教皇の死去に思う 教皇とは何か、カトリックの課題とは
- matsuura-t
- 5月1日
- 読了時間: 18分
更新日:5月7日
◯徒然日誌(令和7年4月30日) 教皇の死去に思うー教皇とは何か、カトリックの課題とは
信教の自由、思想と言論の自由、異なる意見の尊重なしに平和はありえません。(20日復活祭のフランシスコ教皇のメッセージ)
プロローグ

4月21日午前9時47分(日本時間午後2時30分)、第266代ローマ教皇フランシスコ(1936~2025)が脳卒中と心不全で亡くなった。享年88才。
教皇の死を受けて、新しい教皇が選出されるまで、教会の運営はファレル枢機卿を中心に「枢機卿団」によって行われる。そして20日以内に新しい教皇を選ぶためのコンクラーベ(教皇選挙会議)が始まる。枢機卿は、教皇の最高顧問団であり、教皇庁の元老院にあたるものとされる。
カトリック教会の枢機卿は現在252人で、そのうち80歳未満の135人が、コンクラーベへの参加資格を持つ。135人のうち3分の2以上の支持を得た枢機卿が出るまで投票が続けられ、30回目までに決まらなければ、単純過半数で決まる。コンクラーベはシスティーナ礼拝堂で行われる密室での投票である。
言うまでもなくローマ教皇は約13億人のカトリック信者の頂点に立つ宗教指導者であり、事実上、宗教界全体を牽引するリーダーとも言える存在である。従って、教皇の発言は、宗教問題に留まらず、思想、文化、政治などあらゆる分野に大きな影響を与えてきた。そこで今回、教皇フランシスコの信仰と施策、教皇の意味と歴史、カトリック教会の課題などについて論じることにする。
【教皇フランシスコ】
フランシスコは、第266代ローマ教皇(在位: 2013年3月13日 ~ 2025年4月21日)で史上初のイエズス会出身、史上初の南アメリカ大陸出身の教皇であった。
<フランシスコの葬儀>
2025年4月26日、教皇フランシスコの葬儀ミサが26日午前、バチカン市国の聖ペトロ広場で執り行われた。170以上の多数の国・地域の元首や首脳、王族、宗教指導者のほか、聖職者や一般参列者が集まり、平和と清貧を重視し、しいたげられた人々の尊厳尊重を説き続けた教皇を追悼した。教皇庁によると、広場とその周辺に集まった人数は、計約40万人という。
主だった参列者は、トランプ大統領、スターマーイギリス首相、マクロン仏大統領、ショルツ独首相、メローニイタリア首相、ゼレンスキーウクライナ大統領、グテレス国連事務総長、フォンデアライエン欧州委員長、岩屋毅外相、などである。
歴代教皇はバチカン内(サン・ピエトロ大聖堂)に埋葬されるのが慣例だったが、フランシスコ教皇の生前の希望通り、ローマ市内の庶民的な地区にあるサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に埋葬される。墓碑には特別な装飾はなく「フランシスコ」とだけ刻むようにと遺言した。
<フランシスコの略歴>
以下、フランシスコの経歴に関して簡潔に述べることにする。(参考-Wikipedia)
ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(フランシスコの本名)は、1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで、イタリア系移民の子として生まれた。ベルゴリオは20才の時に感染症により右肺の一部を摘出している。小学校を卒業後、会計士事務所で働いた後、サレジオ学院を経て、ブエノスアイレス大学で化学を学び学士号を取得した。またアルゼンチン時代はナイトクラブの用心棒や床の清掃、化学研究所での実験に携わっていたという。
またベルゴリオには子供の頃の淡い初恋がある。幼なじみの女性(アマリア・ダモンテ)に「君と結婚したときに買う家」との恋文を書き、「結婚できなければ司祭になる」と言ったという。
さてベルゴリオは1958年(22才)にイエズス会に入会し、神学校で司祭になるための勉強を始めた。1967年、本格的に神学の勉強を再開し、ブエノスアイレス州のサン・ミゲル神学院に進学し、1969年(33才)には司祭に叙階された。1973年にアルゼンチン管区長に任ぜられ6年間この職を務めた。
1986年3月には博士号取得の為、ドイツのフランクフルトにあるイエズス会が運営する聖ゲオルク神学院に在籍した。その後アルゼンチンに帰国し、サルバドーレ学院院長を経て、コルドバで霊的指導者・聴罪司祭を務めた。
1992年(56才)に司教に叙階された。1998年(62才)、ブエノスアイレス大司教となり、2001年(65才)、ヨハネ・パウロ2世によって聖ロベルト・ベラルミーノ教会の枢機卿に任命された。枢機卿として、ローマ教皇庁の5つの管理職的な地位に就いた。
2013年3月(77才)、前任のベネディクト16世が異例の辞任をしたのを受けて、南北アメリカ大陸および南半球から初めて教皇になった。
<フランシスコの生き様>
教皇になって初の記者会見で、「私は貧しい人々による貧しい人々のための教会を望む」と語ったが、これはまさにフランシスコ教皇の真骨頂である。
教皇選出後初めての日曜日、バチカン市国内の聖アンナ教会の説教において、「姦通の女」(ヨハネ8.3~11)の個所を引用し、イエスが示された通り「神の慈しみ」こそが世界を変えると力説した。そして「人が神を探す時、まず神が人を探されており、人が神を見出そうとする時、まず神が私たちを見出されます」と、自らが神に出会った時の回顧を通し、自らの信仰姿勢を語った。
質素な生活を好む枢機卿時代のフランシスコは、普段の移動の際にも地下鉄やバスといった公共交通機関を利用し、バチカンへ向かう飛行機もエコノミークラスを利用していたという。本当に質素で、自動車も携帯電話も持たず、新聞も靴下も自分で買い、いただいた贈り物は全て貧しい人にあげるといったエピソードがある。
イエズス会出身の司教を教皇に選んだことは、まさに聖イグナチウス、聖フランシスコの霊性に再び価値を置くことを意味する。なおフランシスコは、「日本のキリスト教共同体は、200年以上も聖職者なしで維持されたのです」と日本の潜伏キリシタンを例に挙げ、万事聖職者任せではなく、信徒たちが自律的に信仰を貫くよう促した。まさにUCのホームチャーチの姿である。
<フランシスコの信仰観・施策>
フランシスコ教皇は宗教間対話に心を砕き、正教会、イギリス聖公会、プロテスタント、イスラム教、仏教など他宗教の指導者とも対話した。2016年2月12日には、ロシア正教会総主教と約1000年ぶりの歴史的会談を行った。死去前日の20日の復活祭に車椅子で参加し、「信教の自由のないところ、思想や言論の自由のないところに、平和はありえません」と平和を呼びかけた。
一方、教会の教えの多くについて、教皇フランシスコは伝統主義者だった。教皇は「安楽死、死刑、中絶、生存権、人権、司祭の禁欲独身」について、教皇ヨハネ・パウロ2世と同じくらい妥協を許さなかったという。
後述するように、カトリックの司祭の独身制についてはこれを擁護した。一方、カトリック聖職者による児童への性的虐待について、ベネディクト16世が公に認め謝罪した路線を継承し、教皇庁に「断固たる対応」を命じ、「性的虐待の被害者を保護するとともに、罪を犯した者に厳正な法的手段をとること」を求めた。
なお同性愛・同性結婚には反対しており、それを「悪魔の動き」であるとしている。しかしベルゴリオは、同性愛を本質的に不道徳とする教会の教義を肯定しつつも、同性愛者の権利擁護を訴えるなど、現実の生きる場における人権への強い配慮を見せている。また離婚・再婚したカトリック教徒に教皇が聖体拝領を認めたことがあり、未婚の母やエイズ患者に手をさしのべて社会正義を実現しようとする革新的施策を打ち出す一方で、妊娠中絶や避妊に反対する保守的な立場をとるなど、保守と改革の両面性を持っていた。
【教皇とは何か】
ローマ教皇(Pāpa)はカトリック教会の最高位聖職者の称号で、ペトロを初代教皇とし(成立33年頃)、ローマ司教、キリストの代理人、使徒のかしら(頭)の継承者、普遍教会の最高司教、イタリア半島の首座司教、ローマ首都管区の大司教、バチカン市国の首長、神のしもべ(僕)のしもべとの色々な別名を持つ。尊称として 聖下、台下と呼ぶ。
カトリック教会では教皇の地位と権威を、マタイ書16章18節~19節「シモン、おまえは岩(ペトロ)である。この岩の上に私の教会をたてよう。わたしは天の国の鍵を授ける」に置いている。但し、この聖書箇所を教皇権の根拠とするこのような解釈は、正教会、プロテスタントでは認めていない。またプロテスタントは「使徒座の継承」「ペトロの首位権」というものを非聖書的としている。ルターの宗教改革は、教皇権のありかたに対する不満がひとつの底流となった。
教皇の権能には、司教の任命、教皇庁の職員の任命、教皇庁文書の認可、教会法の改定、列福と列聖、教会裁判の最高決定権、回勅の公布など多岐に渡る。ただ、これらの権能を実際に行うのは教皇庁のメンバーたちであり、実質的に教皇が行うのは最終的な承認を与えることだけである。そして聖職者の階層制組織(ヒエラルキア)を作りあげ、ローマ教皇はその頂点として西ヨーロッパのキリスト教世界の「聖界」を代表する権威をもつようになった。
<教皇歴史の考察>
しかし、初代教会の時代からローマ司教が教皇という特別な地位を保持したわけではなく、数世紀をかけて徐々に発達していった。宗教学者の大田俊寛氏は著書『一神教全史上』(河出新書)で「カトリック教会は、使徒ペテロを初代教皇に位置付け、教皇選の伝統が1世紀から存在したと主張していますが、実際にそれが明白な輪郭を取り始めたのは、4世紀から5世紀に掛けてのことであった」(P208)と述べている。
以下、①教皇権の成立、②教皇権の最盛期、③教皇権の衰退、④近代以降のローマ教皇という順で教皇の歴史を概観する。
①教皇権の成立
西ローマ帝国滅亡後、アリウス派を信仰するゲルマン諸国が各地に成立し、ローマ教会は危機に陥った。さらに東ローマ帝国のもとにあるコンスタンティノープル教会との間の教会の首位座をめぐる争いでも劣勢に立たされた。
しかし、451年、カルケドン公会議において、三位一体説が正統とされ、それが決議されたため、ローマ教会の権威は高まった。またレオ1世は翌年、ローマに侵攻したフン人のアッティラを説得して撤退させたため、ローマを救ったとして信望を集めた。これらの結果、ローマ教会の権威が高まり、レオ1世は「実質的な最初の教皇」と言うことが出来る。
726年の聖像禁止令に始まる聖像崇拝論争でビザンツ教会との対立が激しくなると、ゲルマン人の中で唯一ローマ教会に帰依していたフランクとの結びつきを強め、751年のカロリング朝ピピン即位を承認した見返りに、756年にピピンの寄進でラヴェンナ地方などを得てローマ教皇領を成立させ、ローマ教皇は一個の教会国家の政治権力となる基盤を築いた。
800年にローマ教皇レオ3世がフランク王国のカール大帝にローマ皇帝の冠を授けた「カールの戴冠」によって、ローマカトリック教会はフランク王国を保護者としてビザンツ皇帝及びコンスタンティノープル教会から完全に自立した。両者は1054年に正式に分離を宣言、キリスト教会は東西に分裂し、現在に至っている。
962年に東フランクのオットー大帝がマジャール人を撃退、ローマ教皇ヨハネス12世は彼に西ローマ皇帝の冠を授けた(オットーの戴冠)。これが神聖ローマ帝国の始まりであり、神聖ローマ皇帝は領内の教会を聖職者任命によって統制する帝国教会政策をとった。
中世初期のローマ教皇と世俗権力である皇帝との関係であるが、ローマ法王という宗教上の普遍的権威は、皇帝権という世俗的な普遍的権威の存在をまってだけ、その普公的(カトリック)な使命を果たし得たことは明らかである。
②教皇権の最盛期
11世紀後半にクリュニー修道院(ベネディクト派)を中心にして始まった新たな修道院運動の影響を受けて登場したグレゴリウス7世は、1057年から「グレゴリウス改革」といわれる教会改革を推進し、聖職売買と聖職者の妻帯を厳しく非難して粛正に努めた。その一環として、それまで神聖ローマ皇帝など世俗権力に握られていた聖職者の叙任権を教皇が奪還すべく叙任権闘争を展開した。
グレゴリウス7世は、聖職叙任権の教皇への移譲を拒否した神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門した。1077年、ハインリヒ4世がグレゴリウス7世をカノッサに訪れて謝罪し、破門を解かれた事件は「カノッサの屈辱」といわれ、ローマ教皇権が世俗の権力を凌駕した象徴的な出来事であった。
ウルバヌス2世は1099年にクレルモン宗教会議を開催、十字軍運動を提唱した。ヨーロッパ各国の国王、諸侯、都市がそれに従ったことによって実行され、1099年に聖地イェルサレムの奪還に一時成功したことによって教皇権力が西ヨーロッパ世界の世俗権力をもまとめあげることとなった。当初の十字軍の聖地回復が成功したこともあって教皇権威が高まり、1122年には神聖ローマ皇帝とローマ教皇による「ヴォルムス協約」が成立し、皇帝がドイツにおいては教皇の聖職叙任権を認めることによって叙任権闘争は一応の終結をみた。
13世紀、十字軍時代後半のローマ教皇は絶大な権利と権力を持つこととなる。その頂点にあったインノケンティウス3世は、「教皇は太陽、皇帝は月」と称し、世俗の権力者(フランスのフィリップ2世やイギリスのジョン王など)を破門にするなどによって抑え込み、ヨーロッパに君臨した。
③教皇権の衰退
しかし、広大なローマ教皇領を支配する封建領主となり、その生活は贅を尽くすようになると、たびたびその選出をめぐって政争が行われ、腐敗堕落した面も出てきた。13世紀末には十字軍運動も結局、聖地奪還が出来ないまま終結し、教皇の権威は大きく揺らいできた。
1303年のアナーニ事件では、教皇ボニファティウス8世はフランス王フィリップ4世に幽閉された上で退位を迫られて憤死し、さらに1309年からはフランス王によって教皇クレメンス5世がアヴィニヨンに移されるという「教皇のバビロン捕囚」が起こり、教皇の権威の動揺は表面化した。その後アヴィニヨンの教皇はフランス王の監視下に置かれた。
1377年に神聖ローマ帝国の皇帝カール4世はアヴィニヨンの教皇グレゴリウス11世のローマ帰還を支援し、実現させた。 これによって教皇のバビロン捕囚は終わり、ローマ教皇がローマに戻ったが、グレゴリウス11世が急死し、後継教皇の選出に当たってフランス人の枢機卿とイタリア人の枢機卿が対立、翌1378年にフランス人枢機卿はアヴィニヨンに独自の教皇を擁立したため、ローマとアヴィニヨンに教皇が同時に二人存在するということになった。これを教会大分裂(~1417年)といい、キリスト教世界は二人の最高指導者の下で聖職者も教会も二分されるという事態となった。終盤ではさらに三つに分裂する。
このような教会の分裂はその権威を著しく低下させ、イギリスのウィクリフやベーメンのフスのような先駆的な宗教改革者が現れ、教皇と教会のあり方に対する批判が始まった。レオ10世(在位1513~1521年)は、サン・ピエトロ大聖堂の修築費用の捻出のため、ドイツに対する贖宥状の発行したことから、1517年にルターによる宗教改革が始まった。
17世紀前半のドイツの内戦にヨーロッパの新旧両派の国が介入した三十年戦争(1618~1664)という宗教戦争があいつぎ、1648年のウェストファリア条約で信仰の自由の最終的承認とともに主権国家体制が成立したことによって、ローマ教皇の権威は相対的に低下し、さらに最大の旧教国であったスペイン帝国の衰退によって教皇の国際政治上の力はほぼ無くなった。
④近代以降のローマ教皇
フランス革命とナポレオン戦争で燃え上がった自由や平等の思想、そして国民国家建設への動きは、ローマ教皇の世俗的な権力を揺るがすこととなった。しかしカトリック信者は現在では約13億を数え、ローマ教皇はその最高指導者として重きをなしている。
1978年にローマ教皇となったヨハネ・パウロ2世は、456年ぶりにイタリア人ではなく、しかもポーランド人としてははじめて教皇に選出された。パウロ2世は東西冷戦期に世界平和に強いメッセージを送り続け、2005年に死去した。
後任のベネディクト16世は、2013年に719年ぶりに生前退位した。教皇辞任の背景には、高齢(88才)を理由としたが、カトリック聖職者による性的虐待や教皇庁のマネーロンダリング疑惑などが表面化したこともあるのではないかと取り沙汰されている。
【カトリックの課題ー聖職者独身制】
最後にカトリックの現代的課題について、言及する。 カトリック教会の課題は、聖職者不足、ミサの出席率の低下、若者の離脱、伝統と現代社会のギャップ、離婚・再婚者の聖体拝領拒否問題、そして児童性虐待と聖職者独身制の問題など多岐に渡る。また「神の母」「永遠の処女」「無原罪の御宿り」「マリアの被昇天」というように、カトリックのマリアの神格化は極限まで進んだが、このマリアの神格化は他宗派から厳しく批判されている。(参照→HP聖書の知識177ー聖書の奥義とは何か⑤ーマリアの奥義ーマリア信仰とは )。
そのカトリックの課題の中で、特に「聖職者独身制」の問題について論考する。
<聖職者独身制の是非>
フランシスコはカトリックの司祭の独身制について、共著『天と地の上で』の中で次のように語っている。
「司祭の独身制は規律の問題であって信仰の問題ではありません。変えることのできる事柄です。しかし、現時点において、私は全ての長所と短所を含めた上で、独身制の維持に賛成です。弊害よりも10世紀にものぼる良い経験に裏打ちされているからです」と記し、独身制を擁護した。つまり、独身制は信仰(教義)問題ではなく、規律上の事柄だとしたのである。
独身制は「信仰の問題ではなく規律の問題」というフランシスコの指摘の背景には、子孫への財産相続や世襲など制度から来る問題を指していると思われるが、果たしてそうだろうか。もっと深い信仰的、教理的問題が根底にあると筆者は考える。
またフランシスコは「独身制が小児性愛を生むといった考えは忘れ去られてよい」と述べ、独身制と小児性愛との関係性を否定している。フランシスコは「小児性愛者の司祭がいるなら、その者は司祭になる前からそうなのだ」と述べ、独身制が小児性愛を生む原因だとする批判に反論した。
しかし、例えば2021年、フランスの独立委員会の調査報告書によれば、フランスのカトリック教会で、1950年から2020年にかけて、少なくとも2900人から3200人の聖職者が、未成年者に対して性的虐待を行ったと推計している。被害者の数は21万6000人に上り、その8割近くが男の子で、被害を受けた時の年齢は、10歳から13歳に集中しているという。
その原因として、生涯独身であることを求められる聖職者は、10代前半から自然な性的欲求が抑圧されていること、女性を「誘惑者」として拒絶し、幼少期の男児を理想化していること、問題の背景には聖職者による「権威の乱用」があること、などが指摘されている。そして「組織」として、被害を隠蔽したことが、被害を拡大させたと指摘した。
また、男性聖職者による修道女の性的暴行や女性信者への「性奴隷」のケースも多々あり、これらの性的問題はアメリカやイギリスなど世界で認められる。従って、フランシスコの反論は言い訳に聞こえ、独身制自体が有する内在的問題であると思われる。
<ミリンゴ大司教と祝福結婚>
さてザンビア出身のエマニュエル・ミリンゴ ローマ・カトリック元ルサカ大司教が、2001年5月27日に行われた文鮮明師夫妻主礼の国際合同祝福結婚式に参加した。71才のミリンゴ氏は「私は、ただ、主イエス・キリストに対する従順のゆえにこの一歩を踏み出すのです。2001年5月27日、私は、マリア・ソンと結婚の祝福に与ります」 との声明文を発表して、自ら独身の誓願を立てた聖職者としての人生を、全否定することになりかねない決断をしたのである。
しかしその決断は、何よりも イエスの命令と聖霊の導きによってなされたものだという。またミリンゴ氏は、ローマ・カトリック教会が司祭への独身の義務を免除し、既婚の司祭を認めるよう訴え、その模範を示すためにもマリア・ソンと結婚したというのだ。 ジャン・カルバンや親鸞も結婚の道を選択し、その後のプロテスタント聖職者や僧侶に結婚の道を開いた(参照→つれづれ日誌(令和3年2月3日) ミリンゴ大司教の召命 聖書と原理の結婚観)。
ミリンゴ氏はカトリックの独身制が抱える矛盾を次のように指摘した。
「悲しいことに、多くの修道者が、この本来の望みと独身の誓いとを調和することができずにいます。そのために、奉献生活は空虚な抜け殻となり、到達不可能な基準となっています。不自然な情欲、私生児、その他の隠された恐ろしい出来事を含む、あらゆる種類の冒涜は、神に仕えようとする者たちの生活に重くのしかかっています。司祭や修道女の中に同性愛や妊娠が増加していることは、もはや周知のこととなりました」
そしてミリンゴ氏は次のように結婚の意義を語った。
「キリスト教の第二千年期の終わりには、教会内の多くの人々が独身生活の犠牲はその目的を果たし終えたと悟るようになりました。今やすべての男性と女性が神の似姿となるという本来の目的を成就するために召命される時代に入ったのです」
つまりミリンゴ氏は、「司祭の独身の誓いは神の摂理において深遠なる意味があり、神に仕える完全な奉献の道においては、そのような人間の欲望を犠牲にすることが要求されてきたのです」と独身制の意義を認めながらも、独身制は「歴史的な使命を果たし終えて、新二千年期の新しい結婚の在り方に取って変わらなければならない」と言っているのである。
そうして、心の底から文鮮明先生は「神の人であると言うことができる」と明言し、真の父母の資格において愛ある神中心の家庭を築くという「特別の司祭職」によって「結婚を聖別して下さる」とした上で、次の通り結論付けた。
「諸教派の聖職者たちが共に参席する祝福式において、文鮮明師ご夫妻が司式して下さり、結婚の誓約を有効なものとし、私たちの一致を聖化して下さるのです。結婚の祝福を受けよという主イエスの命令です」
<原理の結婚観>
さて原理は、人間の堕落の根本原因を、天使とエバ、エバとアダムの身勝手な不倫の愛による結婚、即ち姦淫による間違った結婚にあると指摘している。そこから血縁的に堕落の血統、即ち原罪が引き継がれてきたという。これが創世記3章の失楽園の物語の真相である。
従って、これを償って清算し、堕落をもと返して本然の位置に回復するためには、男女の二人が必要だという。堕落が二人の間違った結婚で起こされたので、逆に復帰は二人の正しい結婚でなされなければならない。つまり神と関係なく身勝手に結婚したので、今度は「神の許諾と祝福」の中で行われなければならない。即ち、原罪の清算は、二人で原罪を背負ったので、その清算も二人でなされなければならないというのである。そしてこれが、UCの祝福結婚の神学的意味に他ならない。
文先生が、「天国は一人では入れません。二人で行くところなのです」と言われた理由がここにある。いみじくもミリンゴ師が指摘したように、文先生は特別の司祭職、即ち真の父母の権能により「結婚を聖別し祝福して下さる」のである。ここにカトリックの聖職者独身制の問題を解決する道がある。
以上、「教皇の死去に思うー教皇とは何か」と題して、教皇フランシスコ、教皇の歴史的意味、カトリックの課題などについて論じた。カトリックの課題については、特にカトリックの聖職者独身制の問題と祝福結婚の原理観を論考した。(了)
牧師・宣教師 吉田宏