使徒信条を読み解く⑧ 子なる神について(5) 死にて葬られ、黄泉に下り
- matsuura-t
- 2022年11月9日
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更新日:2023年1月12日
🔷聖書の知識163ー使徒信条を読み解く⑧ 子なる神について(5) 死にて葬られ、黄泉に下り
死にて葬られ、黄泉(よみ)にくだり
使徒信条は、イエスの十字架のあとに、イエスの葬りと黄泉に下られたことが証言されています。
【死にて葬られ】
ルカ書23章50節~53節には、「ここに、ヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。 この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。 この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、 それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、墓に納めた」とあります。

キリストの埋葬(カール・ブロッホ画)
これによれば、イエスはヨセフに引き取られ、墓に葬られます。当時、処刑者は谷間に捨てられて鳥や獣に食べられるのが相場でしたが、町の有力信者ヨセフ(隠れキリシタン)が遺体を引き取ることを、特別にピラトが許しました。こうしてイエスは確かに墓に葬られたというのです。しかし、モーセと同様、聖書にはキリストにふさわしい葬儀が行われたという記録はなく、墓も具体的には特定されていません。
これはモーセも同じことで、「こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。主は彼をベテペオルに対するモアブの地の谷に葬られたが、今日までその墓を知る人はない」(申命記34.5~6)とあります。
イエス・キリストの墓は、イエスが埋葬された後に復活したと信じられている墳墓で、伝統によれば、キリストの墓の場所は正教会、カトリック教会などが共同管理するエルサレムの「聖墳墓教会」、あるいは聖公会などが管理する旧城壁外にある「園の墓」と言われています。しかしこのどちらにもキリストの遺骸は無く、死後復活したと信じられています。
ところで聖書は、摂理的人物に、その死体の扱いにサタン分立の特別な意味を暗示しています。ヤコブの死体に40日間防腐剤を塗ったとあり(創世記50.3)、モーセはその死体をもってサタンと戦い(ユダ9)、イエスも、その死体をめくって問題が起きました(マタイ28.12~13)。(原理講論P346)
では、葬りにはどういう意味があるのでしょうか。それは旧約聖書イザヤ書の預言の成就であるというのです。
「彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった」(イザヤ53.9)
つまり、イエスは一般の罪人のように、捨てられて鳥や獣の餌食になるのでなく、ちゃんと墓に葬られたというのです。そしてイエスが葬られたことは、復活と密接な関係があります。イエスが死んで確かに墓に葬られたことは、そこから初穂として死人が甦る起点になります。
ちなみに「福音の三要素」にも「墓に葬られたこと」が要件として含まれています。「福音の三要素」とは救いのための要件で、a.キリストは、私たちの罪のために死なれたこと、b.墓に葬られたこと、c.三日目によみがえられたこと、この3つを信仰告白することがその内容であります。
即ち、救いの条件はイエス・キリストの「十字架・埋葬・復活」の三要素ですが、埋葬はその一つに挙げられているというのです。以下がパウロによるあ根拠聖句です。
「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、キリストが、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、三日目によみがえったことである」(1コリント15.3~5)
【黄泉(よみ)にくだり】
次にイエスが十字架にかかり、死後黄泉に下られたとありますが、この意味について考えたいと思います。
さてマタイ12章39~40節には「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです」とあり、1ぺテロ3章19節には「こうして、彼は獄に捕われている霊どものところ(黄泉)に下って行き、宣べ伝えることをされた」とあります。
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イエス様が死んだのち、黄泉にくだってみ言を伝えながら三日間苦痛を受けたという事実はどういう意味でしょうか。それは、地獄のような最もどん底の境地に行って自ら苦痛とサタンの試練を受け、そのどん底から蘇りの道を開拓されたという意味であります。ここに「霊的復活の勝利的起源」があります。
三日間イエス様は、地獄を見物しに行ったのでなく、地獄の撤廃のために行かれました。そこに行って判決を下し、死亡の世界から生命の世界へと蘇る道を開いたというのです。
ちなみに黄泉(よみ)とは、ヘブル語でシオール、ギリシャ語でハデスといい、キリスト教では地獄ともパラダイスとも異なる概念で、死者が行く一時的な場所であります。ほとんどの死者が行く中間霊界と考えていいと思います。
ところで「こうして、彼は獄に捕われている霊どものところ(黄泉)に下って行き、宣べ伝えることをされた」(1ペテロ3.19)の解釈を巡って議論があります。即ち、文字通り福音を宣べ伝えて伝道されたという解釈と、黄泉に下って勝利の宣言をされただけだという2つの解釈です。
前者は、地上で福音を聞くチャンスが無くても、死後、死者も福音を聞くチャンスがあるという、いわゆる「セカンドチャンス論」の根拠聖句となっています。しかし「セカンドチャンス論」を認めない立場では、黄泉で勝利の宣言をされたと解釈しています。なお、セカンド・チャンス論については、「つれづれ日誌(令和4年1月12日)大川牧師のセカンド・チャンス論の検証」を参照下さい。
ちなみにUCでは、創始者の霊的勝利により、死者も福音を聞いて復活することができるという立場を取っています。
以上、「 死にて葬られ、黄泉(よみ)にくだり」を解説しました。次回は、「三日目に死人のうちよりよみがえり」、即ちキリストの復活を考察いたします。(了)