ち、唯一の神が、天地創造において父なる神として、救いの経綸において子なる神(イエス・キリスト)として、救いの導きと聖化において聖霊なる神として働くというのです。(経綸的三位一体論)

[カルケドン信条までの道のり]

この、三位一体論は、ニカイア公会議(325年)の頃から第1コンスタンティノポリス公会議(381年)の頃にかけて整理され、カルケドン公会議で確立され、カトリック教会、聖公会、プロテスタント、東方諸教会で教義として支持されています。

正統派のアナタシウス派(ニカイア派)は、ニカイア会議(325年)でアリウス派を、エフェソス公会議(431年)でネストリウス派を、カルケドン会議(451年)で単性論を異端として排除し、ここにいたって三位一体論は完結しました。

そしてアタナシウス派は、ニカイア会議、エフェソス公会議で、イエスキリストは神であり人であるという教理が確立されましましたか、次に聖霊をどう考えるかという新しい間題が加わりました。

信者に癒しや平和を与えるのは、聖霊という形で信者の心に宿るキリストであると考えられました。しかし、聖霊に神性を認めれば、論埋的には多神教となってしまうので、会議後もアリウス派との対立が続きました。

ようやくテオドシウス帝によって381年に召集された第一コンスタンティノープル公会議で、「聖霊の神性」は認められ、神は父と子と聖霊なる三つの位格(ペルソナ)を持つ、すなわち、父なる神と子なるイエスと聖霊とは各々完全に神であるが、三つの神があるのではなく、存在するのは一つの実体(スブスタンティア)、一つの神である、とされました。これが三位一体説であり、現在に至る基本的な正統の教理とされています。

また、この二回の公会議で確定した教義なので、「ニケーア・コンスタンティノポリス信条」といわれています。

この会議で、聖霊を被造物とし、神と異なるものと見たマケドニウス派が異端とされました。聖霊の神性が認められたこの三位一体の教理は、4つの世界公同信条(使徒信条、ニカイア信条、アナタシウス信条、カルケドン信条)によって告白されています。

なお、このニケーア・コンスタンティノポリス会議で「フィリオクエ」(聖霊は子からも発する意味)という句が書き加えられ、以後論争をおこしました。

フィリオクェ問題とは、正教会では「聖霊は父より発する」とされますが、カトリック教会では「聖霊は父と子より発する」とされる点の相違であります。キリスト教の神学上最大の論争のひとつで、カトリック教会と正教会の分離、いわゆる1054年の大シスマ(東西分裂)の主因となりました。

[三位一体論は一種の信仰告白である]

しかし、この三つが一つであり、一つが三つであるという教理は、極めて理解が難しく、著名な神学者もその難解さを率直に吐露しています。

ヘンリー・シーセンは「三位一体の教理は偉大な神秘である。唯一の神でありながら、同時に神格に三位格があるというようなことが、どうしてあり得るだろうか」(「組織神学」P224)と告白し、AEマクグラスは「三位一体論は、キリスト教神学において最も混乱を招く側面となっている」(「キリスト教神学入門」P437)と表明しました。

又アメリカの3代大統領ジェファソンは、「三位一体論は、キリスト教神学の中で最も当惑させられる領域」と述べ、「三位一体論的数学という理解不能な専門用語」という言葉まで引用しています。(「神学のよろこび」P189)

一部のプロテスタント教会においては、16世紀から19世紀にかけて、三位一体論は不合理であるとしたり、信仰者の生活への混乱をもたらすとして批判がなされてきました。  

こうして、三位一体論が難解であることはキリスト教会において前提となっており「三位一体論は、理解する対象ではなく信じる対象としての神秘」とされ、一種の「信仰告白」であると言われています。

即ち、この三位一体の教理は、一神教という枠を保持しながらキリストと聖霊の神性を両立しようとする信仰の論理、即ち「信仰的事実」であるというのです。

[異端との対比]

上記の難解な三位一体論がどういう教理かを理解するために、三位一体でないもの(異端)と対比することより明確になると思われます。以下、異端とされた教理を簡単に見ていきます。

古代においては、アリウス派、ネストリウス派、単性論、現代では、エホバの証人、モルモン教、世界平和統一家庭連合(統一教会)、ユニテリアン、クリスチャン・サイエンス、イエス之御霊教会、キリストの幕屋、等の諸教派は三位一体論を否定しています。

アリウス派は、キリストは神性的存在であるが神と同一ではなく「被造物」としました。つまり「キリストは、神ではなく被造物たる人間であり、神よりも劣る」という教理です。  

しかし上記の通り、この考え方は三位一体論の否定に繋がり、325年のニカイア公会議で異端とされました。

一方、ネストリウス派はイエスの両性を認めますが、「位格は神格と人格の二つの位格に分離される」とし、「イエスの神性は受肉によって人性に統合された」と考えます。そのため、人性においてイエスを生んだ母マリアは単に人間の子を生んだだけなので、「神の母」と呼ぶことを否定し「キリストの母」と呼びました。

このネストリウス派もエフェソス公会議(431年)で異端とされ、以後、ペルシャ帝国、中央アジア、モンゴル、中国に伝わりました。中国では景教と呼ばれ、最澄や空海にも影響を与えたと言われています。

更に、単性論は「キリストの人性は二つの性からなるが、受肉による合一以後、人性は神性に融合し摂取され単一の神性人になった」とするもので、カルケドン公会議で異端とされました。この単性派は非カルケドン派と呼ばれ、シリア正教会、アルメニア教会、コプト正教会、エチオピア正教会などが属しています。

現代の三大異端の一つであるエホバの証人は、聖書に三位一体という言葉はなく、三位一体の教理は非聖書的でバビロン的な慣習だと批判しました。神の唯一性を強調し、位格について一位格であり、本性についても一性であるとしています。そしてキリストは、エホバによって最初に創造された被造物とし、又、聖霊は非人格的な神の働き、活動力としました。

又、モルモン教は、神は以前骨肉を持つ人間であったとし、肉体を持つ天の父なる神と、その長子をイエス・キリストとし、イエスをキリストと証明する聖霊を信じています。父なる神とイエス・キリストと聖霊はそれぞれ別個の存在であって、人類の救いという目的のために常に一致して事をなすとされています。

即ち、父・子・聖霊が、それぞれ人格神であることは認めていますが、それぞれ別々の神とし、3つの人格が同質一体であることを否定し(三位一体論の否定)、多神教に近い神観を持っています。

また上記した通り、三神論、態様論、従属説は正統的な三位一体論から異端的教理とされて斥けられています。

[更なる考察と原理観]

三位一体の神の聖書的根拠として、創世記1.1の神「エロヒム」が複数型であり、神の内の複数性を示唆するとし、また「父、子、聖霊の名によるバプテスマ」(マタイ28.19)と明記されていることなどを挙げていますが、三位一体という言葉自体は聖書にはありません。また、人間マリアから生まれたナザレのイエスを神とするのは、理性に照らしていかにも受け入れがたいものがあります。

結局、三位一体論の問題点は、神・イエス・聖霊の関係を、本来三者の関係性と見るべきところ、実体と見たところにあると言えるでしょう。三者を実体的な関係とし、イエスと聖霊を神と同一視したことで、ユダヤ教やアリアス派、イスラム教などからも多神教ではないかとの批判を浴びました。

原理は、神は自体の中に性相と形状(そして属性としての陽性と陰性)の両性を持ち、それが統合された存在(中和的主体)としていまし給うとしています。これは神自体の構造を示したものであり、性相的存在、形状的存在、そして中和的主体としての存在という三位一体の構造になっているので、その意味ではまさに三位一体の神ともいえなくもありません。

この神の三位構造は、神が自体内の男性性相(性相)と女性性相(形状)が一体となった「父母」という神概念によって表され、多神性は退けられて神の唯一性は維持できるというのです。神は「天の父母」であり唯一の神というのです。

そしてこれは神自体の構造を示したものですが、このような構造を持った「父母なる神」が、その神の実体対象として創造されたのが宇宙であり、その中心たる人間であります。

個性を完成した人間は、男女が結ばれて夫婦となり家庭を形成いたします。そして「家庭」とは、神の愛と真理を中心として、神、夫、妻、子の4つの格位を持って一体となった被造物としての四位基台として表されます。

その場合の神とは神の愛と真理を中心としために見えない性相的中心という意味であります。同様に、神、イエス、聖霊、信徒の関係は、目に見えない神を中心として、イエスと聖霊と信徒が被造物として一体となった四位基台を意味しています。

その意味で、神を中心に、イエス、聖霊、信徒はまさに三位一体と言えるでしょう。

上記の原理観に対して、神学者の尾形守氏は、「作りごとの創造原理によって、三位一体論を勝手に定義している。この教義は、キリスト教の三位一体の神ではなく、彼らがいう四位基台を構成している三つの関係を表現した用語に過ぎず、平気で三位一体という用語を人間の場合にも使っている」(尾形守著「異端見分けハンドブック」P96)と批判しています。

しかし、神を中心としたイエス、聖霊、信徒の三者を三位一体と表現したことがなぜ問題なのか理解に苦しむところであります。何も三位一体という言葉は、キリスト教の神を表す専売特許ではありません。

我々は「新たに生まれなければならない」(ヨハネ三・3)のであり、新生するためには生み直して下さる父母がいなければなりません。そのために、真の父即ち後のアダム(1コリント15・45)として来られたイエスと、真の母たる聖霊によって新生されなければなならないというのです。

「霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生されるのである。これを霊的重生という」(講論P266)とある通り、イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な父母として、信徒を霊的に新生させるというわけです。

しかし、イエスが十字架に架けられることによって、サタンの侵害を受けた肉体には、なお原罪が残され、その十字架の贖罪は霊的新生に留まったというのです。

即ち実体的(霊肉)新生は、再臨によってなされるのであり、ここに「見よ、わたしはすぐに来る」(ヨハネ黙示録22.12)と言われた通り、イエスが再び来なければならない理由があります。

そうして講論は次の言葉で締めくくっています。

「ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らによって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである」(講論P268)

この点内村鑑三は、「人の救いは、霊だけではなく、霊と肉とによる救いでなければならず、霊の救済は十字架により成就しましたが、身体の救済は再臨によってなります」と明言し、「基督再臨とは万物の復興である。また聖徒の復活、神政の実現である。人類の希望を総括したもの、それがキリストの再臨である」(関根正雄編著『内村鑑三』)と語っています。

以上、今回はキリスト教の根本教義である三位一体論を考察しました。この教義は伝統的なキリスト教教義の最も重要な柱であると共に、最も理解が困難で多くの批判に晒されてきた教義でもあります。

今まで論じてきたように、この三位一体論の問題は、ひとえにイエスと聖霊をその本質において神と同視したことに発すると言わねばなりません。こうしてキリスト教の三位一体論は、キリスト教神学者らの懸命の弁償にも関わらず、「理解不能の信仰的事実」として歴史的に棚上げされてきたのです。

七つの巻物の封印を解き、聖書の奥義を明らかにされる「ユダ族の獅子、ダビデの若枝」の到来を切に待ち望みます。主よ、来たりませ!

次回から「.神」(第一位格の神)について考察していきます。歴史的な神の類型、神を知る方法、先端科学の神認識、原理の神の特徴などを再認識していきましょう。何故なら、神こそ人間の存在根拠、生命の根源、歴史の主宰者であるからであります。(了)



*上記絵画:二つの聖三位一体(バルトロメ・エステバン・ムリーリョ画)

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