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新約聖書の解説⑥ ローマ人への手紙

🔹聖書の知識133ー新約聖書の解説⑥ ローマ人への手紙


わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。(ロマ1.16~17)


【著者・年代・対象】


『ローマの人への手紙』(以下、「ロマ書」と呼ぶ)は、使徒パウロ(~67年)の手による書簡であり、本書はローマ教会の信徒に向けて書かれました。


ローマのキリスト者共同体は、パウロが建てた教会ではなく、聖霊降臨(使徒2.2)に居合わせた人々のいずれかによって作られたと思われます。当時、ローマには多数のユダヤ人が在住し、シナゴーグにはローマ市民も出入りしていたため、まず彼らがユダヤ人をとおしてイエス・キリストについて知るようになったと考えられます。


こうしてユダヤ人と異邦人からなるローマのキリスト者共同体が生まれました。パウロが裁判のためにローマにやってきた時には、信徒たちの歓迎をうけましたが(使徒28.15)、当時信徒もかなりいたと思われます。


また執筆年代としては、パウロの第3回伝道旅行の終りごろのコリント滞在中(使20.2~3)、即ちエルサレムに諸教会の献金を届ける直前の57年頃に書かれたと思われ、パウロの思想が円熟していた時であります。


なお、ロマ 書はパウロ自身が設立していない教会への唯一書簡ですが、パウロ自身が設立した教会への書簡(真筆)としては、「コリント人への手紙2通・ガラテヤ人への手紙・エペソ人への手紙・ピリピ人への手紙・コロサイ人への手紙・テサロニケ人への第一の手紙」があります。


【執筆目的・構成】


パウロが本書簡を執筆した目的は、a.福音に関するパウロの神学をまとめること、b.スペイン伝道の支援を求めること、c.ダヤ人と異邦人の葛藤を解消し、律法と福音の関係を明確にすること、などであります。


当時ローマの共同体は、ユダヤ教の習慣(割礼)の遵守をめぐって争いが起きるようになり、これらを整理する必要がありました。


またロマ書の構成は、次の通りです。


1章から8章にかけて、パウロの神学が示されています。パウロは、信仰によって罪と律法のくびきから解放されて救われること、即ち「信仰義認」の教理を明らかにし、また、原罪思想に言及し、十字架と贖罪、復活と救いについての神学的意味を明らかにしました。いわゆる「ケリグマ」(宣教)と呼ばれる箇所です。


9章から11章にかけては、選民イスラエルの救いと再興、そしてギリシャ人(異邦人)の救いについて言及し、ユダヤ人、ギリシャ人と区別なく、神は「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(10.12)と万民の救いを主張しました。


12章から15章では、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(12.1)の聖句に象徴されるように、信仰生活の在り方、いわゆるディダケー(教訓)について語られています。


書簡の終わりにパウロは今後の旅行計画とあいさつを述べ、名前が出ている21人のうち3分の1は女性であり、これはローマの共同体で女性が大きな役割を担っていたことを示すものです。


また文書の特徴として、論駁スタイルを用い、ある問題をめぐって、問題提起者にするどく反論するという方法を取りました。時にユダヤ人に対し、時に異邦人に対し、またあるいは全信徒に対して意見を述べるというスタイルをとっています。


【パウロについて】


そこで先ず、ロマ書の執筆者であるパウロとはどういう人物だったかを記したいと思います、


<パウロの概略>

使徒パウロ(~67年)は、小アジヤのキリキヤのタルソで生れ、67年ころネロ帝の迫害によりローマで殉教したと言われているユダヤ人であります(使徒9.11、21.39、22.3)。当時タルソは、アンテオケやアレキサンドリヤと並ぶ学術都市で、異邦人伝道の器になるべき準備がなされていました。


キリキヤの市民にはローマの市民権が与えられており、両親が市民権を持っていたと思われ、パウロは生れた時からローマの市民権を持っていたと言われています。またパウロは、ベニヤミン族出身でパリサイ派に属し(ロマ11.1、ピリ3.5、使徒23.6)、両親もパリサイ派でした(使23:6)。


パウロは、13歳のバール・ミツバを終えてからエルサレムで 学び(使使23.16)、しかも1世紀最大のラビ、ガマリエル1世のもとで学びました(使5.34、22.3)。


当時、シャマイ学派とヒレル学派がありましたが、パウロはシャマイ学派に属しています。またパウロはサンヘドリンと良好な関係にあり、大祭司からダマスコの会堂あての手紙をもらっています(使使9.2)。


パウロはユダヤ人としての教育を受け、律法を学び、同時に、ギリシャ語を話し、ギリシア・ローマ文化についても造詣が深い、一級の知識人でした。


そして職業は天幕作りでしたが、下記聖句の通り、彼はパリサイ派の伝統とライフスタイルを誇りとした生粋のユダヤ人でした(ピリ3.5~6)。


「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である」(ピリピ3.5~6)


<反キリストからキリストの使徒へ>

一方パウロは、ステパノの石打ちの刑に賛同し現場にも立ち合ったり(使7:58)、教会迫害の先頭に立つなど、徹底した反キリスト者でありました。


「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った」(8.1~3)


「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった」(9.1~2)


そのパウロに決定的な転機が訪れるのは、ダマスコへの途上で復活のイエスに出会い、回心を経験した時であります(使9.3~9)。天からの光に打ちのめされ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いたというのです。目が見えなくなり、3日後に、アナニヤという弟子の助けによってバプテスマ(洗礼)を受け、視力を回復しました。


こうしてパウロは、「すると主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす』」(使徒22.21)とある通り、異邦人への使徒として召され、三回に渡る世界宣教を通じて、エーゲ海、ヘレニズム世界に福音を広めました。


<パウロのとげと試練>

こうしてパウロは、キリストの弟子たちのうちで、最も大いなる働きをした弟子であり、キリスト教では聖人とされ、神からの光を受けて書いた啓示とも言える書簡は、新約聖書のなかで断然多く組み入れられています。


しかしそのような不世出の霊的天才ともいうべきパウロですが、背も低くその風采はあがらず、また身体にとげ(欠陥)があったと言われています。


「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである」(2コリント12.7)


またパウロは、誰よりも多くの艱難試練に遭遇した人物であります。1コリント11章23節から27節には次のようにあります。


「苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった」(1コリント11.23~27)


そしてパウロは、回心体験の他に、生涯で一度、第三の天に引き上げられる霊的体験をしています。第三の天とは、特別に神に近いところを指していると考えられます。


「わたしは主のまぼろしと啓示とについて語ろう。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた。それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、知らない。神がご存じである。パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている」(2コリント12.1~4)


聖パウロ(ヤン・リーフェンス画) パウロの回心(二コラ・レピシエ画) パウロの奇跡(カレル・デュジャルダン画)


<パウロの業績>

パウロの業績としては、次の三点が挙げられるでしょう。


第一は、キリスト教をユダヤの一民族宗教から世界宗教へと脱皮させたことです。


パウロは律法と福音の同一性と相違点を明らかにし、神であるイエスは単なるユダヤ人の救済者にとどまらず、すべての人間を救済するという普遍的な救済思想を提示し、ユダヤ教の民族の枠を越えたキリスト教として、「世界宗教」への道を開きました。


第二は、異邦人への使徒として召され、三次に渡る世界宣教を通して、エーゲ海、ヘレニズム世界に福音を広めたことです。このパウロの宣教により、世界宗教としてのキリスト教の基盤が固まりました。


第三に、救いは律法を行うことではなく、イエスをキリストと信じる信仰にあり、神の恩寵にあるとして、新しい救いの観念を提示したことです。


この思想は、パウロに感化されたアウグスチヌスの恩寵救済論、パウロの思想を再発見したルターの信仰義認論に繋がっていきました。こうしてパウロは、「行義の時代から信義の時代」への産婆役を果たしたというのです。


一方、コリントの教会では、パウロの使徒職を疑う者も出て、パウロは「 実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である」(1コリント15.9) と率直に述べ、「しかし、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた」(1コリント15.10)と弁明しました。


<パウロ神学への批判>

一方、野村健二氏は、著書『誤解されたイエスの福音」』(光言社)の中で、パウロの神観と十字架の贖罪観について、問題点を指摘しています


パウロは、コロサイ信徒への手紙1章15節~17節で、「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである」(1.15)と述べ、「 万物は、みな御子にあって造られたからである」(1.16)、「彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている」(1.17)として、キリストを万物の創造者(神)の立場に立て、その先在性を主張しました。


しかし野村氏は、マルコによる福音書には、「イエスは言われた、なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない」(10.18)、「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください」(14.36)とある通り、神のみが神であることを明らかしているとし、パウロは4福音書の内容を知らなかったのではないか、イエスを神聖化したヨハネ福音書は(ヨハネ1・1~3)、パウロの神観の影響を受けていると指摘しました。


では何故パウロはイエスを神としたのか。野村氏は、パウロがキリストの迫害者であったことの負い目や、復活したイエスとの神秘的出会いが強烈だったことがあるのではないかと指摘しています。パウロは12弟子の話を聞かず、むしろ見くびっていたのではないか(2コリント11.5、ガラテヤ1.19)、即ち、使徒たちとの交わりがなかったので、イエスの自己証言や福音をよく知らなかったのではないかと指摘し、従って、イエスの福音への軽視、無視があったと述べています。


また野村氏は、パウロはイエスを十字架の贖罪のために来られたとしか見なかった(ロマ3.24~25)とし、「パウロはイエスの言葉を二回しか引用していない」とのプルトマンの言葉を引用し、また「基督教とはキリストを天的な神の子と信じる信仰であり、このようなキリスト教を創始したのは、主としてパウロだった」とアルノルト・マイヤーの言葉を引用して述べ、イエスの福音への無知と、霊的召命という神秘体験が、イエスを神と同一視してしまったと指摘しました。


このようにパウロは、イエスを神の子と捉え、大工の子イエスを神格化して、後のイエスの神性を強調する三位一体の教理の土壌となったとして、三位一体論を批判する立場からは、苦言を呈されています。次の一見非合理的に見える聖句は、パウロのキリスト観、再臨観、終末観を端的に示すものと言えるでしょう。


「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(1テサロニケ4.16~17)


【ロマ書に見るパウロ神学】


過去25年間の活動を振り返り、自らの神学をまとめる必要を感じて、このロマ書を書いたと言われていますが、ロマ書には、終末論、教会論の言及はありません。ロマ書の神学の骨子は、信仰による義(信仰義認)と、十字架の贖罪と死に打った復活の教理です。


<信仰義認及び贖罪・復活思想>

復活されたイエスとの劇的な出会いを体験したパウロが示した本書のテーマは、キリストへの信仰による義(救い)であります。「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」(4.25)とある通り、この「十字架と復活」のイエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義(救い)であります。(3.22)


パウロはアブラハムを引き合いに出して、信仰による神の恩寵を強調し、人が義(正しい)とされるのは,信仰と結び付いた、神の恩寵によることを力説しました。「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(3.28)とあり、「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」(3.24)とある通りです。


また、以下の通り、十字架の贖罪と復活の意味を強調しました。


「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた」(3.24~25)


「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(6.4)


こうして、救いは次の信仰告白によってもたらされることを宣言しました。


「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(10.9~10)


<普遍的な救い>

そしてパウロは、ユダヤ人にも異邦人にも、等しく神の恩寵は注がれ、救いがもたらされることを強調しています。


「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」(1.16)


「ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである」(10.12)


パウロは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、外見上の割礼が割礼でもない、むしろ内面がユダヤ人であるものがユダヤ人であり、心に施された割礼こそ割礼であると述べました(2.28~29)。しかし、信仰によって律法を無にするのではなく、むしろ信仰によって律法を確立する(3.31)と語っています。これがパウロの 律法と信仰の位置付けです。


以上のように、ロマ書ではパウロ神学ともいうべき思想が明白に打ち出されています。


<ロマ書の歩みー救いの方式>

「ロマ書のあゆみ」という言葉があり、それはロマ書にあらわれる文脈を以下の通り追っていくことで、人間個人の救いの道が現れるというものです。


①人間は、本来善きものとして、神は自分のかたちに人を創造された(創世記1.27)が、罪が入り込んだ。


「内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(7.22~24)とある通り、「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなった」(3.23)、そして「罪の支払う報酬は死である」(6.23)↓


②「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた」(3.25)とあり、神はイエスをとおして永遠の命を与えられる。↓


③「口で、イエスは主であると告白し、心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(10.9)↓


④「主の名を呼ぶものは誰でも救われる」(10.13)

【ロマ書が与えた影響】


ロマ書は、後世、多くの著名人に多大な影響を与えました。


マルティン・ルターはロマ書を「新約聖書中もっとも重要な書簡であり、すべてのキリスト者によって精読されるべきもの」と評価しました。ロマ書は、特にプロテスタンティズムの歴史の中で大きな意味をもった書であり、ルターは1515年から1516年にかけて「ローマ書講義」を行いましたが、そこから得た思想が、1517年の「95ヶ条の論題」にじみ出ることになり、宗教改革の口火を切ることにつながりました。


ロマ書1章17節の「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」は、ルター回心聖句です。


メソジスト派創始者のジョン・ウェスレーは、1738年5月24日、ロンドンのアルダースゲート街で開かれたモラヴィア派の集会に出席し、司会者が朗読するルターの「ロマ書講解」序文を聞いているうちに、不思議な回心の体験をしました。


「9時15分前ごろ、キリストを信ずる信仰によって神が人心に働いて起こしたまう変化について、彼(司会者)が述べていた時、私は自分の心があやしくも熱くなるのを覚えた。そしてキリストを、ただひとりの救い主であるキリストを信じた。また彼(キリスト)は私の罪を罪と死の律法から救って下さったとの確証が、私に与えられた」


またアウグスティヌスは、386年、ミラノの自宅で隣家の子どもから「取って読め」という声を聞き、近くにあったローマ人への手紙を読んで回心しました。


「そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(13.13~14)


我が内村鑑三もロマ書に啓発され、『ロマ書の研究』を著しましたが、これは内村(61才)が大手町で60回にわたって行ったロマ書の講演をまとめたものです。文芸評論家の富岡幸一郎氏は、「内村鑑三の生涯をかけた聖書研究の最高峰であり、近代日本人に残した最大の信仰的メッセージ」と評価しました。


以上、ロマ書を論考いたしました。ロマ書は、アウグスチヌス、ルター、バルト、内村鑑三などに影響を与え、新約の信義時代における思想的基盤となった書として長く読み継がれてきました。そして霊界において原理と出会ったパウロは、「来るべき方が、地獄で血だらけになり、引き裂かれ踏まれながら、天の秘密を明らかにし、勝利して探し出したものが、正に原理なのです」(『霊界から来た使徒パウロの手紙』光言社P135)と告白しています。


次回は、やはりパウロの書簡である「1コリント人への手紙」を解説することにいたします。(了)