言葉の力「言霊」の研究 ー「X」に見られる言葉の威力
- matsuura-t
- 4月23日
- 読了時間: 15分
更新日:5月4日
◯徒然日誌(令和7年4月23日) 言葉の力「言霊」の研究 ー「X」に見られる言葉の威力
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。この言に命があった。(ヨハネ1.1~4)
プロローグ
最近筆者は「X」という新メディアに投稿を始めた。先だっての兵庫県知事選挙において、斎藤元彦氏が知事に返り咲いた時、遺憾無くその威力を発揮したのが、XやYouTubeなどのSNSであった。この選挙は、まさにオールドメディアとSNSの戦いと言われたが、SNSが完勝した。これは、新しいメディアがオールドメディアにとって代わり、新しい言論、即ち新しい言葉が到来する象徴だった。それは今回のテーマである「言霊」と符号する。
筆者は、UCがオールドメディアの餌食になって、完膚なきまでに叩きのめされたこの3年弱を顧みながら、言論、即ち言葉の持つ不可思議な力について想いを馳せた。霊感弁連やオールドメディアによって喧伝された「反社会的」「被害者」「反日カルト」といった造語が悪魔的なマイナスの力を発揮し、UCを貶める殺文句として使われた。その痛みの延長に今回の「言霊の研究」がある。これからは、天的な、プラスの力を発揮する言霊が横溢しなければならない。但し、「X」へのポストは、人の受け売りではなく、洗練された自分の言葉で発信すべきであると思料する。
【言霊及び言霊学】
キリスト教は言葉の宗教であり、それはUCにおいては尚更である。
聖書に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。すべてのものは、これによってできた」(ヨハネ1.1~4)とあり、そして「この言に命があった」とある。即ち、聖書ははじめに言葉があり、言葉は神であり命であり、万物の基になったと説く。このヨハネの言葉は深淵である。
筆者は65才の時、大艱難に遭遇し、その後数年間、どん底をのたうち回ったが、そのどん底で神の言葉(聖書)と出会った原体験がある。どん底で神様曰く、「神の言葉は唯一最大の財産である」と。以後筆者は神の言葉の研究一筋に生きて復活し、聖書・キリスト教の神学書『異邦人の体験的神学思想』まで出すに至った。従って、言葉の意義、即ち「神の言葉(み言)」の力はとことん身に染みている。
<言霊とは>
「言霊」(ことだま)とは、言葉にこもる霊力のことであり、言葉には霊力があるという。ヨハネが「この言に命があった」と語った通りである。古来言葉には、言葉を発すると、その言葉通りのことが実現するという信仰があった。言葉には不思議な力があり、世界を作り、歴史を変え、 人を動かす力があるというのだ(島田裕己著『言霊学』ビオP2)。
ちなみに島田裕己著『言霊学』は、日本の宗教と歴史を一望できる78の著名な言葉を収録し、陰陽道、修験道、密教、神道、仏教、新宗教などの呪文や題目、さらに歴史に刻まれた名言から、昭和の激動期を象徴するものまで、78もの「言霊」を厳選して解説した本である。
さて、「言葉に霊力がこもっている」という考えは、万葉集柿本人麻呂の歌に「言霊の助くる国」(言葉の力で幸せがもたらされる国)という一節があり、『古事記』『日本書紀』『風土記』などにもその影響が見られるという。そして「言霊学」とは、言葉に宿る霊力の働きを研究する学問であり、大本の出口王仁三郎は「言霊学」の権威であり、言霊を利用して度々予言を行ったと言われている。
<日本における言霊>
前述のように「言葉に霊力がこもっている」という考え自体は日本の古代社会にすでに存在したものである。その一方で、「言霊」という用語自体は上代の文献においては『万葉集』にあらわれるのみであるという。
平安時代の密教の呪文や鎌倉仏教における念仏や題目、既ち、真言宗弘法大師の「南無偏照金剛」、浄土宗・浄土真宗の「南無阿弥陀仏」、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」は言霊の典型である。人々はこれをひたすら唱えることで、その言葉の力で病気の治癒、現世の利益、心の平安が得られると信じたのである。キリスト教では「通天祈祷」(韓国)があり、UCでは「呼名祈祷」がある。
言葉は人間だけが持つ。人間には霊魂があるが動物にはないからである。言葉が力を持つのは、人類全体に当てはまる普遍的な事実であるが、日本は言葉を表現するために用いられる文字と体系が独特であり、漢字は音を伝える表音文字だけでなく、表意文字でもあり、言霊の威力が発揮されやすいという。(島田裕己著『言霊学』P9)。
【南無偏照金剛、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経】
前述したように、真言宗の「南無偏照金剛」、浄土宗・浄土真宗の「南無阿弥陀仏」、日蓮宗の「南無妙法蓮華経」は言霊の典型であると言え、日本に広く浸透している。
<南無大師偏照金剛>
「南無大師遍照金剛」(なむたいしへんじょうこんごう)とは真言宗の念仏で、弘法大師 空海に帰依するという意味である。大師とは、朝廷から高僧に死後、その高徳をたたえて贈られる諡(おくりな)であり、 遍照金剛とは、空海が唐に留学し、真言密教を極めた時の灌頂(受戒)名であり、また遍照金剛は「大日如来」の別名でもある。
この念仏は、弘法大師を敬い、大日如来に帰依すると共に、自らの心を清め、仏とのつながりを深めるための実践でもある。密教を基とした真言宗では、法要の際や、四国八十八箇所を巡るお遍路などで唱えられ、まさに真言である。
密教は大日如来を本尊とする神秘主義的な仏教の教えであり、『理趣経』『大日経』『金剛頂経』などの密教の経典が編纂され、密教儀式においては、曼陀羅を掲げ、護摩を焚き、真言や陀羅尼(呪文)を唱えるようになった。密教の登場は7世紀と言われるが、その後発展していった。空海は、805年、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果から密教の奥義を伝授され、日本に持ち帰って真言宗を開いた。
ところで、真言宗を開いた空海は、若き頃、一沙門(修行僧)より、「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)の真言を「百万回唱えると悟りを得る」との秘術を受け、阿波の大瀧岳(たいりょうのたけ)や土佐の室戸岬などで求聞持法を唱えながら修行した。虚空蔵求聞持法で唱える真言とは「ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」で、この真言は、記憶力を高め、すべての経典を暗記できると言われる修法である。そして室戸岬の洞窟(御厨人窟)で100万回の求聞持法を唱えていた時、遂に「輝く明けの明星が口の中に飛び込んでくる」という神秘体験をすることになる。 この「虚空蔵求聞持法」も一種の言霊である。
明けの明星(金星)は虚空蔵菩薩の化身とされており、この体験こそ虚空蔵菩薩と一体化した瞬間であり、原理でいう「神人愛一体理想」という信仰体験だった。空海の24才の時の処女作『三教指帰』(さんごうしき)には、「阿波の大滝岳に登りよじ、土佐の室戸岬に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す」 と記しており、まさに空海の真言密教探求の「一丁目一番地」になった。
多分に巫人的体質(霊媒体質)を持ち超自然的神秘の存在に馴染む空海は、我が身に電撃的感応を与えてくれるこれらの秘術に強い関心を抱いた。室戸岬の洞穴で得た神秘体験は、まさに儒教的教養を完全に打ち砕き、肉体を地上に残したままその精神を神的世界に没入させる決定的な契機となった。見えるものといえば空と海のみの洞穴の中で、夜明けの明星が衝撃とともに口中に入るという体験をしたことこそが「空海」の名を名乗るきっかけとなり、彼をして後の弘法大師たらしめる最初の一歩となったのである。
<南無阿弥陀仏>
「南無阿弥陀仏」は日本では最も広く知られ唱えられてきた念仏である。「南無阿弥陀仏」とは「わたくしははかりしれない光明と寿命の阿弥陀仏に帰依いたします」という意味で、浄土宗や浄土真宗でひたすら唱えられる経文(霊言)で念仏と言われる。
「南無阿弥陀仏」は浄土真宗では阿弥陀如来の四十八の本願のうち、第十八願の「念仏往生願」が根幹である。 第十八願は、「南無阿弥陀仏を称える者を必ず極楽浄土へ生まれさせ、成仏させる」という願で、「生きとし生けるものが極楽浄土に生まれたいと願い、阿弥陀仏の名を声に出して念じたのにもかかわらず、極楽浄土に生まれることができないなら、私は決して成仏しない」という本願である。
<南無妙法蓮華経>
「南無妙法蓮華経」とは、「妙法蓮華経」に帰依する、つまり仏教の教え(法華経)を信じるという意味である。万人が仏に成れる教えとして、法華経は最初最澄がもたらしたが、諸経の王として、特に日蓮宗で重視されている。
「妙法蓮華経」は日蓮大聖人が覚知し、自身に体現した、宇宙と生命を貫く根本の法であり、 本来、万人の生命に具わる普遍の法でもある。 南無妙法蓮華経と唱えることで、何人も自身の内なる仏の生命を開き現し、生命が浄化され、苦難を乗り越える力強い生命力を引き出すことができるという。まさに霊言である。念仏は死と強く結び付くが、題目は生きることに強く結び付いている霊言である。
日蓮正宗の創価学会では、南無妙法蓮華経を宇宙と生命を貫く「根源の法」、すべての人に具わる「普遍の法」とし、お題目を唱えることで、自身の生命を輝かせ、人生の様々な困難を乗り越える力を得ると信じている。即ち、お題目の唱題により、自身に具わる仏の生命を開き、苦難や困難に打ち勝つ強い自己を築くための実践である。創価学会には、戸田城聖と池田大が示した「永遠の五指針」があり、それは、① 一家和楽の信心、②幸福をつかむ信心、③ 難を乗り越える信心、④ 健康長寿の信心、⑤絶対勝利の信心、からなり、現世利益型の信仰と言える。二代会長の戸田城聖は求道人生の果て、獄中で南無妙法蓮華経を二百万遍唱えて生命とは何かに開眼したという。
なお、日蓮正宗と日蓮宗の主な違いは、本尊の捉え方と組織形態である。日蓮正宗は、日蓮聖人を本仏と捉え、文字曼荼羅を御本尊とする。一方、日蓮宗は、日蓮聖人を仏教の教えを実践する一例として捉え、仏像などを本尊とする。また、日蓮正宗は、大石寺を中心とした中央集権的な組織形態をとるのに対し、日蓮宗は、各寺院が独立している組織形態をとっている。
【世に勝つ言葉】
一方、キリスト教の歴史には聖書の一句(言葉)で回心した無数の人々がいる。イエス・キリストは、荒野で40日の断食の後、サタンに試みられた。いわゆる三大試練であるが、イエスは旧約聖書の申命記の言葉でサタンの誘惑を退けたのである。まさに言葉の力である。

<イエスの三大試練と申命記の言葉>
マタイ福音書に「イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである」(マタイ4.1)とある通り、イエスは荒野で悪魔から3つの試練を受けた。そのことがマタイ福音書4章1節から10節に書かれてある。
第一の試練が「石がパンになるように命じなさい」という誘惑である。それに対して「人はパンのみに生きるにあらず、神の言葉で生きるものである」と答えて悪魔の誘惑を退けられた。イエスは、申命記8章3節の「人はパンだけでは生きず、主の口から出ることばによって生きる」の言葉で悪魔に勝ったのである。
第二の試練はイエスを宮の頂上に立たせて「神の子であるなら、下へ飛びおりよ。御使がささえるから」という試練である。イエスは「主なるあなたの神を試みてはならない」と言ってサタンを退けた。イエスは申命記6章16節の「あなたがたの神、主を試みてはならない」の言葉でサタンに勝ったのである。
第三の試練は、悪魔はイエスを高い山に連れて行って世を見せ、「ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげる」との誘惑である。イエスは「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と言ってサタンを退けた。イエスは申命記6章13節の「あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓うべし」の言葉でサタンを追い払った。
このように、イエスは旧約聖書に精通され、聖書の言葉で悪魔の三大試練に打ち勝たれた。神の言葉はかくも威力があるというのである。 なお、原理では、イエスの第一の試練を個性完成、第二を子女繁殖(家庭完成)、第二を万物主管のための試練、即ち失われた神の三大祝福(創世記1.28)を復帰する試練と説明している。(原理講論P411~416)
<聖書の一句で回心>
また聖書の一句で「回心に導かれた信仰者の系譜」がある。アウグスチヌス、ルター、ウエスレー、ナイチンゲール、テレサ、フィニー、コルソン、内村鑑三、新島襄、李登輝、等々の敬虔な回心の記録である。これらの人々は、聖書の一句、神学本のワンフレーズ、恩師の一言との出会い、即ち「言葉との出会い」によって人生を変える回心に導かれた。以下は、言葉との出会いで歴史的な回心に導かれた著名な人々の証しである。
「肉の欲を満たすことに心を向けてはいけない」(ロマ書13.14)。これはアウレリウス・アウグスチヌスの回心聖句である。またマルティン・ルターは、「信仰による義人は生きる」(ロマ書1.17)の有名な聖句で回心に導かれた。
メソジスト派の生みの親であるジョン・ウエスレーは、1738年5月24日の集会で、ボヘミア宣教師から聞いたルター説教集序文の一節「キリストを信じる信仰を通じて神が内在して働いて下さる」と出会い、雷のごとく霊に打たれ回心体験をした。
そして、アメリカの第二次リバイバルの中心人物だったチャールズ・フィニーは、1921年10月10日(29歳)、エレミヤ書29章12節~14節の「もしあなが一心にわたしを尋ね求めるならば、 わたしはあなたがたに会う」の聖句に感応し、聖霊のバプティスマを受け、劇的な回心を遂げた。
同じくアメリカの敏腕弁護士にしてニクソン大統領の右腕であったジャック・コルソンは、C・S・ルイス著『キリスト教の精髄』の一節「世界中の人間がだれ一人として免れることのない一つの悪徳がある。それは傲慢、うぬぼれ、プライドである。それは完全に反キリスト的なものである」が回心の言葉となった。このフレーズはコルソンの胸を打ち、その夜、コルソンの心に何かが流れ込み、涙が溢れてたまらなかったと述懐した。(コルソン著『ボーンアゲイン』P160)
フローレンス・ナイチンゲールも17歳の時、神から「我に仕えよ」との啓示を受け、以後、24才、29才、34才と生涯4回、啓示を受け、戦いつつもこの啓示の声に従って生きた。またマザー・テレサは、マタイ25章40節「私の兄弟であるこの最も小さいものにしたのは、私(イエス)にしてくれたことなのである」との聖句に出会い、インドの貧民窟に身を捧げた。
李登輝元台湾総統は、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2.20)の聖句によって、自分ではない自分を発見し、自我から解放されたという。
日本人では、内村鑑三は、「汝、自ら義たらんとするなかれ。ただ、十字架のイエスを仰ぎ見よ」のシーリー学長の言葉で回心に導かれ、新島襄は「はじめに神は天と地を創造された」(創世記1.1)に感応してクリスチャンになった。
以上の通り、多くの義人が聖書の一句、一つの言葉との出会いで歴史的な回心に導かれたが、まさに言葉には人を変える力、即ち言霊がある。
<筆者の重宝する言葉>
以下、筆者が人生の重要な岐路で迷った時、乗り越えるために与えられた聖書の言葉を3つ書き記す。
筆者は50才の時、配偶者をポーランドの世界宣教に送るに際し、色々と内外の事情があり、とても宣教に行ける状況にはなかった。だが「まず神の国と神の義とを求めよ」(マタイ6.33)との聖句によって決断した。
また、過去の失敗、負債、嫌な思いの中で沈んでいた時、「うしろをふりかえって見てはならない」(創世記19.16)の一句で過去と訣別した。しかしロトの妻はうしろを顧みたので「塩の柱になった」(創世記19.26)とある。
そして、前述したように、60代、大艱難に遭遇して全てを失ったどん底で、「神の言葉は唯一最大の財産である」との神の声で真理に目覚めた。そして「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それは、わたしがキリストを得るためである」(ピリピ3.8)との聖句に出会い回心した。
文鮮明先生のみ言では、「良心は、第二の神様である。良心は両親に優る、先生に優る、神様に優る」という言葉は、かって良心(本心)に内在する神と出会った信仰体験があり、自分の本心に深く届き、まさに目から鱗だった。
<文鮮明先生のみ言ー創立以前の内的教会史>
しかし、なんといっても文鮮明先生の「み言」は、最大の神の言葉である。既に何十巻と膨大に出ているが、その中でも筆者が重視しているみ言集がある。それが、『御旨と世界』(光言社)の「創立以前の内的教会史」と『イエス様の生涯と愛』(光言社)である。
文先生のみ言集『御旨と世界』(光言社)の「創立以前の内的教会史」(1977年5月1日ベルベディアでの説教)で、原理の解明について次のように語られている。
「数多の哲学者や宗教家はあれど、誰一人として秘められた神の心情と聖書の奥義について知るものはなく、霊的には暗闇に覆われているかのような世界でした。先生は全ての宇宙の原理を詳細に明かにしました。今や万人が、真理の光に照し出された神の真の象と、歴史の真象を知ることができます」
また、次のように述べられている。
「盲目にして無知なる人間の行為の記録ともいうべき人類歴史の背後に、一つの公式とパターンのあることを悟り、その歴史の秘密のすべてを解明して歴史の法則と原理を見いだしたのです」
そして、次のように言われた。
「原理には、神の直接の啓示にはるかに勝って、人間を指導し造り変える偉大な力がありますから、原理を知ること自体が、啓示や高い良心基準の役割を果たしたのです」(以上、『御旨と世界』P593~594)。
この「創立以前の内的教会史」のみ言は、『イエス様の生涯と愛』(光言社)と並んで、数ある文先生のみ言のなかでも最高峰にあるみ言だと筆者は理解している。この原理は具体的に生活され実体化された原理であり、文先生は、まさに「み言の実体」である。私たちは、原理のみ言によって神と歴史と聖書の奥義を余すところなく知ることができ、そして原理には人間を変える力がある。「神」「キリスト」「み言」は人生の三大財産であり、決して手離してはならない。
以上、言葉の持つ力、言霊について論考した。先日、筆者は、不動産や税の専門家の2人の信徒と意見を交換する機会があったが、ありがたいことに、筆者の徒然日誌の愛読者であるという。筆者は必読して欲しい3つの論文、①徒然日誌(令和6年7月17日) 「真の父母論」セミナーに参加してー真の父母論の検証、②徒然日誌(令和7年1月22日) 検証-韓民族選民大叙事詩 - 天孫思想とメシア待望の歴史、③徒然日誌(令和7年4月16日) 祝-World Summit 2025、天苑宮・天一聖殿入宮式ーその意義について、を推奨したが、既に読んだということだった。これらも言葉の力、言霊であれば、幸いである。(了)
牧師・宣教師 吉田宏