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聖書的霊性とは何か② メシア思想

🔷聖書の知識116-聖書的霊性とは何か②-メシア思想


ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。その名は、霊妙なる義士、とこしえの父、平和の君と唱えられる(イザヤ9.6)


羊飼いの礼拝(レンブラント・ファン・レイン画)


前回、聖書的霊性の構成要素の一つである「神の霊の働き」を見ていきましたが、今回から、もう一つの構成要素である聖書の「一貫した思想性」について考察していきます。


即ち、聖書には一貫した思想があり、特に旧約聖書には、メシア思想、唯一神思想、贖罪思想、契約思想、選民思想、弱者救済思想、預言者の批判精神、などの特徴ある思想があります。筆者はその内、「メシア思想」、「唯一神思想」、「贖罪思想」を聖書の三大思想と位置づけており、以下において、この三大思想を考察いたします。


そして今回は、先ず「メシア思想」を取りあげます。聖書には一貫したメシア思想がその根底に貫かれているというのです。


【メシア思想について】


聖書のメインテーマはメシアの来臨であり、世を救うメシアの到来は幾たびも聖書に預言されてきました。これは仏典など他宗教には見られない際立った聖書の特徴であります。


メシアとはヘブライ語で、「油を注がれた者」を意味し、ギリシャ語では「キリスト」(=救世主)の意味です。 当初メシアは、イスラエルでは政治的、神的な権威と力によりイスラエルを解放し全世界を治める「王」と意識されていました。そして「油注がれた者」には王、祭司、預言者、族長などがあり、この言葉は旧約聖書に39箇所で言及されています。


また旧約聖書には300ものメシア預言があるといわれ、聖書が救世主を待望する書であり、メシア思想が聖書の根幹であるといわれる所以であります。


砂漠の民、荒野の民、外敵に囲まれた苦難の民が救いを待望しました。出エジプトで芽生え、バビロン捕囚で明確になったメシア思想、即ちイスラエルから民族と世界を救うメシア、王が出るという思想は、強固な民族のアイデンティティーになっていきました。


即ち、聖書は、約1600年間に渡って、40人もの聖書記者によって書かれた書であり、しかもその聖書記者は、漁師、取税人、神学者、預言者、王と様々な職業の人々によって構成されていながら、しかしそれにも係わらず、調和性と統一性に富み、聖書66巻を貫く「一貫したメシア思想」があるというのです。このような宗教経典は他に類をみません。


原理創始者は聖書について、「聖書には一貫した統一性があり、メシア思想に貫かれています。これはこれら聖書記者の背後に、真の著者としての思想的核心の存在(神)がいるからです」(み言葉集)と述べられました。


アウグスチヌスは旧約と新約の関係について、「旧約の中に新約が隠れており、新約の中に旧約が現れている」と語っています。即ち、旧約が初臨のキリストを預言しているとするなら、新約はその顕現だというのです。


更に新約聖書は再臨預言の書とも言えます。内村鑑三は「十字架が聖書の心臓部であるなら、再臨はその頭脳である」と語りました。


【聖書に見るメシア預言】


以下、キリスト教における代表的なメシア預言に関する聖書からの引用を解説いたします。


<旧約聖書に見るメシア預言>

以下は旧約聖書における代表的なメシア預言の聖句です。但し、ユダヤ教では、これらの聖句について、語られた当時の時代背景を無視して、何でもイエス・キリストへ結びつけるキリスト教の解釈を「こじつけだ」と批判しています。


「おまえの子孫と女の子孫の間に、敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかか とを砕く」(創3.15) →この句は原福音と言われています。


「私は彼らの同胞の内からお前のような一人の預言者を立ててその口に私の言葉を告げる」(申命記18.18)→モーセのような預言者、メシアを意味する聖句です


「わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。 彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の王座を堅く据える」(2サムエル7.12~16) →ダビデの家系から出るキリストによる王権を謳っています。


「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」(イザヤ7.14)→有名な処女懐胎の予告です。


「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。その名は、霊妙なる義士、とこしえの父、平和の君と唱えられる」(イザヤ9.6)→栄光の主としてのメシア預言です。


「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53.5)→受難の主の預言です。


「私はダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め栄えこの国に正義と恵みの業を行う」(エレミヤ23.5~6)→エレミヤのメシア預言です。


「エフラタのベツレヘムよ、お前の中からイスラエルを治めるものが出る」(ミカ5.2)→ベツレヘムにメシアが生まれると託宣です。


「見よ、あなたの王が来る。高ぶることなくロバに乗って来る」(ゼカリア9.6)→ロバに乗って来るメシアを予告しました。


「エルサレム復興と再建のみ言葉が出されてから油注がれた君の到来まで7週あり、また62週あって危機のうちに広場と堀は再建される」(ダニエル9.25) →ダニエルの70週の預言です。BC457年から483年後(69×7)はAD26年になり、メシアが来る時を告げています。


<新約聖書に見る再臨預言>

次に新約聖書の再臨預言です。旧約聖書が初臨を預言しているとすれば、新約聖書には再臨を預言している聖句が多々でてきます。


「人の子は栄光のうちに来る」(マタイ16.27)


「いなずまのように現れる」(マタイ24.27、ルカ17.24)


「思いがけない時に来る」(マタイ24.44)


「その日は不意に襲う」(ルカ21.34)


「ラッパのうちに天から下ってこられる」(1テサロニケ4.16)


「主の日は盗人のようにやって来る」(2ペテロ3.10)


「同じ有様で来られる」(使徒1.11)


「雲に乗ってこられる」(黙示1.7)


「ユダ族の獅子、ダビデの若枝が勝利を得たので7つの封印を解くことができる」(黙示録5.5)


「見よ私はすぐに来る、それぞれの報いに応じる」(黙示22.12)


【メシア観について】


メシア観とはメシアが誰であるかということ、そしてメシアをどのような方と見るか、という問題です。


<メシアの三つの側面とメシアの本質>

「預言者」「祭司」「王」はメシアの3つの側面と言われています。カルバンが「メシアは役割において預言者的、祭司的、王的機能を有す」と述べている通りです。


イスラエルを異民族から解放する政治的、軍事的指導者(王)としてのメシア像は2サムエル7章12~16節(ダビデの家系から王が出る)に、祭司的メシア像はゼカリア4章14節(油注がれた者)に、預言者的メシア象は1列王19章16節(エリシャ油を注ぐ)に顕れています。また黙示的メシア像はダニエル7章13節(天の雲に乗って)にあると言われています。


上記のように多様なメシア像があり、それぞれメシアの機能と役割の一面を捉えています。


しかし、最も本質的なメシアの意味は、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1.29)、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1.15)に象徴されますように、「罪を取り除き、神の国をもたらす者」であるというのです。


<キリスト教のメシア観と再臨観>

キリスト教におけるメシア観の推移について、初期のユダヤ教的キリスト教時代は、「神とメシア(イエス)は別存在」と理解していました。しかし地中海世界の異邦人キリスト教時代に入ると、「イエスは神」と理解されて世界的キリスト教時代に広がっていきました。イエスが神(神性)であるか人(人性)であるか、或いはその両者(両性)であるかを論じるのがキリスト論です。


・イエスは神

「イエスは神」であるとの観念は、神秘的宗教指導者としてのメシア像を顕す次のような聖句が根拠となっています。


「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである」(コロサイ1.15)


「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」(ヨハネ8.58)


「17:5父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい」(ヨハネ17.5)


「天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」(ヨハネ17.24)


・メシア(再臨)は如何に来るか

次にメシア(再臨)は如何に来られるかという問題があります。キリスト教徒の代表的な来臨の考え方の根拠になっているのが次の聖句です。


「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1.10)


「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる」(1テサロニケ4.16)


つまり、再臨は肉体を持って復活し(復活の体)、昇天されたイエスが、再び天から来られると信じています。


この点は、我が内村鑑三も、「イエスが身体を以て復活し給ふた」と信じ、再臨のあり方についても同様のことを信じていました。内村は、「聖書之研究」211号の「余がキリストの再臨に就て信ぜざる事共」において、次のように述べています。


「キリストの再臨とはキリスト御自身の再臨である、是は聖霊の臨在と称する事とは全然別の事である、又之と同時に死せる信者の復活があり、生ける信者の携挙があり(1テサロニケ4.17)、天国の事実的建設が行はる」


つまり、再臨とは、聖霊の臨在といった内面的、霊的なものではなく、キリストご自身の、具体的、身体的な再臨であり、父のもとから身体を持って来られると信じていました。


「キリストは其身体を以て復活し給ふた、而して其復活体を以て今尚存在し給ふとは聖書の亦明に示す所である、彼は栄光化されたる人の身体を以て父の許に還り給ふたのである、而して時至れば其身体を以て再び現はれ給ふとは是れ亦聖書の明かに示す所である、基督教の奥義は此に在るのである。(全集24巻 p118「復活と再臨」「聖書之研究」213号)


【メシアに関する原理観】


しかし原理は、メシアは神自体ではなく、「創造目的を完成したアダム(人間)」と捉え、また同時に「神聖な価値を持たれた方」と考えています。これは自由主義神学の先駆者であるシュライエルマハーも同じ見解を示しています。


同様に、アリウス派、エホバの証人、ユニテリアン等々もイエスを神聖な人格を有した被造物(人間)とし、ユダヤ教、イスラム教もイエスを人間と主張しています。


また再臨がどのように来られるかについて、イエス自身が「雲に乗って天から下る」とは考えていません。

預言者マラキは、メシヤ降臨に先立って、既に昇天したエリヤがまず来るであろうと預言しました(マラキ4.5)ので、イエス当時のユダヤ人たちは、昇天したエリヤその人が再臨するものと思っていましたから、当然エリヤは天より降りてくるであろうと信じ、その日を切望していたのでした。


ところが意外にも、イエスも洗礼ヨハネを指して、彼こそがエリヤであると、明言されている通り(マタイ11.14)、ザカリヤの息子として生まれてきました(ルカ1.13)。


この事実は、エリヤと洗礼ヨハネは、使命的に見て同体であるということであって、エリヤその人が下って来るという意味ではないことを意味しています。


同様に、使命的に見れば、洗礼ヨハネがエリヤの再来であったように、イエス自身がまた来られるというのは、あくまで使命的に見た見方であるというのです。


従って再臨は、イエス自体が下って来られるのではなく、イエスと同じ使命を持ち、イエスが果たし得なかった使命まで果たす方が来られるというのです。


また今までクリスチャンの中には、「見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて」(ダニエル7.13)と記録されている通り、メシヤが雲に乗って降臨されると信ずる信徒たちもいました。


しかし結局、イエスはマリアから生まれました。同様に再臨も文字通り「雲に乗って天から」来られるのではなく、女の腹から地上に生まれるというのです。


そして以上の内容は、原理講論の第六章 再臨論第二節「イエスはいかに再臨されるか」に詳しく述べられています。

従って、キリスト教徒は、既成観念に囚われることなく、新しい視点で聖書を読むことが求められるというのです。


【諸国、諸宗教におけるメシア預言】


また諸国、諸宗教においても、断片的にメシア預言がありました。仏教では、釈尊入滅後56億7000万年後に下生するとする弥勒菩薩の下生預言、儒教では「真人」の出現、天道教では「崔水運」の出現、ゾロアスター教では「救世主」の出現と最後の審判が預言されています。


韓国のメシア預言としては、「格庵遺録」(キョガムヨロク)があります。16Cの南師古(ナムサコ)による預言書で、具成謨による解釈によると、メシアの条件として、北に生まれること、日本に一時渡ること、 宗教一致を目指すこと、男女を結婚させること、非難中傷を浴びること、獄中生活すること、を指摘しました。


また李王朝中期の「鄭鑑録」では 正道令(義の王)の到来が預言され、宗教の開祖が韓国に再臨するという啓示やイエスが韓国に再臨すると言う啓示があると言われています。


日本でも、出口王仁三郎は「王仁三郎こそみろく神」との啓示によるメシア宣言をなし、谷口雅春は自らが黙示録の「来るべき者」と自称しました。日蓮正宗や創価学会では日蓮の末法本仏論を唱え、日蓮を釈尊の再来、末法の本仏と位置付けています。


こうして見ると、聖書のように明確ではないにしても、どの宗教にも、世を救うメシア的人物が顕れることが示唆されています。


以上、聖書の一貫した顕著な思想である「メシア思想」を概観しました。次回は今一つの顕著な思想である「唯一神思想」を考察いたします。(了)