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何故キリスト教は日本に根付かないのか再考 山本七平「空気」という日本教の猛威

◯つれづれ日誌(令和6年1月17日)-何故キリスト教は日本に根付かないのか再考ー山本七平「空気」という日本教の猛威 

 

人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。ステパノはひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。(使徒行伝7.54~60)


ステパノの石打ち(レンブラント・ファン・レイン画)


「一年の計は元旦にあり」と言いますが、筆者は、年頭に当たって、神様からひとつの宿題を与えられました。それは「古典」をしっかり学びなさいということでした。古典とは歴史的価値を持つとして、時代を超えて認めれてきたもので、後世の人の教養に資すると考えられる著述作品であります。 

 

もちろん聖書はヘブライズム思想を代表する古典の最高峰と言えますが、本年神が筆者に与えた宿題とは、ヘレニズムの源にあるソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの古典哲学、及び『源氏物語』『枕草子』『方丈記』『徒然草』『平家物語』などに代表される日本の古典文学を理解しなさいということでした。(なおプラトン著『国家』は全米大学ランキングで1位で、最もよく読まれている本といわれる)

 

前々回(1月3日)のつれづれ日誌は「哲学の父ソクラテスの思想、及び金明熙(キムミョンヒ)女史との聖人祝福結婚について」でありましたが、筆者はこの論考を通じて、初めてヘレニズム思想の源であるギリシャ哲学と本格的に取り組むきっかけが与えられました。若きアウグスチヌスが、キケロ著『ホルテンシウス』を読んで哲学に目覚め、プラトンと出会ってキリスト教神学にプラトンの哲学を活用し、またトマス ・ アクイナスが自己の神学体系にアリストテレスの思想を借用したように、哲学はキリスト教神学を導く家庭教師のような役割をすることがあるというのです。 

 

ちなみにアウグスチヌスが感化された「新プラトン主義」とは、プラトンのイデア論ー人間の認識の背後にある真実在の世界をイデアとし、その影としての展開が現実に存在するものと考える思想ーを継承し、万物は一者から流出したもの(流出説)と捉える思想で、紀元3世紀頃にエジプトの哲学者プロティノスによって確立されました。プラトンのイデア論を徹底し、ギリシア哲学の主要思想や東方の宗教思想をも加えて成立した神秘主義的傾向が強い思想であると言われています。新プラトン主義の「一者」の思想は容易に「一神教」と結びつき、中世ヨーロッパのキリスト教思弁哲学の基盤のひとつとなり、キリスト教教理の発展に寄与し、中世の神学・哲学に大きな影響を与えました。 

 

また イタリアの貴族の家に生まれたトマス・アクィナスは、ドミニコ会修道士からパリ大学教授となり、アリストテレス哲学をキリスト教信仰に調和させて解釈し、信仰と理性の一致をめざしました。トマス神学の最大の特徴は、信仰(神秘)と理性、神学と哲学の統合を目指したところにあり、トマスは、13世紀中世の「スコラ学」(哲学)を大成したと言われています。即ちキリスト教信仰とアリストテレス哲学を統合した総合的な体系を構築したことであり、このトマス神学最大の課題である「信仰(神秘)と理性及びその関係」は、中世を席巻したスコラ学の最大のテーマでもあります。 

 

ちなみに「スコラ学」とは中世(4世紀末~15世紀)のヨーロッパキリスト教世界で盛んになった学問のスタイルで、 問題を理性的に、理づめで答を導き出し、主としてキリスト教神学を、ギリシア哲学(特にアリストテレス)によって理論化、体系化することにありました。「哲学は神学の婢(はしため)」とはトマス・アクィナスの言葉ですが、「真の宗教とは真の哲学であり、その逆もまた真である」ということがスコラ学の基本的命題だと言われることがあります。 

 

奇しくも文鮮明先生は、2008年4月9日の韓国総選挙で家庭党が惨敗し、同4月19日にヘリコプター事故で九死に一生を得たあと、同年8月18日、清平訓読会のみ言の中で、「ギリシャ哲学の平和の概念を編み直して解決しなさい」と言われ、ギリシャ哲学を評価されると共に、その克服を願われました。 

 

一方、今年のNHK大河ドラマが「光の君へ」であり、日頃ほとんどテレビには縁がない筆者でしたが、この1月7日、たまたま当該ドラマを見る機会がありました。このドラマは日本文学の傑作である『源氏物語』を書いた紫式部の生涯を描いたものですが、筆者はこれを見ながら、平安時代や日本の古典文学を学びたいという強い衝動に駆られました。無論、内村鑑三や李登輝も古典に精通しており、また今回のテーマである「何故キリスト教は日本に根付かないのか」という命題に関わる「日本(人)とは何か」「日本人の無常観・死生観とは何か」を知る上で欠かせない資料であります。 

 

こうして筆者はこの歳になって、遅まきながら世界と日本の「古典」に1年をかけて取り組むことを、今年度の課題にいたしました。いままで筆者に古典的な教養が希薄であったことを恥じると共に、古典的教養は信仰と相俟って、豊かな人間性を育む養分になることを信じます。ある姉妹曰く、「私にはそんな時間も能力もありません。誰かがまとめて下されば、それを学びましょう」と....。 

 

【何故、日本にキリスト教が根付かないかー空気という宗教(=日本教)の存在】 

 

さて、「何故、日本にキリスト教が根付かないか」という命題は過去多くの神学者、牧師、論客が色々論じてきた馴染みのテーマです。周知の通り、信教の自由、言論の自由が最大限認められている先進国家で、クリスチャン人口が1%未満なのは日本だけだというのです。もちろんキリスト教文化の影響は絶大なものがありますが、信者自体は全体で実質0.5%くらいではないかとも言われています。0.5%(60万人)と言えばキリスト教から異端とされているUCとほぼ同じ信徒数であり、そのように考えれば、一神教のキリスト教系教団で日本のUCは善戦していると言えなくもありません。 

 

クリスチャン人口が1%未満の国は、例えばイラン、トルコ、アフガニスタン、イエメン、ソマリアなどで、これらの国はイスラム教という強固な宗教が、既に存在しているので、他宗教、なかんずくキリスト教は入り込む余地がないというのです。また、タイやブータンやネパールも強固で独自の仏教が国民宗教となっているので、1%を切っています。即ち、既にその国に強固な宗教が根を張っている場合、キリスト教が入るのは極めて困難だということであります。 

 

<空気という宗教> 

 

ではこの点、日本はどう考えればいいのでしょうか。山本七平によれば日本には「空気」という強固な宗教(=日本教)が厳然と存在しているので、キリスト教が広がるのは難しかったというのです。つまり日本には、得体の知れない「空気」という目に見えない宗教が支配しているというのです。山本七平は著書『空気の研究』で、「空気」というキーワードを手掛かりに、このテーマを紐解きました。そしてクラウドチャーチの小林琢馬牧師は、その空気という非キリスト教的宗教が、日本人にしっかりインストールされているので、キリスト教は阻まれたという趣旨のことを、山本七平の『空気の研究』を引用しながら説明しました。 

 

では一体「空気とは何か」、それは「如何なる特質を持っているのか」について、以下論じることにいたします。 

 

<空気とは何か> 

 

空気とは非論理的な世論やムードと似た概念で、得体の知れないつかみどころのないものですが、人の判断を左右する力を持つ日本の潜在的な疑似宗教(日本教)だというのです。 山本七平は、著書『ユダヤ人と日本人』の中で、日本人は皆、無意識の内に信じている日本教という宗教の信者であり、日本人が信じているのはキリストや仏教や神道ではなく、正に日本教であり、日本人は「日本教仏教派、日本教キリスト教派」であって、「帰属しているのはあくまで日本教」だと指摘しました。現住所は仏教でありキリスト教であっても、本籍は日本教だということでしょうか。言い換えれば「空気」という日本教の信者であります。更に、「日本教は世界で最も強固な宗教である」とした上、それは「その信徒自身ですら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっている」(『日本人とユダヤ人』角川ソヒィア文庫P119)と語りました。 

 

山本七平は、「空気とは、非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ判断の基準であり、それに抵抗するものを異端として、社会的に葬るほどの力を持つ超能力である」(『空気の研究』P22)と定義しました。戦後マッカーサーが昭和天皇に「この度の戦争についてどう思うか」と聞いたところ、天皇は「戦争には反対だったが、あの時の空気では反対と言えなかった」と答えたといいます。正に空気は天皇をも拘束するというのです。 

 

ここで空気が大きな力を発揮した典型的な具体例として、2つの事例を挙げたいと思います。即ち「戦艦大和の不可解な出撃」、及び「理不尽なUCの解散請求」であります。 

 

世界最大・最強と言われた戦艦大和が、沖縄へ海上特攻隊として向かい、1945年(昭和20)4月7日、鹿児島県の坊岬沖で米軍により撃沈され、3000人余の兵士が犠牲になりましたが、この出撃を決めたのは緻密な作戦によるものではなく、出撃せざるを得ない当時の「空気」だったといいます。 

 

当時の軍令部次長・小沢治三郎の談として、「全般の空気よりして、当時の特攻出撃は当然と思う」と文藝春秋刊『戦艦大和』で述べました。つまり、大和の出撃を無謀とする人々には、「それを無謀と断ずるに足る細かいデータや根拠」がありましたが、一方、出撃を当然とする方の主張は、「そういったデータや根拠は全くなく、その正統性の根拠は専ら『空気』なのである」と山本七平は述べています(『空気の研究』P16)。 



 

もう一つの典型事例は岸田政権による「旧統一教会解散請求」の決定であります。お笑い芸人の太田光氏が奇しくも「旧統一教会叩きで世論が一方向に向かっていく。それがすごく危ない」と発言しましたが、事件の究明も客観的な事実の検証もなされないまま、とにかく「UCのせいだ」「UCは悪い」というマスコミの根拠なき風評だけが日本を席捲することになりました。そしてこの風評に逆らう言論は太田光氏のように集中砲火を受けるというのです。 

 

使徒行伝7章54節~60節には、キリスト教最初の殉教者となったステパノの殉教の場面がありますが、「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った」とある通り、根拠なきステパノ憎しの感情が一旦形成されると、だれも手をつけることができない空気が人々を支配するというのです。 

 

こうしてUCもUCを擁護する者も「非国民」のレッテルを貼られ二級市民に転落を余儀なくされることになります。正に、これが山本七平がいう「それに抵抗するものを異端として、社会的に葬るほどの力」を有するという「空気」であります。そして岸田首相はこの空気に抗し難く、前代未聞の理不尽な解散請求を決定してしまいました。 

 

<空気の特徴> 

 

では、天皇をも拘束する日本独特の空気は、如何なる特徴を持っているのでしょうか。 

 

その大きな特質は、「空気は明文化されず、経典も教祖も存在せず、従って明確な教えがない」という点です。しかし、明文化されていない「空気という経典」があるというのであり、日本人は確かに、無色透明でその存在を確認できにくい空気という日本教の経典に拘束され易い傾向にあります。 

 

その日本の空気という経典の特色は、先ず「唯一神」という観念がないという点です。日本の神概念は多神教と言われ、キリスト教の一神教の神と共存できません。従って「神との契約」という観念が成り立たず、日本は、西欧の契約社会と違って、ルールがあるようでないという曖昧さがあり、「空気が法に勝る国」という傾向があるというのです。 

 

そして物事に白黒つけたがらない曖昧な特質があり、この点、キリスト教の善悪を区別する聖書的な聖別(分別)思想は、和を重んじ、ことを荒立てることを嫌う日本の空気と合わないところがあります。確かにキリスト教には、物事を神(善)かサタン(悪)かに分け、和よりも分別を重んじる傾向があるようです。ヤハウエの神は、ヨシュアにカナン7族の殲滅を命じられたり(申命記7.1~2)、サウル王にアマレクのジェノサイドを命じられました(サムエル上15.3)。 

 

かって筆者は、日本にキリスト教が根付けなかった理由として、a.一神教を受け入れる土壌がなかったこと、b.白黒分別を要求する分別思想が和を重んじる日本の思想と合わなかったこと、c.罪観・贖罪観の違い、d.神道・仏教などの高等宗教が既に存在していたこと、e.先祖供養・現世利益といった土着化に失敗したこと、f.摂理的事情、を指摘しましたが、これを山本七平流に言えば、空気という強固な日本教がインストールされているので、キリスト教は浸透を阻まれたということになります。 

 

【空気は一瞬に変わり得るー限界突破点】 

 

しかし、空気は一変する可能性があります。限界突破点がくると、一瞬に変わり得るというのです。空気は合理的理由が希薄なので、あるきっかけと条件があれば合理的理由なく変わるのであり、その典型的な例が明治維新であります。 

 

明治維新は黒船来航をきっかけに、旧来の全ての体制、即ち政治の仕組み、経済の在り方、教育の価値観、文化の性質などの一切を根本から変える大変革をもたらしました。このような血をほとんど流さない完全な変革は、世界にも類例がなく、ある意味で旧来の空気の限界点における一点突破の変革と言えるのではないかと思料いたします。そしてこのような空気の一変は戦後の変革にも見られます。天皇のいわゆる「玉音放送」が限界点突破のきっかけになり、一瞬に空気は変わりました。 

 

前記の牧師は、「日本でキリスト教が広がらない唯一の理由」という問題提起し、それは日本人が無意識に支配されている空気が変わっていないからであり、この空気はあるきっかけで一瞬に変わると指摘しました。ではこの多神教的な日本の空気を変えるためには何が必要なのでしょうか。それは棚からぼた餅という消極的態度ではなく、前記した「キリスト教が根付けなかった理由」をよく吟味した上、伝えることを止めない、伝えることを諦めない、伝えることを楽しみとするといった姿勢に徹していくことに他なりません。そしてこれらの積み重ねがある限界突破点に達したとき、劇的な空気の変革がもたらされるというのです。 

 

以上、今回は山本七平の『空気の研究』を材料に、日本人が無意識に帰依している空気という宗教について論考いたしました。中曽根康弘元首相は、政治指導者にとって最も大切な要素は「政治理念・哲学を持っていることだ」と言いましたが、戦後日本の首相の中で政治理念を持っていた人物は、中曽根康弘の他には、岸信介、安倍晋三が挙げられます。翻って今の岸田文夫首相は、その理念のないことにかけては最悪であり、これでは悪しき空気の餌食になるのが関の山です。今ほど、非論理的・非合理的な空気という宗教を制御し、その舵をとる羅針盤が必要な時はありません。理念と哲学を持った政治家よ出でよ!  (了)

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