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聖書の奥義とは何か④ マリア処女懐胎の奥義 聖霊の告知の真相

🔷聖書の知識176ー聖書の奥義とは何か④ーマリア処女懐胎の奥義ー聖霊の告知の真相


イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。(マタイ1.18~21)


ヨセフの夢(ヨセフとマリア)フィリップ・シャンパーニュ画


今回は、聖書の奥義のうち、聖霊による「マリアの処女懐胎の神秘」について考察いたします。この処女懐胎の神秘は、キリスト教において様々な議論がなされてきた箇所であり、聖書の重要な奥義です。


【処女懐胎の神秘】


使徒信条には「主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ」とある通り、処女懐胎はキリスト教の教理です。イエス・キリストの誕生に際して、マタイ1章18節、ルカ1章35節は「聖霊によるマリアの懐胎」を示しています。しかし、これを文字通り聖霊による身籠りとするべきか、或いは何かの象徴と考えるべきか、議論の分かれるところであります。


これは確かに聖書の奥義です。伝統的なキリスト教は、使徒信条に示されている通り、これを文字通りマリアは処女で聖霊により身籠りイエスを産んだと信じられ、イエスが神であることの理由の一つとなっています。そこでこの項では、このイエスの出生を巡る問題の真相を考えてまいります。


【処女懐胎説と反処女懐胎説】


前述の通り、マタイ1章18節「マリアは聖霊によって身籠った」の解釈を巡って、様々な議論がなされてきました。大きくは、処女懐胎説と反処女懐胎説であります。


<処女懐胎説、反処女懐胎説>


使徒信条の通り、伝統的キリスト教は、神の子イエスの出生に関し、全能の神が介入されたとする「処女懐胎説」が有力です。「神には、なんでもできないことはありません」(ルカ1.37)とある通り、神に不可能はないというのです。異端駁論を書いたエイレナイオスや神の痛みの神学の北森嘉蔵も処女懐胎説を擁護し、諸国の処女誕生神話などもこれを補強しています。


処女懐胎説論者は、創世記のアダム、エバは、結婚という手続きを経て生まれたのではなく、神が直接創造されたとして、イエスの時も神が介入されて生まれたと主張しました。


福音派のある著名な牧師は、マリアの懐妊はルカ1章38節から39節の間、即ちマリアがみ使から聖霊による身籠りの託宣を受けてから、ザカリアのもとに行く間に身籠ったとしています。このマリアの身籠りについて、宗教改革者ルターは「イエスの誕生物語には、3つの奇跡が含まれている。神が人となられたこと、処女が妊娠したこと、これをマリアが信じたこと。この中で最も偉大なのは、3番目である」と言いました。マリアは、処女でイエスの母になるという召命に信仰を持って応答したというのです。こうして、かのルターでさえ、マリアの処女懐胎を信じました。


しかし、反処女懐胎説も有力です。


敬虔なクリスチャンで理科系の教授でもあった台湾元総統の李登輝は、この処女懐胎の箇所だけは、長い間信じることができず苦しんだと告白しました。


聖書学的立場からは、イザヤ7章14節の「若い女」を処女だと「誤訳」したとの批判があり、また聖書は、聖霊の力が働いているという意味を示しているが、処女懐胎とまでは言い切ってはいないとしました(マタイ1.18、ルカ1.35)。


また聖霊は女性名詞(へブル語)であり男性ではないとの指摘があります。科学や生物学的見地から見ても処女懐胎は非合理だとの根強い批判があります。つまり、聖霊による身籠りは、イエスの神性を担保する一種の信仰告白であるというのです。


更に「私生児説」も有力で、オリゲネスのケルソス反駁では、ローマ兵のパンテラがイエスの父であると主張し、タルムードにもパンテラとの性関係が記載されています。またイエスはヨセフとマリアの子とするエビオン派の主張などの説があり、ハルナックは婚約中のヨセフとの間に身籠ったと主張しました。


ただ、ギリシャ正教では、マリアの処女懐妊に付いては、キリストの神秘として、素直に「分からない」として棚上げにしています。


<マタイ書に出てくる4人の女性との関連性説>


イスラエルは父系社会であり、本来男系の系図が中心でありますが、マタイ1章1節~16節のイエスの系図の中には、マリア以外に4人の女性が出てきます。タマル、ラハブ、ルツ、バテシバの4人です。4人とも「異邦人」であり、またいわゆる「わけあり女」と言われ、普通の結婚ではない、いわくつきの形で身籠っています。


そこでこの4人の女性は、マリア処女懐胎という非合理的な身籠りの予型・布石・暗示ではないかというのです。つまり、マタイはイエス誕生の真相を知っており、マリアと同様、普通ではない身籠りをしたメシアの家系を形成する4人の女性を系図に載せることによって、マリアの「普通ではない身籠り」を暗示し、マリアの身籠りに正統性を与えたのではないかというのです。  


タマルは異邦人(カナン人)で舅ユダとの姦淫によって身籠り(創38.12~)、ラハブも異邦人(エリコ人、ヨシュア2.1)で神殿娼婦だと言われています(ヨシュア2.1~)。ルツは異邦人(モアブ人、ルツ1.4)で押しかけ婚であり(ルツ4.13)、バテシバも異邦人(ヘト人、2サム11.3)でダビデとの不倫で身籠りました(2サム11.22)。しかもこれら4人の女性の子孫はメシアの家系を形成したというのです。                    


この4人の女性がイエスの系図に出てくる理由として、従来の代表的見解では、姦淫を犯した罪人をも救われるイエスを象徴するという、ラテン教父ヒエロニムス(347~420年頃)が主張した「罪人説」 、 異邦人をも救われるイエスを象徴するとのルターの「異邦人説」、そしてカトリック神学者の「レイモンド・ブラウンの説」があります。


レイモンド・ブラウンは、メシアの家系を残すために寄与した女性として4人を評価し 、4人の女とマリアを関連付けました。つまりマタイは、マリアの聖霊による身籠りと処女生誕を証すために、4人の女性を、普通でない男性(パートナー)との関係で身籠りをした事例として記載したというのです。しかし、ブラウンは聖霊を「パートナー」に含めて考え、結局は処女生誕を擁護しました。                


<ザカリア父親説>


英国作家マーク・ギブス著「聖家族の秘密」には、イエスの父がザカリアであることが述べられています。即ち、イエスの父親はザカリアであり、聖母マリアの処女懐胎説はイエスの神聖を強調するための創作であること、イエスが私生児であるという誕生の経緯は当時の人々は概ね知っていたことなど書かれています。


上記マーク・ギブスの主張を裏付ける説があります。4人の女性の共通点は、普通でない仕方で身籠ったこと、及びイスラエル歴史の重要な転換点に係わり、メシアの家系を形成したことであり、マタイは、4人(特にタマル)をイエス誕生の予型と考えメシアの系図に入れたというのです。またマタイはイエス誕生の真の事情(イエスが私生児であること)を知っていたので、その事実を明らかにすることでさらなる迫害を恐れたのだというのです。


しかし、「たとえ私生児であってもイエスのメシアとしての価値を引き下げるものではない」ということが教理的に明確になるまでは、事実を明らかにすることは出来ないという事情がありました。従ってマタイのインスピレーションにより、マリアの普通でない妊娠の布石として、同様の不規則的な妊娠をした4人を系図に入れ、そうして、聖霊によってという暗示的表現をとったというのです。


確かにルカ書には、マリアがエリザベツの家に3ケ月滞在し、そして妊娠したことが描かれ(ルカ1.39~56)、ザカリアがイエスの父であることが強く暗示されています。この点前述の福音派の牧師は、マリアの懐妊はルカ1章37節から38節の間に起こったと主張していますが、では身重のマリアが、何のために遠方のザカリアのところにあえて行ったのか、その動機や理由が弱く説得力に難があります。神の啓示などの何らかの強い動機付けがあっての旅路であると考えざるを得ません。


マリアは天使の託宣を受けたあと、ザカリアの家に行くよう啓示を受けたというのです。そうでなければ、急いで遠方のユダの町に行く理由はありません。


更にイエスの誕生に関して微妙な表現があり、「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ3.23)「あれはヨセフの子イエスではないか」(ヨハネ6.42)「マリアの息子ではないか」(マルコ6.3)などと表現しています。


以上から、マリアはザカリアと関係してイエスを身籠ったと考えることが妥当であり、これは原理観とも一致しています。ちなみにかの賀川豊彦は妾の子であり、この点でイエスに共感を持っていたと言われています。


また、処女生誕神話には、イエスの命を防御する意図があったという有力な説があります。


イエスが私生児だったという風聞は当時のユダヤにありました。しかしイエスが私生児だとなれば、当時の法律問題に引っ掛かり、親子で石打の死罪は免れないでしょう。


そういった法律問題だけでなく、前記したようにイエスが私生児であってもイエスのメシアとしての価値を引き下げることにはならないという教理的説明が出来ない以上、私生児であることを明らかにすることは危険でした。また処女教説によって、キリスト教の発展のためにイエスの神性を担保する必要性があり、従って処女懐胎説はキリスト教のために一定の役割を果たしたとも言えなくもありません。


しかし、そういったことの解決策が示されれば、事実が明らかになっても問題はないはずです。結局マタイは解決策を見い出せないまま、神の不可思議な働きで生まれたという玉虫色の解決を図りました。


なお上記の問題に関して、「罪ある女の血筋から、如何にして無原罪のメシアが生まれ得るか」という神学上の最大の難問は、聖書の知識173で論考しています。


【マリア懐胎の真相】


では、マリア処女懐胎の真相は何でしょうか。


マリアは、イスラエルの血統を残すという決死の信仰で、天使に告げられた通り急いで親戚のザカリアの家に入りました。ザカリアの家に行ったのは啓示だったというのです。エリザベツもやはり啓示を受けていて、マリアを自宅に招き夫ザカリアのもとに手を引いて導いたというのです。


3ケ月過ぎて妊娠したことが分かってマリアはザカリアの家を出ていきました。一体ザカリアの家で何が起こったのか、この暗示的な情景を描いたルカ1章39節~56節も聖書の奥義です。


原理では、3ヵ月のザカリア家に滞在中、マリアはザカリアの子を宿したと理解しています。失楽園において天使長が神とアダムからエバを奪っていったので、逆に天使長の立場にあるヨセフからエバの立場にあるマリアを善の天使長の立場(神側)にある祭司ザカリアが奪うという逆の経路を辿ってもと返していったといわれています。このように、濁から聖への血統の転換は、失ったものの逆の道筋を辿って取り戻していくという、「蕩減的回復の道」を辿っていくというのです。


マリアからメシアが生まれるとの啓示はマリアとエリザベツ双方が受けていたと言います。エリザベツとマリアは母親側の従妹であり、これはラケルとレアの関係と言われ、神と霊の導きでマリアの手を引いて夫ザカリアの元に導いたエリザベツの行為は、信仰の勝利と言えるでしょう。レアがラケルから夫を奪ったので、逆にレアの立場にあるエリザベツがラケルの立場にあるマリアを祝福しました。このエリザベツとマリアの勝利で、レアとラケルが一体化できなかった立場を回復しました。


故にマリアは、タマルの勝利圏を相続し、胎中聖別を経ることなく、サタンの讒訴圏無くイエスを産めたというのです。「歴史以来、初めて神様の息子の種、真の父となるべき種が、準備された母の胎中に、サタンの讒訴条件なく着地した」(周藤健著「成約摂理解説」P157)のです。


【マリアの涙の理由】


しかし神の啓示を受けたときの高揚感はいつしか消えていき、エリザベツはマリアに嫉妬するようになりました。マリアはエリザベツにとって愛の恩讐となり、エリザベツはみ旨を阻む恩讐となっていきました。マリアは3ケ月でザカリヤの家を出て、その後行き来した形跡はなく、本来、ザカリア家庭がイエスの囲いになるべきだったがそれが出来なかったというのです。


またマリアはヨセフの追求に「聖霊によって懐胎した」とだけ話しましたが、ヨセフは夢で啓示され(マタイ1.20)、懐妊を自分の責任に帰して、マリアを守りました。またイエスは「ザカリアの娘を新婦として娶るべきだった」と創始者は言われていますが、しかし血族結婚を知っていたマリアは、この結婚に反対し、み旨を理解できないマリアになっていました。勿論、エリザベツも反対し洗礼ヨハネも反対しました。カナの結婚を描いたヨハネ2章4節には「婦人よ、あなたは、私と、何の係りがありますか」とあり、イエスとマリアの冷めた関係が浮き彫りにされています。


一端サタンの侵入を受けると、かって啓示によって受けた恩恵と感動を失うというのです。結果的にイエスが結婚して真の父母になる道を阻んだマリアになってしまい、これがマリアの悲劇であり、「マリアの涙の理由」であるというのです。カトリックでは、このようなマリアを「神の母」と呼んでいますが、この称号についてはキリスト教内でも異論があり、次回聖書の知識177で論考することにいたします。


しかしこの新しいマリア像は、とりわけマリアを神聖視するカトリックやギリシャ正教にとっては、到底受け入れがたいものがあることでしょう。ただ、マリアがキリストを産んだ母であることは確かであり、メシアをこの世に産み出した女性というこの一点において、永遠に讃えられることに異存はありません。


イエスの最後の霊的勝利は「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23.46)に象徴されるでしょう。「(イエスの十字架の贖罪は)よしんばそれがイスラエルの不信による二次的摂理だったとしても、自動的に無条件で得られたものではなく、イエス・キリストの絶対的な信仰と従順と愛に基づく自己犠牲(十字架と血)という代価を払って勝ち取られたもの」であるというのです(梅本憲二著「やさしいキリスト教神学」光言社P112)。また三日間の黄泉でのイエスの勝利が復活に繋がりました。


そして来たるべき再臨主は、「イエスの時までに神側が勝利した根本基台の上に立たれる」ので、マリアがタマルを相続してイエスを産んだように、イエスが大人になった時までの勝利的な基盤の上に正しく立たれて、彼が果たせなかった新婦(独り娘)を探し出し真の父母になられるはずであります。タマルの勝利圏は現代においても生きているというのです。


そして再臨主の母親も、タマル、マリアの絶対信仰を相続した立場で、「命がけの絶対信仰で身籠る」という立場を通過するというのです。第三アダムとしての再臨主が、無原罪のアダムの立場で生まれ、無垢な堕落前のエバを探し出して、黙示録19章9節にある「子羊の婚宴」をしなければならないというのです。


以上、マリアの処女懐胎の真相について考察しました。次回、マリアの奥義、即ちカトリックのマリア信仰の論点について論考いたします。(了)

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