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使徒信条を原理観で読み解く⑥ 子なる神について(3) マリア信仰と聖像論争

🔷聖書の知識161ー使徒信条を原理観で読み解く⑥ー子なる神について(3)-マリア信仰と聖像論争


アヴェマリア、恵めぐみに満ちた方、主はあなたとともにおられます。 あなたは 女のうちで祝福され、 ご胎内の御子イエスも祝福されています。 神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、 今も、死を迎える時も、お祈りください。 アーメン。( アヴェ・マリア天使祝詞)


前回、 使徒信条のフレーズ「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ」の解説、即ちマリアの処女懐胎の真相を論及しました。今回は、キリスト教におけるマリアの位置付け、果たした役割、マリア信仰とその是非などについて考察いたします。


【カトリックのマリア信仰】


冒頭の「アヴェ・マリア天使祝詞」は、「主の祈り」と共に、カトリックではよく親しまれている祈祷文です。ちなみにアヴェ・マリア(ラテン語 Ave Maria)とは、「こんにちは、マリア」または「おめでとう、マリア」を意味します。


1866年3月17日、長崎市浦上の住民十数名の潜伏キリシタンが大浦天主堂を密かに訪ね、プティジャン神父に、自分たちがカトリック教徒であることを名乗り出ました。この事実は、世に「信徒発見」と言われ、世界が驚愕しました。


彼らは大浦天主堂に「聖母像」があることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきた、いわゆる「隠れキリシタン」であることを告白したのです。


このように、潜伏キリシタンが大浦天主堂に「マリア像」があるのを見て、ここがカトリックの教会であることを知ったように、カトリック教会には随所にマリア像が置かれています。しかしプロテスタントの教会にはマリア像はありません。


筆者はザビエル以来のキリスト教が、カトリックの宣教によって担われてきたこと、そして潜伏キリシタンに象徴されるように、カトリック信者が多くの殉教の血を流してきたことを知るにつけ、改めてこれら潜伏キリシタンが慕い信奉する「マリア信仰」とは何かについて関心を深めた次第です。


ではカトリック教会は、何故マリア像を置いているのでしょうか、そもそもマリア信仰とは何でしょうか。この項では「マリア」について考えて見ることにいたします。


【マリア崇敬、マリア信仰の系譜】


マリアはイエスの生みの母であり、大工ヨセフの配偶者であります。このマリアは、特にカトリックやギリシャ正教においては聖女の中の聖女として崇められています。


<マリア崇敬>

マリア崇敬とは、イエス・キリストの母マリアに、恩恵の仲介者、援助者として、神への「執り成し」を願うことを骨子とする信仰であり、また、その表現や行事などを指します。これは古代からの伝統によってカトリック教会および東方正教会において共有されている信仰であり、「聖母崇敬」とも言われています。 カトリック教会では、マリアを「祈りと神への執り成し」をもってキリスト者を助ける存在、神の母、教会の母として、崇敬の念を持って慕われています。


このマリアに対する崇敬は、三位一体の神に向けられる「礼拝」よりは下位ですが、他の天使や諸聖人に対する崇敬とは本質的に異なる、一段高い「特別崇敬」として扱われています。


ちなみにギリシャ正教では、マリアは「生神女」(しょうしんじょ)、ないしは「童貞女」と呼ばれ、カトリック以上にアリアを神聖視しています。生神女とは、「神を生みし女」を意味し、童貞女とは、「永遠の処女」の意味で、正教会では生神女マリヤを神の母、第一の聖人としてキリストと限りなく同格に位置付けています。


<何故カトリックはマリアを崇敬するのか>


では、マリア信仰は何故カトリックに取り入れられたのでしょうか。 一つは、女神信仰の取り込みです。


後世、キリスト教が地中海世界に広がるに際して、大きなウエートを占めていた「女神信仰」や「地母神信仰」が問題になりました。女神信仰とは、エジプトのイシス信仰、バビロンのイシュタル信仰などに見られる人間の母なるものを慕う心性であります。


豊穣と愛欲のバビロンの女神「イシュタル」は、カナンではアシュタルテ、ギリシャではアフロディア、ローマではヴィーナスと呼ばれ、女神信仰の源流になりました。日本では、アマテラスがその役割を担っています。


カソリックや東方教会では、キリスト教を浸透させるためには、こういった地中海世界の女神信仰や地母神信仰を吸収し、これを取り込んでいくことが必須であり、これら女神信仰をマリアによって代置させ、キリスト教の土着化を計ったというのです。


即ち、マリア信仰は、地中海世界に根強くあった女神信仰をマリアの中に組み込み、ギリシャ・ローマ世界、ヨーロッパ世界の文化風習を取り込んで、土着化に成功して勢力圏を広げました。


また庶民には、マリアという母性は、ともすれば畏れ多い父性的な神やイエスより親近感があり、親しみやすく、マリアに神との仲介を民衆は託したというのです。キリスト教の歴史の中で、 マリアは憐れみ深い仲介者、人類の保護者として大きな人気を得るようになっていきました。そうして、一神教であるキリスト教の枠内で、宗教に女性的な感性を求める地中海世界の伝統的な宗教的欲求を満足させたというのです。


土着化の典型例として、マリア信仰の他に、クリスマス、ハロウィンを挙げることができるでしょう。クリスマスは、元々ローマで盛んだったミトラ教の冬至のお祭りだったのをキリスト教が取り込んだものであり、ハロウィンは、ケルト人の風習で、先祖の霊を迎えるお盆のような行事だったのをキリスト教的にしたものです。


戦後韓国においてキリスト教が激増した要因の一つとして、韓国に古来からある巫俗(ふぞく)シャーマニズムという民間宗教を取り込んだことだと言われています。 つまり、韓国のプロテスタントは、キリスト教が一般的に忌避するシャーマニズムの神秘主義を大胆に取り入れ、これが韓国の風土と合致し、教会の急成長をもたらしたというのです。


こうして、キリスト教は、その本質を維持しながら、各地域の伝統的な宗教と寄り添い、吸収して土着化に成功していきました。


【マリア神格化の歴史】


マリア神格化の歴史は、既に福音書におけるマリアの「処女受胎説」から始まっています。


<処女受胎伝説>


前回述べましたように、処女受胎とは、特に処女マリアによるイエス・キリストの受胎というキリスト教における伝説で、マリアが男性との交わりのないままイエスを身篭ったことであり、イエスとマリアの神性を強調することに一役買いました。使徒信条に「聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ」とある通りです。


マタイ1章20節には、「その胎内に宿っているものは聖霊によるのである」とあり、マタイ福音書では、イザヤ書からそのまま引用されています。


「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」(マタイ1.23、イザヤ書7.14)


これらマリアの処女受胎説、聖霊による身籠り説は、前述しましたように色々論争のあるところですが、キリスト教では、概ね受け入れられ信仰されています。そして受胎告知のほとんどの名画には、「百合の花」がモチーフとして描かれていますが、これはマリアの清楚な気品を象徴したものです。


ちなみに天一国の国花はバラとユリで、国鳥は鶴と定められ、いずれも純潔を象徴しています。


そしてカトリックでは、マリアの神格化が、以下のように図られて行きました。


<神の母の称号、永遠の処女>


先ず、431年エフェソス会議で「神の母」の称号が与えられました。


マリアが神の母であるとは、キリストの神的位格を生む母であることを意味し、ここでいう位格とは、他の存在に依存することなく(自立存在)存在する人格のことをいいます。


この神の母の称号を巡っては、ネストリウス派が異論を呈しています。コンスタンティノポリス総主教ネストリウスにより説かれたキリスト教の一派で、神の母の称号を否定して、人的位格を生んだ救世主を産む者という「キリストの母」と主張しました。


結局エフェソス公会議で、ネストリウスの教義は異端と宣告され、マリアが神の母であることが宣言されました。ここに至ってマリアは神聖を宿した特別な人間であることが確認されました。


そして533年、第2回コンスタンティノープル公会議で、マリアの「永遠の処女性宣言」がなされ、マリアはヨセフとも関係しなかったとされて、文字通り永遠の処女と信じられるに至りました。これでは、イエスに兄弟姉妹がいたとする4ヶ所にも渡る聖書の記述(マタイ13.55~56、マルコ6.3、ヨハネ2.12)はどうなるというのでしょうか。


しかし、にもかかわらず、マリア信仰は庶民にとって、神とキリストへの止まり木として、慈愛と母性の象徴として人気を博してきました。ゲーテ作『ファースト』の締め括りの言葉「永遠に女性的なものが、我らを高みへと引きて昇らしむ」が正にこれを物語っています。


<無原罪の御宿り及び被昇天の教理>


また1950年には「無原罪の御宿り」の教理が宣言されます。


無原罪の御宿りとは、聖母マリアが、神の恵みにより、 存在のはじめから一切穢れを受けていなかったとするカトリック教会における教義で、無原罪懐胎とも言い ます。


無原罪の御宿りの教義は、「マリアはイエスを宿した時に原罪が潔められた」という意味ではなく、「マリアはその存在の最初(母アンナの胎内に宿った時)から原罪を免れていた」とするものであります。


これには、特に19世紀のフランスでは「マリアの出現」報告が多発し、巡礼が盛んに行われ、民間でのマリア崇敬が高まっていたことが背景にあります。1820年以降に「ノートルダム」(我らの貴婦人)、「無原罪の御宿り」などマリアの名を冠する女子修道会が400以上設立されていると言われています。


フランスでのマリア崇敬の高まりを背景として、フランス大司教らが中心となり、ローマ教皇グレゴリウス16世に「無原罪の宿り」を教皇座によって正規の信仰として定義するように要求しました。 但し、ギリシャ正教やプロテスタントは、無原罪の御宿りの教義を認めていません。またこれを整合的に説明できる神学はなく、あくまでも信仰告白であり、信仰的事実と言うべきであります。


更に同時に、「マリアの被昇天」の教義が交付されました。


マリアの被昇天とは、マリアが死を経ずして霊魂も肉体もともに天に上げられたという教理で、1950年11月1日に、教皇ピオ十二世(在位1939~1958)が全世界に向かって、処女聖マリアの被昇天の教義を公布しました。


「われわれの主イエス・キリストの権威と、使徒聖ペトロと聖パウロの権威、および私の権威により、無原罪の神の母、終生処女であるマリアがその地上の生活を終わった後、肉身と霊魂とともに天の栄光にあげられたことは、神によって啓示された真理であると宣言し、布告し、定義する」(『カトリック教会文書資料集』3903)


聖書の中で、聖母の被昇天については直接書かれていませんが、カトリック教会は何世紀にもわたって伝達されてきた伝承(聖伝)を聖書とともに大切にしてきましたので、この聖母の被昇天の教義も神から啓示された伝承の一部分であること、即ち教会の教義であることを公布しました。


以上、こうして「神の母」「永遠の処女」「無原罪の御宿り」「マリアの被昇天」といったマリアの

神格化は行き着くところまで行き着きました。追い討ちをかけるように、1858年、フランスルルドの洞窟でのマリアの出現と癒し、1917年、ポルトガルのファティマでのマリアの出現と予言の奇跡などもあり、世界各地での神格化はさらに進みました。


筆者が二度訪問したポーランドのヤスナ・グラ修道院は、ポーランドのチェンストホヴァにある、聖母マリアに捧げられたカトリック教会の修道院であります。


ポーランド中から巡礼が訪れるヤスナ・グラには、聖母と呼ばれる戦争で焼けた黒いマリアのイコンがあり、このイコンの聖母は数々の奇跡を起こしてきたとされ、崇敬されています。修道院の一角には、癒されて不要になった義足や癒しの奇跡を示す品々が陳列されていました。


【マリア崇敬への批判と聖像論争】


このマリア信仰について、マリア像が礼拝堂にあることや、マリアへ祈ることから、しばしば「偶像崇拝」であるとの批判があります。特にユダヤ教、イスラム教、プロテスタントなどから、マリア崇拝は偶像崇拝であると批判され、「聖像論争」でも問題になりました。


<マリア信仰への批判>


聖書には、イエスを生んだ母(ルカ2.7)、十字架に付き添う母(ヨハネ19.25)、共に祈るマリア(使徒1.14)という聖なるマリアの記述がある一方、福音書にはむしろイエスと疎遠な母マリアが描かれており、概ね聖書はマリアに冷淡であります。


カナの婚礼で「婦人よ私とどんな係わりがあるのか」(ヨハネ2.12)と冷たくイエスがマリアを突き放す場面、「私の母とは誰のことか」(マルコ3.33)とのイエスの冷めた言葉、そして郷里の人々の「母はマリア、兄弟はヤコブ・ヨセフ・シモン・ユダではないか」(マタイ13.55)とのつまずきの言い回しなどがそれであります。


またカソリックでは、マリアは「永遠の処女」として神格化されていますが、聖書にはイエスに複数の兄弟姉妹(ヤコブ・ヨセフ・シモン・ユダ・姉妹)がいたと明記されており(マタイ13.55~56、マルコ6.3、ヨハネ2.12、使徒1.14)、つまりマリアはヨセフとの間に数人の子を産んでいるということになります。


しかしカソリックやギリシャ正教は、婚約前も、婚約中も、結婚後も永遠の処女だったという「永遠の処女」の信仰を持ち、聖書に記載されているイエスの兄弟とは「従弟」乃至はヨセフの前妻の子だったと解釈しています。また偶像崇拝との批判に対して、カトリック教会は、マリアに礼拝を捧げているものではなく、神への執り成しを願い祈る対象であり、「崇拝」ではなく「崇敬」であるとし、信仰の対象ではないと弁明しています。


<聖像論争について>


マリア像や聖像の是非を巡って、いわゆる聖像論争がありました。聖像論争とは、ローマ帝国内で大衆伝道の方便として使われていたマリア像などの聖像や聖画が、モーセの十戒第2項「刻んだ像を造ってはならない」に当たるか否かで論争があり、これが聖像論争と言われているものです。


即ち、東西のキリスト教教会に於いて聖像の可否をめぐる論争が勃発し、726年ビザンツ皇帝レオ3世が「聖像禁止令」を出し、聖像破壊運動(イコノクラスム)が広がり、東西教会の対立の要因ともなりました。


本来のキリスト教では、その母体となったユダヤ教の十戒の第2項が「刻んだ像を造ってはならない」とあり、偶像崇拝は厳しく禁止されていました。しかし、キリスト教が4世紀にローマ帝国に公認され、広く布教されていく中で、伝道の方便として、イエスやマリアや聖人の像が使われるようになりました。


ところが7世紀に東方教会に境を接する西アジアにイスラム教が起こると、イスラム教では徹底した偶像崇拝の否定が行われ、彼らはマリア像や聖像を偶像崇拝だとして、キリスト教を厳しく批判し始めました。その影響を受けて、ビザンツ帝国領のシリアやエジプトの聖職者の中にも聖像を偶像として、その崇拝を否定する考えが起こり、聖像を認める聖職者との間に論争となったというのです。


このような中で、726年、ビザンツ皇帝レオン3世は、「聖像禁止令」を発しました。この聖像禁止令は、偶像崇拝を禁じるイスラム教徒に対抗するためであり、また修道院領を没収するために聖像崇拝論争に乗じて禁令を出したものとも言われています。


但し、東方教会において、イコンそのものも、聖像擁護派も完全に無くすことは出来ず、843年には聖像禁止令は廃止され、「イコンの使用」が復活しました。しかし、それは平面像のみと言うもので彫刻や立像は認められませんでした。


一方,西方のローマ教皇グレゴリウス2世はゲルマン人の教化の必要性から「聖像は不可欠」として聖像禁止令に反対し,フランク王国との結合を強化して対抗しました


聖像禁止派は、キリスト像を描くことはその不可分とされている人性のみを分離することになり、三位一体説に反すると主張しました。それに対して崇拝派は、キリストは受肉した、つまり人間の姿をとった神であり、聖像は許される、ただし聖像そのものは神ではないから、あくまで聖像を通じて神を崇拝するのである、と主張し、カトリックでは聖像を認めてました。


そしてその結果、1054年、東西両教会は相互に破門しあって分離することになります。


【マリアの涙とはー極端な神格化に思う】


それにしても、カトリックのマリアへの極端とも思える畏敬には驚きます。


<涙を流すマリア>


聖母マリアのキリストのあがないの業への協力は、懐胎の時から既に始まっているとされ、マリアは、イエスの宣教活動の間イエスの言葉を受け入れ、信仰の旅路を共に進み、子との一致を十字架に至るまで忠実に保ち、十字架のもとに立たずみ、マリアは子とともに深く悲しみ、母の心をもってキリストのいけにえの奉献に自分を一致させたとされています。


「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(ヨハネ19.25)


まるでイエスに対する従順と献身において完全無欠だったと称賛しているかのようです。 また、「生涯における処女性」、「無原罪の御宿り」、そして「被昇天の教理」には驚きを通り越して違和感さえ禁じ得ません。ここまで神格化されるマリアは霊界において、果たしてどのように思っているのでしょうか。


秋田市郊外にあるカトリック「聖体奉仕会修道院」には、1975年から1981年までに101回も涙を流したという聖母マリア像が聖堂に安置されています。教区司教によって公認された聖母出現です。


マリアはこの修道院の病弱で苦しむ一人の修道女に「私はあなたよりも苦しんでいる」と語りかけたといいます。また、「血の涙」を流したマリアも世界には多々目撃され報告されています。


さてマリアは何故泣いたのでしょうか。このマリアの涙の意味とは何でしょうか。我が子イエスの惨めな十字架への悲しみでしょうか、それとも、自分が十字架に追いやったのではないかとの悔恨の涙でしょうか。 2019年4月15日、原因不明の火災で大きな損傷を受けた「我らの貴婦人」という意味のノートルダム寺院は、聖母マリアのために捧げられた聖堂ですが、この火災は心なしかマリアの悲痛な叫びを聞くような気がしました。


<悔恨の涙ーマリアの信仰と不信>


かってガブリエルのみ告げを受けたマリアは、親戚のザカリアの家に向かい、そこで3ヶ月を過ごしました。イスラエルの血統を残すという決死の信仰で、天使に告げられた通り急いでザカリアの家に入ったのです。ルカ1章39節~40節には次の通りあります。


「そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした」


3ケ月ザカリアの家に滞在し、妊娠したことが分かってマリアはザカリアの家を出ていきました。一体ザカリアの家で何が起こったのか、この暗示的な情景を描いたルカ1章39節~56節は聖書の奥義であり、原理は、マリアはこの期間にザカリアの子を孕んだと解釈していますが、ことの真相を悟るものは悟るがよいでしょう。


しかし神の啓示を受けたときの高揚感はいつしか消えていき、み旨が理解できないマリアになっていきます。


UC創始者は、「本来、ザカリア家庭がイエスの囲いになるべきだったのが、それが出来なかった」と言われました。また「イエスはザカリアの娘を新婦として娶るべきだった」とも言われましたが、しかし血族結婚を知っていたマリアは、この結婚に反対し、み旨を理解できないマリアになっていたというのです。


カナの結婚を描いたヨハネ2章4節には「婦人よ、あなたは、私と、何の係りがありますか」とあり、イエスとマリアの冷めた関係が浮き彫りにされています。


私たちも得てしてそうですが、一端、サタンの侵入を受けると、かって啓示によって受けた恩恵と感動を失うというのです。「初心に帰れ」という言葉がありますが、若き日の神との出会いを常に想起したいものです。


こうして、結果的にイエスが結婚して真の父母になる道を阻んだマリアになってしまい、これがマリアの悲劇であり、「マリアの涙の理由」であるというのです。


み旨が理解できなくなったというこのマリア観は、とりわけマリアを神聖視するカトリックにとっては、到底受け入れがたいものがあることでしょう。正にコペルニクス的なマリア観の解釈です。


しかし、前記した「十字架に付き添う母」(ヨハネ19.25)、「共に祈るマリア」(使徒1.14)という聖なるマリアの記述は、「悔い改めたマリア」と言われています。そしてマリアがキリストを産んだ母であることは確かであり、難しい立場を信仰をかけ、命懸けでメシアをこの世に産み出した女性というこの一点において、永遠に讃えられることに異存はありません。


以上、カトリックのマリア信仰について考察しました。次回は、使徒信条「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」のフレーズを検証したいと思います。(了)



上記絵画*糸車の聖母(レオナルド・ダ・ヴィンチ画)、無原罪のお宿り(ムリーリョ画)、マリアとエリサベツとの出会い(カール・ブロッホ画)