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宗教改革と対抗宗教改革③ カルバンの宗教改革

🔷聖書の知識122-宗教改革と対抗宗教改革③ カルバンの宗教改革


キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。(1コリント1.30)


冒頭の聖句は、ジャン・カルバン(1509~1564)が最も好んで使った聖句です。なんとなく、プロテスタント神学の大著『キリスト教綱要』を書いたカルバンらしさが表れています。


【ジャン・カルバンの宗教改革】


実はルターは、新旧対立の場でただひとりの宗教改革者だったわはありませんでした。 前回記しましたウィクリフやフスは宗教改革の先駆者であり、ルターより26才年下のカルバンはルターに影響されながらも、その影響圏はむしろルターを凌ぐものがありました。


今回は、宗教改革と近代化に大きな足跡を残したカルバンについて、その生涯と神学思想を考えたいと思います。


<ツウィングリーの影響>

1919年ころからチューリッヒに宗教改革をもたらした司祭のフルドリッヒ・ツウィングリー(1484年~1531年)は、カルビンより先行し、ルターよりもっと急進的な宗教改革の教義を説きました。そしてスイス改革派教会を創設しました。


ルターとは信仰義認や聖書主義では共通していましたが、結局、「恩寵」の解釈や「聖餐」の考え方で対立し袂を分かちました。ルターが、聖餐のパンと葡萄酒は、イエスの肉と血として共存するという「共存説」を唱えたのに対して、ツウィングリーは、イエスの肉と血の象徴だとする「象徴説」を唱えました。ちなみにカトリックは、聖餐(ミサ)においてパンと葡萄酒が実体的にキリストの肉と血に変化するという「化体説」、カルバンはキリストの霊的な臨在がパンと葡萄酒に伴うとする「臨在説」をとっています。


またツウィングリは過去のカソリックの伝統や儀式を退け、チューリッヒにおける改革は徹底していました。


1525年ツウィングリが定めた「主の晩餐」(聖餐式)は中世の典礼とは似ても似つかないもので、そうするなかで福音伝道主義の教義をつくり上げました。そしてそこから、ツウィングリに影響を受けたジャン・カルバンが、ルター派に代わる「改革派」の教義を確立していきました。


<カルバンの改革>

改革派教会とカルバンは、ルターについでプロテスタント宗教改革の第二段階目に位置すると言えるでしょう。


ルターは、今まで見てきましたように、宗教改革に決定的な役割を果たしました。しかし、もともとルター派は形式や構造において本質的に保守的で、領封国家カトリックの一形態であり、カトリックの教条的な面をそぎ落とし単純化されてはいるものの、外形的には中世のキリスト教と大きく変わらないものだったと言われています。ルター派の地域では、ルターの要請で、再編成は世俗の権威によって行なわれたというのです。


これと対照的に、カルバン主義は、現存の国家組織による整理作業ではなく、既成権力に囚われない急進的な改革で、神政政治の実験をこころみました。


ジャン・カルバン(1509~1564)は、ルターの宗教改革を受けて、より急進的、より聖書主義的に改革を進めました。ルターの聖書主義、ツヴィングリの福音主義などの影響を受け、1540年代にスイスのジュネーヴで宗教改革を実践し、改革派を形成しました。確かにカルバンは、改革派教会、改革長老教会を方向づけ、多大な影響を残す巨星でした。


ジュネーブの宗教改革記念碑(左から2人目がカルヴァン) ジャン・カルヴァンの肖像


<カルバンの略歴と回心>

1509年7月10日、パリ北部のノワイヨンで法律家の子として生まれ、早くから優れた教育を受けました。パリ大学の名門マルシュ学寮およびモンテーギュ学寮で、カトリックの聖職者を目ざしてスコラ学を修めましたが、のちに父親の意向に添って法学に転じ、ブールジュ、オルレアン両大学で法律学びました。


このころ人文主義を基盤とするフランス国内の教会改革運動に触れ、父親の死後はパリに戻って古典研究に没頭し、1533年には処女作としてセネカの『寛容論注解』を出版しています。


そしてカルバン自身が「突然の回心」とよぶ福音主義(プロテスタント)への転向が、いつどのような経過で生起したのかは、いまなお論議がありますが、1533年秋には明らかに信仰上の理由(プロテスタントへの転向)で、フランスからの亡命を余儀なくされ、各地を転ずる間にチューリヒやストラスブールなどの改革者たちと知り合っています。


若き人文主義者カルバンが、如何にして宗教改革者に変身したのか、その詳細は多くを語っていないので不明ですが、1557年に書いた『詩篇註解』序文に次のようにあります。


「私は教皇主義の迷信に、はなはだ頑なに溺れきっていたので、これほどに深い泥沼から私を引き上げることは、極めて困難だったに違いないが、神は思いもかけない回心によって、年のわりにはあまりにもにも頑なになっていた私の心を屈服させて、従順なものへと変えられた」


この回心こそ、彼の思想と信仰を一変することになりました。カルバンはヒューマニストから一転して、神主義、それも徹底した絶対的神主義者に変身したというのです。これをカルバン研究の第一人者である渡辺信夫牧師は「彼は神に全てを明け渡さずにおれなくなった。神が全てであり、自分が無であるような関係が始まった」と言い、「神が屈服させたもうた人」と指摘しました。(著書『カルバン』清水書院P42)


また、渡辺牧師は、「カルバンは、神の絶対的決定の思想を持ち、それも単なる思想ではなく体験として捉えた。カルバンは回心によって神を捉えたのではなく、逆に神に捉えられた」(同書P44)と指摘しました。正にカルバンは、神の絶対召命により服従し、神に捉えられた人になりました。 ここにカルバンの徹底した神中心主義が確立されました。


しかし、カルバンの福音主義への回心は、おる瞬間一挙に突然訪れたというより、次第に思考が熟していき、あたかも蚕が孵化するように、ある時の「決断」によって飛躍を遂げ、福音主義に変身したと思われます。


筆者も、信仰ないしは信仰告白とは、ある種の「決断」であると言えるのではないかと思っております。即ち、神を信じる決断、キリストを受け入れる決断、罪を告白する決断、罪の贖いを信じる決断、新生に預かる決断であります。


<バーゼルへ亡命ーキリスト教綱要出版>

1533年、親友のニコラ・コップは、パリ大学学長就任演説で、カトリックを批判しましたが、カルバンはその原案を書いたとされ弾圧の対象となり、コップは亡命し、1535年カルバンもスイスのバーゼルに亡命することになります。


そして1534年、パリなどでカトリックを誹謗する檄文が張り出される「檄文事件」が起こるとプロテスタントへの弾圧が激しくなり、カルバンは関与を疑われました。


1536年3月(27才)、スイスのバーゼル滞在中に、福音主義弁証の目的をもって執筆された『キリスト教綱要』(初版本6章)を刊行し、広く読まれ、論客として一目置かれるようになります。この本は単なる理論的な神学書ではなく、彼自身の信仰体験から出た熱烈な思いが込められたものでした。彼の回心体験から1年余のことです。


この『キリスト教綱要』は5度にわたって改訂・増補され、1559年出版の最終版は4篇80章の分量になり、1541年にはフランス語版が刊行されています。東京告白教会の渡辺信夫牧師が全巻を日本語に翻訳されましが、この『キリスト教綱要』は、プロテスタント神学の集大成として現代に至るもなお影響を持っています。


綱要の第一篇は創造主神について、第二篇は堕罪と贖い主キリストについて、第三篇は恩寵と聖霊について、第四篇は教会論、という構成になっており、綱要の冒頭にある、アウグスチヌスの言葉「私は進歩しつつ書き、書きつつ進歩する」が印象的です。


<ジュネーブでの宗教・政治改革>

カルバン自身は学究の道を志したようですが、偶然の事情から、宗教改革者のギョーム・ファレルに請われてジュネーブの教会改革にかかわり、それ以後没年に至るまで同市の宗教と政治、さらに市民生活全般の福音主義的改変に献身することになります。


即ち、1536年、旅行中のスイスのジュネーヴで、ファレルに強く要請され、同市の宗教改革に協力することになりました。当時、ジュネーブでは、宗教改革が行われていましたが、いくつかの困難に遭遇していましたので、カルバンの力を必要としたのです。


ジュネーブにおいてカルバンは、当時のカトリック教会の悪弊と誤謬を正すとともに、一方では世俗権力(具体的には市参事会)の支配・干渉から独立した自律的教会の形成を目ざしましたが、彼の企図は市会の強い反発を招き、1538年春にはストラスブールに亡命を余儀なくされました。この3年半に渡るストラスブール時代に、彼の思想は成熟していきました。


しかし3年後、情勢の変化があり、市民の要請で再びジュネーブに呼び戻され、以後、終生教会と市会に影響を与えました。「教会規則」を定めて教会改革を強力に進め、神聖政治を主導し、市民の日常生活にも規範を求めました。


またサン・ピエール教会の牧師およびジュネーブ学院神学教授として、年間数百回の説教と講義を続け、福音主義の教理と倫理を明らかにする努力を重ねました。キリスト教綱要のほか、聖書注解や各種の論争文、説教、書簡など膨大な著述は『カルバン著作全集』として収められています。


カルバンは教会権の自律性を確保し、平信徒代表も加わる「長老制」を事実上創始しまた。それは、専断に傾きがちな「監督制」でもなく、無秩序に陥るおそれなしとしない「会衆制」でもない第三の道、すなわち代表制の意思決定手段としての「長老制度」を採用し、これはやがて政治の局面にも転用され、近代民主主義の形成にも資するところ少なくありませんでした。


一方、マリアの処女懐胎や三位一体を否定したスペインの神学者セルベートを異端として処刑(1553年)に関与したことについて、宗教的に不寛容であり、また裁きを神に委ねなかったという意味で、カルバン生涯最大の汚点という論者もいます。


【カルバンの思想】


「神への隷属」「聖書中心主義」「禁欲・勤勉」を特徴とするカルヴィニズムは、ルターの信仰義認、聖書主義を受け継ぐものですが、その思想をより徹底したものとして知られます。  


その中でも「予定説」と「天職」はカルバンの思想的キーワードです。確かにカルバン神学の中心教義は予定説(二重予定説)であると言われていますが、しかしカルバンの中心思想を特定することは困難であり、徹底した「神中心主義」などと表現することもあります。


<予定説>

カルビンの予定説とは、「その人が救済に預かれるか否かは、あらかじめ(生まれる前から)本人の意思に関係なく、アダムの堕罪以前に神により定められている」(堕罪前予定説)というものであり、救いは、人間の善行や努力とは無関係で、「それらを超越した神の絶対的主権、信仰的決断に先行する神の選び」を強調しました。


アウグスチヌスもルターも予定説を説きましたが、カルビンの特色はもっと徹底した予定の二重性、即ち、「神は救われる者をあらかじめ選び、救われない者もあらかじめ選んだ」という「二重予定説」にあります。「完全無欠な創造主である神」に対置される「無力な被造物としての人間」のコントラスト(対照)がカルビニズムの宗教改革の特徴であります。 この「神の主権の絶対性」(意神主義)を内容とする予定説こそ、ルターの信仰義認説の徹底化であります。この思想は、前記のカルバンの回心、即ち神の主権の絶対性と人間の服従に由来するものと言えるでしょう。


予定の教義は、カルヴバンの死後も後継者の手によって発展し、1619年、ドルト会議の「ドルト信仰基準」(ドルト信仰告白)などを経て、死後約80年後のウェストミンスター教会会議(1643年~1649年)において採択された「ウェストミンスター信仰告白」(1647年)によって現代見られるような形で一応完成しました。


ちなみにウェストミンスター信仰告白とは、カルバン主義神学の伝統にある改革派信仰の信仰告白で、1646年にウェストミンスター会議で作成された信仰告白であります。スコットランド教会でも聖書に「従属する教理基準」として採択され、世界的に長老派教会の信仰告白として全面的に、また、一部の組合派とバプテスト教会でも修正して採用しています。


三位一体、イエス・キリストの身代わりの死と復活という伝統的神学、聖書のみ、信仰のみというプロテスタント信仰の教理、二重予定説、ピューリタンの救いの確信の教理というカルビニズム、などが告白され、またローマ教皇を反キリストと呼び、ローマ教皇を教会の頭とするカトリック教会のミサを偶像崇拝としました。


<予定説の効用>

自由意思に基づく善行(努力)を無意味化するカルビニズムの予定説ですが、予定説は逆説的に人間のキリスト教の信仰心を強化する作用を持っていました。


超越者である神が救済しようとする人間の判断基準(選考条件)は誰にも分かりませんが、少なくとも、キリスト教の信者であること、神の全知全能を肯定するカルバンの予定説を信じていること、などは必要条件と考えられます。神は全てを予定して事前に決定しているはずだから、「最後の審判で救われる予定に入れられている人間」は、全能の神をこの上なく尊敬し、キリスト教の聖書の教えを忠実に実践する「敬虔で篤実な信者であるはず」であるというのです。


このようにカルヴァンの予定説は、神に運命を予定されて自由意思のない被造物としての自己を意識化させると共に、プロテスタント信徒は、神が救済を予定している人間になろうとして自己啓発的に信仰に没頭していきました。森羅万象と自己の行為の全てに「神の導き(予定)」を感じ始めた人間は、自分が「神が天国行きを決定している人間」であることを信じようとして、聖書中心主義と福音主義の信仰にますます熱中する循環サイクルに突入していったというのです。


<天職思想>

では自分が神から選ばれていることをどうやって証明できるのでしょうか。カルバンは、職業を神の召命、即ち「天職」(Calling)として受けとり(職業的召命観)、神の選びのしるしは、与えられた天職を勤勉に行うことで得られる、即ち、「勤勉に働き、富を蓄積して成功することによって証明される」というのです。労働により得られた富は「選びのしるし」であり、更により公的なものに投資されると主張しました。


カソリックやルター派は利潤の獲得や富の蓄積に消極的姿勢を示しましたが、カルバンは肯定し、この考え方は当時勃興を始めていたヨーロッパの商工業者の支持を得ました。マックス・ヴェーバーは著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、「この禁欲と勤勉による富の蓄積が、絶対王政打倒に繋がる資本主義を生み出す原動力になった」と述べています。


<予定説への批判>

しかし20世紀に入ると、カール・バルトはカルバンの予定説を強く批判し、主著『教会教義学』の中で、「十字架の贖罪で万人が選びに定められた」としました。神の選びはイエス・キリスト自身であり、神に捨てられた救われないはずの者も、キリストが捨てられることによって神の選びに同参できるというのです。また後述するように、原理講論ではカルバンの予定説を「責任分担論」を通じて否定しています。(講論予定論P250)


これを受けて、改革派神学者たち自身が、二重予定説の立論そのものについての抜本的な再検討へと動き始めました。即ち、神の予定の二重性は「非均衡的」であること、つまり、選びと遺棄は同等の強調を置かれるべきではないこと、また、「キリストにある選び」という点、つまり、予定論のキリスト論的側面を強調することが重要であることなどの見解がそれであります。


<宗教改革者と自由意思の問題>

自由意思に関してペラギウスと争ったアウグスティヌス(354~430年)は、著書『自由意志論』の中で、堕落以後の人間は、全知全能なる神の意思を知ることは原理的に不可能であるとし、主体的(能動的)に善行を為して悪行を避けることなどできないとしました。即ち、人間には自由意思がない(あるいは極小さい)と断じ、善悪の究極的判断は神の意思のみに基づくと考えました。アウグスチヌスは自分の救いの体験より、「自分の力では罪の状態から抜け出られなかったし、自分が救われたのは不可抗力の恩恵(抵抗できない神の全能の恵み)による」と述べています。


ルターも、自由意思を擁護したオランダの人文学者エラスムスの「自由意思論」に対する反駁として書いた「奴隷意思論」の中で、人間の自由意思とは罪を犯させるだけのものでり、自由意思に基づく努力により救いが得られるというのは間違いで、「救いは全く神の意思、神の恵み」であるとしました。自由意思を認めることは「キリストを空しくし、全聖書を全滅せしめる」であろうとまで言っています。


カルバンも同じように自由意思を否定しました。アウグスティヌス、ルター、カルバンたちが自由意思を否定したのは、自由意思を肯定することにより、人間の救いが神の恵みと人間の自由意思による行為との協力となってしまい、神の恵みのみによって救われるという救いの原理が看過されるのを、彼らが一様に恐れたからであったといわれています。彼らの自由意思の否定は、あくまで堕落して罪深い人間における自由意思の否定であると思われます。


確かに講論においても、「善を求める本心の自由は、性的衝動という非原理的な愛の力の前に拘束され機能しなくなった」との表現があります。しかし「人間は罪によって自由を失うことになったが、自由を追求する本性だけは残っているので、この本性を拠り所に神は自由を回復する摂理を行い得る」としています。(講論P12)


【ルターとカルバンの違い】 

               

カルバンはルターの宗教改革の理念をより徹底化したと言われていますが、他にも違いがあります。先ず「聖餐式をどう考える」かという問題です。前記したように、ルターは聖餐のパンとぶどう酒に何らかの神秘的な形でイエス・キリストが宿っていると考えましたが(共存説)、スイスの宗教改革者は、これを十字架の犠牲を想起し、キリストが現存している象徴(しるし)として解釈しました。これがルターの「共存説」に対して「象徴説」です。最もカルバンの聖餐論は、キリストの霊的な臨在がパンと葡萄酒に伴うとする「臨在説」をとっています。


またカルバンは、カトリックにあった魔術的、非聖書的と考えるものを徹底的に排除し、礼拝の順序を変え、十字架像も撤去しました。それに対してルター派はカソリックの礼拝様式や会堂建築を継承しています。つまりスイスの改革者達は、古い伝統的な教会のあり方と徹底的な態度で決別いたしました。


更にカルバンは「長老制による教会政治」を唱えました。カソリックの司教制度(教皇・枢機卿・大司教・司教・司祭のヒエラルキー)を否定し、牧師と信者の代表である長老による教会運営を主張したのです。牧師・教師・長老・執事はその職種です。


一方ルター派は、牧師は信者に対する助言者に過ぎないとして、万人祭司の考え方が貫かれています。カソリックの教会制度が封建的教会運営であるとすれば、カルビン派は議会制民主主義、ルター派は直接民主制といったところでしょうか。


カルバンはジュネーブにおいてこれらの思想に基づき「神聖政治」を指導しました。神聖政治とは、政治的支配および権威の源泉が神に在るとする政治形態であります。


従って、十六世紀半ばに、西洋には三種の国家宗教があったことになります。つまり教皇のローマ・カトリック、領邦国家のルター派、神聖政治のカルバン派(改革派)であります。


なお人間性の特質において、ルターは霊的な躍動感に満ち、執筆も短編で挑戦的な文書でしたが、カルバンは情熱的な中にも、プロテスタントの体系的な神学を残しました。


【カルバン主義の進展と影響】  

                     

カルバンの教会は、「改革派教会」または「長老教会」と呼ばれ、イングランドではピューリタン、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、フランスではユグノー、オランダではゴイセンと呼ばれて、それぞれの地域で広がり宗教改革を推し進めていきました。  


改革とは、原型に戻すこと、つまり使徒たちによって建てられようとした初代教会に立ち返ることであり、改革派教会は、「神の言葉によって改革された教会」を意味します。


カルバンの実践はジュネーヴでなされましたが、彼の出版物はヨーロッパの多くに改革派教会の思想を広めました。カルバン主義の神学教理は、スコットランドで多数派となり(ジョン・ノックス)、オランダ、ドイツの一部と、またフランス、ハンガリーと、そこから独立してトランシルヴァニアとポーランドにも影響がありました。


<ピューリタンの源流>

これらの地域では、近代市民革命が勃興し、民主主義が始められ、産業革命を達成した先進国になっています。ある意味で、カルバンの思想は、ルターの影響を上回る広がりを見せ、ピューリタンの源流になりました。アメリカのニューイングランドへ移住したピューリタンの移民は、会衆派、長老派、バプテスト派など「改革派」と呼ばれるカルビン派が多数を占めています。


著書『キリスト教綱要』で示されたカルバンの教理は、ドルド会議(1610年)を経て、ウエストミンスター会議(1643年~1649年)で採択されることになります。


<ウエストミンスター信仰告白>

ドルド信仰基準として、「全的堕落・無条件的選び・限定的贖罪・不可抗的恩恵・聖徒の堅忍」などが定められ、また前記しましたように、ウエストミンスター信仰告白では、「三位一体・イエスの身代わりの死と復活・聖書のみ・信仰のみ・予定説・ピューリタンの救いの確信」などが謳われています。プリンストン神学大学のウヲーフィール氏は、ウエストミンスターの聖書観こそ、カルビンの聖書観、聖書自身の聖書観、イエス・キリストの聖書観であるとしています。


さらに旧約と新約とを神と人間との「契約」という脈絡において統一的に理解するカルバンの思想は「契約神学の流れ」にあり、国家に対する教会の自由の強調はユグノー、ピューリタンを経て「国民主権の思想」を育成し,その労働の倫理である「世俗内禁欲」の思想は「資本主義成立」の思想的基盤となりました。


以上、カルバンの宗教改革、その思想と影響について概観いたしました。次回は、ルターやカルバンが宗教改革の柱とした信仰義認の思想を、 カトリックの考え方や原理との対比を通じて検証し、更にカトリックの対抗宗教改革について論じていくことにいたします。(了)