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佐藤優の論文「統一教会敵視キャンペーン 背後に共産党」を読み解く 宗教と信仰の本質

◯つれづれ日誌(令和4年10月5日)-佐藤優の論文「統一教会敵視キャンペーン-背後に共産党」を読み解く-宗教と信仰の本質


このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。(ヨブ記1.20~21)


この9月27日に安倍元総理の国葬儀がしめやかに執り行われ、世界から約50人の元首級を含む700人の要人が列席しました。これは安倍氏の国際社会への影響の大きさ、果たした貢献の高さを如実に示すもので、未だかってなかったことです。「自由で開かれたインド・太平洋」構想を提唱し、戦後日本が、「国際秩序形成者」に初めてなり得た時代を築きました。


しかし、この安倍氏のテロ事件に関連して、UCと当該事件をことさらに関連付け、マスコミはUCがさも安倍氏暗殺の元凶だとの印象操作、レッテル貼りに狂奔しているかのようです。「試練も神のご計画のうちにある」とは、ある牧師の言葉ですが、神は、この出来事を通して一体何を言おうとされているのでしょうか。この事件をどのように解釈し、またどのように生かせばいいのでしょうか。


【正論を語る論客】


このような中、最近、名古屋大学教授などを歴任した参政党顧問の武田邦彦氏が、参政党代表の松田学氏との対談動画の中で、旧統一教会と自民党政治家との関係を秋の国会で野党が追及するとした上で、これはいわゆる「モリカケ問題」と同じ類いで、お門違いの不毛な議論になると批判しました。


更に武田邦彦氏は、UC関連団体(UPF・WFWP)は、国連経済社会理事会(ECOSOC)の総合協議資格を持つ国連NGOで、グローバルな活動を、しかも長期に渡って行っているとし、「これはUCを批判する野党らより上じゃないか」と発言しました。


このように、ワイドショーレベルの大衆迎合的な情報に振り回されるのではなく、事実を踏まえ、特にUCのグローバルな活動に注視しなけれは、真実は見えて来ないというのです。


つまり、何十年前の、いわゆる霊感商法問題を蒸し返し、また政治家とUCとの関わりを悪いことだと決めつけて、ネガティブな報道を垂れ流すマスコミは、何故こう言った世界レベルの社会貢献活動を報道しないのでしょうか。


この点、前衆議院議員で「日本の尊厳と国益を護る会」副代表の長尾たかし氏は、月間Hanada11月号に「自民党は信教の自由を犯すのか」との論文を投稿し、「その背後に共産主義対反共産主義との戦いがある」と断言されました。背後に左傾化したマスコミらのUC潰しの意図があるというのです。


更に長尾氏は、自民党が「UCと関係を絶つ」との方針を出し、「これを守れない議員は処分する」と茂木幹事長が発言したことについて、「これは信教の自由への侵害であり、信じる宗教によって差別するものだ」と警告しました。(同P250)


これらの論客の発言は正に正論であり、左傾化するマスコミと宗教的文化後進国日本の偏った風潮への警告であるかのようです。このように、神は必ず市井(しせい)に優れた弁護人を準備して下さっていることを見せて下さっています。ホリエモンこと堀江貴文然り、桜井よしこさん然りであり、月刊誌のWILL、Hanada、正論などには公平な見解が掲載されています。


このような中で、9月29日、旧統一教会との関係をめぐり、細田博之衆議院議長は、UC関連団体の会合に出席したことなどを認めた上で、「今後社会的に問題があると指摘される団体などとは関係をもたないよう適切に対応する」などとするコメントを発表し、そして、「私が知るかぎりでは(統一教会)関係者は普通の市民であり、法令に反する行為を行っているとの認識はない」と表明しました、


細田氏は、「社会的に問題があると指摘される団体」という表現を使って、UCを名指しせず、また、UCが「法令に反する行為を行っているとの認識はない」と明言して、さすがに清和会元会長の矜持(きょうじ)を示しました。


そこは、自民党の萩生田光一政調会長が、10月2日のNHK番組で、党所属国会議員と旧統一教会との関係について「結果として教団の信頼を高めることに寄与してしまったのではないかと反省している」と述べた言葉と対極をなしています。萩生田氏は、政調会長という公職の立場があるとは言え、ワイドショーが喧伝しているように、豹変してUCがそんなに悪い団体だと思っているのでしょうか。


佐藤優氏・武田邦彦氏・長尾たかし氏


【佐藤優の論文を読み解く】


さてそのような中、作家でクリスチャンの佐藤優氏は、「統一教会敵視キャンペーン-背後に共産党」というタイトルの論文を発表しました。(WILL11号P82~87)


佐藤氏は同志社大学神学部でキリスト教神学を修め、20世紀の激動期にナチズムとマルクス主義の狭間を生き抜いたチェコの神学者ヨゼフ・フロマートカ(1889~1969年)の研究家であり、自らをプロテスタントのキリスト教徒と告白しています。


ちなみに学生時代は、原理研究会のメンバーと神学論争を行ったと述懐しています。また、筆者は佐藤氏の著書『自壊する帝国』を読んで、神学が現実の国際政治を動かす力であることを知って、神学への現実的な動機を与えられました。


そこで、キリスト教徒ならではの切り口で、いわゆる統一教会問題を論評した佐藤氏の論文について、以下の通りその論点を検証したいと思います。


<論点①-政教分離ではなく政治倫理の問題>


政府・自民党は旧統一教会との関係について、岸田総理は「断絶する」と述べ、茂木敏充幹事長は「関係があることが判明したら離党させる」と表明し、UCとの関係を精査すると述べました。


佐藤氏は、この問題を「政治と宗教」という切り口からとらえると事柄の本質が見えなくなると指摘し、また、宗教団体との関係を徹底的に調査する行為は 、近代民主主義の大原則が「内心の自由」「信教の自由」を尊重することであり、この観点から問題があるとの疑問を呈しました。


この佐藤氏の指摘は当を得ており、経済学者の高橋洋一氏が、自民党が各議員にUCとの関係について「アンケート調査」を行ったことは、思想調査であり踏み絵だと明言し、憲法の「思想及び良心の自由」(憲法19条)、及び「信教の自由」(憲法20条)に抵触する可能性があると指摘した通りです。


経済学者の竹中平蔵氏も自らの動画で、UCは悪い団体であると決めつけ、その悪い団体と関係を持った政治家も悪いという構図は、極めて乱暴で意図的な決めつけであり、またそのようなマスコミに忖度する自民党も問題だと語りました。なお、竹中氏は反セクト法制定には明確に反対されています。


また、富山県の新田八朗知事は、記者が「何故、旧統一教会との関係を断つと明言しないのか」と詰問したのに対して、「関係を断てと宣言しろということだが、これは宗教に対する圧迫にあたると私は理解している」と明言しました。


そして佐藤優氏は、旧統一教会問題は、宗教や信仰の問題ではなく、霊感商法や高額献金などの具体的な個々の行為を問題にすべきだとし、こう言った問題は、宗教団体に限らず、企業、労働組合、学校、NPO法人なども同じであるとしました。


そして、公人である政治家が、違法行為や社会通念から著しく逸脱した行為が頻発している団体との支持・協力関係については、常に慎重に対処することはあり得ることで、これは政教分離の領域ではなく「政治倫理の問題」であると主張しました。


ただ、政治倫理の問題であるとしても、一体何が反社会的行為なのが、その定義は難しく、恣意的な判断になって、その団体・個人の人権侵害にならないよう留意すべきだとも指摘しました。


前記した長尾たかし氏も、元東京地検特捜部検事高井康行弁護士の「異端の存在を認めないところに自由主義もなければ民主主義もない」との発言を引用しながら、「社会的に問題が指摘されている団体」の定義が不明確だと警告しています。つまり、日本の低い民度の象徴たるワイドショーレベルで物事が動いくことが懸念されるということです。


<論点②ー宗教の政治関与は政教分離違反ではない>


次に佐藤氏は、宗教団体には、①宗教を人間の内心の問題と考えて、政治や社会の問題から距離を置く団体、②宗教が人間の全生活を律すると考える団体、という二つの類型があるとし、②のような信仰を持った宗教団体が、宗教活動を通じて政治的活動をすることを排除することはできないと指摘しました。


例えば、神道政治連盟、佛所護念会、立正佼成会、創価学会などは政治活動を行っており、こういった宗教団体が自らの価値観を政治に反映する為に積極的に活動することは、民主主義の多元性、寛容性を維持する上でむしろ重要だとしました。


また政教分離の形態にも二つのパターンがあり、一つはソビエト型で、宗教団体は内面の問題だけを扱えばよいという立場であり、政治や社会問題には口を出すべきではないという考えで、中国や北朝鮮も採用しているとし、一方で、日本や米国、ドイツは、国家が特定の宗教を優遇することは許されないが、宗教団体が自らの思想に従い、政治的な活動をしたり、特定の政策を推進することは認められているというのです。ドイツの「キリスト教民主同盟」などのように、キリスト教の価値観に基づいた政党がいくつも存在します。


佐藤氏は、今回、日本で起こっている議論の多くは、ソ連型に傾斜しているように見え、宗教団体は如何わしいものだから、政治には関与すべきではないという風潮が見られると警告しました。


そして、「政治は、問題のある宗教法人とは距離を置け」という議論は、「問題ある宗教団体」が恣意的に定められる可能性があるから危険であり、それは宗教迫害、人権侵害につながる可能性を秘めているとも主張しました。


そもそも政教分離とは、国家が特定の宗教を優遇したり、また特定の宗教に不利益を与えることを禁止したもので、宗教が政治に関与することを制限したものではありません。即ち、政教分離とは、信教の自由を担保するための「制度的保証」であり、従って、宗教団体が政治活動をすることに何の問題もないということです。


<論点③-反宗教を標榜する共産党の狙い>


特に今回の旧統一教会問題については、日本共産党の追求が激しさを増しており、共産党は次の2点を狙っていると佐藤氏は指摘されます。


一つは、日本共産党綱領にある「政教分離の原則の徹底を図る」ことを強調し、政治と宗教を分断しようとしていることで、この方針は現行憲法が保障している宗教団体の政治活動を不当に規制する危険性があるということです。


そしてもう一つは 、日本共産党は反共思想を持つ旧統一教会を目の敵にしており、この機会にUCを潰すという意図の元に、自民党とUCとの関わりを徹底的に追及して、両者を分断する戦略に出ていることです。


そもそも共産党は、科学的社会主義を標榜して、 「宗教は人民のアヘンである」として宗教を否定・弾圧し、マルクス・レーニン主義を世界的に輸出してきたコミンテルンが元祖であると佐藤氏は主張されます。


日本の場合はキリスト教だけではなく、神道、もっと言えば皇室ですら弾圧の対象になり得るのであり、共産党のUC潰しには、このような反宗教的な思想的背景があるというのです。


ただ、保守的な有識者の中にも、例えば弁護士の徳永信一氏のように、1991年にソ連が崩壊し、文鮮明教祖が北朝鮮の金日成と会ったころから、UCは打倒共産主義の旗を降ろして、「日本悪玉論に基づく贖罪史観を強調するようになった」(正論11月号P131) 、といった見方をする人がいますが 、それは大きな誤解です。文教祖は、北朝鮮の議会でも、金日成に面と向かっても、主体思想は間違っていると断言し、主体思想の旗を降ろして、神主義に立つべきだと強調されました。


ちなみに徳永信一氏は京大の学生時代、UCホームに出入りし教義に触れたことがあり、かなり興味を持ったと証言しています。しかしそれでも信仰には至らなかったのは、その原罪理解に起因する「性と恋愛に対する厳格さ」であったと率直に吐露しています。


つまり、若かった徳永氏には、「性愛に禁欲的な信仰生活はとても耐えられないと思えた」と告白した上、テレビなどで統一教会の信仰体系を小ばかにし、違法な洗脳があったと決めつけ、信仰者を哀れむコメントを吐く出演者の高慢に遭遇するが、「吐き気をもよおす」と切り捨てました(正論P129)。


筆者は、UCが自虐史観に染まっているか否かは別として、この徳永氏の内的心証は痛いほどよくわかり、大いに共感いたしました。


ところで、そもそもUCの掲げる勝共思想の本質とは、唯物論を掲げて神を否定し、宗教を抹殺しようとする共産主義に対して、宗教を擁護し、「神の復権」を目指す一種の福音運動であるというのです。中共や北朝鮮を見るまでもなく、共産主義思想が地上から無くなるまで、勝共の旗を降ろすことはあり得ません。


今回の度を過ぎるUC叩きの背景には、UCが反共思想を実践してきたことにあると指摘する言論人は多々いますが、佐藤氏のように、そもそも共産主義が無神論的な反宗教思想を持っているといった共産主義の本質まで掘り下げて論じる言論人は少なく、さすがにキリスト者佐藤優の面目躍如です。


<論点④ー宗教と献金-献金の本質とは何か>


更に宗教と献金、言い換えれば宗教とカネの問題が提起されています。不当な方法でカネ(献金)を集めることと共に、そのカネの使途が問題になっています。


旧統一教会に関しては、韓国に献金を通じたお金が渡っているから問題だと言われています。しかし、そんなことを言い出したら、ローマ・カトリックへの献金はどうなるのか、米国の教会と関係しているキリスト教関連団体の献金はどうなるのか、チベットの仏教であれば、インドにお金が渡っていることを問題にするのか、と佐藤氏は指摘されます。


また宗教団体への寄付に上限規制する法案が浮上していますが、佐藤氏はキッパリ反対を表明されています。


つまり、宗教団体は国からお金の援助を受けていませんので、例えば150万円を上限としたら、とてもではないが新しい寺や宗教施設をつくることが難しくなるというのです。数百万単位で寄付してくれたり、教会や寺院をつくるために土地を寄進する信者がいるからこそ、新しい施設ができるし、それは将来、文化遺産になる可能性だってあるというのです。


かってカトリックは聖ペテロ寺院を修復するために免罪符を発行して、ルターから批判されましたが、そもそも宗教団体は信者の寄付で成り立っている側面は否定できません。また献金とは、信者個々人の神への「贖罪」、神の恩寵への「感謝」、神の国実現への「同参と寄与」、という本質があり、あくまでも献金は信者の自由意思に基づく聖なる信仰行為であるというのです。従って、献金行為を法律で上限を設けたり、規制したりすることなど、それこそ内心の自由を犯すもので、宗教や信仰に馴染むものではありません。


10月4日、勅使河原教会改革本長の記者会見があり、消費者庁の報告によれば、例えば2021年の霊感商法関連の相談が全体で1441件あり、その内UC関係が27件だったとう説明がありました。これは相談全体のUCに占める割合は1.9%で、2009年のコンプライアンス宣言以来、消費者庁の発表でさえ相談件数が激減していることを示しています。


そして勅使河原氏は、更に改革を進めるために、一定額以上の献金の場合は事情を確認しその是非を斟酌すると共に、受領書を発行するなど、献金自体に制限を設けるかのような新たな改革案を提示しました。しかし、佐藤氏も指摘している通り、そもそも献金の本質は信仰行為であり、献金の上限を制限したり、枠をはめるかのような人為的な規制は、内心の自由への侵害になりかねず、慎重でなければなりません。


<論点⑤ー宗教二世・三世についての問題>


山上容疑者の母親が信仰を持っていたということもあり、今、宗教二世の問題が注視されています。


しかし、親が正しいと思う宗教的な価値観を家庭に持ち込むことを禁じれば、北朝鮮や旧ソ連と同じことになってしまうと佐藤氏は指摘します。


佐藤氏自身、母親がクリスチャンであり、自分がキリスト教徒になったのは母の影響であるとし、そのために弊害があったことは一度もないと証言しています。むしろ、ソ連崩壊という不安定な時期にも動揺せず仕事ができたり、鈴木宗男氏の事件に連座して逮捕され、メデアパッシングにあっても、「神様の前に恥ずかしいことをしていなければいいんだ」という母親の言葉を胸に、様々な試練を乗り越えることができたと告白しました。


親の宗教を家庭内で教えてはいけないとするのは行き過ぎで、どこに線を引くべきかは、法律ではなく常識の範囲内で線引きすればいいというのです。例えば学校に行かせないとか、あるいは断食を強要するなど、法律に違反する行為や、あるいは社会通念から著しく逸脱する問題があった場合には、先ず児童相談所や行政機関に相談すべきことです。


とにかく今は旧統一教会問題を契機に、信仰を持つことすら一方的に断罪してしまう空気が蔓延していることは大問題で、このまま全体主義のような社会になってしまうのか、日本の民主主義は正念場を迎えていると佐藤氏は警告しました。


【安倍事件とUC問題が突き付けたもの】


筆者は、この前のつれづれ日誌で、「アゴラ」の論客藤原かずえ氏が、マスメディアに完全に洗脳されている日本社会の脆弱性(ぜいじゃくせい)を問題にし、「日本社会は、日本マスメディア教会という疑似宗教の狂信的な信者である」と指摘された発言を取り上げました。


筆者は、佐藤氏と同様、宗教に対するあまりにも浅はかな理解に基づき、深みのない道徳を振りかざす日本社会の宗教的後進性、ぬるま湯的な宗教的未熟性を嘆かざるを得ないものです。その意味で、今回安倍事件が突きつけている事の本質は、宗教の根本意義を日本社会に問題提起していると言えなくもありません。


さてUCに反対する被弁を含む言論人は、「UCは悪いが、信者に悪い人はいない」というのが相場になっているようです。実は、この「アンビバレンス」にこそ問題解決のヒントがあると言えるのではないかと筆者は感じています。


ちなみにアンビバレンスとは、ある対象に対して、相反する感情を同時に持ったり、相反する態度を同時に示すことで、たとえば、ある人に対して、愛情と憎悪を同時に持つこと、あるいは尊敬と軽蔑の感情を同時に持つことです。


確かに反対派は、UCを悪の元凶のごとく叩いていますが、信者個々人については、むしろ真面目でよい人ばかりだとの評であります。少なくとも一般信者の悪口を聞いたことはありません。一体、とんでもなく悪い宗教が、何故よい信者を生み出せるというのでしょうか。


今後、捜査が進む過程で、山上容疑者の真の動機が明らかになり、UCへの冤罪が晴れるのではないかと筆者は信じるものですが、今、UCとその信徒は、未曾有の試練に遭遇していることは確かです。筆者の信仰人生を振り返っても、これほど激しく、これほど深刻な試練を知りません。一体神は何故このような患難を与えたまうのか、何故神は未だ沈黙されて私たちを救おうとなさらないのか、このような祈りを誰しもがしたことでしょう。


今筆者は、その解決のヒントを、神から耐え難い試練を受けたヨブの信仰に見出だしています。ヨブ記の主題は、「善なる神が造った世界に何故悪が存在するのか 」、「悪人が栄え義人が苦難を受けるのは何故か」といった、いわゆる「神義論」を扱い、そして「人生の 苦難や試練の意味」とは何かを問うています。


「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1.20) との聖句に見られる通り、試練に際してのヨブの信仰は、見上げたものがあります。神は時に義人を訓練することがあるというのです。


そしてヨブ記の結論は、神は全てを創造した万能の神であり、人間の知識や知恵では計り知れない崇高な存在であるということでした。


「この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた。『無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え』」(ヨブ記38.1~4)


神は自らの大きさを示すように、地の広がりを知っていること、大雨が降り注ぐ水路を作ったこと、金星の軌道を調整することなど、 自分が為した偉業の数々を披露され、むしろ神に論争を挑もうとするヨブの傲慢な姿勢を問題にされました。


遂にヨブは、神に圧倒され、自らが神の前に小さな取るに足りない存在であることを悟り、降りかかる運命を甘受していきます。


「そこでヨブは主に答えて言った、『私は知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを』」(ヨブ記42.1~6)


こうしてヨブは、神の主権の絶対性の前に膝まづき、自分の神への傲慢に気づき塵と灰の上で伏して自分を悔い改めました。神の祝福も呪いも、すべからく無償の愛に起因していると理解し、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をもうけるべきではないか」(ヨブ記2.10)と告白した以前のヨブに回帰しました。


そうして神は、ヨブを見捨てていないことを示され、謙虚に悔い改めたヨブを、物心両面でこよなく祝福されたというのです。(42.7~17)


神の主権は絶対であり、試練はより深い神との再結合のためにある、これがヨブの結論でした。


「忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである」(ヤコブ5.11) とある通りです。


ヨブと彼の友(イリヤ・レーピン画・部分)


私たちもヨブに倣って、この未曾有の患難に際して、私たちの為すべきことを為した上で、全能の神の「見えざるみ手」を信じようではありませんか。(了)



上記写真画像 * 佐藤優氏・武田邦彦氏・長尾たかし氏