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死者の霊人の救い② セカンドチャンス論再考

○つれづれ日誌(1月27日)-死者の霊人の救い(2)  セカンド・チャンス論再考


ナオミは嫁に言った、「生きている者をも、死んだ者をも、顧みて、いつくしみを賜わる主が、どうぞその人を祝福されますように」(ルツ2.20)


前回、大川従道牧師の「セカンドチャンス論」の是非、そして「死者の救い」について考察しました。今回はこの問題を、セカンドチャンス論を肯定する久保有政氏、及び否定派の尾山令仁氏の見解を対比し、更に踏み込んで考えて見ることにいたします。


即ち、a.死後、死者はどこにいくか、b.セカンドチャンスはあるか、c.死者の救いはいかになされるか、d.先祖供養、先祖解怨・祝福について、を検証いたします。


【ザビエルへの質問】


フランシスコ・ザビエルがローマ教皇に宛てた手紙の中で、日本人はザビエルに次のような質問をしたと書き送っています。


地獄は二度と開かれない場所で、一度落ちれば二度と逃れる道はないとのキリスト教の教えに、日本人はひどく悲しみ、次のような質問をしたといいます。


「神は先祖らを地獄から救い出せないのか、何故死者の罪は決して終わることがないのか、キリストを信じないで死んだ先祖は、今どこにいるのか、その救いはないのか」


ザビエルはキリスト教の教説にしたがって、「その道はない」とやむなく答えるも、到底納得させることはできなかったといいます。結局キリスト教は、これら日本人の素朴な疑問に適切な回答を与えることは出来ませんでした。従ってザビエルは、この質問にはあまりふれることなく、福音信仰の本筋であるキリストによる贖罪と復活を中心に宣べ伝えたと言われています。


【尾山令仁著『死への備え』について】


聖書キリスト教会牧師であり、福音系の東京神学校を設立した尾山令仁牧師は、著書「死への備え」(いのちのことば社)の中で以下のように述べています。


「死ねば天国か黄泉かいずれかに行き、救われるチャンスは地上の一度だけで、地上で救われなければ、あとは永遠の報いと刑罰とが待っているだけ」(P86)


「キリストを信じないで死んだ人は、自分の罪のために、黄泉に下り、体の復活を待って地獄に入り、永遠の神の呪いのもとにある。死後の有り様は、生前に決定しており、死後、生きている者たちの願い(執りなし)などによって変更できない」(P87)


「死後、救いの機会があることを、聖書は教えていません。人間は死ぬ時にあったままの状態で、永遠に存在し続けるということです」(P107)


このように、死者は死後天国か黄泉に行き、黄泉の死者に救いの機会はないと断言しました。 死後は神の権限の中にあり、「死者への祈り」によって死者を変えることは出来ないとし、万人救済主義は間違いであると主張しました。


そして、死には 肉体と霊魂の分離を意味する「肉体の死」、神から離れ呪いを受くべき「霊的死」、そして神から永遠に離れる「永遠の死」の3つの死があるといい、キリストによって贖われたクリスチャンにとっては、肉体の死は神のみもとに帰る栄光の日であるとしました。


また、ルカ書16章19節~31節の「ラザロと金持ち」を引用し、一度死んだ人が、もう一度この世に現れて、地上人と接触することなど絶対にない、死者と地上人の交わりはないとして、霊媒や占いは詐欺として否定しています。


上記、尾山牧師の、死者にとって非情に見える見解は、福音宣教は地上でこそ行われるべきで、死者のことは全権の神に委ねることが賢明であり、死後救いがあるなどとの安易な教えは、地上人の回心の機会を遅らせるだけ、との福音理解があったと思われます。


しかし、「生きている者をも、死んだ者をも、顧みて、いつくしみを賜わる主」(ルツ2.20)という聖句や、「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み」(ペテロ3.9)との神の慈愛との整合性はどうだろうか、という思いは残ります。


【セカンドチャンス論再考】


上記尾山牧師の見解に対して、レムナントを主宰する久保有政牧師は、著書『書的セカンドチャンス論』(レムナント出版)において、次の通り持論を述べています。


<死者の行くところ>


「地獄は終末的な場所であり、最後の審判で有罪となった人か行く永遠の火の池であり、天国は神の王国であり、クリスチャンは死ぬと天国に迎えられる」

最後の審判(ミケランジェロ)


「黄泉(ハデス)は、未信者が死後いくところで、最後の審判までの一時的、中間的な場所」(以上、P14~15)、で、黄泉にも上流、中流、下流と段階があるといいます。また、「悪人だけが黄泉に行ったのではありません。アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、ソロモンなど、旧約聖徒らを含む全ての人が死後は黄泉に行きます」(P17)とも述べています。


つまり、死後の霊界の世界には、天国と地獄、そして黄泉という中間的な霊界の三層構造になっており、死者は先ず(地獄ではなく)黄泉に行くというものです。ザビエルが悩んだように、「人間は死後、天国と地獄のどちらかに振り分けられる」のではないというのです。


なお煉獄とはカトリックの教理で、天国に行けなかったクリスチャンが罪を清める場所で、その後、天国に迎えられるというものです。


<セカンドチャンス>


久保牧師は次のように語っています。


「地上に生きている間になす回心は、他の何にも優って尊い」、としながらも、「福音は黄泉に行った人々のためにも存在すると聖書は語っている」と主張しました。(P45)


即ち、「生きているもにも、死んだものにも恵みを惜しまれない主」(ルツ2.20)とあり、また「死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る」(ヨハネ5.25)とある通りであり、また、イエスは、「(黄泉に)捕らわれた霊たちのところに行って宣教されました」(1ペテロ3.19)と明記されているというのです。


そしてイギリスの著名な聖書学者であるウィリアムバークレイも、上記聖句は、キリストの黄泉における福音宣教を述べた箇所だと言っています。


かくして久保牧師は、「キリスト者以外の死者は、地獄に行っているのではなく、黄泉に行っています」とした上、「死者にも回心の機会がある」と主張しました。この見解は、大川従道牧師と軌を一にしています。また、前回述べましたように、「死者の救い」に関するUCの考え方とも近いと言えるでしょう。


【死者への祈りー先祖供養について】


では、死者の救いはどのようになされるか、そして地上人はそのために何ができるのでしょうか。


死者の救いのために地上人がする行為に先祖供養があります。先祖供養とは、先祖を慰霊・鎮魂・感謝し、祈り、供え物、布施、法要、などをもって、死者のためにする畏敬の代償的行為であります。そして久保牧師は、キリスト教があまり関心を持たない先祖供養を肯定、評価し、霊界の父母、先祖の救いのために、思いを馳せ、地上で祈ることができると主張しています。


前回の大川牧師も祖先のために祈ることができるとし、先祖への最大の供養とは、「自分自身が救われることであり、救われた姿を祖先に見せることに他ならない」としています。これこそ真の追善供養というわけです。またカトリックや聖公会には、死者のための「祈りの日」があり、一部のブロテスタントにも黄泉での伝道を促す死者への祈りがあると言われています。


さて、先祖供養と言えば、仏教を想起しますが、当初仏教には、仏や菩薩へ供え物をすることはありましたが、死者に供養する考え方はありませんでした。つまり、仏や菩薩への「仏供養」はありましたが、死者への鎮魂、慰霊、弔いなどの「死者供養」は無かったのです。


先祖供養は、日本の祖霊信仰に源を持ち、古神道には先祖を祀る風習は既に儀礼としてありました。日本には、死ねば皆神仏になるとの考え方があり、死者を手厚く葬る伝統がありました。この点、中国や朝鮮のように、墓を暴いて死者にムチ打つことはしなかったのです。


またイスラエルにも、アブラハム、イサク、ヤコブの先祖の名をもって崇め、祖先からの系図を重んじてきた伝統があります。


【先祖解怨・祝福についての考察】


昨今、UCにおいて盛んに行われている先祖解怨・祝福の役事は、大きくは先祖供養の一種であり、また霊人の再臨復活思想に含まれる祭祀であると考えても大きく外れてはいないでしょう。


ただ、普通の先祖供養と違うところは、再臨主の権威のもとに、原理的な再臨復活信仰に基づき、地上人を通しておこなわれる祭祀であり、ただ慰霊するだけに留まらず、先祖の罪科や怨念まで解放し清算するという踏み込んだものであるという点であります。


そうして、この祭祀を通じて我々は様々な恩恵を受けることになります。即ち、復活して善霊となった祖先が、異言、病気の癒し、啓示、黙示、役事、奇跡など、「聖霊の代理」をすることによって、地上人の信仰と生活を協助するようになるというのです。


しかし、先祖解怨への過度な傾斜は、先祖解怨を救いの本筋だと錯覚して、福音による新生、復活という救いの本道から外れかねません。あくまでも地上人の救いは、福音による救いが中心であり、先祖解怨は、その補助的な役割に過ぎません。救いはあくまでキリストの福音により、悔い改めと回心の結果もたらされる神の恩寵に他なりません。


最近、ある人気講師の方の先祖供養、先祖解怨に関する講話を聞きましたが、とても情的で分かりやすく話されます。やや大衆向きで、ご婦人らには受けることでしょう。しかし、上記しましたように、これを過度に強調して、先祖供養イコール救いということになっては主客転倒になりかねません。


例えて言うなら、先祖供養は玄関先までの導入であります。そこから先、母屋まで入らなければなりません。これが、新生、重生の役事であり、悔い改め、回心、新生、復活、永遠の命という救いの本道です。ことばを変えれば祝福役事を通しての原罪の清算と血統転換ということになります。これさえ見失うことがなければ、先祖供養は信仰のよき導き手となることでしょう。


以上で、セカンドチャンス論に端を発した死者の救いとその効用について、二回に渡って考察してきました。皆様、どのように感じられたでしょうか。賛同、異論、反論、是非お聞かせ下さい。(了)



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